- 販売開始日: 2013/03/01
- 出版社: 新潮社
- ISBN:978-4-10-112318-9
死海のほとり
著者 遠藤周作
戦時下の弾圧の中で信仰につまずき、キリストを棄てようとした小説家の「私」。エルサレムを訪れた「私」は大学時代の友人戸田に会う。聖書学者の戸田は妻と別れ、イスラエルに渡り、...
死海のほとり
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商品説明
戦時下の弾圧の中で信仰につまずき、キリストを棄てようとした小説家の「私」。エルサレムを訪れた「私」は大学時代の友人戸田に会う。聖書学者の戸田は妻と別れ、イスラエルに渡り、いまは国連の仕事で食いつないでいる。戸田に案内された「私」は、真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。そこで「私」が見出し得たイエスの姿は? 愛と信仰の原点を探る長編。
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「光」
2004/12/03 02:48
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
>(Last Tango in Paris)
その涜神的な(性)表現ゆえに物議を醸した映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)のなかで、映画「地獄の黙示録」(1979)ではカーツ(→クルツ)を演じたマーロン・ブランドが演じる男(ポール→パウロ)は、「名前」を持たないままの関係に拘る、旧約聖書のなかの「神」のように。
『死海のほとり』を読みながら、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と似ていると思った。ちょっと古臭い言葉でいえば「ハレ」と「ケ」とか「日常」と「非日常」とかそんな感じの二つの世界を交互に置いている、そんな小説の構造。「解説」の井上洋治さんの言葉を借りれば、二つの別々の物語が「ちょうどフーガのように対位法的に展開」され、最後には「鮮やかに一つにとけあっていく」。そして、とても深いところで何かをシェアしているように感じる。
唐突だけれど、なんかこの二つの小説には「サーカス」とか「見せ物小屋」的な感じがすごくある。遠藤周作は生前「樹座(きざ)」という素人劇団を主宰していて、村上春樹は作家になる前ジャズ喫茶(バー)を経営していたらしいけれど、そういう場所に共通のアングラな空気が、サーカスふうな空気になって、流れてくる。そして彼らの描き出す「奇蹟物語」は一種のサーカスで、それは「ケ」とか「非日常」の側にあるのではなくて、ハレとケの、日常と非日常の「間」にあって、点と点をつなぐ「ロープ」のようなものなのではないか。『死海のほとり』を書いた遠藤周作、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いた村上春樹は、サーカス団長なのではないか。
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これは、林海象の映画『二十世紀少年読本』(十年以上前に見た)とコラボレートする形で書かれた川西蘭の『サーカス・ドリーム』(最近読んだ)の一節なのだけれど、『死海のほとり』と『世界の終り〜』を読み終わったときに僕が感じていたことにすごく近い、というより、そのもののような気さえする。(川西さんの書いたこのフレーズが心に響いてくる人には、ふたつの小説の「サーカス」っぷりを味わってみてほしいと思う。)
ついでに、ふたりの作家はどこが似ているのだろうと考えてみるに、ふたりとも関西人ふうのやわらかさがある。村上春樹はたしか神戸のあたりの出身だったと思うし、遠藤周作は東京生まれみたいだけど、幼年時代を旧満州の大連で過ごしたあと十一歳で神戸に戻ってきたらしい。阪神淡路大震災や少年Aの連続児童殺傷事件があったりしてあまりいい印象がないかもしれないけれど、神戸というのはいい街だと思う。海と山がすぐ近くにあるというところがいい。六甲山には羊がいるし。
もう一つの共通点は「ユング」かもしれない。遠藤周作は日本を代表するユング学者の河合隼雄さんの『影の現象学』(文庫本)のあとがきで絶賛評を書いているし、村上春樹は河合隼雄に会いにいったし、どっかで赤坂真理(彼女の「響き線」という短篇はすごくいい)に「村上さんはユングの読みすぎなんじゃないかなって感じがする」と批判されていた(たしか斎藤環と赤坂真理の対談記事で)。でもオカルトではない。
>(「Deep River」)
宇多田ヒカルが遠藤周作の『深い河』にインスパイアされて作ったという歌を聴きながら。
心震えるラスト
2020/07/19 15:21
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あかおに - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者の分身と思われる男が、真実のイエスを求めて死海のほとりにその足跡を追う、現代のパート。弟子や祭司等、イエスを見棄てたり裏切ったりした男たちの眼から見たイエスの姿が語られる、二千年前のパート。二つの物語が交互に描かれている。
日本の戦時下における弾圧、ナチスの強制収容所、愛だけを語り、人々の苦しみに寄り添おうとした無力なイエス。重層的に物語が語られていく。
信仰のつまづき。強制収容所でのねずみの死。狡く卑怯なねずみに重ねられる、男自身の卑劣さの記憶。奇蹟など起こせず、人々に失望されて見棄てられる惨めなイエス。全編、陰鬱な敗北感に満ちて、重苦しい。
しかし、交互に描かれてきた二つの物語が、時間と空間が交錯し、溶け合っていくクライマックスがすばらしい。
無力なイエスが、十字架を背負い惨めな死を遂げ、無力で惨めな存在である人間の永遠の同伴者となった。
ラストに心が震えました。
4月の緊急事態宣言下の外出自粛中に読みました。
コロナへの不安、怖れ、閉塞感。息苦しい状況の中で、その重苦しさに押し潰されないよう、自分を支えるだけの重みと力のある作品でした。
深い読書体験となりました。