オブ・ザ・ベースボール
2022/02/21 18:00
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題作ともう一作が収録されている。
円城塔は難解で分かりにくいというイメージがあったが、その通りだった。それでも表題作はまだ分かりやすいほうだと思う。ファウルズという退屈で家畜が死ぬほどの田舎町には一年に一度人が落ちてくる。その落ちてくる理由は分かっていないが、多くの学者がやってきてはあれこれと言って解明できずに去っていく。作中でそれらしい言及があるように、この「人が落ちてくる」というのは社会的な生活の墜落の暗喩であり、学者が不景気についてあれこれ言ってもそれが解決されていないというここ数十年の日本社会を暗喩しているのではないか。
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投稿者:はぎ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2作品収録です。
前半は表題作「オブザベースボール」
前回読ん「バナナ剥きにには最適の日々」に収録された初作品に比べると格段にわかりやすい作品でしたが、それが面白いと感じるかといわれれば、やはり自分には面白いとは思えませんでした。延々と屁理屈を聞かせれてるようでした。
後半は「次の著書に続く」
こちらは大変わかりにくい作品です。
どんな感想をもてばよいのか分かりません。
「バナナ剥きにには最適の日々」を読む前に買ってしまっていたので読んでみましたが、やはり円城さんの作品は自分には合わないのでしょう。
オブ・ザ・ベースボール
2016/11/07 12:57
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投稿者:によ - この投稿者のレビュー一覧を見る
昨晩、頭がもやもやしていて、あぁこれは寝れないなと思ったのです。
だから、円城塔を読むべきだと。
円城塔氏が、何を意図して書いたものなのかはわからないけれども(本人に聞けるわけでもなし。)、やっぱり私は、円城塔氏の文章の中に、勝手に私が抱く不安と不条理感と開き直りとを見出していって、大いに安心して満足して、しっかり眠ったのでした。
最近、円城塔氏は、詩人なんじゃないかと思うようになりました。
詩人の定義は知らないけれど、文章のリズムがあまりにも、心を落ち着かせるテンポをもっているものだから。
円城塔入門にオススメできる一編「オブ・ザ・ベースボール」と、とことん知識と教養と薀蓄を蓄えて臨んだらまたずっと深くて豊かな味わいを楽しめるに違いない一編「つぎの著者につづく」。
「つぎの著者につづく」は「これはペンです」で救われた私を、同様に救ってくれました。
もっと本を読み、知識をたんまり身につけて、また読みにくるね。
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文庫になったので再読。
解説の沼野氏の言葉にあるように、円城氏の文章はどんなに難解でもチャーミング。おかしみと可愛げがあるところが好きなんだなぁ、と思う。
「つぎの著者につづく」は1回目に読んだ時よりも少し頭に入ってきた気がする。注に挙げられている参考文献をひとつずつ読んでいけば、いつかは理解出来る日が来るのだろうか。ぐるぐるまわる、知の迷宮。
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オブザベースボールは個人的に好き。
ちょっと伊坂さんにもありそうな感じ。
ただ、もう一つの作品は小難しくて分かりずらい。
わからなくもないんだけど、
文字が詰まっていて読みにくい。
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いやーわからんかった。悔しい。
表題作よりもう一つの中編のほうがやりたい放題やってる印象で、これからどちらのスタイルが主になるかのか気になるところ。いや、どちらにも当てはまらないのがくるか。
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正直、よくわかりませんでした。表題作の方は多少楽しんだつもりなんですが、『つぎの著者につづく』はまったく理解できず。残念。
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表題作は、デビュー作だけあって円城塔にしては「緩い」。それだけ読みやすいという事ではあって、その辺が難しいところではある。
「次の著者に続く」は実験小説だけれど、使われる用語がいつものように理系用語ではなかったからか、あまりノレなかった。
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解説はスタニスワフ・レムの翻訳などで有名な東欧文学者による。このことから円城塔の認知のされ方が分かる。
内容はライプニッツ、ジョイス、ボルヘス、エーコ、カフカ、『完全な真空』などの参照・引用が成された緻密な構成でこの手の文学作品に読み慣れている人はすらすら読める。もともとそうした前衛的文学傾向に興味のある人が対象となっている作品の気がする。
『道化師の蝶』も含めてハヤカワSFではない円城塔も面白い。
円城塔を読み終えたあとは、レム『完全な真空』、ボルヘス『伝奇集』、カフカ作品などにあたってみると作品世界が広がる。
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文庫化されたので再読。デビュー作にして入門編。文章も内容も平易でとても読みやすい。
価値観の多様性、信じるものの有無、あらゆる前提がまんべんなく粉砕されているこのご時世。
すでに崩壊のカタルシスすら無効という世界において、円城塔さんの作品には純粋な「フィクションの愉しみ」がある。
でかい一発を知るがゆえ、人はさらに同等かそれ以上の一発を期待しすぎ、体力勝負で自分に負ける。歪んだ愛情を留保して、野次馬に身をやつし、レビューで★を減らす。知識による自家中毒でどこまでも人は堕ちて行き……、話が脱線してしまった。
空から人が降ってくる町、ファウルズ。主人公の仕事はバットとユニフォームを身につけて、降ってくる人をレスキューすること。
もちろん成功した前例などはなく、屁理屈のような物理学まで持ち出しては悶々としている主人公の姿が可笑しくてしょうがない。
しかし不思議と胸を打たれてしまうラスト。(バットだけに)
表題作は、自身の「書く」という行為への宣誓だと思うし、亡くなった伊藤計劃さんの遺稿を書き継ぐことになる男気にも重なる。
今、文学やフィクションを語るうえで、この作品を外すことは考えにくい。
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奇想天外にして自由自在な小説と、人生初のメタフィクション小説の本。
初めて円城塔という作家の本を読んだけれど、基本的には言葉の遊び。日本語ならではの音楽感が心地よく、接続詞の使い方なんかを突っ込んではいけない。踊るように読めば、そのダンス全体の主題は見えてくるもの。見えなくてもLet’s Dancin'! といったところ。その裏にあるのが、東北大理学部物理学科の理系論文というのもまた面白い。
注釈を付け加えるとすれば、野球は関係ない。
新宿紀伊国屋本店で購入。新米の店員さんにやさしくしてあげた。
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【オブ・ザ・ベースボール】
なんだかこの話は終盤物哀しい。
人が降ってくる町では、バットでそれを打ち返すという勤めを果たした人は未だいなかった。
それを成し遂げた初めての人である主人公に、なぜか役場も酒場の友人も温かみがない。
主人公は退職させられ、町を出ていく。落下した老人の所有していた手帳と写真を持って。
その写真は主人公に似ている。主人公が人生の先、老人となる途中のようなの顔。
そして手帳についてはこう述べられている。
「ノートに何が書かれているかなんてことは確認するまでもなく、書き上げてもいないのに勝手に描き上げられた俺のノートに決まっている。手間が省けたと喜ぶべきなのか今の俺には判断がつかない。落下して拾われて、また落下することを強要されているのだろうこのノートは、俺が書き写さない限りは、いつかぼろぼろになって消え果ててしまうだろう。 ( 91p)」
所有していたのは落下した老人出会ったにもかかわらず、主人公は「俺のノート」と言っている。しかも「書き上げてもいないのに勝手に描き上げられた」とも述べている。
ということは、写真は主人公がこれから中年期になったときの姿。手帳の勝手に描き上げられた部分は、主人公が町を出た後に書き上げる部分。つまり、この落下した老人は主人公の未来の姿であり、この主人公は自分で未来の自分を打ち返したのだ。
そして、落下した老人が主人公の将来の姿であることはこの記述にも暗示されている。
「 墜落が俺の身にふりかかるその瞬間を迎えても、(98p)」
「 努力次第によって俺は墜落の運命を避けられるかもしれないが、俺の直感はその見込みを否定している。 99p)」
いつか自分が年老いて、空から落下し、若かりし頃の自分に打ち返され、しかしそれはファウルとなり、臨終を迎える。それを予見しながら主人公は町を出る。
そして、いつか自分が年老いて、空から落下し、若かりし頃の自分に打ち返され、しかしそれはファウルとなり、臨終を迎えるまでの人生を、手帳に記しながら生きるのだ。
もしやこれは、物理学の研究室を去るときの円城塔氏本人の心情だろうか。
この話は終盤物哀しいので、一瞬その考えがよぎってしまった。
しかし、そうであっても、なくても、この物語に心惹かれることは言うまでもない。
「オールライト。カモン」
【つぎの著者につづく】
単純ではない。起承転結は様々な引用に埋め尽くされ、装飾され、どこが本筋なのか翻弄されてしまう。
それでも、R氏についての資料を求める主人公よろしく次々と現れる引用と引用の重なりあいをくぐり抜けていくうちに、円城氏の博識ぶりが作り出す世界の虜になる。
「わかりにくい」のなにが悪い。
これくらいゆすぶりをかけてくれる作品があってもいいじゃないか。
円城塔作品が分からなくて、分からないままのほうが楽しい人は、ここから先は読まないほうがいいかもしれません。
といっても、私の解釈はおもいっきり間違っているかもしれないので、ネタバレに���ったところでどうってこと無いかも知れませんが。
結論から行くと、私なりの解釈は以下のとおりです。
古書店の店主こそがR氏である。あるいは店主はR氏について知っている。
主人公は知らずしてR氏から「次の著者」として選ばれていて、故に、その文章は意図せずしてR氏と非常に似たものとなる。
そして主人公はそれを知らされるべく、R氏との類似性を指摘した雑誌の記事や、プラハの古書店に引き寄せられる。
主人公が全てを悟ったとき、役割を終えたR氏の魂はついに迷妄の淵へ転落する、つまり生涯を終える。もしくは、すでにR氏は死亡しているが、主人公がすべてを悟ったことでR氏への探求は終わる。
●R氏と古書店の店主が同一人物である、あるいは店主はR氏について知っていると考えられる理由
1)グスタフ・フォン・アッシェンバッハは小説「ヴェネツィアに死す」では文人(作家)であったが、映画化の際は作曲家とされている。しかし、職業の設定が違うだけで同じ人物が描かれている。「つぎの著者につづく」(以下本書とする)のなかで文人としてのグスタフ・フォン・アッシェンバッハと作曲としてのグスタフ・フォン・アッシェンバッハに言及することで、R氏と古書店の店主が同一人物であること、又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
2)「リチャード・ジェイムスの名は、と崩れかけた店主の輪郭をなす本の山は囁きかけて、これもまたもう一人のフォン・アッシェンバッハと同じく、作曲家の名前でもあるのだと、床に落ちてページを開いたもう一人のR氏の伝記の反響が告げる。」(175p)
ここでも、フォン・アッシェンバッハが原作では文人(作家)、映画では作曲家として書かれているのと同じように、リチャード・ジェイムス(R氏)は作家であり、古書店の店主であることを暗示している。又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
さらに、「崩れかけた店主の輪郭をなす本の山」と「床に落ちてページを開いたもう一人のR氏の伝記」の二つがリチャード・ジェイムス(R氏)について言及していることは、リチャード・ジェイムス(R氏)が作家であり、古書店の店主であること、又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
3)「今や店主の輪郭はジュゼッペ・アルチンボルドの描く司書の姿に倣った、R氏の生涯を記した本の山へと置き換えられたように映っており(167p)」
店主がR氏の生涯を記した本の山に置き換えられるとは、店主=R氏を暗示しているかのように思える。
また、店主がR氏の司書であるかのように、R氏の生涯について書いた本を所有している、もしくは内容や所在を知っている。とも解釈できるかもしれない。
●主人公はR氏から「次の著者」として選ばれていると考えられる理由
1)古代エジプトで、言語の発生についての実験のために人から隔離された二人の嬰児が同じ言葉を発した事に関する言及は、R氏についての探求と古書店の店主の依頼が一人の主人公につながる、つまり主人公がR氏の後継者とされていたことを暗示していないか。
2)175p「偶然的に二つの口から発せられたまったく同じ一つの単語が次の���葉を指定して、並び置かれた二つの単語は合議の末に、次の単語を指定していく。」
この「二つの口」がR氏と古書店の店主であり、「まったく同じ一つの単語が次の言葉を指定して」とは、つまりそれぞれに主人公を指定していた、との意味ではないか。
ただ、「一つの単語が次を生み出し二つを定め、三つ四つと続く過程を眺め続けて、最初と最後を繋いだ一本道があらかじめそこに存在して私を待ち構えていたと考えるのは間違っている。 」とあるので、この部分を考えると、二つの考えが浮かぶ。1.主人公はR氏の選んだ後継者ではない 2.主人公はR氏の選んだ後継者ではあるが、直接に主人公につながるのではなく他の著者を経由しているのではないか。
さらに、「鞍を乗り継ぐ二つの本は右と左へ別れて落ちて、それぞれにまた選択を繰り返しては、果てへと向けて拡散していく。」とあるので、主人公はR氏の選んだ後継者ではあるが、さらに他の著者へ受け継がれるのではないか、とも考えられる。
3)「今や店主の輪郭はジュゼッペ・アルチンボルドの描く司書の姿に倣った、R氏の生涯を記した本の山へと置き換えられたように映っており、私もまたジュゼッペ老の手になった木偶のようにして立ち尽くし(167p)」
「ピノキオ」に主人公をなぞらえ、それを作ったジュゼッペ老にR氏をなぞらえている。
これは、主人公はR氏によって後継者とされたことを暗示していないか。
さらに画家のジュゼッペ・アルチンボルドの名を絡めることによって強調している。
●比喩として「箱の中の甲虫」
主人公が甲虫の入った箱に「つぎの著者につづく」とあるのを見つけ、その箱を開いて甲虫を出ていかせる。箱の中を出た甲虫は、答えを見つけ「ここから自同的に芽吹き繁茂していく文字列をまた、綴り始める。(179P)」主人公の比喩ではないか。
それは「遅々として進まぬ虫の歩みが、相互に指示を目配せしあう石の網目の織りなす鞍に甲虫を載せるのを見届けて、そして私はおもむろに、この独り語りをせめてもの文章として画定すべく(178p)」という表現も同様に思える。
● 甲虫の模様
これには意味があるのだろうか?もし分かる人が入れば教えてほしい。
「私は変動に見舞われて身震いする頭蓋の中へ転げていく。(176p)」
「一匹の頭蓋骨めいた紋様を持つ甲虫が蠢いている。(176p)」
「ただ甲殻にプリントされた黒い二つの円型をこちらへむける虫がいるだけである。(177p)」
以降、つぎのレビュワーにつづく
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一年に一度という頻度で空から人が降ってくる街ファウルズ。
そこでレスキューとして働く主人公。
今まで誰一人として落下者の救出に成功したものはいない。
それでも彼らは打席に立ち、落下者を救出しようと頑張っている。
守備位置につくのではなくて、打席に立つ。なぜなら、彼らが持っているのはバットだからだ!
表題作の『オブ・ザ・ベースボール』と『つぎの著者につづく』のに作品が収録されています。
両方ともまさに円城塔といったテイストを存分に発揮していますね。
両方とも意味不明だけど、それがいい!
言葉選びのセンスがすごいなーって思います。
個人的にはこの『オブ・ザ・ベースボール』や『後藤さんのこと』の作風が大好きで、なんだかよくわからないけど中毒性がございますw
『つぎの著者につづく』は読んでて円城塔の頭の中は一体どうなってるのか?という疑問を抱かずにはいられませんw
円城作品は文学におけるモダンアート的なものですかね。
理解するんじゃなくて、感性で感じ取るものだと思います。
難解だけどなぜだかスカッとする!そんな感じです。
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表題作では「自分とは何か」どこから来てどこへ行くのかという文学ひいては人間にとっての永遠のテーマを踏まえ最終的に落下する未来をわきまえつつ、いわゆる自分探しの旅に出る姿、つまり作者の姿に期待が持てる。もう一編については大量の予備知識は本質の読解には無用であることを窺わせる。難解。
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「オブ・ザ・ベースボール」
・「何々はこれこれだ。なぜなら何々だからだ。」式の記述。
・ポップに不条理で、読後感はほのかな悲哀と決断に伴う勇ましさも残る。なにこの感情。
・カム。カムオン。
・すべては正しく間違っている。
・腹かっ捌く。
「つぎの著者につづく」
・ベコス。
・これは手法としては「厭らしい」。