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投稿者:ま - この投稿者のレビュー一覧を見る
ワーニャ伯父さん、三人姉妹の二編が収録されています。二作とも人生に絶望を感じながらも生き続けていかなければならない苦しさが訴えられています。読んでいてとても切なくつらいのですが、未来を信じてつらくても生きていく決意にとても心を打たれます。劇中では通じ合わない一方通行の会話ばかりなのですが、ある種リアルなやり取りです。読んでいてつらいのですが、何度も読み返しています。
チェーホフ読もうぜ!
2009/08/26 14:16
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投稿者:K・I - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、僕の中でチェーホフを読むことが流行っている。『チェーホフ・ユモレスカ』から始まって、ちくま文庫の『チェーホフ全集12 シベリアの旅・サハリン島』、『チェーホフ短篇集』。(ちなみに、『チェーホフ全集12』については、ビーケーワンではなく、筑摩書房のサイトに短い感想を送った。)
これには村上春樹『1Q84』の効果もあるだろう。それがなかったら、『チェーホフ全集12』は増刷されなかったのだし(長い間品切れだった)、僕も読むことはなかっただろう。
『チェーホフ短篇集』は今、読んでいる最中。ある作品を読んで、うずうずして自分で小説を書きたくなって、短編を書いて、ある新人賞に送った。触発されたのだ。
刊行の順番から言えば、この『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』は『チェーホフ短篇集』よりも前だ。ただ、お金の問題と、戯曲というもののとっつくにくさがあって、手が出なかった。しかし、機会があって読み始めてみた。
イプセンの『幽霊』と比べると、登場人物の数も多いし、設定も複雑だ。いくぶん読みにくい。誰が誰だったのか、名前と紹介のページに常に指を挟みながら、「ああ、この台詞はこの人の奥さんか」とか、「ああ、この人はこの人と先妻の娘なのか」とかいちいち確認しながら読んでいく。
この本は訳者解説が丁寧に書かれているので、僕の書きたかったことはだいたいそこに書かれてしまっている。つまり、「中年」というものについて。特に「ワーニャ伯父さん」の中の「ワーニャ」の叫びなど、痛切だ。僕は今、26歳だが、もう決して若くはない。四捨五入すれば30だ。「中年」に確実に近づいている。
チェーホフの戯曲は初めて読んだが、救いがない。喜劇的な要素もあるのだが、喜劇か悲劇かと問われれば、悲劇だろう。これも訳者解説に書いてあるのだが、たしかに両作品とも「閉ざされた空間」というものの息苦しさが伝わってくる。
『チェーホフ・ユモレスカ』、『チェーホフ全集12』、『チェーホフ短篇集』の訳者は松下裕氏である。それに対して本書の訳者は浦雅春氏である。訳者解説を読んでいて思ったのだが、どうも両者のチェーホフ像というものはいくぶん食い違っている。
松下氏のチェーホフ像、というのは医者としての科学的な知見を持ちながら、ロシア社会の各階層に満遍なく視線を注ぎ、それを短編や戯曲にしていった、どちらかといえば、「あたたかいチェーホフ」。それに対して、浦氏のチェーホフ像は「非情なチェーホフ」。あたたかみや人生に対する前向きな希望といったのもを無化しようとするチェーホフ像。
両者のチェーホフ像の違いはあるいは、僕が読んできた作品のせいかもしれない。『チェーホフ・ユモレスカ』はまだ若い頃のチェーホフの「超短編」集だ。それに対して、この本の戯曲は中年に差し掛かったチェーホフの作品だ。つまり、チェーホフ自身が中年になることで、作品が変わっていったのではないか?ということ。
でも、少し考えると、どうやら違うらしい。松下氏は筑摩書房から『チェーホフ全集』を出している。そこには戯曲だって含まれている。また、浦氏はチェーホフを中心としたロシア文学が専門だ、とこの本の紹介に書いてある。つまり、両者のチェーホフ像の違いは、僕の読んできた本による違いではなく、もっと本質的な理解の仕方の違いなのだろう。
一読者としては、少しとまどってしまうが、しかし、一人の作家に対して一つのイメージしかない、というのも貧しいことかもしれない。ただ、個人的には松下氏の「あたたかいチェーホフ像」が好きだ。もちろん、『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』に本質的には救いはないのだけれど、しかし、「生きていかなければならない」という義務にも似た人生に対する姿勢は両作品に横溢している。それは死者と接する機会の多かったであろう医者としてのチェーホフの人生に対する姿勢だったのではないか?たしかに、「三人姉妹」では、そのあとに最後にすべてを無化するかのような台詞が付け加えられているのだが、本質は三人姉妹の叫びにあるのではないか?
個人的には少し訳者の浦氏のチェーホフ理解に共感できなかった。
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投稿者:なつめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
チェーホフの名作の新訳で、わかりやすくてよかったです。外国文学にとって、翻訳の大切さを、実感しました。
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20歳の頃、「桜の園」を読んだときには知的にとりすましたような印象しか受けなかったチェーホフだけど、年を取ったせいか、この本読んだら泣けてしょうがない。一字一句、ずきんとくる。
生きることの悲しさ、分かり合うことはない、夢は崩れさるとう痛々しい現実。その中でも、何かに希望を見つけて生きていこうとする登場人物達すべては皆孤独だ。
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初チェーホフ!
慣れると思ったよりすらすら読めて驚きでした。
ワーニャ伯父さんの方だと、最後のところが言いたかったんだなと気づき、何だか納得です。
三人姉妹:
登場人物が多くて混乱しましたが、少しだけチェーホフがわかってきたような感じがします。
辛いながらも生きていこうと思うようになっていく登場人物が悲しくもあり、希望でもあるように思いました
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ロシア文学を読むのはとても久しぶり。恐らく去年の夏頃から全く読んでいない。
実は戯曲を読むのは初めてなのだが、中でも"間"の存在が良かった。解説にも書かれてあったが、この存在は大きい。
また、出てくる主人公がみな心に闇を抱えているという点もロシアらしい。そして無駄に涙っぽく、激しやすい。
戯曲なのでこの誇張は必要かもしれない。
ただ、チェーホフの素晴らしい点はロシア文学特有の重さを見事に外した点ではないか。本を読んでいるときのイメージというものが明らかに軽い。そして明るい。
読後もけっして重い気分にはならず、むしろ爽快な気分になれたように思う。
やはり、ロシア文学は素晴らしい。
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『三人姉妹』のイリーナが、イタリア語で窓とか天井をなんていうのか思い出せない、人生は過ぎ去っていって二度と戻ってこないと嘆くところがやたら印象的で、あまりに気に入ってつい原文まで調べてしまった。『ワーニャ伯父さん』も、ワーニャが過去しなかったことについて悔やむシーンを、かなり強烈に思い出せる。どうにもならない現状と過去への後悔がひたすら目に付いて、今ですら気持ちは分かるんだけど、20年後こんなふうに閉塞感と悔恨を抱えて生きてたくはないなって思った。
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「ワーニャ伯父さん」といい「三人姉妹」といい、登場人物すべての背中が重い・・・
「ワーニャ伯父さん」ではソーニャ、ワーニャにスポットがあたり最後のコメントが強烈に記憶に残るが、ワーニャが憎んだセレブリャコフもソーニャが失恋したアーストロフも否、全ての登場人物が幸福になっていない。
「三人姉妹」も同じ。希望が絶望に変わってゆく。
しかも、最後の台詞に強引なる希望のようなコメントではなく、「それでも生きていかなくてはならない。」「私たちの人生、まだ終わりじゃないの、生きていきましょう」と残りの人生片方の翼がもぎとられもう決して飛べないのに「そのまま」生きていこうとするのだ。ロシアだから「バーン!!」とやってしまえば・・・
だが、悔いの無い人生だけではなく思いっきり悔いの残る人生、全く思い通りにならず失敗ばかりし、人に嘲笑され、尊敬されず道端で倒れ誰も助けてくれず死んだとしても「あれもそれも人生だ」と言ってくれているような気もする。
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「女三人のシベリア鉄道」にチェーホフの話が出てきたので急に読みたくなったのだけど、やっぱりわたしは戯曲って苦手みたいだ。戯曲はセリフを言うように読み、行間を読まなくては、と思うんだけど、どうしても普段の癖でストーリーを追うようにざざーっと雑に読んでしまって。
だから、単に、背景がよくわからず、登場人物の対話はかみ合わず、なんかわけわかんないなー、という。
解説を読んで少しわかった。
人生に意味はないけど生きなくてはー(大雑把すぎ)、みたいなチェーホフの非情さには共感したりするのだけれど。
この年になると、もう人生やり直せないし、未来はむなしくても生きるしかない、っていうワーニャ伯父さんの気持ちもよくわかるのだけれど。
それにしても、フツーに読むと、みんな勝手にぐだぐだめそめそ不満を言いすぎだ(笑)。
関係ないけど、
チェーホフの思い出。
・小学校高学年のころ、三人姉妹とか桜の園っていうかわいらしげな題名にまどわされて読んでみたら、まーーーったく意味わからなかった。でも、図書の先生だかなんだかに、もうこんな大人っぽいものを読むのね、とか言われて困った。
・25年くらいも前、芝居をさんざん見ていたころ、青山円形劇場で日本人の小劇場の俳優さんたちが出ていた(と思う)チェーホフのなにかを見て、すごくおもしろかった。
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閉塞感がすごい。当時の体制とか天候とかに由来するのかなぁ。希望がゆっくりと絶望にかわる。それでも人は生きていくんだ。と。その理由が次の世代のため、死後のためってのが文化のちがいなのかなんなのか。
ロシアに関する知識が浅いのが悔やまれる。
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明るい未来が待っている。いまはこんなに苦しくて大変でも…
明るい感じで始まったのに、いつの間にか絶望になっていく。まさに悲劇にして喜劇のおはなし。
姉妹たちの最後のセリフは、深みがあり、生きて行きたいという思いがすごい伝わります。
もう一度がんばる気持ちをくれる作品です。
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「野田ともうします。」の最新巻を読んでいたら「ワーニャ伯父さん」が出てきた。そしてなんとなくチェーホフが読みたくなる。
たとえ劇的なことが人生に起こらないとしても、それでも日々を生きていかなければならない。なんら平凡な日々を過ごすには人生は長すぎる、ということなのか。今回チェーホフの年譜を見ていて、かなり若くして亡くなっている(44歳)ことに改めて驚いた。どこか達観したような人生観をかなり早い時期に身につけたのか。もしくはチェーホフが濃密な人生を送ったということなのか。
外国文学ではどの作家が好き、というのをあまりちゃんと考えたことがなかったけど、チェーホフは好き(あるいは好きになりそう)な作家という気持ちが今になって起こってきている。
神西訳を実家に置いてきたので、そのうち取りに行こう。
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中年文学かぁ……さすがによくわかりませんね。
ワーニャ伯父さんやチェブトゥイキンみたいに、「未来がない!」と絶望する人はチェーホフ戯曲には欠かせないのだろうか。こういう人物をどう見なせばいいのか扱いに困る。無駄口ばかり叩いて自分を嘆いているだけで何の役にも立ちァしない……けどそれが中年の閉塞感であるといわれれば、そうなのかもしれない。わかりません。
「三人姉妹」で飽きるほど出てくるけれど、今の自分たちは最悪極まる生活だけれど200年、300年後には幸せを体現する人々が生れてくるだろう、今できるのは働くこと、とかく働くことはいいことだといった思想は、これ当時のロシアで流行ってたのだろうか。読んでないけどゴーリキイの「どん底」にも同じようなことが書かれているみたいだし。
時代背景としては農奴解放令のあとで、貴族階級の三人姉妹のうちふたりは既に働いていてイリーナも職を得たところで…しかしモスクワとは何を意味するのだろう? 「かもめ」も「ワーニャ伯父さん」も「三人姉妹」も舞台は田舎でみんな口を揃えて「田舎ヤダ田舎ヤダ」と絶望しているけれど、その「ヤダさ加減」を想像するのにどうも知識が足りんようだ。
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中年の文学、そして、中心のない展開、登場人物のコミュニケーション、独り言。チェーホフの戯曲にいつも漂う空気感。
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2016年1月の課題本でした。
http://www.nekomachi-club.com/
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若い姪と二人、都会暮らしの教授に仕送りしてきた生活。だが教授は…。棒に振った人生への後悔の念にさいなまれる「ワーニャ伯父さん」。モスクワへの帰郷を夢見ながら、次第に出口のない現実に追い込まれていく「三人姉妹」。生きていくことの悲劇を描いたチェーホフの傑作戯曲二編。
(「BOOK」データベースより)