ロバート・キャンベル氏の村上春樹氏論、純文学論はとても面白かった
2021/11/24 21:54
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
沼野先生が、リービ英雄氏、平野啓一郎氏、ロバート・キャンベル氏、亀山郁夫氏らと対談している、とくにロバート・キャンベル氏の村上春樹氏論、純文学論はとても面白かった。
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311以降の文学について書かれている「おわりに」に共感。日本文学の役割は今後とても大きな意味が出てくると思う。編者はポーランドのノーベル文学賞受賞詩人シンボルスカの翻訳者でもある沼野氏。彼の視点、思考、そして言葉は深みがあり好感が持てた。
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タイトルがいいですね!!
本当にそう思う。
ちょっと難しいかな?
でも、タイトルに唸ったら読んでみよう!
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世界から見て日本の文学は、どのような見解で読まれているのでしょうか?ときには、日頃読む文学の枠を越えて世界的な視野で日本文学や世界各国の文学を見ると新しい発見があるかもしれません。
本書は著名な方の対談形式で世界の文学について読み解くことが出来ます。また『1Q84』の著者である村上春樹さんは作家での活躍とは別に、翻訳を手がけている本も多く、一味違った作家の一面も垣間見ることが出来ます。
秋の夜長世界の文学に浸ってみてはいかがでしょう!?
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これ面白かったな~。
なんか少しだけ、視界が開けた感じ。
一番分かりやすかったのは「現代日本に甦るドストエフスキー」。今の文学がちらほら覗くのもその理由なんだけど、以前高村薫の「照柿」について自分が書いたことを後押しされたような記述を見つけて、すっかり親近感。嬉しい気持ちになった。
沼野先生は照柿の解説を書いていてそこに、「高村薫は現代のドストエフスキーである」と書いたんだそうです。本書では「照柿におけるベアリング工場の生産現場とか(中略)描写の徹底はすさまじいほどで、ここまでリアリスティックに厚く書き込む作家は、世界文学を見渡してもほとんどいないのではないでしょうか」という部分。わかる~~!!
あたしが以前書いた照柿の書評(感想文)は、これ。
http://ameblo.jp/bambicapampino/entry-10457082580.html
「この上巻でも、「工場が衛生的でなく暑く、苛酷な労働条件です」ということを表現するのに何十ページと使ってある。うーん、確かに主人公の幼なじみとして、しかも極道という過去を捨ててこれだけの苛酷な場所でずっと働いていた・・という虚無感や焦りを表現するのに必要なのかもしれないが・・
昔、世界名作全集で、延々と家族構成の説明だけを読まされた某・有名な名作を思い出す。
よく、コンサルのレポートは一枚いくら、だとか何時間でいくら、だとか、完全に量で金額が決まる分野もあることは知っているが、もしかして小説も?長ければ長いほどありがたがられるの?と、少しやさぐれてきたのも本当だ。
熱くて暑い描写がえんえんと続くので、読んでいるのは真冬なのだけど、なんだか息苦しくなってきた。顔をぐいぐい、夏のむわっとした熱いコンクリートにでも押し付けられているようだ。」
沼野先生のびしっとした分析とお前の駄文を並べて語るんじゃない!と怒られそうなんだけど、いやはや読み終わったときのつかれかたが描写のすさまじい徹底にあったのかそうか!と、ひとり膝を打ったわけですよ。
ちなみにあたしの文章の特徴は、それはあたしの記憶手法にもおおいによるのだけれど、情報としてあるいは文章として物事を記憶するのではなくて、事象をそのときに感じた重力(圧力)とか色味で覚えていることがおおい。あるいは写真みたいにデザインやパターンで、べたっと覚えていることが。
昔どこかで、ある種の人は脳になんらかの変わった機能を備えていて、例えば音を味覚に置き換えたり、文章を色として知覚すると聞いたことがある。いいなぁそれ、なんておもったけれど、そこまでかっこいいものでもない。単に目カメラ状態なんだと思う。自称を記録(記憶)する際のエンコーディングがあたしの場合、テキストではなくイメージ(大きな意味での)なのではないかと思う。あたしはそれでいいと思っていたけれど、「で、そのお店の名前は?」とか「いや、雰囲気はよくわかったから住所とか覚えてないの?」などいわれてしまう。叙情的な説明は出来るのにリーダビリティのない自分が悲しいが、これもいわゆる、女性脳なんだろうか?
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グローバル化が文学にも及んでいる事を再認識させられる一冊。ロシア偏重のきらいもあるが、やはり長編の魅力を味わうには外せない。世界と日本の違いを取り払うだけでなく、近代と古典の差も取り払われる。読書欲をかきたてられる一冊。
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言語で文学を区切ってばかりでいいのか?第一線で活躍する文学研究者や作者の対話が、ことばを越境する雄大な文学世界を案内してくれます。
九州大学
ニックネーム:天神(あまがみ)ルナ
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『世界は文学でできている』
沼野充義
つまり、世界文学というのは、私が、あなたが何をどう読むのかだということなんです。突き放した言い方に聞こえるかもしれませんが、最初から与えられたリストに従って「これだけは読まなきゃ」と時部を縛りながら読むのではなく、読みたいものを夢中になって読んでいるうちに、次に読みたい本が出てきて、その結果、自分の世界が世界に向かって広がっていく、というのが本当は一番いいのでしょう。(p99)
★リストというのは目安としてあることを忘れてはならない。小学生のころ、無為に図書室で選んでいたことを思い出す。
余暇自体は増えていないにもかかわらず、エンターテイメントのジャンルは多様化しましたから、限られた時間の壮絶な奪い合いが始まって、結果、本の売上げも、テレビの視聴率も落ちることになった。読書は今、そのサバイバルの渦中に投げ込まれています。(p108)
★なるほど。現在は多様化が生んだ状況。
……純文学畑の人たちは、僕も含めて、文学はもうちょっと人間が生きる上で大きな影響を及ぼすものだ。単なる束の間の興奮ではないということを言ってきたんだと思います。(p136)
★つまりは、そういうことだろう。そう感じられるかは私たちにとって大切なことだろう。
つまり、「物語」(ストーリー)は、神話や昔話などに典型的に現れますが、さまざまな事件を生起する順番にアレンジした語りであるのに対して、「プロット」は因果関係などによってその事件を並べ替え、再構成したもので、小説家によって再構成されたプロットを読む読者は、記憶力と知性を要求されるようになる。(p138)
★難しい文章。例えば推理小説。死体から始まる。そして犯人へたどり着く。書かれる順番としては逆である。
文学というのは自分で読んで、感じて、経験して、分析して、そこから何かを得ていくという「読む」プロセスが一番基本です。だからインターネットで情報が集まるのが速くなったからといって、パソコンが自分の代わりに読んで、感じてくれるわけではない。どんな便利なメディアが出てきたところで、それを使うのは自分の頭だし、本を読むのは自分です。(p151)
★インターネットはすぐ情報を手にできる。だからもう情報の価値は昔より変わっているのではないか。今求められるのは分析したり、自分で考える能力だ。
そもそも彼らの小説は、宗教文学と呼んでもいいくらいでしょう。(p327)
★ドストエフスキーとトルストイについて。つまりキリスト教。
たとえば「いじめ」を語るにしても、いじめられる側だけに理屈があるのではなく、いじめる側にも理屈がある、という善悪の相対化と言いますか、そういった視点が出ている。(p333)
★『ヘヴン』について。善悪の相対性がこの作品にも書かれている。
『許されざる者』というのは不思議なことに、ドストエフスキー的なものとトルストイ的なものが混在している小説なんですよ。非常に贅沢な物語空間になっている。(p338)
……あれほどのことがったにもかかわらず、まあ、ほとんど普段どおりの平穏な日常を他の大部分の東京の住人と同じように送ってきたということを意味する。
しかし、あれほどのことがあったのに、文学は前と同じでいいのだろうか。世界文学の読み方も変わるべきなのだろうか。それとも変わるべきではないのだろうか。(p360)
★それは私の心にもよぎった感覚だ。結論としてイエスともノーとも分からないと述べる。
それはおそらく誤読ではなく、現代や状況を超えて生き、新たな力さえも獲得する文学の普遍的な力を示すものではないだろうか。(p370)
★震災前に書かれたものも、震災後にはその事を語っているように思える。それは誤読ではなく、「文学の普遍的な力」と述べている。なるほど。
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沼野充義「世界は文学でできている」 http://www.kotensinyaku.jp/archives/2012/01/005177.html … 読んだ。おもしろかった。対談録だけどどこかで開講された講義録らしい。対談とは言えどの回も前半は沼野充義の膨大な導入で占められるのでやや物足りないというかゲストの考えを聞きたいというか(つづく
言語と国籍と意識、文学全集の役割(もはや定番はない、とか)、日本文学/世界文学という枠組みの違和感、サリンジャーの新旧訳比較、ドストエフスキーの小説の意義、などなど。サリンジャーの訳が小説世界の成り立ちに影響しているとは考えなかった。特にゾーイーのラストは結構衝撃(つづく
「フラニーとゾーイー」は一番好きな話で、そんなに世界が違うなら積んだままの原著を読まないと、と思ったほど。編集中に例の震災が起きたとかであとがきで震災とそれ以後の世界についての思いが書かれていたけど全く無用。都内在住であの地震でそんなに影響受けるなんて、なんてナイーブなの(おわり
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文学とは何か、これからの文学は、文学の楽しみ方……と多岐にわたる文学講義は、元々中高生向けに開かれた(らしい)イベントでの講義を本にしたものだから、たいへん親切で読みやすく、こちらの視界を自然に広げてくれて面白い。読書案内としても良質。知らない作品に興味を持つのはもちろん、村上春樹は食わず嫌いだったのだけど、読んでみようかな、という気になった。それだけ紹介の仕方が絶妙。
そもそもは世界文学に興味を持ちたいと思って手にとったのだけど、のっけから「世界文学というくくりにどれほどの意味があるのか」「文学もグローバルである」という話で面食らった。安易にカテゴライズして苦手意識持ってすみませんでした。でも一番印象に残ったのはロシア文学という(カテゴライズされた)ジャンルでしたすみません。
終わりに三・一一についても言及されている。学者として一人の人間としての葛藤がそのまま吐露されていて、あの災害の凄まじさが蘇った。蘇るということはつまり死んでいた、忘れていたわけで、己の浅はかさを恥じ入るばかり。こんなに真摯に文学と現実について懊悩する人がいる一方、文学を逃避か時間潰しにしか考えてない私がいる。バラストかな、なんて笑ってもいられないんだなあ……
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対談としてはかみ合っていない。進行役の沼野氏が話しすぎ。これならば、沼野氏の単著として構想した方がよりよい本になったのでは。
だからといって、内容に眉をひそめる部分があるとか、得るものがないという訳ではない。
対談者を生かし切れていないのでは、という残念さが残った。
最後の亀山氏は良かった。
「おわりに」の言葉は力があった。
・日本文学も世界文学
・途上国から、本当の文学が登場するかもしれない
・文学はどれを読むかではなく、読み方
・「ここに骨を埋めるか」という質問への怒り
・ノスタルジーの感覚こそが、生命感覚の根幹部にあり、それこそが生命の結晶なのではないか。ノスタルジーとは深い意味において、復活と蘇生の感覚。
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[関連リンク]
東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ:『世界は文学でできている ― 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』沼野充義(編著)(光文社): http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2012/03/post_105.html
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面白くないわけではないのだが、毎回開幕の沼野氏の1人語りがやたらと長い。
導入の語りを相手側が消化しきれないまま、ちょっとつまむ程度で進む感じなので、その長い語りは必要だったのか?となってしまう。
最後の亀山氏との対談が一番面白かった。
こちらもやたらと話が前後して、あまり噛み合ってる感じはないのだが、どちらも好き放題話すので、一周回って変な安定感がある。
研究分野が被っているからこそだろうか。
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再読です。
最近、日本のエンタメ系小説ばかり読んでいて、世界の古典名作や純文学を全く読めなくなってしまったのでリハビリになるかと思って読みました。
2012年に、初版を買って読んだ時は感じなかったのですが、9年たって読むと情報が若干古くなっている気はしました。村上春樹の『1Q84』が大ヒットしている話とかは今の状況とはあまり関係ない気がします。
最初の4つの章は再読でも比較的面白く読めました。最後の沼野さんと亀山郁夫さんのドストエフスキーの話は他所でも色々読んできたので、お腹いっぱいの感がありました。
私も歳をとってきたので外国文学よりも、日本の文学を再読したりしたい気持ちに駆られました。
中高生向けの本ですが、章末ごとのお薦め本はもう一度読んでみたい本が何冊かありました。
①越境文学の冒険
リービ英雄×沼野充義
言語のはざまを生きる
・現代における越境は翻訳である。
・日本語の散文を書いている日本人でナンバーワンは多和田葉子さん。
➁国境も時代も飛び越えて
平野啓一郎×沼野充義
ネットは文学を変えるか
・世界の文学について考える場合、まずその膨大さに驚き、自分がひょっとしたらそのうちのごくわずかな部分しか知ることができないことを自覚すべき。理解のために専門家の解説や研究の助けを借りればいい。
・どんな便利なメディアが出てきたところで、それを使うのは自分の頭だし、本を読むのは自分。
③「Jブンカク」への招待
ロバート・キャンベル×沼野充義
世界文学の中で日本文学を読む
・若い頃は外国文学にひかれ、歳を経てまた、日本の古典文学に戻ってくる作家も多い。
④詩を読む、詩を書く
飯野友幸×沼野充義
詩は言葉の音楽だ
・アメリカには詩人が二万人いる。大学に創作講座があり教えている人もいる。
・ロシアや東欧では詩の社会的地位は、いまでもアメリカよりはずっと高い。ロシアは数百万人はいる。
⑤現代日本に蘇るドストエフスキー
亀山郁夫×沼野充義
神なき時代の文学者たちへ
・トルストイとドストエフスキーは年齢差が7歳しかないが、一度も会うことがなかった。
※ノートをあまり熱心にとらなかったので、行間に潜むこの本の面白さはあまり伝わらなかったかもしれません。
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世界文学の読書案内として手に取ったが、対談の中で、日本の作家も多く紹介されていて、期せずして、今まで食わず嫌いでいた、現代日本の作家や、ドストエフスキーや、夏目漱石などの古典小説を読んでみようかな、と思うきっかけになった。
対談形式のため、読みやすくはあるが、あまり本を読んできていなかったので、作家と、文学研究者の両者の話に理解しきれない部分もあった。
ただ、あまりに古典文学を読むのには遠く離れた世代、人生であり、自分には読みきれないとはじめから諦めていたのだが、ドストエフスキーの魅力について、単純に面白いこと、と挙げられていることや、ドストエフスキーのキリスト教文学的な要素を日本の読者が全幅に理解するのは難しいと、翻訳者、研究者自身であっても認めているところをみて、古典小説全体を理解しきる必要はなく、ただただ楽しむ、という姿勢で読んでも良いのか!と肩の力が抜け、この本をきっかけに、避け続けていた古典の一つの、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読み始めた。
読んでみると、登場人物ひとりひとりの振る舞いや、言葉に、人間味と個性が充溢している様が強烈で面白く、驚くほどスイスイと読み進められている。
今後はドストエフスキー以外の古典や、日本の作家にもチャレンジしていきたい。
この本を読んで最も衝撃的だったのは、亀山郁夫さんと、著者の沼野充義さんの対談の中で、団塊の世代である亀山さんと、その少し後輩(亀山さんが院生のときに沼野さんが学部生)にあたる2人の中で、世代間格差を大きく感じると言う話と、お二人が自分たちが生きている時代には、教養主義の時代が終わっており、団塊の世代以降の競争社会で生きる人間には成熟がないと話していたところだった。
私は自分の親より歳上の団塊の世代の人々に対して、教養主義的なイメージを抱いていたし、彼らが、インターネットネイティブかつ、生まれた頃からテレビゲームに囲まれて生きて来た自分たちとは異なり、成熟した大人であることを信じて疑わなかったので、そんなに以前から、人間として成熟することができない悩みが存在していたことが、目から鱗だった。
もちろん、沼野さんや、亀山さんの言うところの成熟とは、私たちの世代がぼんやりとしてしかイメージできない成熟とははっきりと解像度が異なるものだとは思うが、お二人の対談で初めて、自分の親より上の世代の人たちを、自身に重ねて捉えられるような気がした。
一方で、お二人が成熟していないと言うならば、我々の世代の成熟など望むべくもないことなのかという絶望も突きつけられた。
私たちの世代は、これからますます、スピードを増していくであろう情報社会の中で、個別性のみが先鋭化していき、同じ年に生まれたもの同士であっても、感覚を共有することは難しくなり、孤立を深めていくのではないか。
わかりあえなさを受け入れた上で、それぞれの人生を生きていくことが求められるが、一方で街中には共生、絆、共感ばかりを求めるキャッチコピーばかりが並び、多様性が表で叫ばれていても、同調圧力が強まっているようにすら思える。
私たちがどうやって生きていけば良いのか、そのヒントを得るために読書がしたい。
どうか、社会に立ち止まり、考える時間が与えられますように。