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電子書籍
カール・マルクス
著者 吉本隆明 (著)
かつて混迷の政治の季節、虚飾にまみれたマルクスを救出するべく、その人物と思想の核心を根柢から浮き彫りにした吉本隆明。その営為は、敗戦体験を出発点に掘り下げられた思考の行程...
カール・マルクス
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カール・マルクス (光文社文庫)
商品説明
かつて混迷の政治の季節、虚飾にまみれたマルクスを救出するべく、その人物と思想の核心を根柢から浮き彫りにした吉本隆明。その営為は、敗戦体験を出発点に掘り下げられた思考の行程のひとつの達成を意味した。そして今、迷走する21世紀の〈現在〉、日本史上最大の思想家の手になる世界史上最大の思想家の実像が、再び立ち上がる。
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紙の本
すべてのマルクス本を捨てて読む価値があるかも?
2006/06/14 13:46
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
マルクス主義のガイドやマルクスの人物伝は少なくない。しかし書き手に思い入れがあるせいかヤケに熱かったり冷笑気味だったり左右両派?のポジションの滑稽さをそのまま表明したようなものが多く、ましてや理論的な真偽や価値となれば失望さえする。
マルクス思想の研究では構造主義以降の見解でマルクスの初期と後期では認識論的切断があるという立場が目立つ。ニューアカから全共闘のノスタルジーが漂うものまでそれは共通するようだ。構造主義は弁証法を超えた、物象化論は疎外論を超えた、関係論は存在論を超えた、経済システム分析は素朴なヒューマニズムに優先する....。
本書では『経済哲学草稿』に代表される初期マルクスと後期の『資本論』がまったく同じテーマを同じ方法で追究していることが解き明かされていく。これほど簡明でしかも根源的なマルクス論は他にないかもしれない。おそらく稀有な一冊だろう。
それどころか共同幻想や純粋疎外などのタームに象徴される著者の思想や理論的なスタンスがまるでマルクスのように一貫したものであることもわかる。だがアインシュタインが10代で相対性理論を発見しながら、それが表現できるようになるまでに長い月日を必要とした(に過ぎない)ことを考えてみるとそれも不思議ではない。優れた哲学者はたった一つのテーマを持つという某有名哲学者の言葉はきっと真理なのだ。
疎外がどのように再帰し、その展開がどのように共同化するのか。本書は簡単に巨大なマルクスの思想を根源から理解できる珍しいマルクス本だといえる。いまだに諸説乱れる国家論や経済学の根本、大衆論や宗教の起源までもが驚くほど簡明に解き明かされていく一冊は読者を限定することなく必読だろうと思わせるものがある。
紙の本
紙一重
2006/08/16 23:04
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
文庫本で吉本隆明の著書を二冊、同時に読み進めた。『カール・マルクス』(光文社文庫)と『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)。なんど読み返しても、咀嚼しきれない濃厚な残余が後を引く。思想家としての吉本隆明の凄さが判る。そんな気がする。どちらにも中沢新一の解説(「マルクスの「三位一体」」,「二十一世紀へむけた思想の砲丸」)がついていて、力がこもっている。
ここでは、思考をめぐるなにか根源的な事柄が語られている。けれども、それはまだ朦朧としている。今のところはただ一点、二つの書物の冒頭にあたる箇所にでてくる共通の語彙をめぐって、前後の文脈をぬきにして抜書きしておく。
《ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、ほとんどマルクスと紙一重であることをしることができるはずだ。そういった意味では、この紙一重を超えることが思想家の生命であり、もともとひょうたんから駒がでるような独創性などは、この世にはありえないのである。
マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、〈自然〉は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。それは〈非有機的身体〉と〈有機的身体〉として相互に浸潤しあい、また相互に対立しあう〈疎外〉関係であった。わたしのかんがえでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動とかんがえたとすれば、マルクスはそれを粒子という側面でかんがえてみたのである。それは、マルクスがギリシア〈自然〉哲学の原子説を生かしきったことを意味している。フォイエルバッハの〈共通の基底〉を、〈疎外〉にまで展開させたおおきな力は、この紙一重の契機であった。》(「マルクス紀行」,『カール・マルクス』)
《けれど法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。法然では「たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ」という言葉は、自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には、この課題そのものが信仰のほとんどすべてで、たんに知識をすてよ、愚になれ、知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば、信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして、これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。》(『最後の親鸞』)