純粋理性批判 6
第6巻は「超越論的な弁証論」の第三章「純粋理性の理想」を扱う。ここでは神の現実存在の議論が検討され、デカルト以来の伝統的な近代哲学の神の存在証明が分類され、すべて批判され...
純粋理性批判 6
商品説明
第6巻は「超越論的な弁証論」の第三章「純粋理性の理想」を扱う。ここでは神の現実存在の議論が検討され、デカルト以来の伝統的な近代哲学の神の存在証明が分類され、すべて批判される。そしてこの存在証明に基づく神学の考察と批判が展開されることになる。存在が証明できない理念としての神を、なぜ理性は作りあげたのか? なぜ必要としたのか? 理性にとってどう役立つのか? 超越論的な弁証論の最後の難関に挑む。
著者紹介
カント
- 略歴
- 1724~1804年。東プロシア生まれ。哲学者。ケーニヒスベルク大学哲学教授を務めた。著書に「純粋理性批判」など。
中山 元(訳)
- 略歴
- 1949年東京生まれ。東京大学教養学部中退。哲学者・翻訳家。著書に「フーコー生権力と統治性」「思考の用語辞典」「正義論の名著」など。
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ホーキング博士はなんと言うだろう...
2012/04/30 18:43
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
カントの『純粋理性批判』を、話題の光文社「古典新訳」シリーズで読んでみた。他の版、たとえば岩波文庫では3冊本だが、この版は全7冊。なんと各冊の半分近くが解説にあてられているのだ。難しい箇所も、オーソドックスでわかりやすいこの解説を読むと、なるほどと納得できることが多い。
訳そのものも読みやすい。原文において言葉が足りず不明瞭と思われる箇所には、かぎ括弧で語句を補っている。それまで「悟性」とされていたものを、「知性」と訳すなど、訳語の選択もかなり大胆である。
西洋哲学の日本語訳は、概して難解である。もちろん、もとが難解なものだから、それを簡単に、すらすら頭に入るように訳すことは不可能である。しかし、原文の言語を話す人にとっては日常的な言葉が、日本語になると途端に衒学的で難解な哲学用語に様変わりしまうということが、西洋哲学、特にドイツ近現代の哲学書には多い。そんな中、わかりやすく自然な日本語を心がけたこの光文社の新訳は、現代も大きな影響を人類の知性にあたえ続ける哲学者の思想をわが国民に啓蒙するうえで、画期的な書といえよう。
それぞれの巻についての書評は控えるが、神の存在証明を論じたこの第6冊(「超越的な弁証論」第3章「純粋理性の理想」)については、思うところを述べてみたい。
カントは、古来西洋哲学において行われてきた神の存在証明-自然神学的な証明、宇宙論的な証明、存在論的な証明の三つに分類できる―は、どれも根拠のないものと論駁する。つまり、神とはその存在が証明できないものなのである。なぜか。その理由をひとことで言うなら、神は理性のおよばない領域に存在し、理性にはその「存在」を把握できないからである。神はただ「理念」として把握できるのみである。
これは、神が存在しないことの証明ではなく、神の存在が証明できないことの証明である。カントはまた、この批判をもとに、無神論―つまり神が存在しないという主張も誤りであると論じる。神の存在が証明不可能である以上、神がいないことも証明できないというわけである。
カントにとって神とは、世界の外にあってそれを統一する理念のようなものである。彼は自然科学者の理性のうちにも、世界を超えた理念は想定されていると述べる。すなわち自然科学においてわれわれが追い求めている「原理」や「本質」がそれである。これらの理念は、それ自体決して把握されないため、その存在を証明することはできないが、一種の憧れとして常にわれわれのうちに存在している。神もこのような理念の一つ―それも最高の―であるというのが、カントの考えのようだ。
ところで、世界的な物理学者S・ホーキング博士が「天国も死後の世界も存在しない、それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」、「宇宙誕生に神は不要」などと述べて、ちょっとした論議をまきおこしたことは記憶に新しい。博士は、宇宙の果てまで見据えた膨大な理論を確立した、自然界についてはわれわれよりはるかに多くのことを知っている人である。しかし、自然科学においてその存在が確認できず、その必然性も認められないという理由で、神やあの世の存在を否定するのは、科学者らしからぬ態度だと私は思う。むしろカントの言うように、自分が対象としているものは、世界の内側に存在する現象なのだから、それを越えたところに存在するものについては、何も知らないとして口をつぐむのが、理性的な人間としての誠実な態度ではないか。博士がカントを読んだことがあるかどうかはわからないが、この点について意見を聞きたい気もする。
カントの「実体論的証明」、「宇宙論的証明」、「自然神学的証明」が説かれます!
2020/05/08 11:20
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、18世紀のドイツにおける偉大な哲学者イマヌエル・カントが著した有名な哲学大書の一つで、そこには人間的認識能力とその制約及びアンチノミー(二律背反)について説かれています。光文社古典新訳文庫は、全7巻シリーズで刊行されており、同書はその6巻目です。同書では、いよいよカントによる第三類の弁証的推論が展開されます。これは、単なる先験的概念からすれば知られることがない諸物から一切存在体の存在体を推論する純粋理性の理想であるとされ、「実体論的証明」、「宇宙論的証明」、「自然神学的証明」の三つからなるとされています。そして、これらの証明は、概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明に帰着され、神の概念は矛盾を含まないため、その存在の不可能性は先天的には証明されないとしています。