投稿元:
レビューを見る
自分はリョーヴィンとキティの筋がメインプロットで、アンナはサブプロットな感覚で読んだ。まあ、アンナの筋の方が心理劇としては鬼気迫るけど、それがメインだと重いから。
いづれにしろ、社会に生きる人々の様々な行為や決定にまつわる心理が細密に書かれていて、素晴らしい名作だと思った。今も昔も社会や人間の大枠は変わらないもんだな。
人はひとりでは生きていけない。それで、社会と折り合いをつけ、社会性を持って生きることへの葛藤と救い。そしてまた疑い。ライフゴーズオンで物語は続いていく。
投稿元:
レビューを見る
2008.11
やはりアンナとヴロンスキーには好感を持てない。幸福→不幸への転落も、あの壮絶なラストも、自業自得としか思えない。特にヴロンスキーは、最初どれだけキティを苦しませたことか。
投稿元:
レビューを見る
まさかアンナが自殺してしまうとは。
そこに至るにあたってのアンナの壊れぶりが凄まじい。ここまで自殺者の心境に迫ったトルストイは、物凄く追い詰められたのではないかと思う。目に映るすべてが「負」としてしか捉えられなくなり、すべてが厭世を引き起こし、自己嫌悪の対象になるアンナ。環境がプロセスを作り上げて結果に至るのではなくて、「自殺」という結果ありきで、そこに至ることを目的にプロセスが意識的にゆがめられていく恐ろしさ。「死が明らかに生き生きと彼女の脳裏に浮かび上がった。死こそ彼の心に自分への愛情をよみがえらせ、彼を罰し、自分の心に住み着いた悪霊との間に行われていた戦いに勝つための、唯一の手段」という文を読んだとき、あぁ…振り切れてしまったな、と思った。私も、こういう心境になったことはある。私が死ぬことで、後悔している人たちを見て思い知らせてやりたい、という自分勝手な願望。自己愛の極地。しかしそれを実行に移すには、死ぬには、自己愛が強すぎてできない、それが「普通」。しかしアンナは違った。「いいえ、おまえなんかに私を苦しめさせてなんかおかないわ」と、自分でもなくヴロンスキーでもない、運命(神ともいえるか)に対して好戦的になってしまう。それほどに、自分の運命を理不尽に思ったのだろう。無理もない。私がもしアンナの立場だったら、自己実現のためにすべてを擲った先に破滅しかなかったとしたら…考えられないほどに恐ろしい状況だ。
対して描かれてきたリョーヴィンが、最後に悟り(?)に至るまでは感動的だった。リョーヴィンは農業の話ばっかりでつまんない男だな、と思ってたけど(笑)、今ではとても好きな人物。彼はいつだって自分に正直なのだ。そこはアンナと同じだとも言える。現に彼は、宗教(キリスト教)と人生というものを考えながら、すべてのしがらみから逃れるには死を選択するしかない、という考えに一度は至ったのだし。それでも彼は生き続けた。それは彼がアンナとは違い、「リアル」を生きていたから。もっといえば、「リアル」からは逃げることができなかったから。アンナは現実を棄て、愛情の物語のなかに没入した結果、理想どおりの結末を得られないことで混乱してしまった。対してリョーヴィンは、どんなに悩んでも、追い詰められても、地主としての仕事を毎日こなし、家族と顔を合わせ、その場その場で生きていかなければならない。大事を成すという理想(アンナでいえば「愛情の物語」のなかに生き続けるという理想)にばかり耽ってはいられなかった。最終的に、リョーヴィンは、宗教と現実の折衝点を「善」に見つけ(性善説?)落ち着いて、この話は幕を閉じる。
解説でも何度も触れられていたが、この小説は、タイトルは「アンナ・カレーニナ」だが、「リアル」な社会に生きるリョーヴィンとの対比をもってこそアンナの物語が活きてくることを考えれば、リョーヴィンの存在意義がとても大きい。ヴロンスキーが社会で泳ぎ始めて男性=「社会人」として活躍し始めたことでアンナとの関係が崩れていったのからもわかるように、男女の思想の差異も引き立てられている。ここでは語りつくせないほど壮大な大河小���だった。
ひとつ、学んだのは、「勘違いの符合」の面白さと恐ろしさ、かな。お互い違う思考体系でもって考えているのに、リアクションが同じであることでなにかピタっとはまるようなある種の幸福な関係になるのだけれども、あくまで思考体系は違うので、そのプロセスの違いが別の事象を前にしたときに浮き彫りになっていく、というのか…うまく言えないんだけれど。同じポイントで笑っても、そのポイントを獲得した背景には違いがある。いかにうまく勘違いし続けられる同士かが、関係を持続させるコツなのかしらん。とか、思った。アンナとヴロンスキーしかり、リョーヴィンとキティしかり、ね。
古典新訳じゃなかったら、この時期に読んでなかったかも。愛・男女について考えることの多いこの半年間に読めたことに感謝。ますますこのレーベルが好きになった。
投稿元:
レビューを見る
アンナの最期は壮絶でした。
自殺する人ってあぁいう感じなのかな。
やっぱり後味はあまりよろしくなく。
個人的にはそんなに感情移入できませんでした。
疲れたー。
投稿元:
レビューを見る
トルストイの長編小説。非常に文量の長い作品であるが、大変読み応えがあり、さすがは世界の大文豪、と舌を巻いた。
正直、ドストエフスキーやら何やらこの手の世界文学的古典には手も触れたことがなかったが、本作品を読み、その凄みをありありと感じた。これを皮切りに世界文学の世界に足を踏み入れていきたい。
* * *
本長編作品に、登場する二人(男女)の主人公、アンナとリョービン、時に二人は光となり闇となり、同じロシアを舞台としながら、全く別の世界をパラレルに生きていく。
アンナとリョービン、この二人に共通する点は、「自分を偽れない」という点だと思う。ある意味とても純粋素直で、そのため通俗社会から、どうしても逸脱していってしまう二人。それでも本当の生き方や愛や信仰を摸索しながら、闘い、傷つき、心を膨らませる姿は似ている。
アンナは、本当の愛を求めた。リョービンは本当の生き方、といったところだろうか。
この愛すべき二人の主人公の顛末、明暗を分けたのは、アンナの生き方が自己愛に満たされていったのに対して、リョービンは無私の精神に満たされていった点にある。また作品の解説にもあるように、アンナが一元的に、リョービンが多元的に生きることとなり、結果、アンナの世界が破綻していった、というのにも納得ができる。
トルストイの本作品、19世紀を生きた若者の恋愛をテーマとしながら、社会全体を描いた作品の圧倒的スケール、かつ一人一人のキャラクターの内面世界の繊細な動きを捉えていて、よく一人の作家がここまで人間を描けるものだ、と感嘆した。
人間の心の中の矛盾や葛藤をよく捉えている。そして読者にとってあまり理解できないような難解な比喩表現などに逃げない点も好感が持てた。
投稿元:
レビューを見る
ブロンスキーとの愛に生きようとしながらも、苦悩し、葛藤するアンナ――。『アンナ・カレーニナ』完結編。
随分前に読み終わっていたのだけれど、卒論に気を取られていたせいもあって、感想を書くのが遅くなってしまった。
読み終えたときの感慨をすっかり忘れてしまったことに、自分が一番がっかりしているところ・・・。やはり、感想は本を読んだらすぐ書かなくてはいけませんね。
とはいえ、『アンナ・カレーニナ』は凄い小説であった。これは多分、間違いないと思う。
ストーリーだけを見ると、全巻読み終わった今、納得のいかないところも多々ある。
特にアンナのラストには、やりきれない気持ちが残った。こういう終わり方なのか、絶望した人間の行く末としてこれが選ばれたのか、と思うと憤慨にも似た気持ちが湧く。
リョーヴィンの心情も、結局はよくわからなかった。彼は地主貴族という階級も、美しく聡明な妻も持っているのに、なぜそこまで自分の存在意義について悩み続けることができるのだろう?
それが悪いというのではない。しかし、私は人間というのは、日常生活で満ち足りているのに、その日常と同時に自分の存在意義について考えられるほど、タフな生き物だとは思えないのである。
だから、それだけ素晴らしい環境を手にしているリョーヴィンが、そんな日々の生活をこなしながらも、抽象的なことを考え続けられるだけのそのエネルギーの源が一体何なのか、最後までわからなかったのだ。
では何が素晴らしかったのか。何がこの小説を輝かせ、また人を引き付ける力となっているのか。
私はそれを、「生きることへの確信のなさ」だと思った。
今生きていること、自分が自分だけの人生を歩んでいること。その圧倒的な現実にしかし、誰一人確信を持って生きているわけではないこと。
トルストイがこの物語で描いたのは、この「自分の人生が思い通りにいかないことに戸惑い続ける私」なのではないか、と私は思ったのである。
これは恐ろしいことだ。自分で自分がわからないということ、人生は自分の思い通りには進まないということ、生きていく限り、自分は後悔を重ねるであろうということ。
それはつまり、絶望のことではないか。
しかし違うのである。個人にとってはそれは確かに絶望かもしれない。だが、周りの人間から見れば、それはあまりにも当たり前のことなのだ。
私達は天才というのが滅多にいない、ほとんどいない、ということを知っている。もしかしたら、天才と呼べるような人物を一人も知らないまま、人生を終えるかもしれない。けれどそれで「ああ、私は天才に出会うことなく人生を終えてしまった」と後悔する人はいないだろう。しかし、いつでも自分に何かしらの才能があればいいな、と人は誰しも思っているのだ。
要するに、それと同じことなのである。自分の人生が思い通りにはいかない、ということは当たり前のことで、他人がそんなことで嘆いていたってなんとも思わない。
しかし、どこかで自分の人生は、自分の思い通りにできるという思い込みが、私達にはある。まるで、実は何か自分��は隠れた才能があるのではないか、と思うように。しかし、そんなことはほぼない。けれどその不思議な思い込みは消えない。だから、いざ自分の思い通りにことが運ばないとなると、絶望的な気持ちになるのである。
だからこの物語のヒロインであるアンナは、読者からすると「わがままだなぁ」と映るのかもしれない。絶望絶望って、それはあなたがわがまま言ってるからでしょ、となるのかもしれない。
本人にとっては地獄、しかし周囲の人間から見ればただの日常の一部。その極限とも言える状況を、誰の手にもゆだねることなく、登場人物に誰一人として確信を抱かせることもなく、冷酷なまでの寛大さで持って描かれたのが、この『アンナ・カレーニナ』なのかもしれない。
トルストイは恐ろしい人だなぁ。これだけ長い物語で、最後の最後まで「確信」を描かなかった彼の筆力、そして精神は驚嘆に値する。
そう、人生にゴールなんてものはない。どこからでもが始まりで、どこまでもが自由なのだ。
なんと茫漠とした世界。
まるで、広い宇宙に身ひとつで投げ出されたような。
私達はどこまででも赤ん坊で、どこまででも年を取れるのである。
余談なのだが、私がこの『アンナ・カレーニナ』を読み終わったのは、トルストイの没後100年から2日前だったため、読み終わったすぐあとにトルストイの記事をいっぱい見ることができた。タイムリーで、ちょっとうれしかった。
投稿元:
レビューを見る
もしキティがアンナの人生を見届けなければ、キティもアンナのような人生を選んでしまったかもしれないし、リョービンがヴェロンスキーの人生を見ていなければ、リョービンもヴェロンスキーのようになっていたのかもしれないな。
アンナ自身、リョービンとヴェロンスキーが同じであると見抜いていた通り。キティも無意識にそれは感じていたはずだ。
人間は基本的には過去から学ばない生き物だとおもう。
過去から学ぼうとするには、周りの人間の強烈な死を目の当たりにするくらいの現実的視野が必要なんだろうね。
人間の生き方は凄くシンプルなんだろうけど、シンプルに生きるのは、とても難しく感じる。
なぜなら理性があるから。
考える、という行為がある限り、シンプルなものをあえて難しくしてしまう。
苦悩から解放されたアンナが幸福であり、戦争にいく決心をした迷いなきヴェロンスキーが幸福であり、これからたくさんの苦悩迷いを味わうリョービンとキティが不幸だと考えてしまう自分は、やはり考えてしまうから自分は人生を難しくしている人間なんだと思う。
投稿元:
レビューを見る
面白かった。当時のロシアの社会情勢(多分)と登場人物の恋愛物語がうまくからみあった,いろんな物がたっぷり詰まった話でした。アンナの心情の分析は,すごくリアルなところも興味深かったです。それにしても,やっぱり,アンナの話の結末はあーなってしまうのね。
投稿元:
レビューを見る
非常に恥ずかしながら、21年の生涯初のロシア文学。
心のどこかで、いつかは触れるべきだと思っていながら漸く今回、読み終えることが出来た。
今までの他の作品であれば、読み終えたあとは何らかの気持ちに加えて、読み終えたという達成感のようなものを感じていた。
しかし今回は違う。
達成感も感じてはいたが、それ以上に「もうこの作品の世界を味わうことはできない」といった寂しさを感じた。
本作「アンナ・カレーニナ」を読むにつれ、アンナ、リョーヴィン、オブロンスキー、キティ・・・といった登場人物たちが私の日常生活の一部となっていった。
彼らと共に過ごした時間をもうこれ以上共有できないと考えると、やはり寂しさが表に出てきてしまう。
作品世界に関しての議論は私は専門家でも何でもないので、触れるべきではないが、少なくとも、この作品が人間のあらゆる側面を描き出しているということは断言できる。
本当にこれが、時代も場所も違う1870年代ロシアを舞台にして描かれていたのかと見紛うくらい、人間という生き物の中にある不変な本質を私に伝えてくれたと感じている。
我々は恋をする。
しかし恋敗れれば悲しみもするし、時によっては自分を捨てた相手を憎むこともあるかも知れない。
自分が愛していると思っている人が他の誰かを好きになる。
当然嫉妬も起こるだろう。
時代の流れの中で、以前は順風満帆であった事業に陰りが見られることもあるかもしれない。
自分の子供が出来れば、あれやこれやと自分がしたいと思っていることを子供に託すこともあるかもしれない。
このようなごくありふれた日常の様子・感情が実に細かく描写されている。
内容の充実度も勿論のこと、表現の観点からも、私はこの作品が「Masterpiece」であることを心から感じている。
投稿元:
レビューを見る
これは愛の物語だったんだなというのが、読了後に出てきた感想。それはミクロ的には恋愛や結婚、家庭などを扱いながらもその副産物としての嫉妬や不倫といった側面も描き出し、そしてマクロ的には祖国愛や政治芸術を取り上げなら、最後には宗教愛へと結実させる。いずれにせよ、そうした抽象的観念は地に足の付いた、つまり日々の生活の中から見い出していくものなんだろう。だからこそアンナの最後は悲劇的になり、リョーヴィンの生活は続いていった。例え思想無き行動が存在するとしても、生活に基づかない思想が存在することは不可能なのだ。
投稿元:
レビューを見る
本・映画含めて初めてこの作品に触れた。
多くの登場人物の人生、19世紀のロシア社会が見れておもしろかった。
解説によるとアンナのパートの方が人気があるらしいが、私はリョービンの方がおもしろかった。現代にも通じる生活・悩み・考え方。
この2人に限らず、皆さん悩み満載で、自分の置かれた状況への悩みがつきないのはどの時代でもどの社会でも同じなのだと、おかしくなった。
投稿元:
レビューを見る
アンナの他人からみた時の美しさの描写、猟の描写、リョーヴィンキティの掛け合い、リョーヴィンの最期の悟りの部分、特に良かった。ありとあらゆるテーマが緻密に書き込まれていていながらわかりやすいダブルプロットでとても読みやすく☆5を付けざるをえない。とても楽しかった。
投稿元:
レビューを見る
さすがに4冊の大作となると、話が横に大きく広がりすぎてそれを全部追うのはつらいときもあったが、この終わり方に作者の新しい小説を模索する姿が感じられる。ところで、アンナ役にキーラ・ナイトレイはそぐわないと思う‥‥
投稿元:
レビューを見る
ロシア文学に早く出会えなかったことに
本当に損をしたな、と感じました。
人生における事柄が網羅されています。
恋、苦悩がそこに。
確かにアンナのとった行動は
世間一般では相容れられない行為です。
だけれどもそれを頭ごなしに批判することは
出来ないと思います。
誰しも、アンナほどではないですが
大きい、小さいに関わらず
道に外れてしまう、というのは
少なからずありますので。
目先の出来事からの逃避も
その1つかと思いますので。
そしてリョーヴィンに関して。
彼の苦悩も本当に分かります。
でも、それに気づいたのは
大きな成功ですね。
投稿元:
レビューを見る
アンナは結局、ヴロンスキーというより自分自身の思考と戦っているように思える。
何が彼女をそこまで追い詰めたんだろう。