- 販売開始日: 2013/06/25
- 出版社: 新潮社
- ISBN:978-4-10-109601-8
檸檬
著者 梶井基次郎 (著)
31歳という若さで夭折した著者の残した作品は、昭和文学史上の奇蹟として、声価いよいよ高い。その異常な美しさに魅惑され、買い求めた一顆のレモンを洋書店の書棚に残して立ち去る...
檸檬
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
商品説明
31歳という若さで夭折した著者の残した作品は、昭和文学史上の奇蹟として、声価いよいよ高い。その異常な美しさに魅惑され、買い求めた一顆のレモンを洋書店の書棚に残して立ち去る『檸檬』、人間の苦悩を見つめて凄絶な『冬の日』、生きものの不思議を象徴化する『愛撫』ほか『城のある町にて』『闇の絵巻』など、特異な感覚と内面凝視で青春の不安、焦燥を浄化する作品20編を収録。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
小分け商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この商品の他ラインナップ
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
漂う透明な安定感
2010/06/27 09:16
14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕が若かった頃、とても好きであった作家が三名いました。
太宰治・中島敦・梶井基次郎
この中で、現在でも日本文学史的にメジャーな作家は、やはり太宰治だけですかね。
というより、よく考えてみれば、後の二名は、生前のリアルタイムにおいても決して「メジャー」な作家ではなかったですね。
彼らはやはり、あまりに早く亡くなりすぎてしまいました。
三人の享年を並べるとこうなります。
太宰治(三十九歳)・中島敦(三十三歳)・梶井基次郎(三十一歳)
こうして並べてみると、太宰が三十代をなんとか生き抜いたという「差」は、大きいですよねー。
今調べてみたのですが、太宰の三十一歳の時の主な作品といえば、『駆込み訴え』『走れメロス』なんですね。
まさに太宰の充実期・豊穣期・収穫期の開始時期ではありませんか。
さて、その太宰の収穫期の入り口で鬼籍に入ってしまった作家が、梶井基次郎であります。
実は僕が初めて個人全集を買ったのが、この作家でした。筑摩書房からの三巻本です。
最後の巻の書簡を読み終えた後、自分でも少し感動したことを今でも覚えています。
今回、梶井の主な作品について何度か目の読書をして、改めて驚いたことがありました。
梶井の作品の評価については、伊藤整の説いた、「志賀直哉とボードレール」の影響の指摘が端的に語っていると思いますが、今回驚いたというのは、その「スタイル」を梶井は晩年(若き晩年!)ぎりぎりまで彫心鏤骨、洗練させ続けているということでした。
例えば、名作と名高い『冬の蠅』。この晩年の作品などは、冒頭から天にも昇らんとする勢いの文章であります。
---------------
冬の蠅とは何か?
よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼等がわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。
冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。
---------------
梶井の小説の底辺には、ほとんどすべてに疲労・倦怠・不健康などの影が見えます。
現実に、その延長線上に自らの肉体の滅び(それも遠くない将来)を見つめ続けねばならない筆者の精神が、必ずや少しずつ少しずつ傷ついていったであろうことは我々にも容易に想像がつきます。
しかし、少なくとも梶井はそれを創作態度に持ち込もうとはしませんでした。
不健康な日々を行為を描きながら、その描写には、安易さやふて腐れや放り出しやといった、不健康な要素は一行もありませんでした。
きっとそこに、彼の矜持があったのだと思います。
そのための「武器」が、ボードレールの妄想や比喩であり、志賀直哉のあの厳格・強靱な文体であったのでしょう。
そして、それを晩年まで研ぎ澄ませていった筆者の精神力に、今回読んでいて僕は非常に感銘を受けました。
それともう一つとてもおもしろかったのは、彼の晩年の作品にまで通じている表現要素が、ほぼすべて処女作の『檸檬』に相似形に描かれているということでした。
それは『檸檬』の表現でいえば、「みすぼらしくて美しいもの」と「錯覚=妄想」です。
この二つが、彼の描く死を見据えた美意識の中に、最後まできちんと読みとれるということに気がつきました。
そしてそのことによって、早過ぎた筆者の死を惜しむ気持ちはもちろんあるものの、彼の残した作品群がきれいな円環を閉じていることに、個々の作品に描かれる「不健康」とは全く姿を異にした、透明な安定感のようなものを、ちらりと、僕は感じるのでありました。
梶井基次郎がどうにも好きになれない人に宛てて。
2004/12/24 02:14
8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
梶井基次郎はゴリラみたいな顔つきをしていて、『檸檬』という繊細で詩的な小説を書くにはどうにも不似合いな男で、そもそも「結核」という病で夭折するようなタイプには見えない、というのは割によく言われることである。
彼の伝記などを読むと、彼自身自らの容貌魁偉なることを相当に気にしていたらしい。その内と外の落差はいかばかりのものであったろう。
こういうことを言い募ることは、とても鈍感なままに聞く者の思いを壊してしまう暴力になりかねないことは確かで、昨今の世間で流行中の「毒舌」に、ひっそりと「世の中の厳しさを知らしめるという懐の深い愛情」などと言訳を貼り付けて礼賛するのは良いが、自分もそのサル真似をしようと試みるとしたら、そんなヤツはバカだ。
小説などあまり読んだことのないイタイケな子供に対して、「おれが一番好きな作家は梶井基次郎だ。愛してるといってもいい」と明言したうえで、「このゴリラみたいな顔」「ガレッジセールのゴリに似ている」などと讒言を吐いてみたところ、「ぶっ、ひでぇ」と笑いながらその子供が梶井基次郎に興味を持ったとしたなら、その「ゴリラ!」なる罵詈讒謗は許されるのかといえば、許されることではない。
だが、そもそも「私」はその生の瞬間瞬間に罪深い行為のみをつづけているのだとの自覚を「ゴリラ!」という発語に込めることで、ほとんど不可能と諦めた「免罪」の可能性がほのかに眼前に浮んだのだとしたら、その希望の炎を消してしまってはダメなのではないか。
だから「梶井基次郎はゴリラだ。気はやさしくて力持ちな男なのだ」と紹介したい。
人間にとって「顔」というのは矢張りどれほど頑張ってみても大切なものだ。そこに男女の区別はない。性別を超えて自分を光源氏の立場に置いてみて、末摘花の顔を朝日のなかに見たとしたならば、ぞぉっとするに違いあるまい。「とりかえしのつかないことをしてしまった」と慙愧にたえない気持ちにさえなるかもしれない。
今でこそ価値観の多様化が「常識」となり、美醜だの好き嫌いだので物事を語ることの暴力性は薄められてきているが、そのことは認めるにせよ、暴力は気付かぬところに蔓延るからこそ「暴力」なのであって、それゆえにこそ「顔写真」込みの『檸檬』(新潮文庫版)が輝くのだというのが僕のイイタイコトだ。
『檸檬』という美しい小説に「おれはなんて醜い男なんだ。まるでゴリラじゃないか」なんて独白が出てくるわけもないが、この男の憂鬱や重苦しさの背後に単なる結核という病だけを見てしまうのではなく、結核によって絶えず尋常ならざる熱っぽさを感じていたからこそ「檸檬」の爽やかさと冷たさが彼を動かしたのだと読んでしまうのではなく、無意識の暴力にさらされながら勇敢に闘いつづけた一人の男の美しさ、やさしさ、強さを見ることもできるのではないか。そんなふうに思うのだ。
>
梶井基次郎はジャズが嫌いだった。モダンジャズを聴くことなく、「バップ(bop)の高僧」と綽名され奇矯な性癖で知られるセロニアス・モンクを聴くことなく、1932年にこの世を去った。享年31歳。あてどもなく暗い街をさまよう彼がモンクの「ラウンド・ミッドナイト」を聴いたら……。梶井基次郎の小説にはモンクがよく似合う。
「檸檬」ーー錯覚としての読み、あるいは誤読
2017/08/15 00:55
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:シロップ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「檸檬」では、主人公の私が想像力の働きでもって意図的に「錯覚を起そうと努め」ます。
そこで、「檸檬」を読んでの僕の読みの誤り(誤読、錯覚)について書かせていただきます。とくに、びいどろと檸檬爆弾についてです。
主人公の私は「びいどろの味程幽かな涼しい味があるものか」と述べ、そして、このびいどろの味に「幼時のあまい記憶」が喚起されると語ります。それはすなわち、びいどろを「嘗めて見るのが私にとって何ともいえない享楽だった」ことや「それを口に入れては父母に叱られた」ことです。さらには「全くあの味には幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る」とまで語ります。
僕は、ここではびいどろがまるで飴玉のように語られているので気にしませんでしたが、びいどろは「色硝子で鯛や花を打出してあるおはじき」であり、本来「嘗めて見」たり「口に入れ」たりするものではありません。そのようなものを口にしたから、幼い頃の私は「父母に叱られた」のです。
また、おそらくびいどろに味はないでしょう。でも、この場面で主人公は「幽かな涼しい味」であったり「幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が」する、とびいどろの味を表現しています。さらに、このびいどろの味によって幼い頃の記憶が喚起されています。つまり、ある種の「味覚の錯覚」によってそういう記憶がよび起こされていたと述べられているのです。
「別にそれがどうかしたか」と言われればその通りなのですが、僕はそのように語られていることにとても納得、共感してしまいました。僕が錯覚したように、びいどろは飴玉のような味がするのかもしれません(ちなみにこの場面を読んでいて、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』「コンブレー 一」末尾にある「プチット・マドレーヌ」の件が何となく想い出されました。梶井がこの作品に触れていたのかどうかは分かりませんが)。
次に、主人公はいつ檸檬を爆弾に見立てたのかということです。僕が考える可能性としては次の通りです。
1 積み重ねた画集の上に檸檬を置いた瞬間
2 第二のアイディアが思いついた瞬間(「ーーそれをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出るーー。」)
3 丸善を出ての街の上(「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た悪漢が私で、…。」)
1はないです。おそらく、注意しないで読んでいたら、私が檸檬を爆弾に見立てたのは2だと考えてしまうのではないでしょうか。僕はそのように読んでいました。でも実際は3です。つまり、私が檸檬を本棚に置いてそこから出ていこうと決心した時点(2)では、私はまだ檸檬を爆弾に見立ててはいないのです。
このことも、前述のびいどろのことといい、何のことはありません。ただ、檸檬を本棚に置いて爆弾に見立てる(2)のと、檸檬を本棚に置いた後、街の上でそれを爆弾に見立ててほくそ笑む(3)のとでは、少し意味合いが異なるかなと思った次第です。
このように「檸檬」を読むことを通して、僕のなかで、ある種の読みとしての錯覚が起きていました。これらのことを自分の単なる勘違いとして切り捨ててしまえばそれまでなのですが、「檸檬」は読者にも錯覚が起こることを予期して書かれたものなのかもしれません。それは梶井文学の魅力の一つだと思います。梶井の描く錯覚はまったくの、架空のイメージがよび込まれるのではなく、どこか私たちにも共感できるものです。
「檸檬」は名作、古典と言われて久しい作品ですが、何度も繰り返して読んでいるとまだまだ発見があると思います。勝手に誤読、錯覚しながら楽しませていただきます。
これは古典的名作
2002/05/28 21:28
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:やまたのおろち - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても、とても、美しい散文詩的作品です。見たこともない当時の京都の町ががあざやかに浮かびます。しつこい憂鬱がたった1個の檸檬によって紛らわされる逆説。檸檬と出会う前と後の作者の心情の対照。深く深く心にしみ入ります。あるいは人生は逆説(パラドックス)に満ちているのかもしれません。
レモンの香いを感じる
2001/10/16 15:02
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ロブ - この投稿者のレビュー一覧を見る
世の中に小説は多く存在する。また、視覚に訴える文章も存在する。だが、このように香いまでも感じさせる小説はそう多く存在しない。
「嗚呼 このレモン爆弾は恐らく爆発し、なんともいえないすばらしいすがすがしい香りをあの閉鎖的とも言える空間を満たしたのだろう・・・。」
この本を読むたび、神田辺りの古びた書店にレモン爆弾を仕掛けてみたくなるのである。
丸善へgo
2017/08/09 16:03
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:MM - この投稿者のレビュー一覧を見る
檸檬爆弾を置いて 爆破させる妄想…なんだか分かる。ましてや 死期が迫って来る自分に どうする事も出来ない自分を破壊したかったのであろうか…これを読んで丸善で檸檬ケーキ!美味です。
復刻カバーに惹かれて
2020/06/02 22:30
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トリコ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説は、何度読み直しても、その時の自分の心のありようで印象が変わる。
若いころに買ってあったのだろうが、カバーに惹かれて買いなおした。都内の丸善で。
このデザインの表紙で読むとまた味わい深い?
2020/03/13 22:23
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
中身は新潮文庫バージョンの『檸檬』と同じ、2019年に、丸善150周年記念で、初期のカバーで復刻した一冊。夭折した梶井基次郎の作品は非常に少なく、長編もない。しかし、数ページの「檸檬」の作り上げた世界観はやっぱりすごいよなと思う。復刻版のカバーには帯も付き、そこには、舞台となった京都の丸善の昭和初期の写真もあって、たくさん出ている『檸檬』の中でもこの一冊が特におすすめ。
とても好きな作家
2020/01/30 22:42
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すねよし - この投稿者のレビュー一覧を見る
クイズで書き出しを聞いて題名を答えるといったときに耳にしたのが檸檬という作品。えたいの知れない不吉な〜という特徴的な書き出しを聞き、その部分だけに魅入ってしまい購入を決断。読み応えが十分であった。
収録作品の中では檸檬、櫻の樹の下には、ある崖上の感情が好きな作品である。
優しい日常
2019/02/10 22:12
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きょん - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校生のころだったか、檸檬と言う作品を教科書で読んで、梶井基次郎の文体を読みやすく感じました。今、読むと、注釈が必要に感じる箇所がありますが、ふとした日々のひとこまを切り取って、自分の内なる感情をとても静かに書いています。特に若い世代に1度は読んで欲しい作品です。
濃厚
2018/06/11 11:41
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:L - この投稿者のレビュー一覧を見る
『檸檬』を読みたくて手に取りました。本当に短い作品ですが、中身の濃い作品だなと思いました。一度では不十分なので何度も読んで消化したいです。
超絶技巧的音感私小説
2003/11/27 17:23
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:脇博道 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ああ著者は齢31にして天に昇りたるも他に比類を観ない超絶技巧的
短編群は現在においてもこの地上において光芒を放っているとは文学
における業の深さの典型といえるのであるしたった8ぺーじにも満た
ない檸檬におけるかたるしすの浄化の記述は幾度読み返してもすさま
じい速度に満ちた起承転結の展開において小生の精神の中に沈澱して
いるすとれすらしき事どもをものの見事に粉砕してくれる強度を持つ
途方もない創造力に満ちた強度を有する記述に満ちているのであるが
続く城のある町にてにおいてはその美しき詩情性においてまた異なっ
た感慨を感じさせてくれる訳で言語の調律師としての著者のおそるべ
き力量を抱きながら読み進むほかないのであるが桜の樹の下にはにお
いてはいささか著者の深すぎる創造力の前にやや戦慄を覚えながら続
く器楽的幻覚においても前者に勝るとも劣らない壮絶な描写に更に感
銘を受けている暇もなく蒼穹に至ってはついに闇という一語によって
強烈な一撃を受けたかのごとく茫然となるほかないのであるがここで
読む事を中断しては本書を手に取った甲斐もなくなってしまうことを
肝に銘じつつある崖下の感情ああこの短編も気詰まりな描写に満ちて
はいるものの通底音として流れている音感は少しながらも鎮静的な気
持ちを感じさせてくれるのに充分な美しい言語に満たされている訳で
あるが小生の読みの甘さにまたもや一撃を加えるがごとき傑作闇の絵
巻に至れば著者がこのような速度と強度を有したすさまじき短編おそ
らく本作は日本短編文学史上十指に入る傑作であることは疑いもない
事実と思われるのであるしこのような幻想を自家薬籠とする力量には
またもや舌を巻きつつこの短編を元とする長篇小説を書き上げる事が
もし可能であったとすれば日本文学史上に燦然と輝く傑作が生成され
たであろうという感慨と詠嘆を同時に感じつつ最後ののんきな患者に
至ればもはや境地と機智に富んだこの短編をゆっくりと読了したあと
においてはすべては夢のごとく人生を超高速で生き抜いた著者への深
い深い畏敬の念をただただ抱くのみである。
色や感情の描写が印象的。
2015/07/27 23:21
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オオバロニア - この投稿者のレビュー一覧を見る
有名な表題作「檸檬」を収録した短編集です。
私は万城目学さんの作品を通してこの作家さんを知りました。その時に知った短編「檸檬」が読みたくて手に取ったのがこの短編集です。そしてこの短編集の中で一番好きな作品は結局「檸檬」でした。色や感情の描写が良いアクセントになっていて、暗い作風の中にもはっとさせられるような気がしました。
きめ細かくも大胆な描写。
2002/07/16 19:47
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:凛珠 - この投稿者のレビュー一覧を見る
とにかく描写がきめ細かく、美しいながらもリアリティーがある。檸檬は勿論、闇や光、月、蝉、蠅、……全てが目に見える。音も感じられる。自分自身が作中の世界を歩いているかのようだ。作品として読むだけでなく、文章修行の手本にもなると思う。作中には病んだ梶井の死への嫌悪感も感じられ、憂鬱さと健全さが混じり合っている。
梶井基次郎といえば、作品の雰囲気や夭折の作家というイメージと顔が一致しない作家として有名だが、解説を読んで彼が放蕩無頼の生活を送っていたこともあったと知った。昔の社会構造を考えると放蕩者は絶対に好きになれないが、作品は読んで損は無い。
誤魔化しのきかない緊張感を味わう
2001/02/13 01:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読ん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1901年、20世紀の幕開けとともに産声をあげた梶井基次郎の作品を、21世紀の幕開けである2001年に手に取ってみた。変わらぬもの、変わり果てたもの、色々を感じることができた。
表題作『檸檬』他19篇の短篇が収められている。
基次郎は31歳という若さでこの世を去った人である。命のともし火がユラユラとあやしいものになったがゆえ、また桁外れの感受性の強さゆえ、あるいは空想癖ゆえに綴られる文章は、それらを持ち得ない読み手にとっても特製のメガネをかけて自然や人の心を覗かせてもらえる新鮮なものと映るような気がする。
私も特製メガネなしに基次郎のようになりたいなぁと願った。
基次郎の作品を読んで、ねたましさすら感じた部分は「月光」や「闇」を扱ったものだった。月の光に照らされてできる影だとか、月の光も届かぬ闇の描写を読む時に妬みを感じてしまう。
今の世の中、「今日は月が出ているから明るいわ」などという状況は皆無といってよいだろう。郊外にキャンプを楽しみに行ったところで、キャンプ場には適切な間隔を置いて電燈がともされている。また、電燈も届かない闇に存在することは、真の闇を体験する以前に「もしかしたらいるかもしれない人」に対する恐怖を体験してしまう。闇と対等することはかなわない世の中なのだとつくづく感じた。
余談になるが、先日京都に遊びに行った時に、『檸檬』の主人公がレモンを買ったとされる寺町にある果物屋さんの前を通ることができた。ごくごく普通のお店だったが、私にとっては『檸檬』の主人公がレモンを買って、それを懐に入れては取り出して光に透かしたり、匂いを嗅いだりしながら丸善へと向かう様子が浮んできた。嬉しい経験だった。
私が古いものを読む時は、その「時代」を楽しみに読む部分もかなりあるのだなぁと改めて知った。また、古いものは奇抜なストーリー展開などは期待できないのだが、自分が外的にも内的にも弱ったときにかなりの助けとなってくれる…と、思っている。だから、予防線を張るような気持ちで読んでいる。消極的ではあるが。