覇王の家(上)(新潮文庫)
著者 司馬遼太郎
徳川三百年――戦国時代の騒乱を平らげ、長期政権(覇王の家)の礎を隷属忍従と徹底した模倣のうちに築き上げた徳川家康。三河松平家の後継ぎとして生まれながら、隣国今川家の人質と...
覇王の家(上)(新潮文庫)
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商品説明
徳川三百年――戦国時代の騒乱を平らげ、長期政権(覇王の家)の礎を隷属忍従と徹底した模倣のうちに築き上げた徳川家康。三河松平家の後継ぎとして生まれながら、隣国今川家の人質となって幼少時を送り、当主になってからは甲斐、相模の脅威に晒されつつ、卓抜した政治力で地歩を固めて行く。おりしも同盟関係にあった信長は、本能寺の変で急逝。秀吉が天下を取ろうとしていた……。
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家康とは何か?
2005/01/14 17:01
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐伯洋一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「君が最も尊敬する人物は誰か」と聞かれたら、私は「徳川家康」と回答する。今までとくに外国人の方からそういう質問を受けることが何度かあったが、私はそう答えてきた。日本人として最も尊敬しているのは徳川家康である。
本書の主人公はその徳川家康。家康関連の本は結構多く、中でもとくに有名なのが、山岡壮八氏の全26巻だろう。発売当時は「家康ブーム」が起こったと言われるほどの名著で、たしかに物語としては申し分ない。しかし、家康という個人が後世に与えた与えた影響を感じ取ることができると言う一点においては、この「覇王の家」の方が優れている。
そもそも、日本人の特性である「勤勉・実直」は、日本全体に広がっていたものではない。たとえば、信長配下の尾張育ちの兵士たちは、実利に敏く、忠義と言う心が薄弱だった。それゆえに、戦いが始まると真っ先に逃げてしまう。信長があれだけ有能でも合戦で意外に苦戦しているのはそのせいである。
全く対照的なのが、三河の兵士だった。三河の兵士は絶対に逃げず、主君に忠義を尽くすことが常識として根付いており、実利を重んじて実直さのない者を蔑む心根を持っていた。三河の武将たちも、実直・勤勉で、我が身より主人の身という武将ばかりだった。本多忠勝などその最たる例である。
もともと家康の先祖はキコリだったようで、山間の小さな集落から広がっっていった。その集団の性質が、三河に広がり、三河の心が江戸時代全体に広がった。これにより、武士道の最も濃いエッセンスが江戸260年を通して日本に蔓延し、明治昭和の気質が花開いたのである。
もともと尾張人のような実利優先主義が戦国の日本であって、三河のような気質は日本人全体にはなかった。家康が実利を戒め、また関ヶ原における人間の節操のなさに嫌気が差し、そういう風潮を戒める国家作りを先導し、それが今に繋がっている。
江戸時代は世界が戦争に次ぐ戦争だった1600〜1860の世界史の中で最も平和な時代だった。単一民族故に深刻な民族紛争もなく、内乱もほとんどなかった。また、人々も「江戸」という揺り篭の中で平和を享受し、世界最高の教育水準を達成した。信長や、秀吉の時代ではこうはならなかっただろう。純粋文化の培養は、鎖国の成果といえる。
家康は本当に掴みがたい人間である。家康は臆病、と一般には言うが、三方が原の戦いでは、敗北必至の中、武田の騎馬軍に突撃している。また、全国の大名が信長包囲網を作り、上杉・武田・毛利・浅井・朝倉・幕府が信長を囲んでも、唯一家康だけは終始絶対に信長を裏切らなかった。1570年の信長退却戦でも、家康が名乗り出て殿を勤め、逃げ惑う尾張兵を尻目に阿修羅の奮戦で、信長を逃がした。家康がいなければ信長の時代はここで頓挫していたかもしれない。
秀吉の天下になっても島津降伏後もなお屈せず、結果天下を盗った。神に歴史を教えてもらっていたのではないか?と思うほど主君でもない信長に尽くし、ときに分からない行動をし、しかも成功する家康は、まさに日本史の鍵を持ったまま死んだ人物だ。秀吉も信長も道三も鍵を家康に繋いだ小さな存在に見えてしまう。
本書には、物語を越えた、日本のエッセンス、家康の神懸り(司馬氏は決してこういう書き方はしない人だが)、そして家康の臨終と、上下巻にすべて詰まっている。本書は司馬文学の隠れた名著であり、すばらしい傑作だと思う。
徳川家康、化けたり
2023/07/06 00:19
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
三河衆と尾張衆の肌合いの違い(それがひいては築山殿と徳姫との間の懸隔にも通ずるものあり)や徳川武士団の「中世性」(『鎌倉殿の十三人』に描かれた世界にも似た)など、実に面白い視点がてんこ盛りの一書。それにしても、徳川家康のキャラは判りにくいというか、分析しにくいのだが、さしあたり以下の二記述が印象に残っています。
(信長の死後、北条氏を相手に甲信併呑を成し遂げた際の)「家康の調略の腕ほど、家康の諸将を驚嘆させたものはない。家康は、信長との同盟二十年のあいだ、信長に対し屈辱そのものの外交で終始したが、その信長が死ぬと、頭痛が一時にとれたように、別人になった。・・・ 相手次第で、自分を変化させるという老獪さを身につけてきた。」(345頁)
「わが好む侍は ・・・ 侍に知略才能あるはもとより良けれども、なくても事は欠かぬなり。ただひたぶるに実直なれば知能を持つに及ばず。武士として義理に欠けたるは、打物の刃がきれしごとし」(360頁、かつての典型的な滅私奉公型サラリーマンのごとし・・・)
余談ながら、築山殿事件は本書で司馬遼太郎が描いた構図がやはり真実であるように思える。『どうする家康』における描き方も、あれはあれで面白かったと思うが、やはりリアリティーには欠けておろう。
臆病者、家康
2017/03/25 09:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の未完となった最後の旅は「濃尾参州記」であった。
すなわち美濃、尾張、三河。となれば、信長だけでなく家康もまたこの旅の主人公になるはずであっただろう。
未完となる最後のくだりが「家康の本質」で、その中で司馬さんは家康についてこう書いている。
「若い頃の家康は、露骨に臆病だった。ときに茫々と思案し、爪を噛みつづけた。」と。
そんな家康に光をあてて描いたのが、この『覇王の家』で、文庫本で上下2巻となっている。
書誌的にまず書いておくと、この作品は1970年初めから1年半かけて雑誌「小説新潮」に連載された。
タイトルの「覇王」というのは、「徳ではなく武力・策略で諸侯を従えて天下を治める人のこと」とあるが、もちろん、ここでは家康を指していることは間違いない。
しかし、家康に「徳」がなかったかといえば、どうもそうではないように思える。
家康に仕えて三河人の忠と実は、家康の「徳」がもたらしたといえなくもない。
この上巻に妻と息子を信長に斬れと迫られ、それを苦渋の末に断行した家康の姿が描かれているが、その際信長によからぬ話をした老臣酒井忠次が描かれている。
家康はその酒井に対しても、仇と思わないよう「驚嘆すべき計算力と意志力」でもってそうし、片鱗でもそう思わないようにしたとある。
何故なら、そう思うだけで人の心は感応するからと司馬さんは書いた。
まさに、家康はそういう人であったのだろう。
上巻では本能寺の変のあと、秀吉が天下とりに名乗りをあげるところまでが描かれている。
家康が動き出すのは、これからである。
覇者の肖像
2016/03/09 07:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
徳川家康。戦国時代をおわらせ、三百年近い泰平の世の基礎を築いた人物の横顔は、一見英雄的なものとはかけはなれている。司馬遼太郎は、そんな家康の素顔を描きながら、覇者の資質を明らかにする。
よく言われるように、家康の人生は忍の一字である。その忍のすごさを司馬は、自己を単なる「機能」としてしかとらえない自己管理能力に見る。すなわち家康は、自分を家の発展と天下統一という目的のためにつくられた機械として徹底的に利用するのだ。
そのすさまじい例が、信長の婿となった長男信康とその母で自分の正室の築山殿を、信長の命により殺させた事件である。このとき絶頂期にあった信長にさからうことは、徳川家の破滅を意味することを十分理解していた家康は、泣く泣く愛する妻子を死においやった。彼のすごさはそれだけでない。そのとき信長への讒言に加担した家臣の酒井忠次をその後も重臣として用いたことである。彼がこの憎むべき家来に対して向けた唯一の刃は、晩年、息子をとりたててくれるよう頼む酒井に放った「そちも子の愛しいことがわかったか」という一言であった。
戦国の世を生き抜くには臣下の信頼が何よりも必要であることを知っていた家康は、私憤で家来を罰することはなかった。のちに秀吉を大いにうらやましがらせる徳川家の強い結束力はこのような信義に裏付けられたものであった。司馬は、臣下への信義を裏切り、明智光秀によって反逆を受けた信長と対照させながら、家康の覇者としての資質を見事に描き出している。
家康にはまた堅実で臆病なまでに用心深い面があった。薬草には自ら調合をおこなうほど精通をしていたし、信長から桃が送られたときも、食中毒をおそれ手をつけなかった。当時はやりの梅毒を危惧して、遠征中も側室を伴い、土地の遊女には手を出さなかった。また秀吉がこの世の栄華を満喫しているさなかも、倹約に倹約を重ね、領国江戸の整備を着実にすすめた。晩年、庭に落ちた懐紙を拾おうとした家康は、家来が笑うのを見て「わしはこれで天下をとったのだ」と言った。
その一方で、意外な勇猛さも見せる。武田信玄が上洛のため、軍勢を率いて領内の浜松を通過しようというとき、家康一人が攻撃を主張する。放置すればいなくなる相手にわざわざ戦いをいどむのは、無駄などころか相手が信玄である以上、危険でもあると家来は反対するが、家康は自国が侵犯されるのを黙って見ているのは武士の恥と、果敢にも武田軍に向かってゆく。結果、生涯におけるただ一度の完敗を喫し、自身命からがら陣中にもどる。途中恐怖のあまり馬上で脱糞するというおまけまでついて...
戦では常に徳川軍が織田軍の先鋒に立ち、その都度家康もいのちがけで戦った。一乗谷の戦いで秀吉とともに決死のしんがりをつとめたのも彼だった。
これらの記述から浮かび上がってくる家康像はどのようなものか。戦国の世に確実なものは何もない。勝敗もときの運。努力できるところ以外は、運命にまかせるしかない。だから自分は、武士として、大将として恥ずかしくない生き方をするだけである。そして天が自分を見出したときのために、努力できるところは努力をし、身体をじょうぶに保ち、しっかりと資本を貯えよう。
本書を読むと、織豊政権の成果をよこどりした狸おやじというありきたりのイメージで形容するにはあまりに深い人格がうかがわれる。よこどりさえも、彼においては悪といえるだろうか?石田を討ち、豊臣氏を滅ぼしたことで、その後の平和と人々の幸福がもたらされたことを考えるとき、天はこの人に覇者としての運命をあたえたのだといえないだろうか。
うまれた
2017/09/03 09:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あくあ9いっぱい - この投稿者のレビュー一覧を見る
生まれた時から重荷をしょって遠くに行くのが男だよ。徳川家康の正確が形成されていく苦労の数々。そして彼と携わる人々の運命ともがき。