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投稿者:ゆうどう - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツ出身の大男(身長190cm、足のサイズ29cm)の若者が、日本の曹洞宗、臨済宗の禅寺で修行し、安泰寺の住職になるまでの軌跡。
寮生活を送った高校時代、先生の勧めで坐禅サークルに参加するようになったのが、仏教との出会いである。その後、ベルリン自由大学で哲学、物理学、日本語を学び、「現成公案」で修士号を取った後、博士論文を書くという名目でもらった奨学金を元手に来日して禅修行に励む。大学在学中に留学して数か月を過ごした安泰寺で、作務と坐禅の毎日を送り、やがて山を降りて京都の臨済宗本山僧堂で臨済禅も経験する。1年弱で「他流試合」を切り上げ、その後、大阪城公園でホームレス生活をしながら坐禅を組む。そこで後の配偶者と知り合ったりする。
そして、安泰寺の堂頭(どうちょう、住職)すなわち師匠が事故死したのがきっかけとなり、その後継者となって安泰寺を任されることになる。
「変な外国人」の単なる遍歴譚ではなく、葬式仏教と揶揄され、葬儀サービス業に堕した日本仏教界の現状や、禅寺での修行の様子、そして僧侶たちの考え方などに触れた部分も大変興味深い。求道や生き方に対する、著者の真摯な姿勢がにじみ出ている。本人の思想や、道元の教えなども随所に挿入されていて、気楽に読める仏教の入門書でもある。
ところで、奨学金をもらって執筆することになっていた博士論文はどうなったのだろうか?
一度、著者には日本企業で働いてもらった方が説得力があったのでは。
2012/03/15 03:02
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投稿者:浦辺 登 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一読後、抱いた感想は、禅寺といえども世間のサラリーマン社会と何ら変わりが無いことだった。一般に、禅寺の修行は厳しいという印象だが、本書の著者であるドイツ人禅僧の話しを読みながら、「なんだ、サラリーマンと同じじゃないか」という感想だった。宇宙の実相を語る寺の高僧は企業社会のどこにでも巣食う実態のない言葉を操る経営者の姿に重なり、理不尽な無理強いをする先輩禅僧は我が身の保全しか考えない上司と同じ。要領の悪い同僚、部下はどこにもいるが、禅寺にも「いじめ」があることにあきれる。果たして、禅寺で修行をする意味はどこにあるのだろうか。通常に生きている、働いている企業社会の縮図でしかない。
なぜ、著者はわざわざ禅寺に入ったのだろう。特に何を求めなくとも、日本の企業では禅寺と同じ苦行、修行の日々である。経文にしても、企業には社是、企業理念という絶対不滅の経典が存在している。カラスは白いと上司がいえば、黒くとも「白い」と言わなければならない世界は禅寺も企業も同じ。
このドイツ人住職に提案をしたい。一度、日本の民間企業にて働いてみたらば「禅」の世界がより深く理解できるのではと。
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前々から気になっていた一冊。新書コーナーで話題作として取り上げられており、その時にも買おうかどうか迷っていたのをついに購入。海外の人が日本で日本の文化を継承しているというのを見ると、非常に心温かくなる。そんな軽い気持ちで読み始めたが、意外に厳しい仏門の世界という現実を知り、また宗教や文化差という大きい壁を見た気がする。本書は「日本の仏教文化」に対して幾度となく「理想」を裏切られ、自らの禅を生きるために日々「今を生きる」ドイツ人住職のこれまでの人生を書いたものである。
著者であるネルケ無方氏は様々なバラエティ番組やニュースなどにも取り上げられているようで、ご自身が住職をなさっている寺のHPにもその様子が載せられている。どの番組でも、この著書でも語っているのは「日本人が自分の文化である仏教を忘れている。仏教について考えを深めるべきだ。」ということなのだが、ここには少し首をひねらなければならない。なぜか。それは仏教が日本固有の文化かというと、そうではないからだ。仏教は伝来してきたものであり、日本固有の信仰といえば「八百万の神々」である。日本と聞いて仏教をイメージする海外の方は多いようであるが、実際のところそれは固有のものではない。日本人にとって一神教がしっくりこないのは、私たちの根底にある「物全てに神が宿っている」という考え方が由来しているからではないだろうか。神は一人、一つではなく、それぞれに存在し、全てに感謝するというのが私たちの考え方の大本なのではないかと思う。「日本が無宗教国家」であることに嘆かれているようであるが、それは一神教の国家から見た日本の姿であり、日本のよさというのは、寛容なのではないかと私は思う。傍から(特に海外)見れば色々な宗教がごちゃまぜになっている日本であるが、それを寛容し、受け入れることが出来るのが日本の素晴らしさなのではないか。個人的に、宗教というとどうも凝り固まった考え方を想像してしまうのだが、全てに対して神が存在しているという考え方があるからこそ、日本人の和や柔らかさというのが存在しているのではないかと私は捉えている。
確かに現代の日本には欠けているものがあるだろう。それは思想であり、大局観が全体的にかけている。そこは一神教の国であれば倫理が存在するが、それが日本には無い。確かにここでは宗教の関係性は強いと言えるだろう。しかしながら、だからと言って「仏教」という繋がりにはならないはずだ。それぞれの良い部分を受けながら、一人一人が自分の生活を大事にすることで全体としても高まっていくのではないかと思う。
「憧れ」というものは強い。その気持ちが大きすぎて現実とのギャップで潰れてしまうこともあるだろう。本書で、こういった海外の方がおり、毎日を自給自足しながら暮らしていることを知り、色々と考えさせられた。彼に学ぶことはあるだろう。しかしながら彼が素晴らしいのではなく、私たちが一人一人今の生活を見直して改善するなり、歩いていくなりしていくことが先を見通すことに繫がるのだと思っている。
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仏教の教えが非常に新鮮であった。死んだときに仏になるのではなく 日々の生活の中で自分自身が仏になれるように修行するのが仏教の教えである という点はぜひ自分も実践したいとおもった。安泰寺を訪れたいとおもった。
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ドイツ人で禅僧ということで、理屈っぽいのかと思ったが、非常に興味深く読めた。実名入りでここまで書いていいのかな?と思うところもあったりして...禅の精神を伝えながら、エッセイとしても読めて、期待以上の内容だった。
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祖父が牧師のドイツに生まれ、幼い頃から「神」の存在を疑問に思っていた少年は、寄宿舎で「禅」に出会う。
大学在学中に京大に留学、本格的な修業に入る日本の葬式仏教に疑問を抱き、真の禅に近づくための修業の恐ろしいばかりの過酷さ。
彼は「命は私を生きている、私が私を生きている」ことを悟る。
自給自足の修業禅寺の堂頭として今や国際色豊な[安泰寺」を続ける無方師に感謝と尊敬。
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以前、養老氏が禅は狂気と紙一重であり、大成するのは百人に一人くらいだろうというようなことを述べていたと記憶しているが、その当時は何のことを言っているのか分からなかったが、この本を読んでやっと分かった。日本の仏教はサービス産業化しているかもしれないが、修行自体は古風な日本の徒弟制度に則った厳しいものだったということが分かりました。キリスト教の影響が強い国で育った著者らしく、禅に対してくっきり、はっきり言語化されており、(合理化の提言までも)禅の置かれている状況が分かったような気がしました。また、現代の日本社会への苦言、主体性、自主性のない「子供」が増えているということですが、一般の世界だけでなく、禅の世界でもそうなってきていること。気をつけねばと思うと同時に、そうならない社会にするにはどうするか考えていきたいと思います。
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自己と向き合う禅寺で修行する著者が思い悩む様が描かれています。
何の為に日本に着たのか、何のために修行するのか、と思い悩む様は仏教の本質とは何か?という事を考えさせられる。
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釈迦の教えに一番近い実践をしてるのが禅宗だという。禅は部屋の中でも出来るのに、わざわざ寺でしたがる観光客も多い。所詮はまねごとの内省をしたいだけなのだろう。個人的には禅よりもウォーキングの方が内省に向いている。身体の動きにより、心はただ一つに集中できる。アイデアはよく何かをしているときにひらめくことが多い。
日本には真の意味での仏教はない。葬式サービスがあるだけである。
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ドイツ人にもかかわらず、日本の禅寺で住職を務めている方の、手記になります。
意外にも、欧米では「禅」が文化の一つとして周知されているそうで。
一貫しているのは「人の生きる意味」についての深い思索、でしょうか。
かといって悟りきっているわけでもなく、折々で懊悩されています。
「自分だけがまともな修行をしていると思い込んで壁を作り、皆を見下していた」
また、純粋に宗教として見た場合、その理念と現実の乖離には、、
日本の仏教界もかなりドロドロしているなぁ、とも。
といっても、ビジネスとて捉えればそれもある意味道理の一つでもあり、
これはローマ法王などから見るキリスト教も同質の病巣?はあるかな、と。
「「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っている」
ちょうどこの書と入れ違いに読み始めた『知の逆転』で、
「人生は無意味」なんてフレーズが出ていたのとシンクロしました。
それぞれのスタンスも専門も、全く異なっていながらも、
本質として同じことを言わんとしているのは、非常に興味深く落ちてきました。
こういうことがあるから「読書は刺激的」なのだと、思います。
「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」
けだし真理であると、実感してしまいました、、
ん、人は常に問われている、その在り様を、なんて。
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故郷ドイツで禅に出会い、日本に留学して日本の禅の姿に愕然とし、ついには僧侶となりホームレス雲水となり、安泰寺の住職に。
日本の仏教のあり方に疑問を持ちつつも、無我夢中に修行することで咀嚼して吸収していく姿に心を打たれました。
坐禅、いいですなぁ〜
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ドイツ人の禅僧である「ネルケ無方」さんの著書です。
外国人での禅を支持する方は多いですが、出家得度し禅僧となり、しかも禅寺である安泰寺の住職も務めているという突出した経験をお持ちです。
本人が仏道を志し、日本に渡り現在に至るまでの紆余曲折の経緯を時系列に書かれています。
私自身、禅僧の方が書いた本を何冊も読んでいるのですが、禅僧の方は常人離れした達観の域に達していると思っていましたが、この本を読んでイメージが変わりました。
普通に人間関係で揉めたり、悩んで凹んだり、逃げ出したりと、俗人とあまり変わらないですね。
まぁ、考えてみれば同じ人間なので煩悩も同じようにあるのが当たり前ですが。
ただ、それらに正面から向き合うという姿勢と覚悟が違うということでしょうか。それこそ座禅(修行)ということのようです。
著書自信が悩みつつ会得した内容なので、リアリティがあり、読んでいて非常に面白かったです。
この本でも何度か出てきますが、「離してみてこそわかる」という内容が印象に残りました。
私も離すことで変わるものを沢山掴んだままにしています。
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ドイツ出身の禅僧、ネルケ無方さんの出家のお話。ヨガの先生がブログで紹介されていて以前から気になっていた本。とっても興味深く読めた。
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雲水が自給自足をしているお寺、安泰寺の現住職の自伝的な本。ミーハーな話ですが、映画にしたら面白そう。
落ち着いていて中立的な視点で書かれているのに、とても身近に感じられました。
頭でっかちと言われていた著者が、理不尽に厳しい修行(要するにいじめ…)も含め、たくさんの経験を積み重ね変化していくのが素敵です。生きることって楽しい。
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ひょんなことから体験した禅。
実際に修行する人はどんな生活をしているのかが分かる本。日本社会が求める”お坊さん”の役割とその修業の目的が結びついているから、本当の仏教修行と呼べるのかという問題提起が興味深かった。
日本人はこんな内部事情を赤裸々に書けなさそう。