投稿元:
レビューを見る
国際関係論でよく見られる、バランス・オブ・パワーというような現実主義的な観点を俯瞰し、批判している。そういう意味でリベラリズム論者と言えるのだろうか。なんか合点がゆかない。ただの理想主義者だろうか、コスモポリタンだろうか。
しかし、パックス・アメリカーナと言われるアメリカ覇権を肯定しているでもなく、国家の枠組みを超えた全人類の共通項を根拠に世界は繋がっていくことを、筆者は「トランスナショナル化」、「グローバル化」と呼び、一国の国益を重視するナショナリズムと対置した。なお、「インターナショナル」は国家間の交際と捉え、「トランスナショナル」と「ナショナル」の過渡期にあるという論調をとっていた。
筆者は、経済や軍事などのポリティカルな側面だけではなく、その元で絶えず流動的な文化的、社会的な動きに注目しなければ、現代世界を把握することは不可能と主張しているが、その流動性自体の抽象度が極めて高度な上、絶えず俯瞰的な視点を持ち続けていたために地に足がついた理論ではないように読み取れてしまった。
投稿元:
レビューを見る
世界史はえてして世界中の国家、地域、文明などを総括、グローバルヒストリーはいくつかのテーマを選んで歴史の動きをたどろうとするもの。
外交しは複数の国の政策を調べるのだから国際関係しと呼ぶべきだという考えもあったが、国際とはいっても国と国との交際を指しているのであり、国単位の歴史であることに変わりはなかった。
根本的には国際関係、とりわけ、地政学的な現象を通して世界の歴史を学ぶことに問題がある。
グローバル化と米国支配が同じでないことは1970年代を見ればよくわかる。
現実主義的な専門家が冷戦の行方を予測できなかったように、国際関係としての冷戦は、もともとグローバルな世界とは相対するものであり、人権そのほかの力が強くなっているときに人類の運命を左右するほどの影響力は失っていた。
投稿元:
レビューを見る
今を歴史家なりに分析した本。
グローバル化が進み、トランスナショナルな非国家主体の活躍が目立つ中、国家を中心とした枠組みは意味をほとんどなさない、という主張に違和感を覚えた。そばに中国があって、パワーに基づくメチャクチャな動きをしているからだと思う。
無論、これだけが全てではなく、草の根のレベルでの交流は活発なはずなので、筆者の主張も分からなくは無いが、国家も国際社会を規定する重要なアクターだと思う。
投稿元:
レビューを見る
「現代」とは何か、という定義を考える部分は、歴史家特有の視点もあって、興味深い。
著者の言うように、時代の流れはトランスナショナルな要素が強くなるのだろうが、その時に必要なガバナンスの姿が見えてこない。長い目で見る、大きな潮流を見出す、というのが歴史家の特権なのかもしれないが、「現代世界」とタイトルに謳いながら、一番必要な「今」なにをどうべきなのか、という切迫感、緊張感が感じられない。
自民党に代表される一部の右寄りの政治家への批判が随所に見られるが、ファクト(事実)、エビデンス(証拠)がともにみられず、論証性に乏しいのは残念を通り越して、呆れてしまうほどだ。
これで全米の歴史学会の会長。。。目次を見て、期待を持ってしまっただけに、読後は少しがっかりした。
・世界をつなぐ「歴史」・・・ならば、根強い国家中心の歴史記述の限界、矛盾への具体的な批判が欲しかった。
・現実主義的な国際関係論が有力になったのは第二次大戦前後のことで、それまでは理想主義的な解釈が影響力をもっていた。・・・いまだに主権国家の権力の大きさは、否定し得ない。国家対国家の安全保障は人間の安全保障の考え方が出た今も、切り捨てられない要素だ。
・1975年のヘルシンキ宣言の画期性・・・しかし、これも国家の枠組み。
・混血を避けて純粋な血を守ろうという疑似科学が流行したのも、当時の文化人類学者が民族ごとの「固有」の伝統に興味を示したのも、その意味では人類の本質への過渡的な誤解を示すものだった。当時はグローバル化が始まり、世界各地のつながりが従来にも増して進行していたので、この現象に対する深刻な不安感を反映していたのだろう。・・・純血と文化人類学を同列に論じるのは乱暴ではないだろうか。
投稿元:
レビューを見る
平時や戦時の出会いの記憶が、国境を越えた同世代の共通意識として人々の歴史観を形成していることは、多くの研究者や自伝などが示している。(p.117)
「歴史解釈」は常に変わりうるものだが、歴史そのものは変えることができない。「歴史を知る」ということは、過去の事蹟を学び、現代とのつながりを考えることである。過去が厳然として存在する以上、それはどの国の人にも与えられた共有財産である。その意味では、人類の歴史はすべて共有されているわけである。(p.149)
投稿元:
レビューを見る
歴史を論じる時、どうしても国家の興亡が中心になる。
どのような仕組みの国が、どう生まれ衰退または継続してきたのかだ。もちろん国際関係も抜きには語れない。
それだけ人にとって、国家ってものが重要と信じられているからだ。
そこにトランスナショナルな史観を提唱する一冊。冷戦の終焉は国家論や従来の現実主義の枠組みでは説明できないという。そうかなぁ? 俯瞰すればそうかもしれないけど、その分地に足が着いていないような気も。でもその後のエジプトの例もあるしね。パワーゲームだけでは説明できない時代の視点なのかな。
投稿元:
レビューを見る
現代哲学の流れにおいても、人間中心主義や西洋的理性中心主義の反省から、脱中心化的な動きがあった。歴史学のなかでも、国家間の「インターナショナル」の歴史から、国家の枠を超えた「トランスナショナル」、地球規模で環境などにも焦点を当てた「グローバル」な視点からの歴史認識への変遷が最近の動きという。また、軍事・経済面中心のハード・パワーから、文化や技術の影響力といったソフト・パワーに焦点を当てる流れにもなってきているらしい。
そうした中で、「歴史解釈」にはいろいろあれど、歴史自体は不変であり、歴史の事実について国家の枠を超えた人類の「記憶の共同体」の構築が必要である。
これを支えるのは、地球人としての認識であり、国家や民族という意識だけではなく、ジェンダーや障がいの有無などを超えた、人権意識の構築の重要性について語られていた。
近代から現代に至る歴史の流れの中で、情勢は着実に前進しているとの指摘はその通りだと思う。しかし、日本や世界の現状を見るに、そう安堵できるものではなく、これらの課題の解決に向けた言及がないところに物足りなさを感じた。
投稿元:
レビューを見る
糸井重里氏の「インターネット的」がこの本に着想を得たというのを読み、図書館で借りてきた一冊。
何時だったかチームラボの猪子さんが日本は「チーム」ではなく「グループ」で動いている。従って個の総体が集団になっている、シンクロやショーなどは強いがサッカーのチーム戦になるとクリエイティブな発想が生まれにくいという事を仰られていて成程なあと思った次第。
日本文化は「安心社会」であり「信頼文化」ではないという一見乱暴な議論。統計的な数値は結論ありきでちょっとなあという感じでしたが重要な指摘と感じました(日本がアメリカがという対比は正直飽き飽きですが)
山岸氏は日本は人が人を管理する相互監視、相互規制するような集団利益を優先せざるをえない構造によるとしている。それは日本の「恥」の文化にも表れている。
「社会的不確実性」をどのように担保するかは重要なテーマでありこの時に理解しておかないといけない定義が取引費用と機会費用である。
取引費用とは相手を信用する為の調査費用、また騙されるリスクもここに含みます。機会費用とはある行動に投資した時間&費用を別に投資した時に得られる費用の事。つまりどちらかに偏るかにより文化が高信頼性文化か低信頼性文化かが変わってくる。
個人の話でいけば「集団内部での関係の理解=関係性検知能力」と「集団外部での関係の理解=人間性検知能力」は全く異なる能力であり、前者はノンバーバルコミュニケーション能力で補えるのに対し後者はヘッドライド型知性が必要となるという所の指摘が一つ勉強になりました。
もう一つ面白かった所を一つ
「サンクコスト」「授かり効果」という一見非合理的な行動は人間の歴史の99%を占めている狩猟時代の適応である(非合理行動の適応合理性)
投稿元:
レビューを見る
米国に半世紀以上住んでいる日本人歴史家による、来るべき歴史のあり方のようなもの。グローバル・ヒストリーであるとかトランスナショナル世界主義、国際主義という言葉で説明しようとしている。トラディショナルな歴史感覚から見れば眉唾だが国家の枠組み、西洋的進歩観、大国の枠組みそういった枠組みで歴史の事実を解釈している時に生じる知の空白、国家という枠組みを越えたネットワークのもたらす新しい変動。国家という枠組みと連動している文化や風習宗教もそれに入ってくる。そういったものも考慮しながらの普遍的な人類像。グローバルといえば今は、米国の都合のことと思われているし実際そうなのだろう。しかし、ここに書いていることは踏まえるに値する。世界市民的感覚をどう共有するかそれを最上位に持って行って現状を転覆するようなことはナンセンスだけれどだからといって人として大切なことを国の枠組みにとらわれず見つめる視点も大切だと思う。
投稿元:
レビューを見る
歴史学者として評価の高い入江昭の新書。
ただし「歴史学者ってこういういい加減な内容の本を書く人なんだっけ?」と感じざるを得ない。
まず前書きで「どこまでが近代で、いつから現代になったのか」という問題に取り組むように見せて、その結論なく終わってしまうのがかなり違和感を感じた。ただ違和感はそれだけに止まらない。
「ソ連の崩壊を予測したものは誰もいなかった」という事実と異なる点、「言語、種族、血縁関係」などによるつながりを、「倒錯したつながり」とする点もかなり疑問。「父母を想う人は倒錯している」との指摘は、単に共産主義的なイデオロギーを「グローバル化」に置き換えて繰り返しているに他ならないのではないか? 血縁関係の重視を「倒錯している」とするのであれば、その根拠をしめしておくべき。
そもそも日韓の「歴史認識の問題」は、「歴史の事実の曲解」であって「認識の問題」とは異なるのだと思うけど。
例えば「大国と小国」という捉え方を「二項対立だ」と批判しておきながら、「現実主義とグローバリズム」の二項対立で話を進めるなど、もう途中で読むのやめたくなった。
あと「混血を進めていくべき」といった感じで、グローバリズムに軸足をおいて「べき論」で語られると読んでるこっちはかなりキツイ。極端な話「民族浄化を肯定しているのか」とも読めてしまう。つまりは「グローバル化が正しいのであれば、それは暴力を持って進めて良いのか」という問題があるのは当然なのだと思うが、それについては何も語らず。おそらくは著者がバカなので気がつかないだけだと思うと悲しくなる。
https://twitter.com/prigt23/status/1033247574113701889
投稿元:
レビューを見る
【由来】
・講談社のメルマガ
【要約】
・
【ノート】
・ニーモシネ
・歴史研究においては、もう、国家単位での把握ではなく、様々な主体による関係論から、ひいては環境も含めた全地球的な視野で捉えるようになっているらしい。グローバリズムが進むことによって、国家が相対的に弱体化し、また同時に、欧米のポジションも相対化していった。この結果、国家以外(例えばNGO)や新興国など、プレーヤーが増えていった。このため、世界史観が国単位から、よりそのスコープを拡張していった。
・これは、歴史研究において、目新しいパラダイムではないらしいのだが、自分は全く知らなかったので、興味深く読み進めることができた。また、「国家」の枠が問い直されているなと感じる場面は、インターネットをはじめとして、色々な分野であるのだが、歴史研究においても同様なのだと知った。
・「歴史家」というのが、どのような役割を果たしている存在なのか、これまで今ひとつ、よく理解できなかったのだけど、本書で自分なりのイメージができた。
【目次】
第1章 歴史をどうとらえるか
第2章 揺らぐ国家
第3章 非国家的存在の台頭
第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
第5章 普遍的な「人間」の発見
第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
結 語 現代の歴史と記憶
投稿元:
レビューを見る
2014.11記。
入江昭氏の(新旧)「日本の外交」と言えば、外交官試験のスタンダードな教科書。著者の作品はもちろんこれだけではないが、同じ新書でもあり、本書は事実上「三部作の最終作品」の位置づけに見える。
企業やNGOなど、国家という存在を乗り越えるアクター(Non State Actors)の動きなしに世界を語ることは不可能な現在、「『国益』の固守と発展という、伝統的な国際関係の概念が作り出した『パワーゲーム』はほとんど意味を持たなくなっている」(P.131)、と著者は問う。
国家というフィルターを通さない最新の歴史学では、地域間の人や物の移動をダイナミックに捉え直すのがトレンドだ。国家の役割を低く観ることに抵抗を覚える人もいると思うが、著者の主張が、こうした動きから目をそらせば日本が取り残されてしまう、との危機感を背景にしていることも同時に理解する必要があるだろう。
国家とは、「各自の地理と歴史とをとおしてのつながりがあるのだ、という原則」(P.56)に基づいて成立した。私自身は日本の「地理と歴史とをとおしてのつながり」に強い愛着と帰属意識を持っているが、同時にこの共同体がどのように変容していくのかについては、常に最新の知見を取り入れていきたいと願っている。
投稿元:
レビューを見る
アメリカ歴史学会会長を務めた入江昭。
1990年以降、
歴史研究に枠組みが変化。従来は国家単位。いまはより広範囲、太平洋とか大西洋、世界全体に広がった著述が増えている。グローバルとかトランスナショナル。
背景はそれまでの歴史研究が欧米中心だったのでは?世界の欧米以外の地位の高まりと合わせて。西洋をディセンターする試み。ジャレドダイヤモンド、ブローデル、そういう本が増えている。
そもそも国家とは何か?地理(境界線)と歴史(過去)によって定義された人間集団である。長い歴史の記憶を共有すること。
EUの本質は「記憶を共有するコミュニティ」。
アジアで日本を中心にこれが作れるだろうか?欧州にはもともとヨーロッパという概念がありがアジアにはなかった。今からはアジアから太平洋という枠組み。パシフィック・リム。
過去をどう共有するか。経済面ではアジア太平洋地域は巨大。世界貿易の5割以上。
しかし記憶の共有が難しいのでEUのようにまとまりがたい。むしろ日本は特別な国な回顧の動きも。
我が国、l我が民族最高的な偏狭なナショナリズム史観は世界から孤立する。
19世紀のグローバル化は西欧諸国の世界進出。帝国主義。
20世域後半から全てに国が、ヒトモノカネの移動が拡大。さらに国を超えたセクターでのグローバルなつながりが拡大。
例えばSNS、NGO、環境問題、パラリンピック、LBGTなど国家を超えた世界的ネットワークが生まれている。国家間の関わりを示す外交という言葉が時代遅れに。各国の国内の勢力同士が国を跨いで繋がる内交の現象が出現。それが目立ってきている。
グレタさん現象などは典型。
国家の繁栄を目指す国家主義と地球(グローブ)の繁栄を希求するグローバリズムは違う。ナショナリズムの対局。地球全体で考えるとそこに生存する全生命を視野に。プラネット意識、ぷらねたりずむという言葉も出ている。
例えば人権。戦前は人種毎に人権が違って見える普通だった。肌の色で人権み違った。
いまは、すべての人間は健康な生活を営む権利を与えられるべきだというが人権。
例えば医療。
誰でもどんな人でも医学サービスを受けれるというには最近のことでつい最近まで乳幼児死亡率は高い地域が多数。20世期末に15%が21世紀初頭は6%。
例えばハンディキャップのある人たちも包摂する取り組み。今では区別せずに包摂する方向。
ますます国単位ではないグローバル化が広がる。
20世期末に頭に世界人口は16億人。ww2の直後、世界人口は25億人。87年に50億人。いま80億人。2050年で96億人、2100年で110億人。難民ではなく労働力として移動する人が増えている。さらに十人に一人が海外旅行する時代に。留学生も増加。SNSの人口も爆発。
2019年、世界のインターネットユーザー数は43億8,800万人、SNSのユーザー数は34億8,400万人(普及率45%)
そしてトランスナショナルの動きが加速。あらゆるものが混血化していく。これは不可逆の流れ。食事やアートやスポーツも世界からハイブリッド化は身近に進んでいく。
その先にあるのは?
地球は宇宙の一部に過ぎな��という惑星意識、プラネタリティが高まるのも現代史の特徴。発見そのものはガリレオだけど全てに生命の共同体意識は最近。「一人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ」のアポロ の言葉があるがそれが実態をもち始める時代に。
環境意識もトランススナショナルな意識加速から生まれてきた。経済か環境か?で70年代から議論してるが、自然環境保全可能な枠組み内での経済発展というlサステナビリティという概念が誕生。
これから現代史を考える上で大切なこと。
歴史認識と解釈は違う。解釈は多様でも認識は一つであるべき。ファクト。
ごっちゃにしないことだ。
現代になってすべての国や人種を超えた人権意識、健常者と障害者、人と他の生命を優劣ではなく多様性を持って捉える動きが広がる。現代とは多様性の拡張ではないか。近代とは国家単位。
人類的記憶として可能性を感じるのは気候変動の克服。こも大変な経験は共通の記憶になり得るのではと考えさせられた。