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もういちど親子になりたい
著者 芹沢俊介 (著)
もし、いまの親子関係に気になるところがあるならば、親子の関係を根底から見直してみてください。子どもをまるごと、受けとめ、シンプルな関係に戻ることで、親子の関係は築き直せま...
もういちど親子になりたい
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もういちど親子になりたい
商品説明
もし、いまの親子関係に気になるところがあるならば、親子の関係を根底から見直してみてください。子どもをまるごと、受けとめ、シンプルな関係に戻ることで、親子の関係は築き直せます。苦しんでいる親子のための処方箋。
目次
- はじめに
- 第1章 〈親子になる〉こと
- 第2章 母を求めて、母を得る──子どもの試し行動
- 第3章 生まれ直し、育ち直し
- 第4章 子どもが伝えるイノセンス
- 第5章 「ママ」と呼ばれて「ママ」になる
- 第6章 わたしだけを受けとめて
- 第7章 星の王子さま
- 第8章 〈親子になる〉ことがむずかしいわけ
- 最終章 やすらぎから遠い子どもたち
著者紹介
芹沢俊介 (著)
- 略歴
- 1942年東京都生まれ。上智大学経済学部卒業。評論家。著書に「引きこもるという情熱」「母という暴力」「「いじめ」が終わるとき」ほか多数。
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紙の本
家族の本質は何処へ行くのか?
2008/03/30 22:49
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mirutake - この投稿者のレビュー一覧を見る
「これからお読みいただくのは、親子関係をなごやかで充実したものにするための一助となればと願って書き下ろしたものです。」と穏やかな前書きから始まります。求めているものはとてもシンプルです。でも現在の家族の状況は、社会の在り方を徹底して問うしかないものです。
日本の家族は子どもの教育を第一と考えること=勉強のできる子なら自分の子どもだとか、テストができたら何を買ってやろうとか、できなければ小遣いを下げるとか、できない子は自分の子ではないとか=親の教育への意向によって子を振り回す過酷な親子となってしまっている。そんな中で「親子になる」にはどうしたら良いのでしょうか。こういう現在に著者は子どもを「無条件に受け止める」親子関係を切望して、多くの切り口から書き続けている。
今回は優れた養護施設の保母さんの著作をテキストに、話を進めています。
里親里子関係では「親子になる」ステップを踏まないでは、「親子である」という所には立てないものでしょう。この里親里子関係の「親子になる」プロセスを解読してゆくことで、本当は実親実子関係でも「親子になる」プロセスは必要なのに、欠落してしまっているのではないか?という視点を提出してゆきます。
まず一つ取り上げると、里親里子の関係で「真実告知」と言うことがどうしても必要なのですが、これは血縁でない真実を伝えることに意義があると言うことではないのです。血縁でないのにもかかわらず「あなたのいない暮らしはもう考えられないという、親子であることの充足感、肯定感情を伝えることにある」と言っています。
そしてこのことは「血縁の親子にあっても、共通しているはずであることに気付いた」と。「あなたがいてくれるだけでうれしいし、あなたと<親子である>ことに満足している。こんな我が子への丸ごとの肯定のメッセージを発しているだろうか」と問い掛けてくいます。日々暮らしてゆく中で、こんな確認の親子関係になっているでしょうか?と。
養護施設から引き取られた里子が新しい生活が始まると、初めは優等生的に規律ある生活をするのだそうです。ところが数日で理不尽な行動が始まるのです。里親は言っています。
「ひで君(二歳八ヶ月)初めの三日間はとてもお利口さんで、全く手が掛からなかった。しかし四日目からひで君はだんだんわがままな子になっていった。朝目が覚めてもぐずぐず言って起きてこない。用意したご飯を手づかみで食べる。手づかみにしたご飯をぐちゃぐちゃにして、ほうり投げる。たちまちダイニングキッチンはゴミ捨て場のようになってしまった。」
「ところがある日、もうどう汚れても良い、とあきらめ居直った私が「もっとしていいよ。おもしろいねえ」と言うと、私の顔を見て、ぴたりと止めてしまった。」
そこに著者は書いています。「食べ物を用意したのだから、食べ物として扱うべし、そのほかの扱いはまかりならんというのは大人の理屈です。おっぱいの使い方にあらかじめ限定を加えてはならないということです。『私はひで君のしたいようにさせることにした。』という箇所が、そのことに気づいた里親の内面を語っている言葉です。里親がおっぱいを無条件で差し出せたとき、その子どもは受け止められ体験をしたのです。」と。
「受け止め手と出会い、受け止められ体験をもつことで、子供は自分に課せられた負荷を自身で背負っていけるようになるきっかけが生まれます。」
「受け止められ体験こそが子どもの成長・自立、言い換えれば「自己受けとめ」へのプロセスを内側から促すことができるというのが、わたくしたちの養育論の骨格なのです。」と。
このことは一般的にも同じことです。子どもが自分で考え内側から行為できるようになるためには、受けとめられること、親が、社会が干渉を止めること、その後でなければ子どもは自立へ出発できないのだ、と言うことではないでしょうか。
児童養護施設の在り方にも著者の言葉が及びます。
「全国に五五八ある児童擁護施設の七〇%が依然として大舎制の集団養育のレベルにあり、しかももっと多くの施設の現場が、受けとめというテーマをもたない場当たり的関わりの域を出ていないのが実情だと思います。」と辛辣です。
またこの本に取り上げられている、優れた保母さんの実例を読み込んだテキストの出所に付いて書いています。
「「光の子どもの家」は、グループホームの形態を取った、小舎制の施設です。(地域小規模児童養護施設)・・・保母と子どもとの関係は、意図的に母親と子の関係に擬せられているのです。子ども達が保母を、時に「ママ」と呼び、ときに「おかあさん」と呼ぶことは、前章で記したとおりです。<親子になる>ことがめざされていることがわかります。」と。社会的な施設で、ここまでできるのかと、感嘆するばかりですが、家族が解体してしまった時代には、家族以外の社会的機関が家族を代行しないことには、子どもたちが救われないということでしょうか。それも「母」としてと言う本質も著者によって提出されてしまったのですから、社会的機関は狼狽するばかりでしょうか。
養護施設の人はもちろんながら、保育園幼稚園の人にも身につまされるものが提示されていると思う。社会サービスの行くべき遠い道=「母」が示されているのですから。