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電子書籍
個人的な体験(新潮文庫)
著者 大江健三郎 (著)
わが子が頭部に異常をそなえて生れてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢みていた鳥(バード)は、深甚な恐怖感に囚われた。嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と...
個人的な体験(新潮文庫)
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個人的な体験 改版 (新潮文庫)
商品説明
わが子が頭部に異常をそなえて生れてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢みていた鳥(バード)は、深甚な恐怖感に囚われた。嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と絶望の日々……。狂気の淵に瀕した現代人に、再生の希望はあるのか? 暗澹たる地獄廻りの果てに自らの運命を引き受けるに至った青年の魂の遍歴を描破して、大江文学の新展開を告知した記念碑的な書下ろし長編。
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紙の本
友人の奨めにしたがって読んだ本
2004/12/04 14:27
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したときに、何か一冊読もうと思ったのだけれど、どうも彼の小説はおそろしくむずかしいものばかりだというのが世間一般の通り相場でした。そこで文学に造詣が深く、大江の大ファンだという友人に、何か私みたいな<文学素人>でも読める大江作品を紹介してほしいと頼んだのです。そして「読んでいる途中で投げ出す心配が少ない作品」として紹介されたのがこの「個人的な体験」でした。
確かにこの本はとても読みやすい小説です。そして「障害をもって生まれてきたこの子を、私は引き受けて生きていくことができるか?」という設問に対して私自身、主人公とともに激しく苦悶し、現実逃避の心を抱き、そして最後にはひとつの決意のようなものが胸の中にかすかに生まれるのを感じたのです。
物語によって与えられる悦びというのは、まさにこのように登場人物という他者の人生を生きるという経験でしょう。この小説にはそういう経験と悦びを与えてくれる力があると思います。主人公の人生そのものがたとえ苦いものではあっても。
紙の本
ついついこの主人公の立場と私が入れ替わっていたらどうしただろうと考えてしまう
2021/01/23 22:06
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説の予備校講師である主人公は大江氏の作品の中では、不治の病で一生治らないと思っていた足が奇跡的に治癒してそれまで仲間として一体感を持っていた他の病人たちを見下すようになる男を描いた「他人の足」の男と並ぶ嫌な男だ、頭部に異常を持って生まれてきたわが子を長年夢見てきたアフリカ旅行の足かせになるからとその死を願うばかりか、殺害しようとまでする(もちろん本人がてをくだすわけでなく間接的になのだが)。最後には「もし、おれがいま赤ん坊を救い出すまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年の生活はすべて無意味なものになってしまう」と回心するのだが。ふたつのアステリスクにつづくシーンを必要としたことについて、この作品から17年後に大江氏は若い書き手としての必然性があってのことだったと自分を支持している
紙の本
親となるための成長
2019/10/31 22:25
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎の著作には岩波文庫の短編集を詠んでいたので、とっつきにくさというか、難解な内容に対する警戒心みたいなものを抱いていたのだが、案外すんなり読めた。
この小説のテーマは恐らく「障害を持った子どもと共に、親として生きていく覚悟をもてるか」ということだと思うが、私は事前に、著者が障害を持った子どもと生きていくことを知っていたため、途中病院で嬰児殺しを頼む場面を読んでとても驚かされた。その後、かつて自分が置き去りにした菊比古のバーで、かつて自分が依存したアルコールを口にして突如改心するのは象徴的なシーンだった。主人公が大人に名っても子どもの頃のあだ名で呼ばれ続けるのもこのシーンでの成長を強めるためのものなのだろう。
紙の本
手に汗にぎる緊迫感
2001/08/08 01:12
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ポンさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
頭が二つある赤ん坊の父親となった鳥(バード)の苦悩の日々を綴った作品。大江の文章は読みにくいことで定評があるが、それにもかかわらず、この作品は一気に読ませる威力がある。バードが赤ん坊を死に追いやろうとするクライマックスは、手に汗にぎる緊迫感で、胸が高鳴った。
ただ、大江も弁明しているとおり、結末に不満が残る。クライマックスが来るやいなや、あっけない幕切れがやってきてしまうのは、肩透かしをくらった気がして残念だった。
紙の本
今の視点で読み直したい
2021/12/28 14:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
障害を持った息子が誕生し、彼とともに生きていくという作者自身の決意を小説化したもので、大江の代表作の一つとして考えられてきた。今読むと時代的限界を感じるところが多いというのが正直なところであるが、後の大江がこれをどう乗り越えていったのかといった視点で読まれるようになるべきかもしれない。
紙の本
障害児
2023/05/29 00:18
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説だから、一応、フィクションなんですけど……、読んでいて、つらくなったのは、大江健三郎さん自身、障害児の父親なんですよね。そう思って読んでいると、ちょっとね~。障害児への偏見がね~。
紙の本
逃げることと生きること
2015/06/04 08:31
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:アトレーユ - この投稿者のレビュー一覧を見る
個人のエゴと社会のモラル。構図がわかりやすいので、あっさり感もあるが、そうそうドラマチックにいくわけもなく、案外、日常の小さなことが大決断のきっかけであったりするのが人生なのだろう。エゴとモラルの間で揺れ動く、特別ではない、ありきたりな人間を主人公に据えたからこそ、人の存在という根源的な問題が浮き彫りになってる気がする。
紙の本
色々と考えることのできる小説だろう。
2003/11/13 21:56
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中堅 - この投稿者のレビュー一覧を見る
主人公・鳥(バードと読む)の子供は、頭部に異常を持って生まれてきた。その子供に「正常に育つ希望」がないと知らされた鳥は、「昼の間はずっと神秘的な瞑想にふけり夜となればスポーツ・カーで彷徨して日々を送る」女性・火見子とともに性の逸楽に耽り、赤ん坊の死を願う日々を過ごす。なおも生き続ける赤ん坊に苦しめられる鳥は、遂に火見子の友達である医師に赤ん坊の殺害を依頼する。しかし、その医師のもとに赤ん坊を送り届けた後、彼は突如として赤ん坊を救うことを宣言するのであった。
鳥の苦しみの原因は何か? それは、奇形の赤ん坊が生まれたことだろう。それではなぜ奇形の赤ん坊が、鳥を苦しませるのか。それは火見子、鳥の共通の友達である女プロデューサーが分析した通りであろう。彼女はこういった。
「もうどうしても、極悪人の自分から逃れられないしなぜ極悪人になるほかなかったかとえいえば、それは異常児から自分たち夫婦の甘い生活をまもりたかったためなんだから、エゴイズムの論理は通っているわ。血なまぐさいことは病院の他人にすっかりまかせて、本人は遠方で、突然の不幸に見舞われた善人よろしく、おとなしい被害者みたいな様子をしていようとするから、精神の衛生に悪いのよ」。
つまり、彼が苦しむのは、心の一端に、平凡な日常に突然現れた怪物に彼のこれからの、未来の生活を奪われることを拒否するエゴが、その反対側には、「善人」でいたいというエゴがあるためである。ここで注意すべきは、どちらも「エゴ」であるということである。そこに彼の苦しみの実体がある。
赤ん坊を絞め殺すというのは利己的なエゴイズムであり、赤ん坊と共に生きていくことも、もはや「偽善」でしかないためにその選択をすれば無傷ではいられない。それゆえに彼は「逃れられない」。
この女プロデューサーは小説の中盤に登場してそれきりであるが、鳥は最後に女プロデューサーの言葉通りになってしまうのである。彼女は言った。
「そうじゃなく、鳥、あなたは、タフな悪漢か、タフな善人のどちらかになるべきだったのよ」。
先ほど述べたような袋小路にいる鳥(の心)が無事でいるためには、「タフ」である必要がある、と彼女はいう。「タフ」とはすなわち、赤ん坊を見殺し、もしくは直接手を下すとすれば、良心の呵責に「耐えられる」、赤ん坊と共に生きていくとすれば「自己欺瞞の咎め」に「耐えられる」性質のことである。鳥は実際、最後の最後でタフな善人になっている。
鳥は「袋小路」を彼自身のタフさ=強さで乗り切ってしまったのである。
この小説のおそらく主題に当たると思われる、鳥の言葉は、以下の通りである。
「個人的な体験のうちにも、一人でその体験の洞穴をどんどん進んでいくと、やがては人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はあるはずだろう」。
真実の展望とはすなわち、真理であろう。しかし、鳥は真理という普遍的なものを見つける前に彼特有の「個人的な」強さで「体験」を乗り切ってしまったのである。これでは、本当に「個人的な体験」に過ぎないのである。最後に変わった鳥が、一面的な性格しか持たないように見える「違和感」はそのためではないかと思う。
……しかし、解決不可能と思われる問題にぶち当たって、答えの出ぬ「他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に掘り進んでいる」ような悩みとは決別し、「深甚な恐怖心」に立ち向かっていく。この姿が英雄的であるのもまた、否定できない。この小説は、悩みに満ちている。そしてその問題の答えは与えられずじまいである。しかし、最後に、著者の力技といえる、現実に対する鳥の突貫力の発揮は、読む人に、主体的に生きることの希望・意思の力を与えてくれるのだろう。