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原発報道とメディア
著者 武田徹
ジャーナリズムはこれから「社会の安全・安心」「原発」について、どう伝え、語りうるか? 話題の『私たちはこうして「原発大国」を選んだ 増補版「核」論』著者による、渾身の論考。
原発報道とメディア
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紙の本原発報道とメディア
2011/09/17 11:50
ジャーナリズムの公共性の名に値する作業とは?「基本財としての安全・安心」を実現すること
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
鉢呂吉雄前経済産業相が「放射能をつけたぞ」、「死の町」発言で辞任したけれど、「トンデモない大臣だ」と瞬間的に僕は反応したのですが、暫く時間が経つと「待てよ」となってしまった。どのような経緯での発言なのか、単なる言葉狩りではないのか、俗情に媚びた作文ではないか、大臣の辞任より、ジャーナリストとしての記者のことが気になる。「メディア報道」の依って立つところ「公共性」とはなんだろう?
政官財だってそれぞれの文法で「公共性」に立って「正心誠意」やっていると思っているでしょう。ただそれぞれの背中に組織としての「既得権益」を背負わされている。国民一人一人だってそうです。喜んで増税を歓迎しない。
だけど、ジャーナリストの存在理由はなんだろう。例え属している新聞社、出版社、テレビ局などが「既得権益まみれ」になっていてもアイロニカルな視点があっても「記者魂」、「ジャーナリスト魂」は揺るぎない核として溶融しないところにリスペクトされるのでしょう。
ラディカルな問題が浮上、露呈しないように「自主規制」という便利で互いに傷つけない優しい「装置」もある。そして問題を先送りにする。既得権益をバランスよくフックにして絆をを深める。最少不幸社会であれ、最適化社会であれ、公平の正義を「正心誠意」で着地させる。政官財、国民一人一人を含めそのようなコンセンサスで国が回るならそれでいいではないか?とも僕も思う。多分、大きなパイが前提になるが…。
しかし、ジャーナリストはそんな僕を含めた人々の俗情をときには鋭い筆洗で警告したり、弾劾したりする「想像力」と「度胸」が必須ではないか。
作者は2003年から5年間、東京大学先端科学技術研究センターで科学技術ジャーナリスト育成のプログラムを担い、「安全・安心」をキーワードにしたプログラムを立ち上げていた。彼の鋭い感度は「安全・安心」のガードは「排除・排他」を生むのではないかとの問題意識をもっていたことです。
《ここで指摘した基本的な「安全・安心」は、そうした基本財を更に下から支える「基本財の中の基本財」と言えるのではないか。/こうした基本財としての「安全・安心」と、排他的に傾く「安全・安心」は全く別のものであり、厳密に区別されるべきだろう。しかし、二つの「安全・安心」は、紙の裏表とでも言うべきものかもしれない。原理主義的に求められる「安全・安心」を、批判を通じて解体してゆく作業は、同時に「基本財としての安全・安心」を、誰に対しても公平に実現するものでなくてはならない。様々な社会制度や科学技術は、片方の脱構築ともう片方の構築を同時進行させるものであるべきなのだ。/そしてジャーナリズムもまた例外ではなく――。そんなことを、被災を目の当たりにして筆者は考えるようになっていた。過去に書いたジャーナリズム論はもはやそのまま世に出すことはできない。3・11以後のジャーナリズムのあるべき姿を改めて考えなければならないと思った。(p11)》
作者の仕事のなかに『核論』の増補版『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』という核と原子力平和利用のクロニクルを論述した啓蒙書があるが、そのような作者であっても日々「安全・安心」モードでエネルギーを享受していた。ところが3・11以降、もとからそんな基本財としての「安全・安心」なんてなかったんだと気づかされる。
3・11以降変わるべきものは、政官財、国民一人一人が想定すべきは「基本財としての安全・安心」ではないか、そしてそのような方向指示器をジャーナリストは発信し続けるべきではないかと言う。武田はゲーム理論の「囚人のジレンマ」を例にして現在の「反原発」、「推進」の二進も三進もゆかないフリーズ状態を分析して実現可能な第三の道を提唱する。
《推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げて、より安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。/一方で、反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が、互に僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中で、リスクの総量を最小化する選択肢を選んでゆく。(p33)》
かような武田のポジションは「神話論争」が当たり前の土壌ではスルーされやすいと思う。3・11以降は一方の反原発に重心が傾き3・11以前は推進派が有利であったことで世界が変わったとの言説の理由づけになっているが、武田としては第三の道を選択すべきであろうとイシューしたいのでしょう。
従来型のマスメディアにもネットメディアにも違和感を感じ同じ欲望システムで稼働しているのではないかとの問題設定を行っているわけ。3.11以後で変わるべき「新しいジャーナリズムメディアシステム」は、単に原発報道にフォーカスするだけではなく、その周辺で起こっている「存在の危機」とも言うべき問題も抽出して報道してゆくべきではないか。
かって堀江貴文がネットのニュースサイト上でアクセス数の順番でテレビのニュースを流すアイディアを述べたが既存のメディアから「コンピューターにジャーナリズムは出来ない。ジャーナリズムは人間の仕事」とすごく真っ当な反発があったが、結果としてそこで示される順番はネットとテレビと殆ど変らない。
ブログを10年以上やって段々と気が付いたことは、アクセス数の高さと僕の関心どころと噛みあわないことが多くなったということです。テレビの視聴率と似たような状況ではないか。マスとネットの二分法の切断は表層で「深層の欲望システム」でいやらしくつながているとの疑念がある。だけど、アクセス数、視聴率に変るべき魔法の杖はなんだろう。
《放射線の影響は広く関心事になっていたので、グーグルで検索すれば幾らでも情報が得られる。しかしジャーナリズムは、そうした世間の関心事になっていない様々な被災者のそれぞれの事情を掘り起し、そこに広く議題化される要素があるなら、それを報じることを通じて公共性、公益性に資するべきなのだ。つまり、グーグルがシュミレートする関心を巡る人気投票の対極の位置に常に軸足を置き、声の大きな人たちの共同性を逃れて、虐げられた人たちの生と死にあくまで寄り添いつつ、公益的で公共的な報道を目指していくジャーナリズム……。ポスト・グーグルのジャーナリズムにおいて、ジャーナリストやニュース・エディターは、「死体に涙する」感性を有しつつ、より力の小さな声を敢えて拾い上げる技と力を「反検索的報道家」になる必要がある。(p205)》
要は不断に起こり得る偶然性に対してもアイロニカルに反証、反照をこころみ基本財としての「安心・安全」を核とした「公益・公用」共同体システムへの構築を模索する。最終章「それでもジャーナリストになりたいあなたへ」は具体的な提言を行っている。