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紙の本印象派の誕生 マネとモネ
2010/07/18 18:08
リアリズムの画家、マネ
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
今春開館した丸の内の三菱一号館美術館でおこなわれた「マネとモダン・パリ展」に行った。マネ作品を中心とした展覧会は初めてで、この画家についてもモネ、ルノワールらとともに初期印象派の一人という程度の知識しかなかったが、人物、風景、静物と、マネの作品群は、どれも静かな雰囲気を漂わせ、そこでは悲惨な死さえもおだやかに描かれているのに感銘をうけた。そしてそれらを眺め歩くうち、おだやかな気分になるのを感じた。『印象派の誕生』を読んだのは、マネとのこのような出会いの直後だった。
本書は主としてマネとモネの足跡をたどっているが、これを読んで、マネという作家が真の意味で印象派の創始者の名というにふさわしい画家であることを知った。それは、単に新たな絵画スタイルのパイオニアというにとどまらず、当時の西欧社会の隠れた横顔をあるがままに描いたその表現姿勢―リアリズム―の点で革新的なのであった。
たとえば、有名な『草上の昼食』、『オランピア』に描かれた裸婦たちを、マネは古典派の裸婦像におけるヴィーナス(女神)としてではなく、娼婦として描いている。彼はこのせいで、パリの人々からの非難の嵐にさらされたが、それは彼がもともと意図したことであったとしたうえで、著者は『オランピア』に関して次のように言う。「娼婦こそ、享楽と化したパリ、膨張した大都市パリの象徴にほかならなかった。・・・近代化が進むパリのブルジョワ社会と表裏一体の娼婦オランピア。マネは《オランピア》が娼婦であることを明確にし、パリの影の部分を露わに描いた。」
一方『鉄道』では、まったくちがった方向を向いた母子が描かれ、『バルコニー』では、やはりてんでばらばらな方向を向く3人の男女がうつろな表情を見せている。これらの作品に描かれているのは、心の通わない現代人の内面であると著者はいう。爛熟した文化が咲き乱れる19世紀後半のパリに生きる人々のこのような疎外感が最も表現されたのが、晩年の大作『フォリー=ベルジュールの酒場』である。そこでは、酒場の給仕女が、カウンター越しにうつろな表情を見せる。本書の解説によれば、当時酒場で働く若い女は、ときに身体を売る娼婦でもあったという。つまり、この絵のモチーフは、娼婦と都市の孤独であり、「もの」と化した現代人の象徴であった。
それまでの絵画が、写実的といいながらも、テーマは女神や家族の情愛などいわゆる芸術の対象にふさわしいものを選んでいたことに、マネは反対をし、一連のスキャンダラスな作品により新たな芸術の方向を示したのである。当時発明されたばかりの写真もまたこの姿勢をさらに促した。「煙突だろうが、掃除人だろうが、古代ギリシア彫刻であろうが、何でも等しく写し出す」写真は、マネのリアリズム精神を大いに刺激したという。
展覧会でマネの絵に感じたあの静けさは何だったのか?それは、彼の生きた時代から100年以上が過ぎ、モダンが浸透した時代に生きる人間として、彼の絵に虚飾のないすがすがしさを見たからではないかと、私は勝手に解釈する。人はだれも孤独で空虚である。社会には影や裏がある。こんなことはわかりすぎるほどわかっている。それをありのままに描いたリアリズムに、現代のわれわれはむしろホッとするのではないか?孤独と憂愁、アンニュイ、サウダージ、アングスト...そんな感傷がさりげなく描かれたマネの絵は、今こそ大きな輝きを放ってわれわれの心をとらえる、そんな気がする。
本書の後半はモネについての章で、示唆に富んだ記述は多いものの、マネの章に比べると分量的にも内容的にも小振りの感は否めない。私と同様、著者の思い入れもマネにあったのだろう。そのようなわけで、マネの章についての感想でもって本稿を終えたい。「マネとモダン・パリ展」、今度の日曜(7/25)までやっているようである。