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電子書籍
ラカンの精神分析
著者 新宮一成 (著)
フロイトを再発見した独自の思想を読み解く対象aは黄金数である――ラカン晩年の言葉を手がかりに辿る構造主義精神分析の本質とその人生の軌跡。ある数式に象徴される主体と言語の存...
ラカンの精神分析
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ラカンの精神分析 (講談社現代新書)
商品説明
フロイトを再発見した独自の思想を読み解く対象aは黄金数である――ラカン晩年の言葉を手がかりに辿る構造主義精神分析の本質とその人生の軌跡。ある数式に象徴される主体と言語の存在構造を鮮やかに描く。(講談社現代新書)
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紙の本
たぶん、日本で一番売れている「ラカンの解説書」だが…。
2009/06/01 22:12
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:反形而上学者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、日本人が書いたジャック・ラカンにつての解説書としては、一番有名で売れているものであろう。私も発売当時にすぐ買って読んだものである。
何と言っても、「新書」という「コンパクトな体裁」と「低価格」でありながら、難解なラカンの精神分析について特化している解説書は、今のところ本書しか存在しない。これは、強力な購買意欲をそそることであろう。
さて、肝心の内容であるが、確かに「新書」という制約の中でできるだけ読みやすくかつ、「読ませる本」になっているところは、見事であると言うしかないと思う。
しかし、私はなぜかこの本が出た当時から、どうしても「腑に落ちない」ようなものを心に抱え続けていることに最近気づいた。私自身、友人・知人に「ラカンについての手頃で手軽な解説書」は何かないかと聞かれれば、即座に本書を挙げていたが、入門者レベルのそれらの人達は、かなりの確率で「よく分からなかった」「難しい」といったようなネガティヴな感想が返ってきたからだ。しかし、その理由を聞いても、「どこが分からないのかも、分からない」という極めて厳しい答えが返ってくるので、私自身の持っていた「腑に落ちない」感じを改めて考えてみることにした。
私が気がついたのは、著者である新宮一成氏の「文章構成」に、どうやら原因があるということであるが、それは意外なほどに、一貫して問題があるように思えた。端的に言おう、本書はラカンの思想における時間軸が完全に無視されているということである。そして、新宮氏の文体も「セミネールでのラカンの語り口」のように、極めて「自由連想的」であり、「黄金数」というものがいきなり長々と出てきたり、そうかと思えば、漫画の「ドラゴンボール」を例に出したりと、その一見解りやすそうな文章に気を奪われてしまい、入門者レベルの読者はいつのまにか、煙に巻かれたように混乱してしまうということが、私自身の「腑に落ちない」気持ちと、見事に合致することに気づいたからである。
ようは、新宮氏の言っていることが、あっちこっちに行ってしまって、それぞれの話題が、ちゃんとつながっていかないということだ。だから、「言語明瞭、意味不明」というようなことになってしまう。特に新書を読もうという入門者層には、そういうハンデは非常に大きいことであると思われる。そういう意味では、実は新宮氏はどの著作や編著作をみても、そういう各章のつながりの悪さが、実に見事に(変な言い方だが)共通して現れている。これは新宮氏の変なところが「ラカン的」であるという困った現象でもある。
何年か前に、小笠原晋也というラカン派の精神科医・分析家が、精神分析の患者としてきていた女性と恋仲になり、結婚を誓い合うも、小笠原晋也の両親から反対を受けて、女性が別れを切り出したために、カッとなり絞殺するという事件があった。小笠原晋也は大変優秀なラカン派の分析家であり、講義をする時もまるでラカンが乗り移ったかのような喋り方で、難解に話しをしていたと聞くが、新宮氏もそれとは違うが、「ラカン的難解さ」を受け継いでしまっていたのではないであろうか。
しかし、それでも私は本書に「5★」をつけることにする。なぜならば、読者にはそういうところまで「著者の症状」として読む、「精神分析的な読み方」を身につけて欲しいからだ。
そすれば、数多の解説書ではなく、ラカン本人の「セミネール」や『エクリ』が読めると私は考えているからである。
非常に長くなってしまったことを、深くお詫びして、終ることにします…。
紙の本
ラカンへの好悪は度外視して、とにかく読むべし
2001/02/26 22:19
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
『知の欺瞞』で徹底的にこきおろされたラカンと数学の(怪しげな?)関係。——たとえばラカンの黄金数をめぐる新宮氏の解説を引用してみよう。
まず、αにとってβが「どう見えるか」を「割合」=「理性」[ラシオー]で表わすならば、β/αとなる。
私=xと他者たち=yに共通な視線を「x+y」と表記する。すると、私と他者たちを加えた全体の目から見た私は「x/(x+y)」と書き表わすことができる。これこそがラカンのいう「対象a」の本質であり、私自身には本来入手不可能な私の像である。
ここで、私が他者を見ているその見え方(y/x)の中にその私の像(a)が現れるとしたら、つまり私を含めた全体にとっての私がどのようなものであるのかということが、私が他者をどのように見ているかということの中に浮かび上がってくるとしたら、この時の状況は「y/x=x/(x+y) =a」と書き表わすことができるだろう。
これを解いて得られる値が黄金数(黄金分割比)である。a=(√5−1)/2。対象aは、私が私自身を超越的な視点から見るようになるとき、必要とされる支えである。
《私が自分を自己同一性を持ったものと感じているとき、私はいわば「1」である。そのとき他者の中にあの「(√5−1)/2」と書かれるべき対象aが現れているだろう。そして、私とその他者を合わせた全体的な超越者はというと、私の「1」と対象aの「(√5−1)/2」を足して、「「(√5+1)/2」」として現れているだろう。
このとき、よく見れば、対象aと、この超越者の値は互いに逆数である。(√5−1)/2×(√5+1)/2=1となる。このようにして私は、二つの互いに逆数をなす無理数の間にはさまれて、辛うじて自己同一性を、つまり「1」であることを、保持し得ているのだ。そして、私がこのようにして「1」であるとき、その「1」は、全体的な超越者「(√5+1)/2」から見れば1/(√5+1)/2つまり (√5−1)/2となる。すなわち、自己同一性を保った私というものは、超越者にとっての黄金数なのである。
私の自己同一性の支え、これが私に対する他者の比率としての、対象aである。比率である対象aは当然目には見えないはずであるが、何でも物事がうまくゆかないときに問題があらわになってくるように、この比率がわずかに崩れたとき、対象aは比率でなく、まなざしや糞便等々として、具体的に現れる。他者を黄金数において見るような、私と他者との関係は、元来不安定なものである。それは黄金数が無理数だからである。愛は、いわば「無理数な関係」として、絶えざる割り切れなさの中を揺れ動いている。
そういえば先ほど私にとっての他者を、y/xという分数(割合[ラシオー])の形でひとまず書いたが、実際に出てきた答はこのように無理数であった。無理数は本当は分数では書けない。だから、私と他者との関係は、分数(割合[ラシオー])を超えたもの、すなわち理性[ラシオー]を超えたものなのである。
我々が方程式を利用して考えてきたことは、私が他者を見る視点が、我々が私を見る視点に等しくなるということであったから、これは、個別と普遍の一致であるとも言える。》
これを単なる「比喩」と読むかあるいは数学的概念の「誤用」と読むか、人さまざまだろう。私自身はそこに比喩でも誤用でもない「表現」を見出すのだが、ではそのようにして言語的に表現された「リアリティ」とは一体何か。それは本書に、この古今東西に例をみないほどよくできた解説書(解説の域を超えて、新宮氏自身の語られざる思想が限りなく臨界点に近づいていく強度を湛えた書物)の全編を通じて書かれている。ラカンへの好悪は度外視して、とにかく読むべし。
紙の本
トンでも本
2001/07/27 14:06
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ねこりあず - この投稿者のレビュー一覧を見る
ラカン自体、数学知識に欠けていたことは、「「知」の欺瞞」において、充分に明らかにされているが、その通俗解説書である本書も、数学の大学程度の知識のある人間なら、その欺瞞は容易に指摘できる。「対象Aが黄金数」ってどういう意味? とか。本書を読んでもよく意味のわからなかった人。それは君のせいではない。