- 販売開始日: 2014/11/07
- 出版社: みすず書房
- ISBN:978-4-622-03970-9
夜と霧 新版
著者 ヴィクトール・E・フランクル(著) , 池田香代子(訳)
〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガ...
夜と霧 新版
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
商品説明
〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した。
世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。
私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。20世紀を代表する作品を、ここに新たにお送りする。
目次
- 心理学者、強制収容所を体験する
- 知られざる強制収容所/上からの選抜と下からの選抜/被収容者119104の報告――心理学的試み
- 第一段階 収容
- アウシュヴィッツ駅/最初の選別/消毒/人に残されたもの――裸の存在/最初の反応/「鉄条網に走る」?
- 第二段階 収容所生活
- 感動の消滅(アパシー)/苦痛/愚弄という伴奏/被収容者の夢/飢え/性的なことがら/非情ということ/政治と宗教/降霊術/内面への逃避/もはやなにも残されていなくても/壕のなかの瞑想/灰色の朝のモノローグ/収容所の芸術/収容所のユーモア/刑務所の囚人への羨望/なにかを回避するという幸運/発疹チフス収容所に行く?/孤独への渇望/運命のたわむれ/遺言の暗記/脱走計画/いらだち/精神の自由/運命――賜物/暫定的存在を分析する/教育者スピノザ/生きる意味を問う/苦しむことはなにかをなしとげること/なにかが待つ/時機にかなった言葉/医師、魂を教導する/収容所監視者の心理
- 第三段階 収容所から解放されて
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
小分け商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この商品の他ラインナップ
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
書店員レビュー
大戦時、アウシュビッ...
ジュンク堂書店新潟店さん
大戦時、アウシュビッツを中心とするナチ強制収容所を生き抜いた心理学者の体験記である。
強制収容所といえば、そこでの残虐行為などがどうしても先立って想起されがちであるが、本書はそういう極限状態に置かれた人間の心理的変化を克明に綴ったものである。
いつ終わるとも知れぬ絶望的な毎日を送る中で、被収容者たちは生きる目的すら失ってしまう。段階を追って心の反応が描かれる様は痛ましい限りであるが、そこで著者の言った、なぜあるいはなんのために生きるかではなく、生きることは我々からなにを期待しているのか、未来には何かが待っている、というのは被収容者たちに大きな希望を与える。人生の尊さを改めて考えさせられた。
人文科学書担当 西村
後世に残したい、人間の崇高さと尊厳を記録した名著。強く、心が揺さぶられました。
2009/04/03 21:57
32人中、30人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:東の風 - この投稿者のレビュー一覧を見る
アウシュヴィッツほかのナチス強制収容所で、被収容者の生活を体験した著者が、心理学者の観点から、その悲惨な状況を観察し、描写した一冊。極限の苦しみの日々を送る人間たちを、自分を含めてひたと見据えながら、人間の生きる意味とは何か、人間の尊厳とはどういうものかを問いかけ、考察していくのですね。150頁あまりの記述の哲学的な色合いを帯びた深みがもの凄く、あちこちで慄然とさせられました。人間らしい心が麻痺してしまう想像を絶した収容所生活の光景に打ちのめされ、その中でも、生きる意味を見出そうとする人間の勇気、人間の覚悟に接して、心が震えました。
収容所から工事現場に向かって、何キロもの雪道を歩く途中、愛する妻の面影、その微笑みを思い出すことで、ひととき、至福の境地へと至る著者。収容所の現場監督が取り置きしておいてくれた小さなパンが、自分に向けてそっと差し出されたとき、彼の人間らしい言葉、人間らしいまなざしにたまらず、ぼろぼろと涙をこぼす著者。このふたつのシーンは、とりわけ、胸がいっぱいになってしまった記述です。読みながら、こちらもたまらない気持ちになりました。
あるいはまた、次の記述などに。
<カポー(被収容者監視員 ※筆者註)は劣悪な者から選ばれた。この任務に耐えるのは、ありがたいことにもちろん例外はいたものの、もっとも残酷な人間だけだった。(中略)そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。>(p.5)
強制収容所の衝撃的な写真が掲載されていた旧版(1947年刊 霜山徳爾 訳)も読みごたえありましたが、こちら、シンプルなたたずまいの新版(1977年刊 池田香代子 訳)も素晴らしい。平明な言葉と文章。すっと頭の中に入ってきて、分かりやすかったことでは、本書のほうが上でしょうか。
いずれにせよ、後世にきっと残したい、人間の崇高さと尊厳を記録した名著です。本作品は、小川洋子『心と響き合う読書案内』(PHP新書)でも取り上げられ、見事な紹介がされています。
新訳の翻訳者、池田香代子先生は今のところ翻訳のミスの訂正に応じてくれてはいません。
2011/03/07 16:44
36人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みどりのひかり - この投稿者のレビュー一覧を見る
旧訳の霜山徳爾先生の「夜と霧」にも、新訳の池田香代子先生の「夜と霧」にも、同じところで翻訳のミスがありました。
霜山先生はそのミスを訂正して下さいました。これについては旧訳への私の書評で詳しく書いていますので、まずそれをお読みになって下さい。
旧訳への私の書評
新訳の翻訳者、池田香代子先生は今のところ訂正に応じてくれてはいません。
私が新訳の存在を知ったのは初版のだいぶ後になってからのことでしたので翻訳のミスを指摘し訂正のお願いの申し出をしたのは2007年8月でした。みすず書房の編集担当者は新しい人に代わっていましたが会ってお話しましたところ訂正する意思はお有りになりました。あとは、池田先生の意思次第です。
文章間の矛盾が明確だったからこそ、また重要な事柄だったからこそ、霜山先生と当時の編集担当者、吉田欣子さんは訂正して下さいました。
訂正の内容は旧訳への私“みどりのひかり”の書評に書いていますが、ここにも主な文を載せておきましょう。
それは霜山先生訳の「夜と霧」の196ページに書かれています。引用します。これを《2》の文章とします。
《2》
『これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。』
で、この部分は正しい文章であり間違いはありません。問題は、このページの一つ前のページ、195ページの文章です。これを《1》の文章とします。
《1》
『人間の善意を人はあらゆる人間において発見しうるのである。』
この文章は、《2》の『われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。』という文章と矛盾します。
《2》の文章では、フランクルは決して、あらゆる人間が善意の人間だとは言っていません。二つの人間の種族だけがいると言っています。つまり、善意の人間とそうでない人間の二つの「種族」がいると言っています。
だから、《1》の『人間の善意を人はあらゆる人間において発見しうるのである』というような、みんな善意の人とは言っていません。
で、結論としては、《1》の文章の
『人間の善意を人はあらゆる人間において発見しうるのである』
の、「あらゆる」と「人間」の間に「グループの」という言葉が入るはずです、ということです。つまり、ユダヤ人のグループにも、看視兵のグループにも善意の人を発見しうる、と言っているのであり、あらゆる人間が善意の人である、とは言っていません。
で、この私の考えを霜山先生も当時の編集担当者も認めて下さり、1986年の刊行のものから現在に至るまで、この部分は「グループの」という言葉が入れられ、
『人間の善意を人はあらゆるグループの人間において発見しうるのである』と改められています。
この、『二つの「種族」だけがいて、一方は善意の人、すなわち「残虐行為を嫌悪する種族」であり、他方はそうでない「残虐行為を好む種族」である。』という考え方はキリスト教文明圏では持ってはならない考え方であり、普通ならごうごうたる非難に見舞われるような内容です。ですが、これは、フランクルが何百万人もの命と引き換えに学んだことなのです。この学んだ内容は、事実は事実として認めて社会の制度に役立てなければ、またあの忌まわしいアウシュビッツが繰り返されることになります。
池田先生の新訳では、その《1》の部分は143から144ページに、《2》の部分は144ページから145ページにかけて載っています。
その部分をここに引用しておきましょう。
《1》
人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。
*
《2》
こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。
*
ということで、フランクルは決して「人間らしい善意はだれにでもある」とは言っていないということ。
そして、「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」ということを言っているわけです。
残虐行為を好む人間のことについては、脳のfMRIスキャンによって判ってきました。旧訳への私の書評の中にリンク先がありますので見て下さい。
ただ、残虐行為をして楽しむ人間とは別に、粗暴で直に怒りをあらわにする人がいますが、この人たちは本質的に残虐人間とは異なります。この人たちと残虐行為を好む人間を混同して、悪い子を愛と教育で良くしたと思い込むインテリ人がいますが、これは明確に異なります。フランクルも「夜と霧」(旧訳)の201ページ、202ページにその人のことを書いていました。引用します。
*
一人の仲間と私とは、われわれが少し前に解放された収容所に向かって、野原を横切って行った。すると突然われわれの前に麦の芽の出たばかりの畑があった。無意識的に私はそれを避けた。しかし彼は私の腕を捉え、自分と一緒にその真中を突切った。私は口ごもりながら若い芽を踏みにじるべきではないと彼に言った。(中略)「何を言うのだ!われわれの奪われたものは僅かなものだったか?他人はともかく・・・・・・俺の妻も子供もガスで殺されたのだ!それなのにお前は俺がほんの少し麦藁を踏みつけるのを禁ずるのか!・・・・・・」何人も不正をする権利はないということ、(中略)この真理の取り違えは、ある未知の百姓が幾粒かの穀物を失うのよりは遥かに悪い結果になりかねないからである。なぜならば私はシャツの袖をまくり上げ、私の鼻先にむきだしの右手をつき出して「もし俺が家に帰ったその日に、この手が血で染まらないならば俺の手を切り落としてもいいぞ。」と叫んだ収容所の一人の囚人を思い出すのである。そして私はこう言った男は元来少しも悪い男でなくて、収容所でもその後においても常に最もよい仲間であったことを強調したいと思う。
*
この人たちが残虐性を好む人間とは異なるのだということは、いっしょに暮らしていれば判ることなのです。インテリは彼らのそばで暮らしてないからそのことはわかりません。私はわかります。粗暴だけど本質的には良い人か、残虐性を好む人間かは身近に一緒に暮らしていれば判ります。
フランクルは、このことは重要と思ったからこそ文章を入れたのでしょう。
私”みどりのひかり”の著書はこれらの問題を考える参考になります。
般若心経物語
不落樽号の旅
“静かな書”
2008/04/12 18:41
11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:CAM - この投稿者のレビュー一覧を見る
1977年刊の原書新版にもとづき新訳されたものである。日本版は2002年11月刊、手許のものは2007年5月第10刷となっている。旧訳以来、書名とその内容の断片はよく見聞きしていたが、私は今回が初読である。こうした名著を思い立ったときに容易に入手して読めるのが通販書店のありがたい点である。「心理学者、強制収容所を体験する」という飾りのない原題がつけられた本書は「人間とは何か」を科学者の目から描いた“静かな書”である。この我々には現実のものとしては想像もできないような壮絶な体験が淡々と記述されている。 160頁程度のものであり、私は、手に取ったまま一気に読みきった。
よく引かれる「いい人は帰ってこなかった」という記述は冒頭部にある(P. 5)。 その他、静かな記述のなかに多くの鋭い指摘がみられる。 心に残った部分を挙げてみると、「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、・・・・わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。」(p.27)、「ほとんどの被収容者は、風前の灯火のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるをえなかった。原始的な本能は、この至上の関心事に役立たないすべてのことをどうでもよくしてしまった。」(p.53)、「自分はただ運命に弄ばれる存在であり、みずから運命の主役を演じるのではなく、運命のなすがままになっているという圧倒的な感情、加えて収容所の人間を支配する深刻な感情消滅」(p.94)、「人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」(p.114)、「人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。」(p.123)、「未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。」(p.125)、「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。」(p.130)、「ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけでなく、他の人やその愛にも言えるのだ。」(p.134)・・・・・・
もちろん、平和呆けと日常性の中に暮らす自分達がこのような心理を真に理解することは困難であろう。 類似の状況があるとすれば、不治の病と寿命の終期を宣告された時ぐらいであろうか。
高校生や大学生にぜひ読んでほしい
2003/01/09 19:41
10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ナチスの強制収容所でなにが起こったか、今や多くの人が知っている。
映画で、TV番組で、TVの戦争特集で、小説で、漫画で……。
今更もう新しい知見などない? そうだろうか。強制収容所に暮らし、そこから奇跡的に生還した心理学者が極限の状態の中で何を見、何を感じ、何をしたか、つぶさに知ることは、単に古くおぞましい記憶を手繰り寄せ反芻すること以上の意味をもっている。
第二次大戦後、「アンネの日記」とともにロングセラーとなって読みつがれてきたという本書を、恥ずかしながらわたしは読んだことがなかった。このたび、新版に基づく新訳が出版されたのを知って初めて目にしたわけだが、訳は平明で読みやすく、やはり評判どおりの深い示唆に富むすぐれたドキュメントだった。
ユダヤ人でかつ高名な心理学者である著者が、自分をも分析対象にして、強制収容所での人々の心理状態をつぶさに著していく。いわば、「参与観察」の結果が本書の内容なのだ。ここでは、絶望の中で人はどのように生き延びるのか、あるいはその絶望ゆえにどのように命を落とすのか、心理学者の克明な描写が胸をえぐる。
平和な時代、「極限の状況」などに陥るはずのないわたしたちですら、ここに書かれた内容が、人はいかに生きるべきかという普遍的なテーマにつながることをひしひしと感じる。ある意味で人はいつだって極限状況に陥りながら生きているのだ。希望と絶望は常にわたしたちのまわりをゆらめき、大きな重圧に、あるいはさまざまな些細なことにすら心が押しつぶされそうになる。
心が疲れているときに読めば、きっと励ましになることが書いてある。いわば説教臭い教訓が書いてあるともいえるのだが、その言葉が空疎に響かない。ホロコーストを生き延びた人の魂の奥底から出た言葉には普遍的な力がある。
収容所で人間の尊厳を生きのびさせる力が<知性>であったことを心に刻もう。人のよすがとなる最後の品格を支えるものは知性だ。そして知性は豊かな感性に裏打ちされる。
わたしが教師なら、夏休みの課題図書に選定したい。若人よ、ぜひ読んでほしい!
そして本書を読んだら、次は「カフカの恋人ミレナ」(平凡社ライブラリー)を読もう。ナチスの収容所で最後まで誇りと明るさを失わなかった知性溢れる女性の生涯が描かれている。
あのとき、なにが起こっていたのか
2017/04/22 09:57
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さびねことほんだな - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画を見ているかのように、フランクル博士が見た情景を再生できる一冊です。
難しい本なのだとばかり思っていましたが、新訳のおかげか、ただ読む分には全くストレスは感じません。ただ、描き出される情景があまりにも克明なのでページをめくる手が何度か止まりました。
歴史を繰り返してはいけない。なぜ?
その答えがここにあると思います。
夜と霧 新版
2015/08/30 23:00
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Carmilla - この投稿者のレビュー一覧を見る
ジークムント・フロイトに精神医学を学び、ウィーン大学医学部精神科教授を務め、学者としても「実存分析」を唱えるなど、世界の精神医学・脳外科医学に多大なる貢献をしたヴィクトール・エミール・フランクルは、ユダヤ人の血をひくが故に、ヒトラー率いるナチス政権から様々な迫害を受けた。職を解かれ、ドイツ人に対する治療を禁止された。それのみならず、結婚9ヶ月語には強制収容所に送られた。両親と妻はその後別の収容所に送られ、再会することはなかった。彼は悪名高きアウシュビッツ収容所に送られが、幸運にも3日後には別の収容所に送られ、無事に生き延びた。
この本は、収容所生活を淡々と綴ったものである。収容所での生活は「生きているの不思議」といわれるほど過酷なものであるが、これだけ酷い目に遭ったにもかかわらず、彼は政権に対する恨み辛みを一言も言わず、淡々と日々の出来事を綴っている。その姿勢に、胸を打たれる人は多いだろう。本書は1956年の初版以来、長らく霜山徳爾の翻訳で発行されていたが、12年前に池田香代子の新訳が出たが、ここで紹介しているのはそちらの方である。かように過酷な体験をしたのに、なぜ彼はユーモアを絶やさないことが出来たのか?それが不思議である。
人間の本質を真実から記述した哲学書
2012/09/24 23:55
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:pappy - この投稿者のレビュー一覧を見る
ユダヤ人強制収容所での生活体験から過酷な環境に生きる入所者の心理を心理学者の立場で綴ったもの。限りなく死と隣り合わせに生活する中でも徐々に「慣れる」ことができたことから、「人間はなにごとにも慣れる存在だ」とするドストエフスキーの言葉を裏付けた。
文字通り必死に生きようとする中で、人間の感動は消滅するが、一方ではささやかな出来事にも感動するようになる。もはやなにも残されていなくとも愛する妻に思いをはせることは、心の支えとしての伴侶がいかに貴重かを思い知らされる。人間はひとりひとり、どのような状況にあっても、自分がどのような精神的存在になるかについて、何らかの決断を下せるのだ、とは、つい境遇に甘えて不平を口にしてしまう我が身に重く反省を強いる。
強制収容所で亡くなった女性の「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」という言葉には、つまらないことをくよくよと悩んでいる我が身を思わず羞恥心で満たした。
生きる意味を考えるのではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、との命題には今後も考えていく必要があるだろう。苦しむとはなにかをなしとげること。つまり苦しむことでさえ課題だったのだ。
極限状況で詳細に自分と他人との心理を観察して分析した記述には真実があふれており、机上の論理を積み重ねただけの多くの哲学書が色あせて感じられた。
収容所体験を超えて勇気を与えてくれます
2003/03/08 23:15
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:矢野まひる - この投稿者のレビュー一覧を見る
旧版は確か中学生の頃読んだ憶えがある。当時は子供だった&アホだったので(今もだが)、よくわからなかった。同じ頃読んだ「アンネの日記」のほうが、書き手との年頃が近いこともあって、こんなに隠れなくちゃいけなくても、それでもやっぱりいろんなこと思ったり感じたりするよねえ、とごくシンプルな共感の仕方をしてたような気がする。
で、「夜と霧」。強制収容所に収容された精神科医の先生の手記です。半世紀もの間、美しい本として読み次がれてきた古典なのですが、その意味があらためてわかりました。収容所での人を人とも思わないすさまじい体験が描かれるのですが、言いたいのはそういうことじゃない。
この先生、「こんな状態でも、それでも人間は人間としての尊厳を失わないものなのか」とただただ驚愕しているのです。そういう本です。
後書きも素晴らしい。旧版訳者霜山徳爾氏と新版訳者池田香代子氏がおふたりとも書いている。霜山氏の著者との思い出や、新訳に対する暖かい理解と思いやり、池田氏の著者と霜山氏に捧げられる敬意の言葉に、じんと来てしまいました。旧版もあらためて読んでみたくなりました。
名作
2016/02/02 11:11
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:onew - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校の教科書で読んだ以来、6年ぶりに手に取った本。精神分析学者がナチス強制収容所にいた時の体験をつづった名作。今回読んだ池田訳は高校生向けに書かれたとのこと。読みやすい。昔、高校の教科書に載ってた「夜と霧」は霜山訳かな?
極限の人間
2016/01/31 22:49
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちくわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
先日読んだ『エンデュアランス漂流記』にも通じるが、極限状態でどのように目的意識を持つことが重要なのか考えさせられる。
ただ、南極で沈没した船と違うのは、相手が同じ人間だということ。また、家族や仲間が待っていてくれているかどうか分からないということ。
同じ人間に人間以下に扱われても、人間の尊厳を守ることの出来る人とすぐ諦めてしまう人。ほとんどの人が先も見えない状況で生きることを諦めてしまう。
加えて、家族や大切な仲間も同じ境遇にあるかもしれないという状況で、心理学者である著者がどのように考えていたのか。
最後に記載されている文章。
「人間とはなにものなのか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とはガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。」
人間の魔性の狂気
2014/06/11 18:31
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:笑顔さん - この投稿者のレビュー一覧を見る
同じ人間がこうも同じ人間に卑劣な残虐な行為をするのは間違っているし、する方もされる方も、取り返しがつかない傷がつく。
尊厳ある人間とは
2014/05/01 13:21
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:座敷童子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
終わりの分からない収容所で、人はどれだけ人として生きていくのか、という命題に対し、自分ならどうかと絶えず問い合わせをしながら読み通した。
精神力の強さが最後に生死を分けることの事実に、そして精神の崇高さがたとえこの世の地獄という状況下においても、幸福さえも感じられるという事実に愕然とした。
そこに宗教という形而上的な存在が介入してくるのかもしれない。
精神医学者が書いた書籍ということもあり、極限状態の人、開放された後の人、それぞれの人としてのあり方に、冷徹な観視感が見えてくる。
戦争はどれだけ人を貶めることが出来るのかという警鐘の、必読書。
安倍晋三に、そして戦争オタクに薦めたい。
夜と霧のなかへ。
2005/03/03 22:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
『表層批評宣言』という本のなかに、「人は、問題を、思考し行動することの善意によって埋めるべき部分的な欠落だと思い、解決がその欠落を充填することの最終的な結論だと思いがちである。……なぜ思考はそうまでして執拗に欠落と戯れたがるのか。理由は簡単である。誰も、欠落を真の頽廃とは思わず、いつかは必ず何らかのかたちで埋めうるものと信じるがゆえに、それを本気では恐れていないからである」という文章がある。
ともすると物事を抽象化して語りたくなってしまう(「この欠落を埋めるためにXをすれば、人は正しい方向へと向かうはずだ」云々)、そもそも言葉は抽象化するものなのだから仕方ないじゃないか、でもそれはまずいのです、そのことで傷ついてしまうものが必ずある、そのことにあまりに人は鈍感すぎる、あるいは敏感すぎるから耐えられずに顔を背けてしまい、いつか忘却してしまいかねない……「ホロコースト」というふうに、あるいは「ナチスによるユダヤ人(だけではない)大量虐殺」というふうに、それとも「当時ユダヤ人はドイツにかぎらずヨーロッパ各地で憎悪の的となっていた、狂った時代だったのだ、そこから私たちは学ばねばならない」というふうに……いかように表現しようとも、そこでは何かが確実に欠落しつづけ、何かを決定的に損ない、傷つける。ぼくはいくら無理をしても「当事者意識」をもてない、無理に「当事者意識」をもてたのだと錯覚して熱く語ることは騙すことであり、裏切りだと思う。「外部」にいるわけではないのに、語ろうとするときに「外部」からの言葉を装わなくては語ることのできない(許されない?)自分がいる。
>(129頁)
この文章をたとえば今の“自分”(あるいは誰か)と重ねて読もうとするとき(「読む」ということは、多かれ少なかれそういうことを含むと思うのですが)、そこには(乱暴な言い方をすれば)収容所の「外部」から読んでいる自分がいる。
自由はいつも「外へ」という志向をもつように思える。囲いのなかで「外へ」と志向しつづけることが「自由」の姿なのではないか、と思いもする。「外部」がないのではなくて、自分が「外部」にいて、どうしても囲いのなかに入ることが不可能な状態におかれているように思える、だから自由に語ることができないのかもしれない。
レヴィ族というイスラエルの一部族名に由来する名前をもつエマニュエル・レヴィナスという思想家は、「ホロコースト」を抽象的な(乗り越えられるべき)問題としてではなく、具体性において(いま、ここにおいて?)考えるべく促す文章を紡ぎつづけた人だと思うのですが、彼が「他者」といい、あるいは「顔」といい、「自由」というとき、そこにはたしかに「ホロコースト」があると感じる。
>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)
両親の生、妻の生、子供たちの生を収容所に奪われ、ひとり収容所の「外」を生きのびることを余儀なくされたフランクルの言葉に耳を澄ませる。そこにレヴィナスがあのような難解に思える文章(エクリチュール)を紡ぎつづけたことを重ねつつ、「自由」について、抽象化への抗いを忘却することなく(できるかぎり「内」において)考える。
この体験は、永く後世に伝え、戒めとすべき
2003/03/30 19:56
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間の精神は何処まで高貴に、また下劣になりうるものか。第二次世界大戦修了後58年経ち、ホロコースト、アウシュヴィッツ、といっても、何のイメージも持たない人が、多くなっているだろう。人間が人間に対し、どれほど残虐非道になり、残酷且つ愚劣になるか、ここに歴史の悲惨な現実が在る。同じ人間として、自分の中にものこの性向があり得ることを、恐ろしく思う。また、強制収容所の組織的集団虐殺の中で、いつ殺されるか分らない極限状態に在りながら、このような心理学的観察と分析をなしえた精神力と、人間としての尊厳を失わなかった著者に、感動を覚える。この体験は、永く後世に伝え、戒めとすべきである。