紙の本
これから来る人間が動き出すとき
2008/02/23 18:25
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書が書かれた93年、世界にはまだWEBもケータイも普及して
いなかった。それから15年、世界はだいぶ転がっているけれども、
まだ、ポスト資本主義社会の全貌はわからない。我輩は21世紀である、
名前はまだない、という状況で、世界は今日も転がり続けている。
ドラッカー曰く、今は資本社会から知識社会への移行期だという。
知識は人間の中に蓄積されるので、来るべき社会の中心には、
人間がいる。石油を友に、機械が機械に尽くした20世紀を経て、
教養のある人間がこれから「来る」というのだ。本書が何より
魅力的なのは、ドラッカーが取り上げるジャンルミックスの引用の
数々こそが、教養のある人間とは何かを伝え、ポスト資本主義社会的な
人間像を如実に表現していることなのだ。
そしてこれからの主役の教養ある人間が抑えるべき哲学は、おそらく
これであろう。「知識は、意味ある変化をもたらすために使われて、
初めて生産的となる。」
意味ある変化とは何なのか、人間を中心にすえてそれを考え続けることが、
知の大巨人が現代に生きる全人類に課した大きな宿題だ。
宿題をこなすには、学習し、行動し続けるしかない。
先行き不透明な社会で、学習と行動を続けるのはなかなかしんどいけれど、
ドラッカーは本書で、こんなたまらない言葉まで残してくれた。
「いまが未来をつくる時である。なぜならば、まさに今すべてのものが
流動的であって、不安定だからである。いまこそ行動の時である。」
この文章に接して、ざわめかない人は、どうかしてる。
本書を読んだそのときが、ひとりひとりにとってのポスト資本主義社会が
動き出すときだ。
紙の本
SolidからLiquidへ
2011/01/29 17:09
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「わずか数十年前には、ポスト資本主義社会がマルクス主義社会であろうことを誰もが心得ていた。しかしいまでは、マルクス主義社会は次代の社会たりえないことを誰もが知っている」
一番年の近い叔父がいる。確か10歳上だ。その叔父が、小学生のときに土産でソ連の本をくれた。図版がメインの大判の本で要するにプロパガンダのような体裁で、モスクワのキラキラした夜景なんてなんだか未来の国のようだった。ツィオルコフスキーの伝記を読んで感動し、小学校の社会の授業でソルホーズ、コホーズを学んで漠然とあこがれたりした。
「基本的な経済資源-略-は、もはや資本でも、天然資源でも、労働でもない。それは知識である」
「いまや知識は成果を生み出すために既存の知識をいかに有効に応用するかを知るために応用される。これがマネジメントである。」
少し前に流行ったナレッジマネジメント(暗黙知を引き上げる)は、ドラッカーのマネジメントの進化系なのだろう。
テクネー(技能)は
「学習できるものではなく、経験でしか得られないものだった。教育ではなく、訓練でしか得られないものだった」
しかし、
「体系が技能を方法論に変えた。」
「一般知識から専門知識への重心の移行が、新しい社会を創造する力を知識に与える」
テクネーはエピステーメーより蔑まれてきた。ええと、美術品(家)の方が工芸品(家)より価値が上といったように。職人のカンレベルをPCなどで数値化・データ化して熟練者でなくても熟練者クラスのスキルを可能にした。っていうけど、ほんとのところはどうなんだろう。
「民主主義国家は、公選された国民の代表が、その第一の仕事として、貪欲な政府から
選挙民を守ってくれるとの確信があって機能する。したがって、ばらまき国家は自由社会の基盤を侵食する」
子ども手当てや農業戸別所得補償制度などか。おやおや、どっかの国のようだ。
「これからは社会的なニーズが二つの分野で高まる。一つは、伝統的に慈善としてとらえられてきた救済サービスの分野である。貧しい人、障害のある人、寄る辺なき人、害を受けた人を助けることである。もう一つは、コミュニティと人に働きかける社会サービスの分野である。特にこの第二の分野において、社会的なニーズが今後急速に高まる」
「伝統的に慈善としてとらえられてきた救済サービス」つーのは、キリスト教国家ならおなじみの行為。上から目線、施し気分での寄付とかボランティアとか。「コミュニティと人に働きかける社会サービス」、代表的なものは介護・福祉か。
「ポスト資本主義社会は、知識社会であるとともに組織社会である。この二つの社会は、相互依存の関係にありながらコンセプト、世界観、価値観を異にする。教養ある人間の大部分が、組織の一員として自らの知識を応用する、したがって教養ある人間は、二つの文化、すなわち一方は言葉と思想に焦点を合わせた知識人の文化と、一方は人と仕事に焦点を合わせた組織人の文化の中で生き、働く」
「社会やコミュニティや家族は、いずれも基本的には維持機関である。それらは安定を求め、変化を阻止し、あるいは少なくとも変化を減速しようとする。これに対し、ポスト資本主義社会における組織は変革機関である」
高福祉を望むが、消費税アップは反対とか。変えたくない力と変えようとする力のせめぎ合い。アンチノミーをどう乗り越えるのか。
「資本主義社会と社会主義社会は、例えていうならば、その構造において結晶だった。これに対し、ポスト資本主義の構造は液体に似たものになる」
「結晶」つまりSolidである。それが「液体」Liquidになる。なんとも素晴らしい一文ではないか。カッチリしてない分、見えにくく、わかりづらい。捉えどころのない今を生きているのだから。Y.M.O.の楽曲をパロってしまうとLiquid State Survivorとなる。ただし液体であって決して液状化ではない。
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社会の転換点である今日。資本主義の次はどうなるのか書いた本。もう10以上前の本なので取り立てて発見したことはなかったけど体系的に書いてあって読みやすくて勉強になった。ドラッカーのいうとおり社会は本に書いているように動いているのは驚くべきことである。ただまだ変化してないところもあり意外と社会って変化するのは遅いかもと思った
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ポスト資本主義社会=知識社会
知識が、資本として機能する社会。
教えていただいてありがとうございます。
ドラッガー様様。
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1993年作と著者の著作の中では比較的最近のものになります。その頃はといえば、自分はまだ学生時代でバブルの時代を経て、バブルの崩壊もぴんとこないまま、ぼんやりと無自覚に楽しく生きていた時代です。世界では、共産圏が崩壊して少し後ですね。
そこで『ポスト資本主義社会 (Post-capitalist Society)』です。
この前後数十年を歴史の転換期と位置づけ、様々な視点で時代を論述しています。構成は大きく、I部:社会、II部:政治、III部:知識、と整理しています。その中で、年金や社会格差など最近でも大きな話題になっている問題も取り上げられています。かなり以前から強調していた、新しい形の"コミュニティ"の重要性や、"知識社会"の到来とその意義を論じられています。相変わらず面白いですね。
日本についても多くの言葉を裂き、バブル崩壊後にも関わらず基本的には日本に対して高い評価を与えています。それに応えるだけのものを実現しているか、失望させてはいないか、気にかかるところです。
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現在の資本主義社会のその先について書かれた本です。これからの社会を生き抜くために必読の本であると思います。
20年以上前に出版された本にもかかわらず、現代社会に見事に当てはまっています。資本主義社会の次に来る知識社会への転換を予言しており、知識社会によって会社、政治、教育等がどのように変貌するかを説明しています。
著書での知識社会は、簡単に言えば専門知識を所有するプロフェッショナルが中心となって動かす社会と表現できると思います。そこには、資本主義社会の資本家と労働者という図式はありません。専門知識、情報という武器を持って、自由に社会を飛び回るプロフェッショナルが中心となるのです。
少し前に紹介した神田昌典の著書2022でもドラッカーの考えが引用されていました。2022を読んで、ドラッカーを再読しようと思い、まずは手始めにポスト資本主義社会を読んでいます。ポスト資本主義社会は、まさに2022で指摘する歴史の大転換を予想した本です。著書では、2010〜2020年頃に知識社会へ移行すると予測しています。20年以上も前からドラッカーは、予測していたことに驚きです。
数年前に著書を読んでも正直ピンと来なかったのですが、2022を読んだ後にもう一度再読してみると、身に迫る思いを感じました。2冊セットで読むといいのかもしれません。これからの時代を生き抜くために、2冊とも読む価値は絶対にあるはずです。
目次
序章 歴史の転換期
われわれが経験しつつあるものは何か
ポスト資本主義社会の姿
知識社会への移行
国民国家を超えて
第三世界の行方
ポスト資本主義社会における社会、政治、知識
第1部 社会
第1章 資本主義社会から知識社会へ
何が産業革命をもたらしたか
技術革新と文明
知識の意味が変わった
産業革命
生産性革命
テイラーの悲劇
教育訓練が生産性を爆発的に向上させた
マネジメント革命
マネジメントとは何か
一般知識から専門知識へ
第2章 組織社会の到来
組織の機能
企業も病院も組織
組織の特性
変革機関としての組織
組織の論理
従業員社会
第3章 資本と労働の未来
資本と労働の役割の変化
資本家なき資本主義
コーポレート・ガバナンス
マネジメントの責任
第4章 生産性
知識労働とサービス労働の生産性
チーム
集中
仕事の改善
アウトソーシングの理由
第5章 組織の社会的責任
ポスト資本主義社会の原則
社会的責任とは何か
組織と権力
責任型組織
第2部 政治
第6章 国民国家からメガステイトへ
国民国家の誕生
福祉国家としてのメガステイト
経済国家としてのメガステイト
租税国家としてのメガステイト
冷戦国家の登場
メガステイトは機能したか
ばらまき国家という民主主義の否定
袋小路に入ったメガステイト
第7章 グローバリズム、��ージョナリズム、トライバリズム
ゆるぐ国民国家の基盤
環境問題、テロ、軍備管理
新しい現実としてのリージョナリズム
トライバリズムへの回帰
第8章 政府の再建
政党の基盤の消失
反行政の流行
軍事援助の不毛
経済政策において廃棄すべきもの
行うべきこと
第9章 社会セクターによる市民性の回復
二つの社会的ニーズの高まり
NPOによる市民性の回復
コミュニティは欠かせない
市民としてのボランティア
第3部 知識
第10章 知識の経済学
知識が主役
知識の経済学
知識の生産性
中央計画と集中化の失敗
マネジメント上の処方
結合せよ
第11章 教育の経済学
一変する学び方と教え方
高度の基礎教育を与える
強みに焦点を合わせる
学校へ戻る
学校の責任
第12章 教養ある人間
知識社会の中心は何か
求心力となるべき存在
知識社会と組織社会
教養ある人間の条件
専門知識を一般知識とする
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[ 内容 ]
[ 目次 ]
歴史の転換期
第1部 社会(資本主義社会から知識社会へ;組織社会の到来;資本と労働の未来;生産性;組織の社会的責任)
第2部 政治(国民国家からメガステイトへ;グローバリズム、リージョナリズム、トライバリズム;政府の再建;社会セクターによる市民性の回復)
第3部 知識(知識の経済学;教育の経済学;教養ある人間)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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またまたドラッカーの時代シリーズ。
社会、政治、知識とこれだけテーマの広がりを持ちつつも、どこか一本の筋が通っており、必ずドラッカーの掲げるいくつかの原理原則に集約される。
1.問題は、技術ではなく、技術を何のためにつかうかである。
2.知識は、富の創造過程の中心である。(=教養のある人間になるべし)
3.学校の目的は、継続学習である。(=日本の弱みである社会人の継続学習の場を何とかしなくてはいけない)
4.政治も、企業も、大事なことはいかに不要なものを廃棄するか。(=新しいことを始めるには、まずは棄てること)
いずれにしても、ドラッカーの本は、いつも答えがシンプルかつハッとさせられるので、いつの時代にも色あせないのだと思う。
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もし時間を遡れるなら17歳の私に読ませたい。
受験勉強の中では得ることのできなかった「世の中はこれからも変わっていく」「それに自分も関わることができる」という認識を、10代の私に与えたい。
まあでも、今でも十分だったけど。
大量に引用。
それにしても日本を褒めすぎ。
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1993年と比較的近年の著書で、ソ連崩壊もあり、比較的日本が高く評価されていた時期に当たる。社会が知識社会・組織社会に代わって行き、求められることが高度化すること。政治がグローバル化する中で、統合・分化すること。そして、何より知識の重要性が説かれている。知識中心の世の中になり、そのための教育の在り方まで述べられている。ドラッカーは常に知識の重要性に触れており、それは社会としても、会社としても常に課題である。
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読了—APR 6,2012
【概要】
第一部では『社会』について、太古から現代に渡り、知識への認識の劇的な変化がいかに社会的変革をもたらし、歴史を形成して来たかを説明する。今や、知識にテクネー(技術)が含まれないという共通理解が崩れた。マネジメント革命と呼ぶ1945年~90年に至るまでには、知識を知識に応用する行為がみられ、知識はその効用を行為によって証明せねばならないものと解される。そのようなポスト資本主義社会を知識を第一義的な資源とする社会である知識社会と定義し、同時に労働者は組織を通じてのみ自らの能力を発揮出来ると言う意味で組織社会と解す。
ドラッカーは、ポスト資本主義社会で生まれる新たな階層である、知識労働者とサービス労働者の統合こそが、今日的課題であると考えている—その統合の観点から教養の大事が第三部で展開される。第一部『社会』では、そのような今日的「階級闘争」を防ぐために、経済的生産性向上とサービス労働者の社会的尊厳がどう達成されうるのかを知識、組織、生産性、アウトソーシングなどの語句から説明する。
第二部は『政治』についての考察であり、メガステイトという概念を基に議論を展開する。全体主義国家としてのメガステイトは冷戦終焉で崩壊し、また西側のメガステイト崩壊も不可避とする。というのも、国民国家が国民の生命財産を守るという本来の役割を超えているからだ。経済と社会の主人(政府自ら徴税国家として国民経済を管理し、福祉国家として社会領域の実行者へ)となる過程を描き、それが所期の目的を果たせないどころか、ばらまき国家へと堕し、政府機能と市民性を阻害していることを主張。このため、政府の再建の必要性と市民性回復の核としての社会セクター(NPO)が不可欠であるとする。政府はあくまで供給者として振る舞い、政府からアウトソーシングされた社会セクターは、宿命ではなく、意志と思いやりに基づくコミュニティ構築の実行者として振る舞い、これによる生産性向上を主張する。
第三部は『知識』についてそれが経済に与える影響を考慮し、知識の経済学の必要性を説き、またマネジメントの責任として知識の生産性を上げる処方を展開する。知識の生産性が先進国の競争力に資するとの観点から、知識の結合の必要性を説き、既存の知識を利用し未知を切り開く方法論の必要性から教育と学校を問い直し、さらに専門知識を一般知識に転ずる「知識を預る存在」としての教養ある人間について論を進める。
【感想】
本書は、1993年に書かれたもので、すでに20年前のものである。ドラッカーの洞察を現在の観点から答え合わせをするように読んだ。幾つかの疑問、問題として、例えば…
①アウトソーシングを国内だけの概念で用いている点。実際は海外へのコールセンターの外注及び海外からの安い看護士の受け入れなど、まさに国内サービス労働者の機会と尊厳を奪っているのではないかという点。アウトソーシングによる生産性向上が知識労働者とサービス労働者の統合を阻害しているともいえドラッカーの意図とは逆に進んでいるのではないか。
②、企業など今日の組織はロビーイングをするだけで���り…成功した経済人は製品、市場に関心があり、政治権力に感心は持たなかった(p132-3)。組織の(人事権や価格決定権など)社会的力は政治権力によって規制されなければならない(p134-5)とあるが、献金など政治過程を通して、自らに成果をもたらす環境を形成するならば、企業の社会的権力の抑制を企業自ら政治的力を左右することで不可能に出来るのではないか?つまり大口献金先=大企業に配慮した政治が結果的に、労働者の尊厳を奪うような政策を打ち出しているのではないか?
尤も、ポスト資本主義社会は次の時代、未来を作る時代で流動的で「産みの苦しみ」を生じさせるという認識は広く共有出来る。また、第一章は、「知識」を軸に資本主義や産業革命を介する歴史観は非常に興味深く、さらに年金資本主義として人口構造から生じるであろう、年金を巡る議論も、今日の日本でまさに生じているところで20年前の洞察力は凄い。
本書をまとめつつながら感じるのは、ドラッカーのつかみ所のなさ。例えば、教育の自由化やアウトソーシングの力説、さらに政府による所得再配分の否定はシカゴ学派やサプライサイド経済学のように思わせる。一方で今日の会社統治に関し、知識労働者の意欲と献身が生産性向上に大事とし、彼らを疎外するものとして株主主権論を排し(p101)、またサプライサイド経済学の正しさは実証されていない(p212)と述べ、サッチャーなど反行政的政策は失敗したなど、必ずしもそうでない。これらのカテゴリーに入らないのは、組織で働く人間への眼差しと社会に与える影響を捉えているからだろうし、筆者の言うように既存の学問分野からは距離をとっているからだろう。それが自分の中でのとらえどころのなさの原因であると思う。ドラッカーを理解出来るまでにもう少し時間がかかりそうだ。ドラッカーとは何者か…
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ドラッカー名著作集8巻
資本主義社会と言われている世の中から、社会がどのように変わっていくかを、明確に提示している本著作。それだけでなく、働く上のでの取り組みから、教育機関が今後どうあるべきか提唱している。
言うまでもなく名作です。
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1993年初版のポスト資本主義を考察した著作。
前書きに著者は「本著はいかなる国の読者よりも日本人にとって大きな意味がある」とし、バブル絶頂から転落しつつある日本に未来を示唆したい思いがあったようだ。
著者最晩年に書かれた本のひとつであり、それまでの著者の総決算的な内容である。ドラッカーを読み込んでいる読者には今までの振り返りにちょどよい本で、初見の人にはドラッカーの考え方がよく分かるのではないか。
ただ、本著を「預言書」だと勘違いしては肩透かしをくい、本質を見失う。
この本は近代から現代史をその意味するところを解き明かし、足元を見据えることに主眼を置いている。そこから見えるポスト資本主義の社会や政治体制、知識そのものに関わる新しい課題を扱っている。
著者は国民国家が揺らぎケインズ理論が破綻すると慧眼にも見据えていた。そしてグローバリズムが政治社会の趨勢になる一方で同進行的にリージョナリズムやトライバリズムが国民国家の基盤を揺るがしているとしている。
時代をよく示唆した名著である。
以下印象に残った文章。
・今日では、土地、労働、資本は主に制約条件として重要である。それらのものがなければ、知識といえども何も生み出せないし、経営管理者がマネジメントの仕事をすることもできない。だがすでに今日では、効果的なマネジメント、すなわち知識の知識への応用がなされれば、他の資源はいつでも手に入れられるようになっている。
・社会やコミュニティや家族は「存在」する。組織は「行動」する。
・成功する組織は、自らの内に、自らが行っていることすべてについて体系的廃棄を組み込んでいる。数年ごとに、あらゆる工程、製品、手続き、方針について検討することをみにつけている。
・先進国は、知識労働者とサービス労働者の生産性を向上させない限り、しかも急速に向上させない限り、経済の賃貸と社会の緊張に直面する。
・今日のトップマネジメントは、テニスのダブルス型チームである。これは情報化時代において必要となり、あるいは少なくとも可能になった試みである。
・生産性向上のための最善の方法は、人に教えさせることである。知識社会のいて生産性の工場を図るには、組織そのものが学ぶ組織、かつ教える組織とならなければならない。
・組織の中のあらゆるものが、「組織と組織の目的に対して、自らにできる最大の貢献は何か」を問い続けなければならないことを意味する。換言するならば、全員が責任ある意思決定者として行動しなければならない。全員が自らをエグゼクティブと見なければならない。
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数世紀続いた資本主義が終わりつつあるのではないか、という気分の今日この頃、冷戦終結後、つまり「共産主義」後の93年に書かれたドラッカーの「資本主義」後の社会論を読んでみる。
が、驚くべきことが書いてある訳ではなく、これからの社会では、「資本」ではなく「知識」が中心となる、という、今となっては、常識に属する事かな?
といっても、93年にこれが常識であったかというと、そうではないわけで、ドラッカーの慧眼に改めて感服する、ということなのだろう。
だけど、今読んでも面白いなと思ったポイントは、
・ブローデルの見解などを踏まえつつ、数世紀にわたる資本主義の歴史的なパースペクティブのなかで議論されていること
・資本主義だけでなく、国民国家という政治体制についても、議論がおよび、ポスト国民国家というパースペクティブがあること
・そのなかで、マルクスやケインズ、そしてテイラー(ドラッカーによれば近代を作った人間の一人)などの思想家の位置づけがなされていること
・そして、社会論だけでなく、個人としてのあり方、教養のあり方について論じてあること
などである。
知識社会においては、当然、知識が中心なので、知識人、教養が大切。今日における教養とは、古典に関する知識ではない。専門的知識を除外しての教養とはありえない。なぜなら、社会において価値ある知識とは専門知識だから。
が、専門知識それ自体は、教養ではない。教養とは、自分の専門知識以外の専門知識を理解する能力のことである。
そして、そうした能力なしには、自分の専門知識それ自体もほとんど意味がなくなる。なぜなら、他の分野での新しい知識によって、自分の分野で革命的な変化が起こるということが、今日では、常態であるからだ。
これまた、当たり前のことだが、そのとおりだと思う。
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またしても自分には難しすぎたわけだが。
90年代までが労働者と資本家に分かれた資本主義で、現代がポスト資本主義で知識社会、って感じの話だった。
今が資本主義で、その後何が起こるかの話だと思ってたけど違った。
知識あるいは知力それ自体が労働力そのものとなることは今日極めて常識的だが、90年代でさえ一般的ではなかったとのこと。