紙の本
遡れば近親姦
2017/11/09 11:13
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
遠野物語や古事記を通して、国家や風俗や宗教(神)や法は共同の幻想であり、かつ文学の死滅にまで考えを及ばせている非常にハイレベル?な思想書。
紙の本
このような本に今まで出会ったことのなかった私は衝撃を感じた
2017/04/08 20:09
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
私はこの社会について、あるいはもっと限定して国家というものに対して何かしら違和感を抱いていた。そしてこの本に出合った時、その違和感に一つの回答を与えられたように感じた。それは完全なものではなかったかもしれないが、このような本に今まで出会ったことのなかった私は衝撃を感じたのであった。そして、それからというもの吉本隆明をむさぼるように読んだ。
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久し振りに硬派な論文を読んだ。口幅ったいいい方ではあるが、マルクス経済学にはじまり、民俗学で柳田国男、折口信夫(おりぐちしのぶ)を知り、柄谷行人の思想に生で触れることのできた大学って素晴しかった。これで万葉集もやれば最強だったかも?!ってことは19才が私の知識吸収のピークだったのね(涙)(2007.1.4)
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高一の頃今思うと痛々しい自信を持って読んだ。意外と頭に入ってくるのが嬉しく、のめりこんだものだった。
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吉本隆明さんの考え方に、初めてある程度の深さで触れられた気がする。
こんな認識の仕方があるのですね。
自分の中で育てていきたい考え方です。(まだまだ全然わかってないもん。)この考え方を自分なりにだけれど応用してみると、なるほど、今までなんとなく感じていたことを明瞭に考えられます。
細かいところでも「なるほど!」って思うことがちょいちょい出てきて、それも面白かった。
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学生のときに読んだが、正直なところ、難解でほとんど理解できなかった
今後も処分せずに本棚に置いておき、再読しようかと思う
ばななさんの父親というのにも驚いた
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ぼくは、この日常を客観的に捉えようと試みるとき、たとえばエスノメソドロジー的な実践で、日常のぼくの周りにある、あらゆる一切を別の現象として捉えようとするとき、ぼくの目に映るのは、罵声をあげるだけのカオスだけだ。テレビのブラウン管以上の陳腐な日常が意味不明に映し出され、それこそ馬鹿の大騒ぎと言わんばかりに、彼らの中で蓄えられたエネルギーが、行き場もわからないまま、ただ飽和状態で、身体中の穴という穴から垂れ流される。
慣習や固定観念を排除して、もう一度対峙するとき、彼らは否応なく欲求だけを充満した悩める豚になる。それは別に今も昔も変わりはしないだろう。ただ豚の質が変化しているのは確かだ。
犬も食わないぐらいの陳腐な豚。
彼らはその自覚もないまま、さも人間らしく生きているように、そしてそれが当たり前であるかのように、自分たちの小さな世界で我が物顔で夢想しているのだ。
ぼくがこの豚小屋の中で、自らも豚として、多勢の豚とともに4年間も生活してきたのだと思うとぞっとする。それは予備校の2年間でも同様に言えたことだが、まだ予備校の方が豚じゃなく精神異常者の集まりだった分、人間らしかったような気がする。
ぼくは小屋の外にいる時間が比較的に長かったので、そこまで影響されていないが、ほとんどの豚は無意識的に豚の本能をすり込まれて、そこにある種の共同幻想が形成されているのだ。
そんな折に、ぼくは吉本隆明の「共同幻想論」を詠んだのだ。この作品が60年代当時、学生運動で血気盛ん暴れまわったアナキスト学生たちのバイブルとして、多くの若者にたぶん意味もわからず読まれていたという事実は、実に刺激的だ。
さらに吉本隆明は、今の時代の豚どもに同様に愛読される新鋭作家の父親でもある。しかし、その吉本ばななが「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」といった思想書を書けるわけもなく、せいぜいホモとレズビアンの恋愛劇にとどまる。
「共同幻想論」で吉本隆明は、既成の思想を否定しながらまったく新しい独自の思想を作り上げようとしている。確かに左翼が喜びそうな、天皇制を示唆する部分もあるが、それ以上にアナキスト学生たちには、このまったく新しい日本人の思想が大きな起爆剤となったのだろう。
学生たちのそれぞれ自らの思想を正当化するための勇気を内包させながら、吉本隆明は思想における反体制の象徴として、アナキスト学生を活字によって先導したのだと言える。
その吉本隆明が後の「マス・イメージ論」などにも著し、一貫して語るのは、日本人独特の集団意識による他社依存の共同幻想である。そして、それは現代において豚に変貌した学生たちが如実に体現している。
それを明晰判明に理解するとき、今の日本における混沌とした現実がはっきりしてくるはずである。そうして、矛盾や軋轢、その他の腐った観念が、この染み込んだ身体から浮かび上がるだろう。
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言い回しが難しい。結局、全体性の統一的支配感とはなんなのだろうか。きっかけは与えられるが、自分で考えるしかなく、右向け右の、わからぬ自我なのだろふ。
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共同幻想という考え方は、社会の基盤をなすものかもしれない。
著者は、厳密な学として、本書を提案しているわけではない。
文学として読めばよいのではないでしょうか。
あるいは、文学評論という方が厳密かもしれない。
一世を風靡した考え方の古典的な文献だと思う。
文庫で読めるのはうれしい。
ps.
今の人には吉本バナナのお父さんといった方がいいかもしれない。
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追悼の意味も込めて。
いやー面白難しいぜ(ワタル風)。
柳田國男やフロイトをテクストに、
「自己なる幻想」「対なる幻想」「共同なる幻想」という
3つの分類で論を展開している。
この本によると、
巫覡と異常者の位相の違いは、
自分で統御できるかどうかによる。
それは「異常」であることを、
共同体の中の幻想に架橋できるかどうかということである。
西洋は一神教的伝統で、
日本は多神教ないしは汎神教的伝統である、
という考えをでたらめだと切り捨て、
これは文化圏のある段階と位相を象徴していても、
それ自体はべつに宗教的風土の特質をあらわしておらず、
一神教的なものは自己幻想の、
多神教または汎神教的なものは共同幻想の象徴にすぎないということだけが重要、
っていうのは面白い。
また、
古事記にある、
アマテラスとスサノオの挿話から、
日本の国家が神話の時代より、
宗教的側面と政治的側面に、
権力が二分されていたという話も面白い。
そこから段々と、
政治的な権力の方が強くなっていくのが、
歴史的な見方になるのだろう。
「天つ罪・国つ罪」と
「倫理(宗教的側面)・法(政治的側面)」の関係は、
権力の二分制から歴史を俯瞰してみると、
アマテラスとスサノオ、
卑弥呼とその弟、
天皇と摂関、
天皇と幕府、
天皇と軍部、
という風に左が宗教的、
右が政治的なものになっていて、
言い換えれば「母性(姉)と父性(弟)」となる。
姉弟の交わりはタブーであるから、
日本がこの二分制を守ってきたのも、
もしかこのせいかもわからない。
それからもうひとつ、
実は天皇は母性の象徴なのではないか、
という仮説も立てられるような気がする。
なぞと、
激ムズだったけれど、
いろいろ面白い視点を得られて楽しかった。
ただ、
3つの幻想の区分けが曖昧なのが残念。
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吉本隆明氏は今日16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去しました。87歳でした。
ご冥福をお祈り申し上げます。
思い出にブクログに共同幻想論を載せます。
日本の戦後思想に大きな影響を与えてきた思想家であり詩人であり評論家でしたね。
共同幻想論は思想書としてではなく文学、ひとつの詩としても読むことができるのかもしれなません。 久しぶりに読み直してみます。
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いかん、打ちのめされそうだ。
決して読みやすくはない。
造語を加えた難解な文章が続く。
読み終えたあとの虚無感、喪失感。
心が強い人向け。
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ずいぶん前に買ったのだけど、なんだかフィットせず途中で放り出していた。まあ、時期的に再読。国家などが共同の幻想に過ぎないというアイディアは今から考えるとしごく常識的だったけど、当時の戦争体験、戦後60年代の国家との対峙などを考えると新鮮でプロボカティブな提案だったのかなあ、と想像してみる。40年代のサルトルと同じか、、な。吉本の文体も語り口もぼくはあんまり好みではありません、けど。
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何が書いてあるのか、さっぱり頭に入ってこない。という体験を初めてした。
読み途中だけどこのまま放置することになりそう。
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全体の流れ
・マルクスを通じて国家は幻想の共同体という考えを知った
・「共同観念」の世界を考えるのに「共同幻想」「対幻想」「自己幻 想」を軸にして考えることにする
・この方法を用いて日本における「個々の観念」が「共同観念」に侵されてしまう病理を解析していく
・その題材として「古事記」「遠野物語」を利用する。
文学や政治、経済を統合して観察する視点として「幻想領域」を規定する。
幻想領域は、以下の3つに分けられる。個人の軸となる「自己幻想」、それに対応する「対幻想」上位構造である「共同幻想」。
3つの幻想領域の相互関係がどうなっているかを考えることで、いろいろな領域を考えることができる。
本文では「古事記」と「遠野物語」を題材にして「初期国家」という「共同幻想」がどのように成立してきたか、そして「共同幻想」がどのように「自己幻想」を犯しはじめたか。