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投稿者:Tucker - この投稿者のレビュー一覧を見る
震災関連本を読む、という個人キャンペーン第4弾。
ただ、ナショナルジオグラフィック3月号にも震災関連の記事(数ページだが)があったので、それもカウントすれば、第5弾。
もう少し早いタイミングで読むはずだったが、諸事情により、この時期になった。
河北新報は宮城県を中心に東北6県を発行区域とする新聞。
東日本大震災の被害を受けながらも「それでも新聞を作り続けなければならない」という使命感に燃えた人々の記録。
「新聞の発行」にこだわり続けたのは、電気がアテにならない状況では、人々に情報をもたらすことができるのは、新聞だけしかない、という思いがあったから。
紙面作成のためのコンピュータこそ、震災後、数日で復活したが、それ以外は足りないモノづくし。
食料、燃料、現場までの移動手段に加え、新聞を印刷するための紙さえも。
さらに現場に辿り着いたとしても、そこからメールやFAXで記事を送れるか、どうかは分からない。
確実な方法は、人の手で記事を会社まで持ち帰る事。
それでも、新聞は発行し続けた。
被災者が求める情報は、同じ被災者である自分達だからこそ提供できる、と信じて。
脱線だが、震災後、各地で災害対策が発表され、そのいくつかがニュースになったが、全て「電気が通じている事」が前提だった。
なぜ、そんな前提の対策を作るのか、という疑問が湧いてくる。
電気が使えない時の対策も別にあるならば、まだ分かる。
結局、「災害対策」ではなく、「公共事業」なのか、とさえ思ってしまった。
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閑話休題
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本書を読み始めて、まず感じたのは「生々しさ」
特に震災直後の生々しさは、引き込まれてしまうと同時に辛くもあった。
最初、電車の中で読んでいたが、早々に断念。
電車の中で読むには、自分には少々、刺激が強すぎた。
ところで、震災後、あの状況の中で新聞を作り続けた事には頭が下がる。
こんな一言で片付けるべきではないが、他に言葉が見つからない。
ただ、その「使命感」の中には、何かの裏返し、といったものも含まれているような気がする。
会社の退避命令で、一時的に被災地を離れた事を気にし続けた記者がいた、というエピソードがあった。
被災地を離れた事自体は、特に責められるような事でもなんでもない、と思うが、なぜそこまで思いつめてしまったのだろう。
(そう思うのは、第3者的な視点だから、だろうか。)
ふと頭をよぎるのは、別の本で出てきた「災害カーニバル」または「災害ユートピア」という言葉。
「災害」という言葉に「カーニバル」や「ユートピア」が付くのは、ちょっとおかしい、と感じるが、説明の方法として、適切なものがない。
ここでの「カーニバル」は「非日常の狂騒状態」、「ユートピア」は「多くの人が進んで利他的行動を取るコミュニティ」というような意味で使われる。
先ほどの記者は一時的にせよ「災害カーニバル」または「災害ユートピア」に加われなかった事がひっかかっていたのかもしれない。
いずれにせよ、震災後、懸命に活動した記者達に、その後、その反動が来ていない事を祈る。
こういうものは、しばらく経過してから、ズドンと来る、という事を聞きかじったので・・・。
紙の本
ペーパーレス時代だからこその『紙」の新聞の大切さ
2016/05/10 20:24
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投稿者:YK - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災で大きな被害を受けた仙台に本社を置く地方新聞の河北新報社。3月11日の地震の直後から、その翌日の号外発行に始まり、その日以来の被災者に寄り添う報道の様子を伝えるノンフィクション。毎日当然のように私たちの手許に届く「紙の」新聞がいかに貴重なものであるか改めて認識を新たにさせられます。その裏側には取材、編集、印刷、配送、配達など様々な部署の人たちの仕事にかける情熱やプライドがあることを再認識しました。電子版も便利ですが、やはり「紙の」新聞はいいと思います。
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投稿者:eels - この投稿者のレビュー一覧を見る
地元紙の奮闘に心打たれる。
新聞社間の助け合いの姿にも、何か昨今失われていたものが思い出されるようで、非常に読後感が清々しかった。
もし自分の身近の人がとっていたら、止めたくなるような勇敢な人たちがいっぱい出てくるが、それによって、地元紙の力によって助けられた人が沢山いたのだなと、改めて紙媒体の強さを感じた。
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投稿者:ぽにょ - この投稿者のレビュー一覧を見る
あの当時の大変さが伝わって来る。この経験は今後伝えていくべきだと思った。新聞を作る人としてのプライドとかが、本書を通して伝わって来るだけに、原発広告に頼っている現在にがっかり。
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市政だよりに掲載されていたのを見て図書館で借りた震災文庫。
河北新報と各記者が、東日本大震災発生時にどう考え、どう動いたのかを詳細に綴った一冊。自分たちも被災しているのに被災者に情報を届けるために必死に闘う記録は後世、語り継ぐべきだと思う。
記事見出しを「死者」とするか「犠牲者」とするかの葛藤は、壊滅した現場を歩いて取材した地元紙ならではの配慮で、感銘を受けた。(「第3章 死者と犠牲者のあいだ」)
また、若い女性記者が原発爆発後に福島を離れたことについて、記者としての使命感と自分の弱さの落差に絶望して記者をやめてしまう話には心を動かされた。あのときは皆が放射能という見えない敵に怯えていたし、会社からも避難指示が出ていたのだから、そこまで思い詰めないで気持ちを切り替えて頑張っても良かったのではと思うが、彼女にはそうできないくらい後悔、葛藤があったのだと想像する。(「第6章 福島原発のトラウマ」)
その他にも配達中に犠牲になった販売店の方の話、物資不足の中でも新聞発行に奔走する河北新報社の想い、被災者の気持に寄り添うことを基本姿勢として衝撃的なスクープ写真の掲載を見送る話、震災1ヶ月後の社内アンケートでわかった記者たちの「苦痛」「感激」などの心の声など、心に深く残る内容。
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仙台に本社を置く河北新報は、東日本大震災で壊滅的な被害を蒙った。沿岸の支局は津波に呑まれ、安否不明の記者も続出。本社のコンピューターが倒れ、紙面制作の機能を失う。「それでも新聞をつくらなければならない!」この絶対命題を前に、彼らは何を思いどう行動したのか。“新聞人”たちの凄絶な闘いの記録。
単行本発売当時から読みたいと思っていたものの、いつの間にか文庫が出ていました・・・月日がたつのは早いものであの震災から3年以上たつんですね。震度5弱の地震に恐怖は感じたものの特別被害にも合わなかった私は、当時は気仙沼などの被災地の映像をTVで見ては震えがっていたものの、正直今はその感覚も薄れ遠い話になっていました。でもこの本を読んで、そんな自分を強く恥じました。被災者にとって復興はまったく終わっていない。目にしないからといって忘れて良いわけでは決してない。小さくても、何かできることをやらなければと思いました。
記者たちの葛藤や決意が伝わってくる文章ばかりで何度も涙がこぼれた。当たり前のように享受しているTVやネットの情報がなくなったとき、何としても新聞を出す!と頑張ってくれた河北新報の行動は、どれだけ被災者を力づけたことだろう。悲惨さだけでなく、人の温かさや絆も伝える紙面に胸が熱くなりました。放射能の恐怖も抱えながら取材を続け、地元に寄り添ったメディアは数少ないと思います。迷いもありながら伝えることを選び、今も伝えてくれる彼らに最大の敬意と感謝を。これからも地元紙の誇りを持って頑張って欲しい。
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震災発生から3ヶ月後のアンケートを元に作られた本。
読んでいると、じりじりとしたものを感じる。
生活インフラが破綻するということ。そして大変な時は誰も責めないということ。頑張ろうって言われても頑張れないということ。
ただ、生きるということの奇跡を考えてしまう。
生きている人は悩むけれど、生きていなければ悩むことすら出来ない。
そして、生きていれば、ご飯が美味しいとか、暖かい場所で休めるとか、そういうことで幸せを感じることは出来る。
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自社も被災したにもかかわらず、新聞を発行し続けようとする河北新報の地元紙としての使命感。その戦いの記録。
宮城県の死者が万単位になることが分かったときに、新聞の見出しの文言を「死者」にするか「犠牲者」にするかで悩み、ただ一紙「犠牲『万単位に』」とした河北新報。それは被災者に寄り添うと決めた地元紙ゆえの苦悶。
石巻市上空のヘリで飛んでいると、小学校の屋上に「SOS」の文字を発見したカメラマンは、写真を撮り続けることしかできない。救助の手を差し伸べたいけれどもそれができない無力感。
それでも、この写真が新聞に載れば速やかな救出活動が行われることを期待していたが、後に明らかになった事実によると、このとき屋上で助けを求めていた人たちのところに医療チームが到着したのは1週間後だった。その厳しい現実に苦しむことになるカメラマン。
人々が津波にのみ込まれる様子を捕らえたスクープ写真の掲載を取りやめる。被災者とともにあると決めたことが、心の葛藤を生むという現実。
過酷な状況下に置かれた記者たちの葛藤に心揺さぶられる。そこはまさに戦場のようであった。
発災後、被災地で起こっていたことを再認識するためには良質なノンフィクションだった。
「あなたは頑張れと言うけれど、わたしたちはもう頑張っている」という被災者の言葉が心に痛かった。
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震災の時は東京にいた私ですが、生後2ヶ月の息子と初めての育児に追われる中で、かなり情緒不安定になっていました。この本を手に取ったということは、あの時、被災地はどうだったのか、今やっと落ち着いて読めるところまできたと言うことなんだと思います。
やはり、心の奥底にある不安定なところにダイレクトに訴えかけてくるので、かなり泣きそうになりながら読みました。あの中で、時に迷い、時に苦しみながらも、彼らが必死になったというこの記録は価値あるものだと思うのです。
新聞のあり方、メディアのあり方とともに、仕事とはなんなのか、働くとは何かという問いも突きつけられる気がします。
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一枚一枚めくっていくたびに、涙がこぼれそうになった。喉の奥が熱く、ひりひりし、目頭が熱く、じりじりした。情景が浮かぶようだった。
武田真一さんの、ボタンを押す手が震え、志津川支局の渡辺龍さんらの安否が確認できない、という文章を読んで、ぞわぞわと背中に怖気が走った。ただ電話が繋がらないだけなのか、動けないから繋がらないのか、流されたから繋がらないのか、生と死が垣間見え、きりきりと胃が痛む。
ーー津波が来た! 地獄だ!
その題名を見た瞬間に、絶望が訪れて、ウッ、とうめいた。わたしは経験していないけれど、アレは多くの人々にとっての地獄だった。ユーチューブやニュース番組で何度も繰り返し報道された。黒く大きな濁流は瓦礫から何からを押しやり、詰め込み、のしていく。
荒浩一さんにかかってきた深沼販売所の奥様からの電話。息子は配達に出かけ連絡が取れず、夫は店の片付けのために逃げ遅れた。半狂乱となって泣き叫んでいる、とあたり、誰もが泣き叫びおののくしかなかったその瞬間がありありと浮かんだ。
空撮が災害時には一番良いのだそうだ。どこの被害が一番大きいのか、被災状況はどのくらいなのか、そういった情報が一挙に獲得できる。
だからこそヘリコプターをチャーターしての空撮が必須なのだけれど、あのとき河北新報社がチャーターしているヘリコプターを扱う会社が被災し空撮ができないとなって大変だったとあった。
インターネット、テレビ、ラジオ。みな電気と電波で動くもの。すべてが遮断され、頼みの綱は紙媒体。新聞。河北新報社が新聞を配布したからこそ、被害の大きさを知ることができた者も大勢いる。新聞がなければどれほどの規模の地震だったか、被害状況なのか、何もわからない。
現場取材班に関しても、被災地に向かうも交通網が遮断されており取材ができないもどかしさ、無事に帰ってくることができるかの不安、それらがないまぜになっていたと記載され、向かうことすら一苦労、だが事実を知って広めなければならず、大変だなと思った。
比較的電話よりメールのほうが通じやすかった、とあり、事実、メールはたまに入ってきたけれど、電話は全く繋がらなかったことを思い出す。
気仙沼市の被災状況に関する記事が、とてもつらかった。開口一番、墓場だ、と書かれたその文章。すべてのものが破壊されつくされ、それはこの景色がこの先しばらくずっと続くことを物語っており、陰鬱とした空気を醸し出す。
また、ようやっと空撮できる機会に恵まれ、その写真を撮る際に、とても直視できなかったという部分。ファインダー越しでないとまともに見れなかった、と。被災が広範囲すぎて、何もかもが信じられなかったであろうことがうかがえる。
南三陸町の被災状況に関する部分も。海岸線は二キロも先のはずなのに、漁具に巻き込まれた車の数々、無表情のままの町民たちとすれ違い、きょうだいかも分からぬがランドセルを背負った学生と中学生らしい学生が手を繋ぎ黙々と歩む。壊滅、以外の文字が、思い浮かばない。
シャッターを切る最中に涙があふれ、それを知られまいと食いしばるカメラマン。
とても、つらい。
死者、万単位に。
犠牲者、万単位に。
どちらがより、つらくないと思われるだろうか。
死者、という文章のほうが、分かりやすい。
ただ、まだ死んでいない、生きている人たちに、絶望を植える言葉だ。
だから、河北新報社、宮下拓さんは、犠牲、と書いた。
翌十四日の朝刊に於いて、犠牲者、と打ったのは、河北新報社ただ一社であったという。
感情論でぶれすぎた、と宮下さんは社内調査で語ったというが、だからこそ良かったのだと思う。冷静ではいられないのが、震災なのだから。個人的には、犠牲、のほうが、ほっとする。
冒頭に書いた深沼販売所の件が、ここに来て復活する。利府にあるグランディ21が東北随一の遺体安置所になったことは記憶に新しい。
子供らと共に奥様が訪れ、遺体の確認をする。
冒頭で読んだ、泣き叫びうろたえる様を思い出して、目頭が熱くなる。
ただ一部、気になる点があった。
女性たちが飯炊き女のようにアコギに利用されていた点だ。
山形支部だかの、浦響子さんにやらせましょう、と言った加賀山という人物に辟易した。
この点において誰も言及しておらず、ハァ?となった。
男尊女卑とかそういう問題でなく、女性に対して、他人に対して、【やらせましょう】と言い切った点が解せない。
勿論、炊き出しには人数が必要だということも理解できるが、そんな風に人を使うなと言いたい。
**********
ここからは、個人的なめも。
震災のあの日。わたしは地元仙台にいた。まだ大学生だった。卒業まで後少しというところ。そんな折、あの大地震が起こった。
夜中過ぎ、寒くてたまらず、わたしは最寄りの学校から車中泊に移行した際に、カーナビのラジオだったと記憶しているが、それが、一時間ごとに、死者の数を増やしていったのを聞いた時には絶望しか浮かばなかった。
ーーで死者百人、という報道のその一時間後に、ーーで死者二百人、またその一時間後に、ーーで死者三百人、という報道を聞いたとき。
自分がその光景を見たわけではないのに、涙が止まらず、脳裏には見てもいないのに連なる死体の想像が溢れ、眠るに眠れずにいた。
感じた心は人により違い、わたしは上記のようにただ震えていただけだったけれど、まだ寒さをしのげた。しかし、あのとき、津波に流されながら生きることに必死だった人や、建物の中にも入らずに震えるだけだった人もいる。
荒浜での死体に関してはデマだったと後ほど知ったけれど、それを知るまでは恐ろしさしかなかった。実際、多くの方々が亡くなっている。事実でないが、現実ではある。
最初に揺れてから三十分以内くらいは少し繋がり、そのあとまったく通じなかった。母とも連絡が取れず大変だった。メールで家に帰宅する旨を伝え、母やきょうだいを待つ時間はじりじりしたものだった。
幸い、きょうだいと共にいたため、最寄りのコンビニでごはんを買おうと思い立ち、長蛇の列をなすコンビニに入り込んだと記憶している。
パン、おにぎり、お弁当、お水、お茶。そういったも��はかけらも見当たらず、まあそれは当たり前なのだけども、それならばと、日持ちのしそうなクッキーやビスケット、牛乳がなくとも栄養は多少とれるであろうと踏んでコーンフレーク、アクエリアスやポカリスエットなどの飲料水、山中などでは糖分があると良いと言われるのでチョコレートなどを買い込んだ。
この買い込みがあったおかげで、わたしたち家族は電気が通じる三日後まで飢えを知らずに済んだ。
夜、ほかに空いているコンビニがないか、母と共に歩き回った。星がとても綺麗で、ああ電気がないとこれほど空は美しいのか、と思った。そのときの写真でも撮っておけば良かったと今更ながら思う。
今ならスマートフォンで山のように証拠写真のごとく撮影し、そのときの情景を胸に秘めたろうに、あのときはただひたすら、これは現実なんだろうかとぼんやりするしかなかった。
三日目の夜、いやもうあのときは深夜に近かったろうか、近所に銀行があり、非常灯らしいものがともったのを見て、電気がついたのか!?とスイッチを押したときの明るさ。
あのときの安堵は、これから先いつまでも忘れられないと思っている。
ぶわっ、とエアコンが作動し暖かさに包まれ、メールもざくざく通じ始めた。電話も繋がり、ほっとしたのを覚えている。
*****
https://www.news-postseven.com/archives/20110405_16576.html?PAGE=1#container
http://www.2002rifu.net/miyasta/shinsai.htm
https://kioku.library.pref.miyagi.jp/onagawa/index.php/ja-menu-item-search.html?action=detail&uniqid=58110000005436
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震災からもう4年になる。
震災復興に関わる仕事をしている会社にいるとは言え、やはり震災の記憶は徐々に風化する。今も故郷に戻れず避難生活をする人々のことを忘れる。
だから新聞を読んだり本を読んだりして、また思い出す。
この本は、河北新報が震災とどう向き合い、どう報じたかを記録したドキュメントです。
河北新報と言えば、以前の印象はただの保守的な地方紙でしたが、震災以降はちょっと変わりました。一番驚いたのは、以前はどちらかといえば原発推進派と言ってもいいくらいの姿勢でしたが、震災以降は明確に脱原発にシフトしたことです。
大きな企業が少ない東北の経済にとって、東北電力はやはり大きな存在です。
河北新報がそれに抗してどこまで脱原発を貫けるのか、注目しています。
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いまだ被災地のや被災者の心に深い爪あとを残し続ける東日本大震災。本書は地元紙であるは河北新報社が『その日』からどのようにして新聞を作成し、輸送し、読者のもとに新聞を配達したのか?そのクロニクルです。
この本は甚大な被害を日本にもたらした東日本大震災。地元紙である河北新報がいかにして震災のさなか、取材をし、被災している人たちへ新聞を届けたか、という彼らの手による手記であります。
いまだに復興が進まないさまに苛立ちを覚えることと、あの惨禍の中で新聞社の社員としての機能を果たそうとする記者や、倒壊したシステムを復興するスタッフ。出来上がった新聞を、瓦礫が散乱してしてまともに走れない道路の状態である中、販売店に新聞を届けたトラックの運転手。さらには地震やその後に発生した津波で店主が殉職したり、もしくは販売店そのものが流されてなくなっていたりというこれまた尋常ではない状況の中、全社、さらにはグループ企業一丸となって、新聞を発行するという気概が文章の中からにじみ出てくるかのようでした。
しかし、この本を読み進めて、自分の地元、郷土に対する愛着のなさ、というのも浮き彫りになってきて、被災した方には本当に心から哀悼の意を捧げますが、いざ自分の身にこのような災害が降りかかってきて、それでも
『ここにいたい、これからもこの場所で自分は生きていくんだ』
もしくは
『何が何でもここの復興に全力を尽くすんだ』
という気持ちになれるか?という問いを自らの裡に語りかけても自信を持って
『いうまでもない、もちろんだ!』
と言えない自分がいるんだな、ということがわかりました。
だからこそ、東北の各地で被災した方々の
『それでも自分たちはここで生きていくんだ』
とある種の『覚悟』をもって生きる彼らの姿を雑誌や新聞、テレビやインターネットの動画サイトで見るにつけ、こういうものは残念ながら自分にはないものなんだということを思い知らされるとともに、
『地元紙として被災者に寄り添っていく』
という河北新聞社の取材に対する姿勢と、それを後方支援で支えたスタッフ。読者へ新聞を届けるんだという職業意識の高さには非常に胸を打たれました。
おそらく、自分だったら確実に他のところに逃げているでしょう。それこそ、何もかもなげうって。そして二度と後ろは振り返ることはないのであろうと思います。たぶん、この文章は見る人によっては反感を覚えたりするでしょう。僕もこれに関しては反発を受けることを覚悟の上でしたためておりますがそれが自分の本音の部分であるのであえてこれを公にすることにします。
ですが、今だから、今だからこそ彼らの記録は胸にとどめておきたいと切に思っております。それは僕の偽らざる本音です。
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読んでいて、何度も涙が出てくるのを必死にこらえた。
自室で読んでいたら、それこそどうなっていたのか
わからない。
「大震災」後の3月28日にやっと故郷の宮城に
入ることが出来て、そして、そこで目にした
「光景」は一生忘れないだろう。
今でも、「自分に出来ることは何か」を模索しながら
生きている。
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あれから3回目の「311」が訪れ、4年目が始まっています。それと前後して、印象的な本が何冊か文庫に落ちてきていたので、再読がてら何回かに分けて。個人的にハードカバーから文庫に来る際一番嬉しく思うのが“+α”の要素があることです。特にノンフィクション系は後日談的な加筆がなされてることも多く、こちらもそんな“オマケ”がありました。
東北に根差した地元新聞・河北新報の、震災の日々を綴ったルポルタージュ、ハードカバー版と図書館で出会ったのですが、当時、何かに急き立てられるように読み進めたのを覚えています。
徹頭徹尾「被災者に寄り添う新聞」であることを貫きながら、様々な視点での多重的な現地の取材状況が丹念に、当事者としての視点からも積み重ねられていて、重く心に響いてきます。
焼け跡が存在しない“焼野原”
何も無いところから立ち上る“生の臭気”
空撮カメラマンの“後悔”
福島配属であった記者の“懊悩”
一つ一つの“出来事”が全て、圧倒的な現実として、迫ってきます。決して正解を一つに集約することのできない“現実”として。情報を伝えるという事、事実を伝えるという事は、ジャーナリズムの本質なのだと、そんなことをあらためて。
“われわれは皆被災者だ。誰かを責めることはするな。”
ただ単に記事を書くだけが新聞の仕事ではない、情報を可能な限りに正確に伝えることが公益なのだ、と。そして、30年前の教訓を伝えきれなかったのではないかとの忸怩たる思いと、次の30年後に備えるために伝えていくとの、との覚悟の模索が、痛いくらいに伝わってきました。
ん、伝えていく使命と責任は報道機関だけに背負わせていいものではないのだろうと、「自助、共助、公助」との言葉を思い出しながら、考えさせられた、そんな一冊です。
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個人的な話になるが、この本を読み終わった5月3日は、28年前朝日新聞阪神支局襲撃事件の起こった日だ。当時学生で物を書く仕事に憧れていた私には、とても衝撃的な事件だった。中でも銃撃された記者が「指はあるか!」と叫んだという逸話が忘れられない。命の危険にさらされても、なお書くことへの執念は捨てない、その記者魂に圧倒された。
河北新報という名は2013年4月、横浜の日本新聞博物館で初めて知った。震災報道を伝える展示会が開かれていて、その紙面が掲示されていたのだ。生々しい紙面、そして震災の日も発行されていたことへの驚きで、息を吐くことしかできなかった。
この本に描かれた、紙面の裏にあった葛藤は想像以上だった。「紙齢(しれい:新聞の発行日数)を絶やさない」ことへの執念。組版基本サーバーのディスク装置が倒れ、制作が危ぶまれたが、新潟日報に紙面を作ってもらえるようになる。2004年の中越地震を経験していた新潟側の呼びかけで、2006年から有事には強力する協定が出来ていたのが役立ったのだという。このことが象徴するように、人と人との繋がりが震災後の河北新聞を支えていく。編集局、記者ばかりでなく、販売店など、新聞に関わるすべての人々を描くことで、新聞のもつ底力をより大きく感じた。
一方で記者たちの被災者に対する思い、人間らしい弱さや苦悩も生々しく胸に迫る。ヘリで空撮を行っているカメラマンの目に映る、学校屋上に非難した人々の作った「SOS」の文字。助けてあげられず「ごめんなさいね、ごめんなさいね」と言いながら写真を撮り続け、その写真の報道で助けになれればと祈っていたというが、現実は厳しかった。その人々が救出されたのは1週間後、その間ほとんど食べ物もなくスティックシュガーをなめていたという。その事実を後日知ったカメラマンは、自分の仕事が役に立っていなかったと苦しむ。
ここに描かれている記者や編集局の人々も被災者だ。水や燃料・食料不足の中、極限の状態で新聞を作っている。編集局と記者たちの温度差を感じた報道部次長が、アンケートを行い、その苦悩が明らかになる。精神も体力も限界の中で報道するという使命と、被災者に役立っているのかという無力さ。その狭間で葛藤する人々の言葉を細やかに拾い上げたことで、彼らの姿が浮き彫りになり、まっすぐに響いてくる。
河北、という言葉は「白河以北」という意味で、「白河以北一山百文(白河より北は荒れ地ばかりでひと山百文の値打ちしかない)」という侮辱的な言葉への反骨精神からなるという。東北人らしい粘り強さ、やさしさを持って、これからも紙齢を絶やさずにいて欲しいと心から願う。