紙の本
生きるということは決断することだと僕に教えてくれた良書。
2012/02/26 16:25
22人中、22人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶにゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1905年にウィーンで生まれた精神科医ヴィクトール・フランクルは、第二次大戦の際、ナチスによって強制収容所に入れられ、ほかの多くの人たちと同様、死と隣り合わせの状態で生き抜いた。解放後、彼はその体験を一冊の本に綴り(『夜と霧』)、熾烈な極限状態の中にあって人がなお生きつづけるとはどういうことなのか、人は何故生きることができるのか、死ぬことと生きることへの問いかけを世界中の人々に発信した。そして、精神療法医として、あるいは思想家として、独自のロゴセラピー(実存分析)を展開し、1997年に92歳の天寿を全うして逝去した。
この書物は、解放の翌年1946年にウィーンで行われた講演の記録である。一頁一頁、一行一行、一言一言に、けっして人生に絶望してはならないというフランクルの熱い思いが込められていて、僕は深い感動を覚えた。
人生に意味があるかと問うのは間違っている。人生のほうが私たちに意味を問いかけているのだ。私たちはその問いに答えなければならない。生きていくということは、問いに答えることにほかならないとフランクルは語る。過去でもなく、未来でもなく、今この現在この瞬間に、ほかのどこでもないこの場所で、ほかの誰でもない自分自身が、責任を持ち、決断をして、人生からの問いに答えること。「私は人生にまだ何かを期待できるのか」と問うのではなく、「人生は私に何を期待しているのか」と問うこと。そして、人生に意味があるのなら、苦悩にも意味があると、フランクルは穏やかにかつ力強く主張する。人間の苦悩は比較できない。無意味な苦悩と意味のある苦悩との違いは、まったくその人次第で決まるものだと言う。「苦悩が意味をもつかどうかは、その人にかかっているのです。その人だけにかかっているのです。」
この本の題名『それでも人生にイエスと言う』は、ブーヘンヴァルト強制収容所の囚人たちが作り、その収容所で唄われた歌からとられている。そこはナチスが作った数多の収容所の中でも、残虐で悲惨なところだったらしい。「フランクル著作集第一巻」(みすず書房)には各地の収容所内の思わず目を覆ってしまいたくなるような写真が数頁にわたって収録されているが、唄を歌うという行為がはたして存在できるのかと思わざるを得ないくらい、ひどい光景である。
虐げられ、裏切られ、家畜以下の扱いをされ、呼吸をすることすら辛いなかで、彼らは、解放される日まで歌いつづけた。
<それでも私たちは人生にイエスと言おう。
なぜなら、その日はいつか来るから。
そして私たちは、
自由になる。>
たとえどんなに悲惨な状況に陥ろうとも、よしんば死がすぐそこに迫ってこようとも、人間は人生にイエスと言うことができる。
この本を読めば、この本と『夜と霧』を読めば、それが少しも不思議なことではないということがわかってくる。
紙の本
ナチスの強制収容所から生還し『夜と霧』を著した精神医学者による講演集。「私は人生にまだなにを期待できるか」ではなく、「人生は私になにを期待しているか」を問えという指南。
2001/06/24 12:45
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「なぜ人を殺してはいけないのですか」と問う子どもがいたとき、「バカヤロウ! 当たり前じゃないか、自分の胸に手を当てて訊いてみな!」と返せる大人はいなかったのだろうか。
本を読んだとき、絵を見たとき、音楽を聞いたとき、「わかる」のではなくて「感じる」のが大切だというのと同じように、「わかる」ように説明するのではなくて「感じる」ように訴えることが必要なことがある、きっと。そう思っていた。
しかし、それでも尚、自分の受けた教育の範囲では、「感じる」というあやふやな状態を見下して、「わかる」という理性を尊重する傾向が強くて、そう明言することに一種の恥かしさがつきまとう。
「超意味」ということばを著者のフランクル博士は使っていたらしい。それは信仰の域に入ってしまう概念である。科学的・論理的なものではなく実存的に確信されるものとして、世界には意味があるのかないのかという議論を否定し、「世界は意味を超えている」という立場に博士は立った。それが大きく私を揺さぶる。
以下は、巻末に附された訳者・山田邦男氏の解説による。
フロイトは人間の無意識のなかにリビドーという衝動的なものを認めたが、フランクル博士は衝動的なもののほかに精神的な無意識を見た。それが自我、実存に結びついていく。
その精神的無意識の典型的な例として博士が挙げたのが「芸術的創造(パトス)」「愛(エロス)」「良心(エートス)」である。
「良心」とは、「具体的な人格が彼の具体的な状況においてもっている、そのつど1回きりの可能性」であり、人間を超えたもの、人間の外から聞こえてくる声。それは、無意識のうちにすでに志向されている神だということだ。
ある強制収容所の所長が、自腹を切って近くの薬局で薬を買って囚人のためにそれを調達していた。一方、囚人のなかには仲間を売って自分の待遇の改善を図ったものもいる。その人がどんな人間であるかが試された極限状態を体験した人が、自由になった翌年に行った3回の連続講演を収めているのが本書である。
終戦直後の精神的な混乱のなかで生きていくことの無意味さを語るニヒリズムが横行するなか、外見的な成功ではなく、内面的な成功を収めるため、自分たちはどのように内面の改革を推し進め、それを発達させていくべきなのかを説いた博士の闘いぶりが伺える。
実に密度の濃い話で、浮わついた人びとの心を上手にすくい上げて煽動していくような昨今の人生論まがいの本や、政治家たちの発言とはダンチの内容だと思った。
雨が降る日に「おてんとさまに訊いてみな」もないものだと反抗した幼い日々があったけれど、そういうことばを自信をもって子どもに吐きつけていた人が多くいた時代、叡智が人びとの日常生活にしみわたっていた時代の空気をなつかしく思う。
そういうことを言うと刃物で切りつけてくるような人々を育ててしまったのは、やはり普通の人の顔をした私たちなのだろう。
せめて自分の子は「おてんとさまに〜」と叱りつけていたい。
電子書籍
生きる意味とは何か
2021/03/21 21:05
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投稿者:あゆみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著作の講演をまとめたような本。
そのため話の流れが細切れになっており、個人的には内容が深く入ってこないと感じた。また、日本語も若干分かりにくかった。
人生とは何か?で悩んでいる人は読んでもよい本だと思います。
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フランクルさんの体験した"それ"は、たぶん僕の想像を超える重さを持ったものだっただろう。
僕の普段体感している労苦とは比べ物にはならないものなのだろう。
そんな人が言う「人生にイエス」だからものすごく意味を持つ。
僕はまだまだこの境地には達していない。
フランクルさんのこの言葉を胸に、がんばるしかないか。
「人生は私に何を期待しているか?」
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本文は読めたが、解説が難しかったので、解説は読んでいない。人生にはそれ自体に意味があり、いつ何時でもその意味を問われ続けていて、人生の答えを差し出すために私達は生きている。というようなこと?だから生きる意味がわからないと自殺をすることは、オセロの勝負中に、盤をぐちゃぐちゃにしてちゃぶ台返しをするようなもの。と理解した。
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精神科医のフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年に行った公演を収めたもの。アメリカ図書館協議会の発表によれば、歴史上これまで最も多く読まれた本のベスト10に入ると訳者の解説にあります。“生きることの意味”について様々な事例を基に書かれています。「人間は楽しみのために生きているわけではない。だから、楽しみがないからといって生きる意味はなくなりはしない」「しあわせは目標ではなく結果にすぎない」「生きるとは人生が出す問いに答えること。人生が私たちに出す問いは、その時々、との人その人によって違う」などなど、こころに残る言葉がちりばめられた1冊です。
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すばらしいの一言につきます。フランクル入門書でしょうこれは。帯にもかかれていますが(^^; 私もこれから読めばもっと理解できたでろうと。まずはこの本に出会えたことに感謝。昨日も軽く書いておりますが、その辺のなんちゃって人生本を読むくらいなら、フランクルのこの本を読んでみてください。
人間の汚く残忍な部分を見、非常で壮絶とも言える環境におかれて、いかにして人間としての尊厳を自身で保てたか。あたまでっかちの人生論よりも、身を削った本当の意味での生き様からみる、"生きる意味と価値"を話しています。1946年、強制収容所から開放された翌年にウィーンにて講演した内容がまとめてあります。この過酷な時代に、生き延びそしてなぜにここまで問うことができたのか、この本を読んでいるとだんだんわかってきます。そして、この題名にも。・・・・それでも・・・・自らの人生が本当によかった・・という瞬間があるのだと言わしめるものがあります。
私は、163ページから218ページまでの訳者:山田邦男氏の解説を先に読まれることをお勧めします。55ページにも及ぶこの訳者の解説、私はもちろん後に読んで失敗した!とおもいました。推理小説でもなんでもないので、この訳者の心意気から読まれると、もっともっとフランクル氏を理解できるかと思いますし、自分の今までの人生そしてこれからの人生について、また、今この瞬間の自分の道に悩む人たちにはとっておきの書であり、この本を読むことに多大な力を添えてくれているのがこの訳者の"解説"の部分だと私は感じました。
私は160ページの"責任のよろこび"という項目の部分に、はっとさせられました。常日ごろ、いや、私が仕事を始めたころからずっとずっと思っていたことであり、こころがけていたことだったから。
人間の責任とは、おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものでもあります。おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。・・・すべて永遠の意味がある決断なのです。
・・・将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。
私はフリーで仕事をしております。様々な業界と様々な人に出会います。そのときに、常に、自分がここに"いる"ということで、一人でも、そう目の前にいる一人でも多くの人が、プラスになるものを備えられるようにと願います。そして、そのようになって欲しいとおもい、尽力することをモットーとしています。だから、自分自身が瞬間的に決断した大きなこと、小さなことに対して、絶大なる責任を負うことを自ら望んでいます。
人間はもともと怠惰なのでなかなか責任を負おうとはしません。そこで、責任教育がはじまるのです。・・・責任を、そして人生を肯定するのは難しいことです。
というフランクル氏。自らに重い枷を貸すことは大変な力がいります。自分が正しいと"決断"し、そこに自己の"責任"を負わせ、人文の"人生"を"肯定"するということには、勇気がいるから。
人生はそれ自体意味がある���けですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。
とくくられています。
最初この題名の意味が理解できなかったこと。そして、このフレーズがブーヘンヴァルト収容所の囚人がつくって歌った歌からとったものであること。それを知ったとき、とても胸が熱くなりました。人間はなんのために生きるのか、幸せとはなんなのか。そういうことは、人生を"まっとう"した"結果"であり、今現在わかるものではないものだ。というフランクル氏のとても深い深い話し振りに感動しました。
先に購入した『夜と霧』については、もうしばらく後に再読することにしよう。もっとフランクル氏を理解できない限り、あの本は読めないとそう思います。
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■生きることとは
A.人間は楽しみのために生きているのではない。ふつうの日常生活、快楽よりずっと不快感を体験している。
B.しあわせは目標ではなく、結果にすぎない。生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務である。
C.私は人生にまだなにかを期待できるのか。コペルニクス的転換→人生は私に何を期待しているか
D.自殺する人は、人生のルールに違反しています。人生のルールは、どんなことをしても勝つことではなく、戦いを放棄しないことである。
E.私たちが不死の存在だったらどうなっていたか、と自分の胸にきいてみましょうきいてみましょう。
F.長生きしただけでは意味のある人生にならない。
G.死は生きる意味の一部になっている。苦難と死こそが人生を意味のあるものにする。
H.人間のあらゆることにもかかわらず、人生にイエスと言うことができる。
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これは読まねば…!(2010.8.23)
読み終わった(2010.9.10)。
想像していたのとちょっと違っていた。
精神分析医のフランクルが、戦争終了後間もないうちに彼が行った講演をまとめたものであるが、平易な言葉で「生きることの意味」を問いかけた哲学書といっていいだろう。
あの強制収容所を生き抜いてきた氏であるからこそ、その言葉は非常に重いし、またこのもとになった講演が戦後間もない時期(フランクル氏自身、解放されて間がない時期)であることに驚かされた。
人間はどんな極限の中にあっても、人間らしさを失わずに命をつなぐことができる強い力を持っているのだということを知らされた、何かにくじけそうになった時、勇気をくれる本。
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『夜と霧』よりも何となくふーんと思って読めたかもしれません。というか『夜と霧』はどっちかと言うと事実を記したものだし、こっちは講演記録ということもあって彼が実際どのような考え方をしているか書いてあるので、そもそも別モノかぁ。彼の思想を知るという点でとっても分かりやすい、いい本でした。
私にとって一番良かったのは実は解説部分…。まだフランクルの考えた方が全然きちんとなってないので、整理してまとめてあったのは助かったし、しかも他の著作のどこからかも明記した引用がとっても便利。また他のも読んでみないとなーと思いました。
生きる意味があるんだということを「生きる意味がないと思われそうなケース」を一つ一つ出して、それを否定するという方法で述べていました。
ただ、そこまで人生を否定してはいなくても、ただ漫然と生きている場合についてはどうなのかなーと思ったり。多分彼の思想的背景とかを考えるとそんな場合はあんま重要じゃなかったんかな。なのでじゃあ今はどう考えたらいいのか、考える余地が残されてると思います。
そうやって考えるきっかけをくれた本だし、難しくなくて読みやすいので、良かったです。
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人間はあらゆることにもかかわらず人生にイエスという。強制収容所の運命の下、困窮と死、身体的心理的な病気の苦悩。いくつかの例をあげてあるが、どれも・・・・壮絶。それでもイエスというの?というものばかり。ちょっと重すぎたかな。というより自分の悩みはちっぽけ。
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著者は、アウシュヴィッツ収容所での体験を語った「夜と霧」と共に説明されることが多いけれど、こちらの「それでも人生にイエスという」では、収容所の話しに限定せず、もっとより広い範囲で人生の意味ということについて語っている。
ここで言われていることで最も衝撃的だったのは、人生の意味というのは、どう行動するかという能動的な行為によってのみではなく、自分に振りかかってきた運命に対してどういう反応を示すかという受動的な行為によっても、作り出すことが出来るという主張だった。
だから、たとえ収容所で行動の自由を完全に奪われている場合でも、病気で五体が動かせない状態であったとしても、それでもなお、死ぬ瞬間まで、どんな人間でも、生きる意味というのは創造出来る。
この本に書かれていることというのは、今よりもさらに、これから年と重ねるほどに、実感としてより深く理解が出来ていくものなのだろうという気がする。
こういう思想は、無一文になったとしても死ぬまで持ち続けることが出来る、本当の財産であると思う。
決断にあたって決定的な役割を演じたものがあります。それは、他者の実存、他者の存在、つまり他者が示す模範です。それは、なにを語りなにを書きしるすよりも効果がありました。というのも、存在はいつも、言葉より決定的だからです。(p.14)
ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。(「タルムード」より)(p.15)
もう、「私は人生にまだなにを期待できるか」を問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(p.27)
各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。そして、より大きな活動範囲にほんとうにふさわしい働きができなかった人の人生は、もっと狭い範囲でもそれをほんとうに満たした人の人生にくらべると、まっとうされずに終わるのです。(p.32)
私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められないような事態はない」とゲーテはいっています。それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。どちらの場合でも、私たちは運命によって、不幸によって精神的に成長できます。(p.39)
家にいて、ほとんど歩けず、窓ぎわの肘掛いすに座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。それでもやっぱり、子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています。このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。うちのおばあちゃんである彼女は、このような愛情に包まれて、代理不可能でかけがえのない存在なのです。(p.101)
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2006/11月頃
うつのどん底、深夜に本屋にて手にとった一冊。
当時の心境をタイトルが表している。
内容はまだまともに読んでない。
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2017年52冊目。(2読目)
大きく迷走していた時期に読んでだいぶ支えになったことを思い出し、再読。
人生に意味を問うのではなく、人生からの問いかけに、その都度どの都度応答していくこと。
相田みつをさんの、
「とにかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば 具体的な答が出るから」
という言葉を思い出した。
人生、コントロールできない出来事の方が多い。
でもそれらすべてを「問いかけ」だと思って、自分は具体的にどう応えるのか、どんな決断をするのか、その積み重ねで自身の「あり方」を選んでいきたい。
「「実存」とは、まさしく決断に他ならないのです。」
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2012年59冊目。(初読:2012年9月6日)
なぜ生きるのか、私たちは「人生に問う存在」なのではなく、
「人生から問われている存在」として、応え続けるべきだと著者は言う。
この発想の転換にはだいぶ救われた。
ナチス時代のユダヤ人強制収容所を生き延びた著者の精神医学者としての考察は深い。
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ナチスの最悪の状況でも、心は支配できなかった。
生きる意味を定義することは意味の無い事。なぜなら刻一刻と、その人に課せられた責任は変わり続けているから。
生きるとは、その時々の責任を全うしていくこと。