電子書籍
狂風記 上
著者 石川淳 (著)
怨霊の化身ヒメ一族が、富と権力の亡者どもに熾烈な戦いを開始する。趣向・見立て・語呂合わせなど、卓抜なイマージュとパロディの嵐の中で、現代の都会に伝奇の世界が現れる。
狂風記 上
狂風記 上
狂風記 上 (集英社文庫)
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紙の本
万延元年のモビルスーツ
2014/10/05 07:35
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の家臣で、その後に無念の死を遂げたという者の子孫が、秘かにその恨みをと言っても、誰が対手とも知れずにくすぶり蠢いているところ、昭和の世になって巨大なごみの堆積所というからスモーキーマウンテンならぬ「夢の島」を思い描けばいいのか、そんな場所に住まう得体の知れない奴と出逢うに及んで、神代まで遡ろうかという因果についその気になって、ここぞとばかりに跳ね上がってしまう。伝奇小説というなら角田喜久雄とか国枝史郎とかすでに伝統としてあったはずなのだが、それらにある妖美、暗黒、謎やスリル、ゴシック趣味といったものから離れて、まったく独自の世界を築いている。
歴史上の因縁を現代に引き継いでいるのは、世間からドロップアウトしながら、その因縁自体とは無関係に世界への復讐を念じている者だ。彼らは資本とテクノロジーの支配する成長期の日本では、黙って踏みつぶされるか弱い存在でしかなく、また現実に踏みつぶされていった多くの民衆達の影なのだとも言えるだろう。
一人一人の心を有無を言わさず押し潰していく、経済という強固な目的意識に統一された日本社会でも、弱点があるとすればそれは体制に居座る、イデオロギーや権力欲に憑かれた者どもということになる。その彼らにしたところで、社長の座にしろ、憲法改正にしろ、そこに椅子があるから座りたい、票があるから掲げたいというだけで、思想も理論もなくただ一つの方向に向かって爆走していく日本社会の中で、先頭集団でありたいという強迫観念に追われているだけのようでもある。
一方で過去の光を取り戻そうとするのは、国全体の流れには乗れない人々だ。それでもこの物語が貧乏人と金持ちの階級闘争の話になったりしないのは、作者自身が陋巷に身を置いて、薄汚い路地、狭い下宿、がらの悪い安酒場に暮らす目線で、政治家、経済人、学者といった人たちを見ているからのようだ。さらによくよく目を凝らすと、それぞれの人の立場には、労働者サイドと搾取サイドに分化できるようでもあるが、人物の一人一人は階級を意識もせず自在に乗り越えて往還している。彼らの生き方は、成り上がり、反逆、腰巾着と様々なスタイルを取ってはいるが、根本的に階級差を無化しようとするところにある。男は男の武器で、女は女の武器で、時空をねじ曲げようとする者は地の底からわき出す力で、それぞれに戦いを挑む。
人々が自在に生きるように、語りもまた時代のジャーゴンを散りばめて自在であり、予言的なテクノロジーが散りばめられて、戦いの様相も科学小説とファンタジーの対決めいている。
後から来る作品として、半村良「石の血脈」はむしろ伝統的な伝奇小説の上にあって、かつ庶民の視点は石川淳にも通じるだろうが、猥雑さの部分はクリアにされている。大江健三郎「同時代ゲーム」が神話性の部分を極大化しつつも、泥臭く、また闘争的な構造を引き継いでいるように思う。軽薄さや沈鬱さをそれぞれに持ち味にしつつも、利害得失について目まぐるしく頭の働く人物達は梶山季之の造型も思い起こすし、つまり戦後の時代の一つの典型であり、幾度も繰り返される文明の復興における典型なのだろう。新しい文明が、卑俗な日常にも思索の世界にも容赦なく突き刺さってきて、信じていたものはみな壊され、流転していく先だけが結末であるという現代の激流を濃密に表しているとしたら、この文体も饒舌だの散漫どころではないわけだ。