「恐山とは巨大なロッカーである」(137頁)
2022/09/24 12:48
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
ふと思い立って一読。一昨年に父を、昨年母をいずれも病気で喪ったこともあり、心のどこかで(あるいは無意識裡に)「死者との向きあい方」について思念し続けていたのだということを、本書を読み終えて気づかされた次第です。それは人それぞれでいい、「そもそも、どう弔い追悼するかは、弔い追悼する人の意志の問題」(160頁)であるという著者の言葉に安堵するとともに、恐山という存在について、いや恐山という存在から、多くのことを学ばせて頂きました。(余談ですが、イタコについては、昔、中学生時の修学旅行で恐山に行き、友人の長谷川君が生徒を代表して「口寄せ」を体験。本人がその内容について「当たっている」と驚いていたことを思い出しました。)
「「無記」のカードだけでは割り切ることのできない、動かしがたい、圧倒的な想いの密度と強度―それを私はリアリティと呼んでいます-がそこにはある。・・・ 二年が経つ頃でしょうか。突然、「あっ、ここには死者がいるんだ」。そう思ったのです。死者は実在する-。」(104~6頁)
「生者は、死者という「不在の関係性」を持ち切れません。その代わり、死者にその「不在の意味」を担保してもらう他ないのです。死者に関係性や意味を預かってもらうしかないのです。そしてそのための場所が、ここ霊場・恐山なのです。」(133~4頁、死者が亡くなる前に存在していた強い相互関係性から生じて生者の側にある息苦しいばかりの重荷(負担)を吐き出して楽になる =「おろす」(74頁)場が恐山なのであろう。)
「死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。」(143頁、同旨160頁)
「死者儀礼と仏教の関係には、何か必然的なものがあるわけではありません。・・・ 仏教の世界観に基づいてお葬式をやってほしい、という人がある程度いたからこそ、その役割を担っただけであって、仏教の教義から必然的に導けるものではありません。」(178頁、それは単なる葬式仏教に過ぎない。)
「仏教が恐山を規定しているわけではないけれど、その思いを汲む器として仏教は機能しているのです。人間は水を飲むのにもコップという器を使います。人間の衝動というものは、何かで汲み上げられない限り感情にはなり得ません。死に対する衝動を汲み上げるにも、何らかの器が必要なのです。その器として機能したのが、日本の場合は仏教だったのです。それは恐山でも同じです。仏教の器があるからこそ、そこに入っているものの匂いや味、形がわかるのです。人が死を思い、故人を拝むには器が必要なのです。目に見えるものをよすがとしなければ、死者というものも立ってきません。何もないところで、「自由に死者を想い出してごらん」と言われても、思考は次第にとりとめなく拡散するばかりで、しまいにはどうしてよいかわからなくなるでしょう。そこには何らかの器が必要なのです。」(180~1頁、あるいは、形のないものを一応の形あるものにするための「仕掛け」といってもよいのであろう。)
「恐山というところは、死者に近づくことができる場所ではあるのですが、さらに深く考えていくと、死者と距離を作るための場所でもあるのです。・・・ それゆえに人々はひきつけられる。恐山とはそのような場所なのです。」(186頁、適度な距離感の保持!)
なお、恐山が臨済宗(総本山は永平寺)の系列(同じ宗派)であることや、元来、恐山とイタコ(民間信仰上の霊媒師・巫女さん)の間には何らの関係もない(別の存在である)ことも、勉強になりました。
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氏の「死者のリアリティと生者のリアリティは同じである(146頁)」という思想が、いかにも住職さんらしい。
死が、生の延長線上にあって、独立していない。
また、こんな言葉遣いも。
「人間が不死を得ない限り、死と死者というのは、絶えず生まれてくるものです(150頁)」
死者は、生まれ続ける。
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非常に興味深い内容だったので、途中まで立ち読みして購入。
ところどころハッとさせられる箇所もある。
生者にとっての死者の存在のあり方。死者への想いを受け止める場所の一つとして恐山があることがよく分かる。
一つの本としては、まとまりがなく、ばらけた感じがする。筆者である南直哉という人のクセの強さもなんだか感じられる。鼻につくというほどでもないけれど、そこがアクみたいに残った。
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深いテーマにもかかわらず、本書のメッセージは非常に明瞭。死とは生者が死者との間に築いていた関係が欠落することであり、それゆえに死者よりも生者の側に近いということ。そして恐山は何も無い場所であるがゆえに、生者の抱えているやり場の無さを引き受けることができるということ。
同僚から「信仰が無い」と言われるという著者は、生者のリアリティの側から死を考えている。それが今の仏教界においてどういう立場なのかは分からないが、一般的に先入観を持たれやすい恐山という場所にマッチしているのかもしれない。
以下余談。永平寺の修行を描いた『大禅問答・法戦』というドキュメンタリがあるが、会社員を辞めて入門したての著者も出演している。
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何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
このボロッとという表現がよかった。
ああ、そーだよなーって。
なんかしっくりきた。
んでもって、その無意味で無力な存在を
ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
それが必要なんだ、ということ。
たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
まあ、そう思えれば、だが。
でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
認めてくれるとゆーこと。
魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
人間性が浅いってこと?
私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。
死は確かにいつも側にある気がする。
でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
怖いのと同時に憧れもある。
ちょーめんどくさがり屋な私としては、
生きてることだってめんどくさいとゆーか。
好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
それはきっと楽したいだけなんだけど。
ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
お釈迦様は正しい。
考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。
存在する死者、は私にはまだいない。
その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
存在の欠落。
ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。
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死というものを考えるシリーズで読んだ。
死者とタイトルに入っているが、別に心霊現象とかは出て来なくて、恐山という場所がそこを訪れる人々にとってどういう場所なのか、恐山の住職としての立場から考察した本。
死者とは何なのかなんて、真面目に考えたことは無かったが、本書が言う通り、確かに死者は存在する。
生前にその人が自分にもたらした影響は、いつまでも記憶に残る。
それは、もはや自分の人格の一部を形成しているということだ。
それが存在でなくて何であろうか。
よく死者は心の中にいつまでも生き続けるというが、本当にそうだと思った。
しかし、現実の存在として、その人がある日突然居なくなることもまた、確かだ。
心の中の存在と、現実の不在。
生前の故人との関係性が濃ければ濃いほど、別れが突然であればあるほど、両者のギャップがもたらすバランス感覚の喪失は大きい。
まず恐山に彼が居ると仮定することで、喪失感を補い、長い時間をかけてバランスを取り戻して行く。
恐山とはそういう役割を担った場所なのだ。
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日本一の霊場、口寄せするイタコ、死者との邂逅。そんな場所としての
イメージしかない恐山。
その恐山の菩提寺の住職代理が綴った書ということで軽い気持ちで
手の取ったのだが、いやはや考えさせられる。
死というものは死者の側にあるのではなく、生者の側に存在するって
かなり哲学的なのだけれど、亡くなった人には死はもう訪れないんだ
ものなぁ。
恐山に足を運び、死者を悼む人たちとの会話は「弔う」とはどういう
ことなのかを示唆してくれるし、死者とどう向き合うかのヒントをくれる。
テレビの心霊番組などの影響もあるのだろうが、おどろおどろしい
イメージがあった恐山も本書を読むと死者を追悼し、思いを馳せる
場所であることが分かる。
幽霊もUFOも見たことがないが、これまで1回だけ不思議なことがあった。
亡父の葬儀が済んだ夜のことである。
お骨となって家に帰って来た父の前で、父の仕事仲間たちは早過ぎた
死を惜しんで遅くまで遺骨の前で酒を酌み交わしていた。
父の遺骨を安置した部屋から少し離れた部屋で床に就こうとして
いたのだが、何故か左肩だけが重苦しくて眠ることが出来なかった。
日付が変わる頃、父の友人たちが帰って行った後に遺骨を安置した
部屋に移ると、方の重さがすーっとなくなった。あれは父が「傍に
いろ」と言っていたのだろうか。
尚、著者である僧侶はせっかく恐山に来たのだから幽霊を見たいと
夜間に宿坊の周りを歩き回って、宿泊者に幽霊だと思われるなんて
ことをしている。僧侶としては少々アウトサイダーなお人だ。
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伊勢神宮が式年遷都でパワーを新しく取り入れ続けるのなら、恐山はその逆だ。何もない空虚が人の思いを1200年間も吸収し続ける場だ。人は死ぬとどうなるのか。それは死者にしかわからないだろう。恐山の禅僧、かく語りき。
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「死者との適切な距離をどう保つのか」特に変化の激しいこれからの社会においてどう築いていくのかが我々に問われている。人それぞれだからそこには正解はない。でも距離を取るために何かが必要なのは確か。その一つが恐山なんだとも思う。普段死についてなんてあまり考えた事がないから頭がグルグルしたなー。
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「恐山は、何か力を得られる『パワースポット』ではなく、抱えたものを放出するための『パワーレス・スポット』であるという」言葉に、実際に恐山に行ってその光景に何とも言えぬ気持ちになった経験を思い出しつつ、納得。死とどう向き合うかという避けては通れない命題についても考えさせられる。
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ラジオで紹介されていて面白そうだったので手に取った本。恐山に訪れる人々と日々接しているうちに、仏教の教えだけでは理解できないことを痛感。死者を弔うこととは何かという問いに対する答えは平凡ながら、体験を通した文脈で説明されると納得がいくものだった
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この本を読んで救われた。
「恐山」のイメージも変わった。
心の拠り所というか、持ちきるのに耐え難いものを、預ける場所というモノが、どこか?というだけのことなんだと思った。
お墓だろうが、仏壇だろうが、恐山だろうが、それはその人が決めればいい。
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日本一の霊場といわれる恐山とは何なのか。禅僧の著者は恐山を「死者への想いを預かる場所」だと語る。つまり、生者が死者との距離を見いだす「場所」なのである。イタコによる口寄せなどキワモノ・イメージの先行する「死者のいる場所」像を一新する
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恐山のお土産売り場で買いました。帰りの電車用に。恐山ガイド的なものではなく、死について恐山という装置を使ってわかりやすく説明してある本でした。このお坊さんは頭がいいなと思いました。
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ほとんどの悩みは競争と取引から生まれる。
この二つを何とかしてしまえば悩みなんてなくなるんですね。