われらの時代(新潮文庫)
著者 大江健三郎 (著)
快楽と不能の無限の繰返しから抜け出て、幼年時代の黄金の象徴だった天皇の現在の姿に手榴弾を投げつけ爆破しようとする少年。遍在する自殺の機会に見張られながら、自殺する勇気もな...
われらの時代(新潮文庫)
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商品説明
快楽と不能の無限の繰返しから抜け出て、幼年時代の黄金の象徴だった天皇の現在の姿に手榴弾を投げつけ爆破しようとする少年。遍在する自殺の機会に見張られながら、自殺する勇気もなく生きてゆかざるをえない“われらの時代”。いまだ誰も捉えられずにいた戦後世代の欲望をさらけ出し、性を媒介に現代青年の行きづまりを解剖して、著者の新たな文学的冒険の出発となった長編小説。
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圧倒的なリアリティに満ちた青春小説
2002/03/28 01:52
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:uhara - この投稿者のレビュー一覧を見る
40年前の作品とは思えない、素晴らしい青春小説。自殺だけが唯一の純粋な行動であり、にもかかわらずそれを決行できずに生きていくほかない、それがおれたちの時代だ、と40年前の主人公は言う。確かに描かれる時代状況は60年代のそれだが、この精神状況はいまも十分当てはまるのではないか。異様な湿気に満ちた吐き気を催すような性描写や、爆死するバンドマンといったショッキングな筋立てもリアル。昨今の小説にはない、圧倒的な衝撃力を持った作品だ。
われらの時代
2001/03/01 23:50
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:55555 - この投稿者のレビュー一覧を見る
青年達はわれらの時代を求めるが失敗する。自殺することがおれにとって唯一の行為だと言う。しかし自殺はしない。
それは、結局生き続けなければならないということなのだろうか。
「犬舐め」、こんなグロテスクな挿話が楽しめるのは大江作品だけ
2022/12/06 10:07
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
私が大江氏の作品の中で一番好きな「他人の足」が1957年、芥川賞を獲得した「飼育」が1958年、そして、この作品が1958年の発表、「芽むしり仔撃ち」が無垢な若者を描いて批評家の好評を博したが、一転して虚無的な若者とグロテスクな性描写をあつかった「われらの時代」は大江氏が文庫版のあとがきで言っているように「村八分のふしだら娘のように、ほとんどあらゆる批評家から嫌悪されていた」、でも、21世紀に読む私たちからすると、反権力で左翼的だけど虚無的という若者は大江作品そのものとしか思えないのだが。主人公が小学生時代に中学生に虐められたという挿話が強烈だ、老いた発情した赤犬が彼の性器をなめまわす、人呼んで「犬舐め」、こんなグロテスクな挿話が楽しめるのは大江作品だけ
読了できず……!
2009/05/06 18:01
5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:石曽根康一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕は以前、「村上春樹と大江健三郎は教科書を読むように読んでいる」と書いた。
『われらの時代』は本屋に行ったとき、気になった本で、結局は隣の『同時代ゲーム』を買ったのだが、家に帰ってきてから、読みたくなったので、図書館で予約した。
その前にbk1で購入した『私という小説家の作り方』(新潮文庫)を読んだのだが、その中で大江健三郎は次のように書いている。
「私はこの文章を書く準備に、これまでの作家生活で書いたすべての小説を展望した。私は自分が生きてきた時代と社会をよく描いてきたろうか? いまも新潮文庫版で生きている長篇のうち『われらの時代』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』をその他の版では再刊しないことにした。(中略)小説としてかたちがよくととのえられていない、と感じたからだ」(p160)
それで、『私という小説家の作り方』の裏表紙には次のような文章がある。
「小説中の「僕」とは誰か? ジャーナリズムや批評家をアテにせず小説を書いていくには? なぜ多くの引用をするのか? 失敗作はどれか?」
この「失敗作はどれか?」に当たる文章は全体を読んでみたところ、上に引用した160ページのものしか見当たらない。
まあ、裏表紙の文章は作者本人ではなく、編集部が書くのだろうが、こういう書き方を大江健三郎が拒否しなかったというのは、あまり重視してもいけないかもしれないが、一つの指針になる。
しかし僕はそれでも大江健三郎の小説は全部読む!と気をふるい立たせて、ページをめくっていった。
そして気分が悪くなってしまった。まったく官能的ではない性交渉の描写、猫の流産の描写……、そして主人公兄弟のビールを飲みながらの会話、その会話をし終え別れた後に感じる兄の気持ち。
そういう全部がごたまぜになって、僕は続きを読むという気力を失ってしまった。しかしある意味これは僕にとっては敗北だった。「教科書を読むように、全部」読むことを断念したからだ!
結局、パラパラと最後の方のページをめくってみて、どういうストーリーなのかを確かめて、図書館に返却した。
『われらの時代』の何が僕に合わなかったのだろう。それをうまく言葉にできないが、この作品に近いもの―内容の類似点もある―として講談社文芸文庫の『叫び声』を僕はすすめたい。『叫び声』は僕も読了することができた。
実は村上春樹の小説でも『回転木馬のデッド・ヒート』の中のある小説の断定調の文章にいやになって、その本を最後まで読まず、放り投げたことがある。
つまり、僕は「教科書のように読む」と言いながら、二重の意味で落第生なのだ。
大江健三郎は今も現役の作家だ。講談社の「書き下ろし100冊」で新作を出すみたいだから、それを楽しみにしながら、しばらく経ったら、買っておいた『同時代ゲーム』を読もうと思う。『同時代ゲーム』については、『私という小説家の作り方』でこう書かれている。(一部文章をおぎなった)。
「ノーベル賞の選考委員会評ではこの小説(『M/Tと森のフシギの物語』)と『万延元年のフットボール』がもっとも重視された。それでも私がなお抱くもうひとつの野心は、こうだ。今度は『M/Tと森のフシギの物語』に対して、そうではない(原文傍点)と異化の声を発しつつ『同時代ゲーム』にたちかえってくれる批評家、読者が現れてくれればどんなに倖せだろう……』(p98)
『同時代ゲーム』、期待して読みたいと思う。