紙の本
うたに抱かれて
2017/04/29 05:48
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人がその姿かたち、性格とさまざまであるように、家族のありようもさまざまだ。
昭和と呼ばれた時代の家族像と平成のそれでも違うだろう。
それでも、家族は生活のひとつの単位ではある。
そのもとになるのが夫婦だろう。
大学の時の出会いから伴侶のガン死まで四十年にわたる夫婦が残してきたもの。
それは夥しい数の歌であった。
特異ではあるが、それもまたひとつの夫婦像、家族像なのだ。
本書は、2010年8月に乳がんで亡くなった歌人河野(かわの)裕子とその夫である同じく歌人永田和宏の、その出会いから別れまでの長い期間に互いに詠み合った相聞歌ともいえる短歌の数々と、二人のその時々のエッセイを抜粋して出来上がっている。
タイトルにもなっている「たとへば君」は、まさに二人の出会いの頃に河野が詠んだこんな歌からとられている。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてくれぬか」。
そういう若い愛を詠んだ歌を好きな読者もあるだろうが、やはり私は河野の短歌の代名詞ともいえる、家族を詠ったそれの方が好きだ。
「たつたこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる」。
この歌のあとに、「これからも私は、たったこれだけの家族にかかずらわって歌を作ってゆく」、河野のこんな文章を添えて、エッセイも残している。
それでいて、河野は療養中何度も狂気のふちを歩くことになる。
家族はそんな妻をそんな母を受け入れるしかない。
そういう凄惨な事実を家族という殻で包み込むのもまた、家族なのだ。
河野はそれさえもすべてわかって、この世を旅立ったにちがいない。
紙の本
少しずつ少しずつ
2018/05/05 23:29
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投稿者:たあまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
歌人夫婦の河野裕子・永田和宏の本で、乳がんが再発して逝った妻の遺した短歌と随筆を、夫が自らの歌と文章(科学者らしい冷静な文章)も交えながら編んだ本です。
少しずつ少しずつ読むのがぴったりの本。だって、何ページも読むと、切なくてたまらなくなるから。
タイトルは河野の若き日の代表作である、
たとえば君 ガサッと落ち葉すくふやうに 私をさらつて行つてはくれぬか
から採ったものですが、若き日に「たとえば君」とよびかけられた永田が、逝ってしまった河野に「たとえば君」とよびかけ返している返歌のようにも思えます。
紙の本
何度も読み返したい歌集です。
2015/08/23 20:48
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投稿者:mars - この投稿者のレビュー一覧を見る
夫婦2人の出会いから死別までの作品が載せられています。途中奥様ががんを患います。それからの歌がますます鮮烈です。文語のもつリズム感と相まって、夫婦それぞれの想いがよく伝わってきます。
紙の本
短歌の伝える力
2015/06/03 02:26
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投稿者:雪子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
若い日の歌と生活から、晩年の河野が癌の再発で亡くなるまで。河野の作品は生活実感がそのまま歌に表れる根っからの歌人。永田の歌が反対の立場の心を表す。文章以上に相手に伝える歌の力があるのかを教えてくれる一冊。
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初めて歌集を読みました。歌はド素人ですがタイトルの歌が好きでなんとなく。
河野裕子さん夫妻の、出会いのときめきから、子育てのあれこれ、病気発症後の衝突と、
河野さんの生涯がぎゅっとつまった本でした。
晩年は特に、かっこつけてない夫婦の現実が伝わってきて泣けました。
「たったこれだけの家族」という言葉が自分にもしっくりきて、
私の「たったこれだけの家族」と過ごす時間を大切にしたいと思える本でした。
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出会い、恋人になり、夫婦になり、別れる。
二人の歌人の、その全てが詰まった本。
そもそも、数があまりないのかもしれませんが、幸せな歌、楽しい歌があまり印象に残っていない。
それぞれのフェーズでの、悩み苦しんでいる歌が印象的だった。
この本の内容と直接関係はないのですが、思ったことが2点。
・病気で亡くなるというのは、失うと分かってから実際に失うまでの期間が長く、
無力感、理不尽さや、失った後の時間など辛そう。
だからこそ、色々印象的な歌が読まれるのかもしれない。
・心に響く歌というのは、自分の体験と似ていたり、リアルに想像できることが書かれているもの。そういった感情は、言葉にするのは難しいし、無理やり言葉にしても作り物感が出てしまう。歌だとすっと心に響くものになりえる。
歌の本は、サラダ記念日ぐらいしか読んだことのない私ですが、とても楽しみました。
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「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」
河野裕子さんを知ったきっかけは谷川史子さんの『積極-愛のうた-』(集英社/2006年刊)の表題作で河野裕子さんの短歌が短編のモチーフとして使われていたことだった。
谷川史子さんの漫画にも通ずる、純粋で真っ直ぐなんだけれども、芯が太く、汚れのない感情が31文字の短歌によって歌われていてとても感銘を受けた。
河野さんの第一歌集『森のやうに獣のやうに』は絶版となっており手に入らなかった。
この本が文庫化されていることもつい先日知り、急ぎ購入した。
歌に生き、歌に死んだ歌人であることは間違い無いが、負けん気が強く人間味に溢れる(若輩の自分が言うのも失礼な言葉だが)可愛らしい人であったことが歌の中からありありと伝わってくる。
またそれを一番深く近くで寄り添った伴侶の永田和宏の心情とともに読むことができる。
理想的な夫婦像である。
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言葉の力はすごいなと思う。
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」
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線が細くてはかなげだった河野さんが、小さなことにはこだわらない永田さんと結婚したことで日常生活も歌作りも安定感が増したのではないかと思いました。
まつすぐに進むものなり二人乗りの赤い自転車でくいくいとゆく(河野)
二人乗りの赤い自転車かの夏の万平ホテルの朝の珈琲(永田)
ぶつかり合うことも多かったようですが、この2首から、2人の時間を楽しんでこられたバランスのとれた夫婦関係だったのだろうと感じました。
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夫婦ともに歌人であるふたりの相聞歌。20代の出会いの頃から、河野さんが乳癌に罹り64歳で亡くなるまでの、互いに向けられた歌を中心に、その他彼女のエッセイなどが時系列で編集されていて、その時々の思いが伝わってくる。
以前、NHKのなにかの番組で、永田さんのドキュメンタリーが放映していて、そのとき河野さんが亡くなるときの歌を紹介していた。それを涙ながらに永田さんが詠んでいた。その歌は本書にも掲載されている。
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 河野裕子(P257)
その番組の内容はもう覚えていないのだけれど、歌で過去を振り返る様子をみながら、短歌というのは、その時そのときの気持ちを、そのままに残してくれる素晴らしいものだと思った。そこから私は短歌に興味をもちはじめ、歌集など手を出すようになった。本書のなかでも、それを感じさせた、印象に残った歌を抜き出してみた。
貧しさのいま霽(は)ればれと炎天の積乱雲下をゆく乳母車 永田和宏(P63)
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき 永田和宏(P178)
平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ 永田和宏(P195)
河野さんの歌も多く載っているのだけど(表題である「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」など)、いまのわたしにはエッセイのほうが印象に残った。たとえば、
うちの夫婦は私が何でも喋るんです。永田が帰ってくるとトイレまで付いていって外から喋る。あったことも思ったことも全部。これだけ話してきて、いつもいつもくっつ いてきた夫婦で淋しさなんて一番わかっているはずなのに、「お前はこんなにさびしかったのか」って言われて、短歌というのは生ま身の関係で喋っているレベルとまた違うレベルで、お互いの人に言わない言えない感じというのを読みあってゆく詩型だなあと改めて思いました。/家族の仲がいい、といいますが、それはそのレベルでの話であって、表現をした時の心の底の深みが、ほんのちょっとした助詞や助動詞の違いなんですけど、歌をやっている者同士はわかるんです。(P158)
仲の良い夫婦だけでない、歌人同士であることの、関係のとくべつなあり方が示されている。また、
作歌は、お天気のよい日、雑音の聞える所では出来ない。雨の日、曇った日がよく、一日の時間帯でいえば、逢魔が時といわれる夕ぐれのうす暗い時が一番いい。/逢魔が時は、情緒不安定を起しやすい時間帯であるので、気分が妙な風に昂って、ことばがうまくスパークしてくれる。しかし、夕ぐれ時というのは、家事のかき入れ時でもあり、庭を掃いて走りまわったり、風呂そうじをしたりしていることが多く、身体をハキハキと動かすと、なぜか歌は飛んでいってしまう。(P141)
などは、夕暮れの逢魔が時が、詩作のインスピレーションを生む創作の時間と同時に、家事というまいにちの生活の時間でもあるという面白さを感じた。彼女は、「歌は、台所のテーブルで作る。これは結婚して以来ずっと変わらない」(同)というところからも、詩作と生活がともにあった(��れは当たり前なのかもしれないけれど)ことを思わせてくれる。どれも文章が上手い。
その彼女の一番大事にしていたのが、夫である永田さんだった。
私がしなくてはならないことは永田和宏という人を一日でも長生きさせること。私の仕事は全部放って置いても、永田が帰って来たとき、お皿をあたためて少しでもおいしくと思って待っているんです。歌は二の次。子供はメシだけ食わせて、あとは放っておいたらいい……(中略)……結局、子供よりも永田和宏を大事にしてやってきたというのが本当ですね。(P188)
この率直な愛の在りかたに、すこし共感するものがあった。蛇足にはなるけれども、今回本書を手に取ったのは、新潮社の広報誌「波」で、永田さんが河野さんとの恋仲だった頃のエピソードを連載(「あなたと出会って、それから……」)しているのを読んだのがきっかけだった。そのなかでは、河野さんが、永田さんと同時に、青年Nへの恋慕があったことを、日記や歌などを引用しながら綴っている(連載第8回)。
陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
永田さん あなたも Nさんも 同じ位 同じだけ好きな 阿呆な私を、 どうぞ つき放さないでおいて。(日記からの引用)
本書で纏められた美しい関係も、或るたまたまのなかで決まったものと思うと、不思議な感慨を覚える。
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相聞歌、というひとつの歌のカテゴリーがある。もともとは互いの安否を気遣う私的なやりとりを指し、それが『万葉集』では男女の恋歌を意味するものになり…と、起源を語れば色々あるのだろうが、なんというか、お互いに、相手を想い、相手に伝える、その双方間のやりとりそのものが「相聞」という言葉には含まれているのだと思う。そして、そういう意味では、この本はまさに「相聞」だ。
京都大学内の歌会で初めて出会ってから、惹かれ合い、人生を共にしてきた2人の歌人、河野裕子と永田和宏。その2人の、出会った当時から、河野が60代という若さで乳癌で亡くなるまでの40年の間の「相聞歌」が、時間の流れや時代の背景と共に、力強いみずみずしさをもって収められている。
現代でもよく、「この歌を◯◯さんに贈ります!」といった光景に出くわすことがあるけれど、昔も今も、「誰かのために歌を贈る」というのは、やはり特別なことだったのだと思う。それが、本当に相手のことを考えてその人が詠んだ歌なら尚更。
そして、三十一文字だからこそ、そこには誰かのための歌だけではなく万人が楽しめる文学性が生じる。抽象も具象も、論理も感情も、全てを盛り込んだ劇的な光景が、言葉を通して目の前に現れる。惚れ惚れする。
短歌に親しみなく生きてきた人でも、これは、ぐっとくるものが多く、良い意味で分かりやすい(背景の説明などもあるので)素敵な作品になっているのではないだろうか。エッセイと、記録と、歌のコラボレーション。お気に入りの歌に付箋を貼りながら、ぐいぐいと引き込まれて読み込んでしまった。そして、下手くそだけど、私も、少しずつ歌を詠みたいな、と、思う、そんな気にさせてくれた一冊。
中でも気に入った作品をいくつか。
河野裕子さんの歌。
・陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
・夕映を常に明るく受くるゆゑ登り詰めたき坂道があり
・息あらく寄り来しときの瞳の中の火矢のごときを見てしまひたり
・妻子なく職なき若き日のごとく未だしなしなと傷みやすく居る
・ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今も
・白桃の生皮剥きゐて二人きりやがてこんな時間ばかり来る
・あの時の壊れた私を抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
・病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
・この家に君との時間はどれくらゐ残つてゐるか梁よ答へよ
・この身はもどこかへ行ける身にあらずあなたに残しゆくこの身のことば
・手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
永田和宏さんの歌
・水のごとく髪そよがせて ある夜の海にもっとも近き屋上
・乳房まで濡れとおり雨に待ちいたる 捨つるべき明日あまつさえ今
・吾と猫に声音自在に使いわけ今宵いくばく猫にやさしき
・奪衣婆のごとく寝間着を剥ぎゆきて妻元気なり日曜の朝
・二人乗りの赤い自転車かの夏の万平ホテルの朝の珈琲
・馬鹿ばなし向うの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら
・一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
・たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光
・呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた
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本を読んで、歌を読んで、こんなに涙を流したのは初めてだと思う。同じ病で亡くなった妻を想いながら読みました。
永田和宏
ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき
薯蕷(とろろ)蕎麦啜りつつ言うことならねどもあなたと遭っておもしろかった
助手席にいるのはいつも気味だった黄金丘陵(コート・ドール)の陽炎を行く
最後まで決してきみをはなれない早くおねむり 薬の効くうちに
心配でしようがないと心配の素がわからぬ電話がかかる
一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
あなたにもわれにも時間は等分に残つてゐると疑はざりき
この桜あの日の桜どれもどれもきみと見しなり京都の桜
悔しいときみが言ふとき悔しさはまたわれのもの霜月の雨
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
亡き妻などとどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら
女々しいか それでもいいが石の下にきみを閉ぢこめるなんてできない
河野裕子
こはいのはあなたが死ぬこと 死んでゆくわたしの傍に居るも気の毒
一寸ごとに夕闇濃くなる九月末、寂しさは今始まつたことぢやない
私には保護者のやうな夫と子が赤い椿の真昼は居らず
このひとを伴侶に選びて三十年粟粒ほどの文句もあらず
兄のやうな父親のやうな夫がゐて時どき頭を撫でてくれるよ
栓抜きがうまく使へずあなたあなたと一人しか居ない家族を呼べり
ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい
この家に君との時間はどれくらゐ残つてゐるか梁よ答へよ
死に際に居てくるるとは限らざり庭に出て落ち葉焚きゐる君は
長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
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我が儘を言えば妻よりは先に死にたい。遺された者の悲しみと遺していかざるを得ない者の辛さ。足らない想像力ではやはり前者には耐えられない気がする。
様々な夫婦がいる中で、歌で通じあう夫婦というのも珍しい。歌中の一文字で相手の心模様が分かってしまうのは羨ましいようで恐いなと感じた。
妻を始めとして家族を大事に、自分に正直に生きないといけないなと思わせてくれた一冊です。
#読書 #読書倶楽部 #読書記録
#たとへば君
#河野裕子
#永田和宏
#2016年76冊目
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「たとえば君」という書名は、河野裕子の歌からとられている。歌の全体は下記の通りだ。
たとえば君 ガサッと落ち葉すくふように私をさらって行つてはくれないか
河野裕子と永田和宏は夫婦であり、2人ともが歌人である。2人は、学生時代に知り合い、付き合い始めたのであうが、河野にはその時に既に恋人がおり、その恋人と、新たに付き合うようになった永田の間で気持ちが揺らいでいた。そういった背景が、上記の歌にはある。
2人の出会いは1967年である。結婚は、1972年。以降、河野が乳がんの再発で亡くなる2010年まで添い遂げる。出会いから43年目のことである。
河野に乳がんが見つかり手術をしたのが2000年のことである。以降、8年間何もなく、河野も永田も緩解かと安心し始めた2008年に再発し、2010年に亡くなる。
再発が分かった後の歌が悲しい。
【河野の歌】
まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり
大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙って背を撫でくるる
【永田の歌】
あなたにもわれにも時間は等分に残ってゐると疑はざりき
あつという間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間
私自身も妻を乳がんで亡くしている。手術後の安定期を過ぎた後の再発という経緯もこのご夫婦と同じである。
そういう経験から、主に夫である永田の歌に感情移入しながら本書を読んでいたが、私の妻が河野のような気持ちで再発をこわがり、再発後の恐怖と闘っていたのかと思うと、あらためてたまらない気持ちになった。
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たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が