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電子書籍
間違いだらけの教育論
著者 諏訪哲二 (著)
ニセ教育論が、なぜもてはやされる? 理想はどこでつまずくのか? 教員歴40年の「プロ教師の会」代表が、“カリスマ教育者”の議論を検証し、教育問題の正しい考え方を示す。
間違いだらけの教育論
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間違いだらけの教育論 (光文社新書)
著者紹介
諏訪哲二 (著)
- 略歴
- 1941年千葉県生まれ。東京教育大学文学部卒業。「プロ教師の会」代表。日本教育大学院大学客員教授。著書に「学校はなぜ壊れたか」「オレ様化する子どもたち」「学力とは何か」など。
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紙の本
私は固く決意している。重大な欠陥を持つ諏訪の著作を真に受けて冥界に転落する不幸な人が1人でも少なくなるように、この著者の著作に対し厳しい批判が存在することをきちんと形で残しておこうと硬く決意している。帯にいわく「小林よしのり氏推薦」。小林の化けの皮が剥がれて久しく、小林の名前を出すことは営業的にマイナスと思うのだが、このあたりの出版社の意図が理解できない。
2009/09/01 20:55
13人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は既に諏訪氏の著作を何冊も読んでいるが、いつもの様にこの人は自分の言いたいことをきちんと整理できていない。しかも諏訪は混乱する論理を強引に正当化しようと、一般には流通していない諏訪独特の造語を使って議論を展開するので読み手の負担は倍増する。ここでオツムの弱い人間は面倒くささが勝ってしまい諏訪に易々と折伏されてしまうんだろうが、一定以上の知的水準を持った人間は破綻した諏訪の著作をジグソーパズル宜しく読み解き、著者の言わんとするところと、その牽強付会な論理展開のどこに矛盾がありどこに問題があるのかまで解明してしまうのである。以下、ポイントを列記する。
【啓蒙としての教育、文化としての教育、真理としての教育】
諏訪によれば教育とは三つの段階に分かれるのだという。第一段階は「生徒になるための基本姿勢を身に付けるための教育」で諏訪はこれを「啓蒙としての教育」と呼ぶ。これが出来てはじめて第二段階の「知識を身に付けるための文化としての教育」に進み、これが更に発展すると最終段階の「真理を追究する教育」に進むことになるんだそうだ。これを明快に三段論法で簡潔にまとめてくれれば話が早いのだが、諏訪の論法は常にあっちへ飛びこっちへ飛ぶので、勝手に話を進める諏訪以外、なかなか彼の話についていけない。そして諏訪いわく、教師が最も苦労しアタマを痛め心を砕いているのは、生徒を如何に授業に向かわせ知識を身に付ける必要性を自覚させるかという「啓蒙としての教育」になるんだそうだが、この最も教育において困難な「啓蒙」段階をすっ飛ばして知識の獲得ばかりを訴える教育論者が諏訪は憎くて憎くて仕方がないらしい。以前は「知識獲得オンリー」の教育論者として彼が集中砲火を浴びせていたのが和田秀樹であるが、本書では和田ではなく斉藤孝と陰山英男がターゲットにされている。諏訪の論旨は単純で、この二人の教育論の最大の欠陥はいきなり「如何に効率的に知識を習得するか」から議論がはじまることにあるのだという。斉藤にしろ陰山にしろ、彼らが展開する教育論の対象は既に啓蒙段階を進んで文化段階にするんだ生徒、平たく言えば教室に入った途端、きちんと机について先生の言うことを聞き学ぼうという基本動作が出来ている生徒「のみ」を対象とし、それが出来ていない生徒がすっぽり抜け落ちていることがケシカランと諏訪はいう。
ここで若干諏訪の議論に進歩が見られるのは、以前諏訪は「野獣と同じ自然状態にある子供を文化的存在に仕立て上げるのは学校のみに出来る作業」などといっていたのがこれを訂正し「学校もしくは家庭」と「家庭もまた教育機関の一翼である」ことを渋々認めていることだ。私は諏訪のいう「啓蒙としての教育」は平たく言えば躾であり、これは幼稚園卒園までに各家庭が担う作業だ。普通の人間は小学校に上がるまでには「先生のいうことはきちんと聞く」という当たり前の作法を身につけているもので、これが出来ていないのは「異常」なのである。異常なまま大きくなった生徒が、世間で言うところの底辺校に「ご進学」遊ばし、諏訪はこの異常な彼ら彼女らを相手に生涯の大半を費やしたので、その苦労は分かるが、だからといってそれを持って斉藤孝や陰山英男に諏訪が罵詈讒謗を浴びせてよいことにはならない。そもそも啓蒙段階を卒業していない児童やその親は斉藤孝「声に出して読みたい日本語」や陰山英男「百ます計算の真実」なんかは読まないし、斉藤も陰山も小学校に上がる前に啓蒙段階を終了していない子供なんかそもそも相手にしていないのである。高度に発達した日本社会では、既に子供も家庭も様々な階層に分かれており、階層によって教育に対する要求は異なるのである。これを無理やり一律平等の枠に押し込めて見せかけの平等を演出しようとするところに無理があるのであって、だからこそ中学受験が華やかになり斉藤や陰山の著作に対する需要が出てくるのだが、これが諏訪には面白くないらしい。諏訪は昨今の風潮を「社会が消費社会段階に進んだ結果」などと完全に間違った前提に基づいて批判しているが、昔は高校生になっても基本的な躾の出来ていないバカな家庭のバカな生徒は早々に就学を諦め就職の道を選んでいたから高校に来なかったから見えなかっただけであって、この手の「出来ない坊主」は昔からいたのである。出来ない坊主が大学入学の準備機関である高校に紛れ込むようになったのは高校進学率が30%を越えたあたりから始まったのであって、それは消費社会とかなんとかではなく、単に高等教育に不向きな人たちにまで「高等」教育を押し付けているからだという単純な真実に諏訪はなぜ気が付かないのだろう。斉藤も陰山も出来ない坊主ははじめから相手になんかしていない。
それにしても諏訪の言う暴力オッケーな「啓蒙としての教育」とはどんなものなのだろう。私には映画「フルメタルジャケット」に出てくる海兵隊のブートキャンプみたいなもののように思える。そこにドリルインストラクターの諏訪が出てきて「お前らウジ虫はクソ程の価値もない」「私憎めば憎むほど、お前らは受験界のソルジャーになっていることだろう」などと大演説をぶつのは、それはそれで楽しそうなんだが。
【教師はアンタッチャブルと言い出す諏訪】
諏訪は「啓蒙としての教育」は暴力性を内在させたもので、時として教師は実力をもって生徒をねじ伏せ生徒の覚醒を促すことも許されるんだと言う。その例として彼はヘレンケラーを持ち出し、諏訪が受け持った埼玉県の底辺校には目も見えるし耳も聞こえるがオツムは覚醒前のヘレンケラーと同じ野獣がわんさかいて、諏訪はこの野獣たちを如何に人間に仕立て上げるかに生涯の過半を費やしたそうなんだが、ここで諏訪は教師は絶対であり、教師の絶対性を暴力的に子供に教え込むことは必要悪であると割り切っている。私はこれはこれで首肯出来る部分がある。問題は諏訪が渡邊美樹氏の教育論を批判するにあたり、教師は神聖不可侵の存在なのであって理事長などの上部機関から命令されることはあってはならないなどと言い出していることだ。これはどう見てもおかしい。渡邊氏が郁文館の教師たちに指示したことは、ある意味当たり前のことばかりだ。「授業中生徒に居眠りさせるな」「教室内の清浄を保ち生徒に整理整頓を徹底させよ」「授業中にマンガ本を読む生徒など論外」。これを指示した直後の見回りでは学校中でこの3点が徹底されていたが、二週間後に授業の見回りをしてみたら、全てもとの木阿弥に戻っており、しかもスーダラ生徒らの行状に教師は見て見ぬ振りを決め込んでいたので渡邊氏は激怒し「今度、指導を徹底できない教師は辞めてもらう」と言ったことに諏訪は猛反発しているのだ。「渡邊氏のやり方はソ連社会主義流の恐怖政治であるこれでは問題の解決にならない。教室のことは教師が一番よく知っており、教師には教師のやり方がある。外部の容喙はナンセンス」というのが諏訪の言い分だ。しかしこれが許されるなら学校はスーダラ教師の愚者の楽園、解放区となってしまう。昔は校長の権限が絶大でそれが故に学校ごとの統制がとれていた面がある。それを戦後破壊したのが日教組のはずなんだが諏訪の言い分はこの点については日教組そのものである。
紙の本
根本が間違ってる、著者の言い草は中学教師にまでなら許される
2009/10/01 12:40
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:それ行け!!残飯マン - この投稿者のレビュー一覧を見る
理屈ではない教育と理屈を積み上げていく教育、前者の重要性はわかりますがそれは中学生までに懇々とやるべきことでしょう。高校教師である著者が得意げに語るさまに違和感をきんじえません。そもそも何で9年かけてあとプラス3年もまだ理屈じゃないオラオラな教育者が必要なのか理解に苦しみます。軍隊だったら9年あればもう鬼軍曹どころか佐官の階梯を上ってる可能性もあります。ビジネスマンだったら取引先とも身内ともツーカーだし相当のてだれでしょうね。12年も理屈がいらないという理屈が分かりません。そもそも著者のような理屈が通らない子供が多すぎるのは高校進学率の異様さと普通化の無意味な乱立です。職業科や専科を増やし大勢の予備校講師にも劣る5教科教師を馘首を含めたリストラで処遇するのが先決であると思われます。国数英理社に意義を感じない習得できる適性が無い子(将来芽生える可能性もあります。)らが大量に進学している事実をもうちょっと直視したらどうなんでしょう。だからオラオラが必要だという論法ですが、もう16なんですよね、相手は。多分職業科だとオラオラな教師は要らないはずです。五科に適性がない子はそちらでは興味津々の可能性がかなり高いですから。とりあえずPCやセールスパフォーマンス・機械いじり等の稼げる教育を施す方向性が望ましいです。またこちらのほうが身体性や礼節と深く密接に関わりがありますので著者の好きな理屈ではない教育を授けられます。その際は著者のような方をはじめとする大量の席に着かせる事しか脳の無い五教科教師を排泄し社会人経験者の大量登用が必要になりますが。オラオラな教育を五教科で実行しようとするから無理が祟るんじゃないですかね。そういうのこそ職業教育です。踏み外したら稼げなくなるぞその一言でいいんですから。なんでなんちゃって高校生を進学校と同じ五科という土俵に乗せるの意味不明です。著者のような意味不明なオラオラ教育を受けて3年間棒に振って稼げない教育を受ける非進学校生徒、対して進学校生徒は5教科の思考力・教養プラス自助努力やアルバイトで稼ぐ力も得て颯爽と社会人になる、なんですかね、著者はこういう学力の無い子を更に弱体化させる体制がお気に入りなんでしょうか。理屈じゃない教育を五教科で行おうとする著者には呆れます。
紙の本
日本の教育を一律に論じることの不毛
2009/09/05 08:40
11人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トム君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間には様々な能力の格差がある。一番わかりやすいのが運動能力で、誰しも「毎日激しいトレーニングを積めば、君も100メートルを9秒台で走れる」などと説教されても「そんなアホな」と思うことだろう。ところが知的能力となると話は別で、猫も杓子もみなさんやり方次第で「啓蒙」され「学習」する能力・姿勢が身に付くみたいな幻想というより妄想を抱いてしまう。その代表例が、本書の著者、諏訪その人だろう。
諏訪は教育において最もコストと時間がかかるのが「野獣である子供を啓蒙し、生徒にすること」にあって、そのことを論じず、ひたすら知識の効率的吸収ばかりを論じる「教育論」は有害無益なんだという。そして本書では斎藤孝や陰山英男をひたすら攻撃し非難している。しかし、本当に諏訪の言うことは「正しい」のだろうか。たまたま私の職場の周囲には東大法学部や京都大学法学部、一橋大学法学部しかいないわけなのだが、彼ら彼女らに本書を趣旨を説明しつつ「学校で、あなたは啓蒙され『生徒』になりましたか」と聞くと、「はあ?」という表情をする。「無意識のうちになっていたのかなあ」「幼稚園で生徒になったのかなあ」「いや、幼稚園に入る前だよ」と諏訪のいう「啓蒙段階」など、小学校時代は当然、まして中学、高校なんかではまるで経験していないのだ。多くは中学受験を経験し、すでに小学校の高学年から「がり勉」を自主的に行い、中学校高校ではひたすら知識の吸収に努めた彼ら彼女らにとって、諏訪の言説は「いったいどこの話をしているんだよ」状態なのだ。
ここで確認しておきたいのは、諏訪は小学校の教師ではなく高校の教師だ。高校とは義務教育段階を終え、大学へ進学するための準備期間であり、そこに進んでくる「生徒」は、当然、自ら進んで学習する態度が身に付いているのが前提とされるんであって、そうでないのは高校生とは呼べないのである。以前どこかで日本の底辺校を視察した欧米の教師たちが「これを高校と呼ぶのか」と目を丸くしたという記事があった。日本の「高校全入」「高校無償化」推進論者たちは二言目には「欧州では高等教育は無償が当たり前」だの「欧米やOECD諸国では高等教育段階への進学率が80%を超えている」だのと主張する。しかし、ここで気をつけておかねばならないのは「高等教育」の定義である。フィンランドやフランス、英国など欧州では高等職業訓練学校というのがわんさかあって、これも「高等教育機関」と分類されているのだ。日本でいえば「ものつくり大学」みたいなもんだろう。日本みたいな「単線型教育」を敷いている国は欧州にはない。欧州は今も昔も厳格な階級社会である。
人間には格差がある。その格差は運動能力のみならず知的能力にも格差があるのである。だから教育というものも「人類みな平等」というありもしない妄想・願望を前提にして一律平等に論じるのではなく、「能力に応じた」議論をしなければならないと私は思うのである。
教育論で今や「大御所」となりおおせた苅谷剛彦あたりは「教育を通じて平等を実現する」妄想の虜となっているが、本来教育とはすればするほど格差が開く格差の増幅装置である。できる子はどんどんできるようになり、できない子は、結局できないのである。そう、丁度わたくしがいくら走りこんでもウサイン・ボルトのようには速く走れないように。
昔、日本の子供の大半は、ろくな家庭での躾も受けず、小学校や高等小学校教育を修了し、社会へと出された。そしてその後の教育は「社会」が担ったのだ。じゃあ、その「社会」がどういう教育をしたかといえば、平たく言えば「いじめ」「いびり」こそがその実体だったのだ。相撲部屋をイメージしてもらえばよい。あるいは自衛隊の訓練キャンプをイメージしてもらえばよい。イメージできない人はスタンリー・キューブリック監督の「フルメタルジャケット」を見てもらえば軍隊における教育の中身を知ることができる。先日も相撲部屋での「教育」が行き過ぎて死者がでたが、昔からこういうことはあった。ただ事件にならなかったのである。報道されなかったのである。家庭で教育できない、あるいは教育を放棄した家庭に生まれた子供は昔から戸塚ヨットスクールや相撲部屋みたいなところで教育してきた。そしてその過程で多くの「生徒になりきれない野獣」は死んでいったのである。諏訪がいた埼玉県の底辺校は、こういうたぐいの場所だったのである。
だから確認のためにいう。開成や麻布にいて東大を目指している生徒、あるいはこれに準ずる学校に通う生徒の「教育」の話(斉藤や陰山はこういう階層に向かって話をしている)と、諏訪みたいな「高校という名の相撲部屋」の話を混ぜて論じるのは不毛なのである。まぜるな、キケンなのである。