- 販売開始日: 2013/01/25
- 出版社: 河出書房新社
- ISBN:978-4-309-46221-9
さかしま
著者 J.K.ユイスマンス (著) , 渋沢竜彦 (訳)
「久しく名のみきいていたデカダンスの聖書『さかしま』の難解を以って鳴る原文を、明晰暢達な日本語、しかも古風な威厳と憂愁をそなえた日本語にみごとに移しえた訳者の澁澤龍彦氏の...
さかしま
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商品説明
「久しく名のみきいていたデカダンスの聖書『さかしま』の難解を以って鳴る原文を、明晰暢達な日本語、しかも古風な威厳と憂愁をそなえた日本語にみごとに移しえた訳者の澁澤龍彦氏の功績を称えたい」(三島由紀夫)。<生涯>を至上の価値とする社会に敢然と反旗を翻し、自らの「部屋」に小宇宙を築き上げた主人公デ・ゼッサント。澁澤龍彦が最も愛した翻訳が今甦る!
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逆説
2002/09/07 12:28
12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:矢野まひる - この投稿者のレビュー一覧を見る
白状するが、ユイスマンスを読むのは根性がいるのだ。退廃主義と言うから退廃してるのかと思ったら、とんでもない。いまどきのワイドショーなどで、なんとなくだらしがない、無気力、ごてごてしている、といった程度の意味で口にされる退廃という言葉とはわけが違うのだ。「さかしま」を読む限り、退廃ってのは、ものすごい生への執着のことを指しているとしか思えない。
主人公デ・ゼッサントは、宗教にも勉学にも女にもすっかり嫌気がさしている。聖体のパンが、小麦粉ではなくじゃがいもの澱粉で作られるのには納得できない。金銭ずくの価値観しか持っていないのにも関わらず、凋落した貴族や僧侶のつまらぬ虚栄心やうぬぼれには迎合するブルジョワにはうんざり。女にも飽きた。もうとにかく、浮世の事柄全てに嫌気が指している。
そこで、人里離れた邸宅で、自分を心地よくしてくれるいろんな試みをする(貴族の末裔なのでお金はある)。
居室をルートヴィヒニ世とマイケル・ジャクソンを足して百倍にしたくらいの執拗さでもって飾り立てる。ギュスターヴ・モローのサロメにはまったり、口中オルガンと称する1種の利き酒にのめりこんだり、ありとあらゆる病的な植物を集めて(お気に入りはカラーとウツボカズラ)植物は梅毒だ! と決め付けたりもする。ディケンズやユーゴーを低俗! と言い放ったかと思うと、気が変わって「この低俗さがいいのだ」などと倒錯的な感情にとらわれたり、貧しい青年を高級娼家に連れて行き、贅沢三昧させたあげくに急に援助を打ち切って犯罪に走らせようと試みたり、幻臭に悩まされて香水の調合にのめりこんだり、とあらゆることをやってみて、その結果、神経症はますます進行していくのである。
そして、本当はこういうところがこの小説の白眉らしいのだが、ラテン語の文学作品や中世の宗教文学の引用や批評がすごい。私は完璧にお手上げでした(他の箇所だって、きっちりついていくことができたというわけでは全くないのだが)。漠然と、19世紀の終わりに宗教文学を文学的見地から批判するのはとても衝撃的なことだったんだろうな、と思いをめぐらせるが、正直言って、私の生きている時代と私自身の教養のなさから、あまりぴんとはこない。
それよりも、デ・ゼッサントひいてはユイスマンスのものすごい知識欲に圧倒された。これが、なんとしてでも生延びてやる! という試みでなくてなんでしょう。気がつくと同じところを何べんも読んでしまい(教養がないので意味がわからないところだらけ)、やっと読み終わったらもう疲労困憊してしまいました。それにも関わらず、このあまりにも、屈折してはいるが過剰な、生に執着する魂に触れることで、私はかなり相当励まされ、元気をたくさんもらったのです。
「さかしま」を読んで、こんな感想を持つこと自体、それこそ退廃というものなんじゃないかしらん、なんて思ってしまったのでした。
19世紀末のフランス作家ユイスマンスのデカダンスの一冊です!
2020/05/16 09:55
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、19世紀末のフランスを代表する作家ジョリス・カルル・ユイスマンスの作品です。彼は代表的なデカダン派作家と見做されており、同書の表題となっている「さかしま」は「逆さま」や「道理にそむくこと」といった意味で使われています。同書の主人公デゼッサントは貴族の末裔で、学校を卒業後、文学者との交際や女性との放蕩などで遺産を食い潰していきます。やがてそうした生活に飽き、性欲も失い、隠遁生活を送る決意をすします。祖先の遺した城館を売り払い、使用人とともに郊外の一軒家にこもって趣味的な生活を送っていきます。 そのうち、修道院の隠棲生活に憧れを持ちはじめ、自身の部屋を「人工楽園」として築いていきます。しかし、次第に神経症が悪化し、不眠、食欲不振などに悩まされる日々が続きます。ある日、ディケンズの小説を読み、ロンドンで暮らそうと考えて家を出るのですが、結局汽車に乗らずに帰ってきてしまいます。医師から、現在のままでは神経症はよくならないので、パリで普通の人間に交わって生活するよう命じられ、パリへ向かうべく、デゼッサントは住居を引払います。さて、主人公 デゼッサントはどうなっていくのでしょうか?続きは、ぜひ、同書をお読みください。
引きこもりの聖書
2016/05/04 14:48
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:イズー - この投稿者のレビュー一覧を見る
世の中、美学に通じるすべてをやりつくした男が、すべてに幻滅の末たどり着いた孤高の楽園。
ユイスマンスの博学には感嘆するけど、その博学ぶりゆえに挫折しそうになるけれどもそれさえうまくクリアできればデカダンスの極致を堪能できる。
現実に幻滅して何もやりたくなくなった時にたどり着く一冊。
俺たちゃ畸形思想なのさ
2011/12/11 00:35
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
滅びゆく貴族の血筋であるデ・ゼッサントという人物が、その美意識の中にまさに朽ちていこうとする。自分なりの生き方を貫こうとしてはいるのだが、それは誰の目にも世の中に世を向けて破滅へと向かう道でしかなかった。パリを捨て、俗物どもとの交流を絶って、田舎の屋敷に籠って、装飾やら文学やらお気に入りのものばかりを集め、その快楽に耽け続けることを夢見る。
かつては散々放蕩したものの、そうして今や彼の生活自体はさして深く語るほどのものは少なく、その思想、審美眼に基づく古今の芸術作品への思いが強く押し出されている。絵画では例えばギュスターブ・モローや、ルドンを絶賛する。そこには神秘と幻想とエロスへの、執拗でありまた繊細でもあるこだわりが示されている。それから文学、ラテン語からフランス語へと対象は移行していくが、そこでは言語の持つ表現力の進化として捉えられる。広く知られて評価される文学作品も認めながら、彼は作品の作者の思想と表現の関係の中に美を求める。むしろ奇矯、退廃的な思想と、それを見事に表現する文体という組み合わせに喜びを見いだす風でもある。ゾラやスタンダールに敬意を表しつつも、最後にはボードレールとマラルメに行き着く。フランス語でないポーは番外らしい。
頽廃の世界に溺れながらも、彼のキリスト教への無条件な没入は少し意外でもある。どうも神秘の世界という空間を、自分を包む心地よい揺り駕籠とみなしているらしい。神も悪魔も互いに必要としあって存在しているゆえに、同じように求める対象である。戒律があればこそ背徳があり、快楽を一層深めることになる。その歴史に現れるサディズム、マゾヒズムも、すべて肯定してこそ彼にとっての宗教である。
こういった嗜好に耽溺するほどに、世間との隔絶は当然に深まっていく。嗜好の過激さのために孤独となったのか、俗世間に幻滅した末に孤独を求めて嗜好を先鋭化させたのかといえば、その関係は不可分で、どちらが先とも言えないのだろう。彼は悲しみの中にあるのだろうか。生の悦びに溢れているのだろうか。誰の人生だってその両方を満たしているのであって、両極端であったり中間あたりを浮遊しているのだ。この作品が結果的になんらかの文芸思潮をもたらしたとしても、やはり彼の心は孤独に叫んでいたろう。それでも価値観は捨てられない。そんな自分の心も悲しい。また誇りでもある。
澁澤龍彦の訳文は端正で、メリハリとリズムがあり、日本語の表現力の強さをゼッサントに問いかけているようでもある。訳者あとがきも、初版の1962年、それから73年、84年と各版のものが収めてあって、思い入れの深さが伝わる。