最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII
著者 塩野七生
蛮族の侵入や政変が相次ぎ、未曾有の危機に陥った帝国に現れた2人の皇帝。ディオクレティアヌスは皇帝4人による領土の分割統治を実施し四頭政治を導入。跡を継いだコンスタンティヌ...
最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII
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商品説明
蛮族の侵入や政変が相次ぎ、未曾有の危機に陥った帝国に現れた2人の皇帝。ディオクレティアヌスは皇帝4人による領土の分割統治を実施し四頭政治を導入。跡を継いだコンスタンティヌスは、ローマ帝国に幅広く浸透していたキリスト教公認に踏み切った。しかし、帝国復権を目指した彼らの試みは、皮肉にも衰退を促す結果を生んでいく――。塩野版「ローマ帝国衰亡史」、いよいよ佳境に! ※当電子版は単行本第XIII巻(新潮文庫第35、36、37巻)と同じ内容です。
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伝統的ローマの変貌
2007/12/07 17:04
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
塩野七生のローマ人シリーズは、ある大きな偏見から私を解放してくれた―すなわち、古代史を残虐性に満ちた忌まわしいものと捉える偏見から。偉大なるローマ、すがすがしいローマ、義に篤く寛容なるローマ...これまでの巻すべてが、そんなすばらしい民族の姿をさまざまに映し出し、感動的であった。しかしここにいたって、すばらしい民族の物語も完全に変容したかのようである。なぜか...?
混乱と衰退の一途をたどる3世紀のローマを救ったのは、ディオクレティアヌス帝であった。彼はそれまでの軍人皇帝とまったくちがう政策によって新たな秩序と安定をローマにもたらした。まず彼がおこなったのは、帝国を二人の正帝、二人の副帝によって四分し、自らは正帝の一人として統治を行う分割統治である。これは、巨大な帝国を一人の皇帝によって支えきれなくなった時代の必然的要請といえよう。
同時にこれと矛盾したことのようだが、ディオクレティアヌス帝は、いわゆる専制君主制(ドミナートゥス)により、皇帝権を強大化、絶対化する。アウグストゥスによってうち立てられた帝政は、少なくとも建前の上では市民の第一人者である元首(プリンケプス)が元老院と共同で行う政治体制であり、事実、その後元老院は皇帝への対抗勢力としての機能を常に有していた。しかし、3世紀の混乱によって、皇帝の権威は地に墜ち、そのため帝国の平和は極度に脅かされた。ディオクレティアヌスは、元老院の力を実質上奪い、皇帝権力を強大化することによって、この困難を乗り切ろうとしたのである。
分割統治と皇帝権の集中、これらの改革により、帝国にはふたたび秩序が戻った。その後ディオクレティアヌス帝は、ローマ史上最後にして最大のキリスト教徒迫害を行うなどしたが、専制君主制の確立者としてはこれまた奇妙なことに、治世20年にして突如皇帝を引退し、残りの皇帝たちにあとを任せる。これがのちに、彼自身にとっての不幸をもたらすことになるのだが...
西方正帝の子コンスタンティヌスが、頭角を現すのはその直後である。西方正帝となった彼は、313年のミラノ勅令によりキリスト教を公認し、キリスト教による国家の再統一を試みる。その後のニケーア公会議で、激化する宗派対立に決着をつけさせたのも、彼が統治の道具とするキリスト教会の組織としての安定を計ったからであった。やがて彼は敵対する他の正副帝全員を滅ぼし、ローマ帝国の最高権力者となる。
キリスト教のおかげで皇帝への就任は、戴冠式という形式と唯一絶対の神による権威づけをもつようになった。ローマは、市民が自分たちの第一人者を選ぶ体制から、神が絶対的権力者を選ぶという体制へと移行した。これにより、ディオクレティアヌスによって始められた専制君主制はより強固なものとなった。しかし同時に、かつての自主・独立を重んじるローマ人気質は姿を消した。いまや、ローマ人は東方的な専制君主支配のもと、重税にあえぎ職業・住居選択の自由さえない生活を強いられるようになった。
この世に希望を失った民衆が救いを求めた先は、当然のことながら来世である。キリスト教の約束する神の国が人々にはどんなに輝いて見えたことか。そこでのローマ人は、信仰に目覚め意気揚々とした人というよりはむしろ、生に疲れひたすら安らかな死を願う老人のようであるが...ともかくも、国家権力、民衆双方の要求がここに合致し、キリスト教の国教化は決定的となった。その完成までの過程は、次巻『キリストの勝利』でさらに詳細に伝えられる。
市民精神の終焉
2005/03/11 18:54
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:jupitorj - この投稿者のレビュー一覧を見る
★☆「ローマ帝国衰亡の原因・カルタゴの復讐」(「ローマ人の物語」を読んで)
より抜粋
全文は電子本「哲学の星系」に掲載されています。
「哲学の星系」の内容紹介の頁はこちらです。
軍隊の市民精神について。ローマ市民権の開放により、軍人の市民精神は「ローマ帝国の国政は軍人である自分たちが決め、ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」に変質したと考えられる。自主決定について見よう。元首政下では、次のような権利があった。皇帝になる。皇帝を推挙する。元老院議員になって国政に関与する。このうち、「元老院議員になって国政に関与する」は軍隊と元老院を分離する法律により失われた。しかし、ディオクレティアヌス帝以前までは、なお、「ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」という自主防衛の精神に加え、「皇帝になる」「皇帝を推挙する」という自主決定が残った。皮肉なことに、変質したとは言え、市民精神は軍が最も色濃く持っていたと言えよう。軍から改革者が現れたことは不思議ではない。そして、ディオクレティアヌス帝の分割統治制度により、「皇帝を推挙する」が停止された。上位の皇帝が下位の皇帝及び自身の後継者を指名するようになったからである。
そして、自主防衛の精神が機能するには、軍人が皇帝=国家に対して忠誠心を持たねばならない。軍人に忠誠心を持たせるのは主に皇帝の権威・権力である。皇帝が権威・権力により、誇るべき軍隊という権威を軍に持たせ、軍に規律を与え、給料を支払い、補給・装備を与え、戦場で勝利できるからこそ、皇帝に忠誠を誓うのである。
治世の仕上げとして、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大弾圧する。キリスト教徒は専制君主政にとり極めて重要な皇帝の権威を否定する態度を示した。ローマ帝国の屋台骨である軍への入隊を拒否する者がいた。これらが、その理由であろう。そして、ディオクレティアヌス帝は、多神教の異教を支持したようにローマの伝統を愛していた。専制君主政を導入したのも、国家に奉仕するローマの伝統的精神に従い、国家のために必要なことをしただけだと考えていたのだろう。そのローマの伝統に反するのがキリスト教だと考えたのだろう。そして、市民精神を失わせたことに密かに負い目を感じ、その代償として伝統的異教の保護者となりたかったのだろう。その証拠にディオクレティアヌス帝は、三〇五年に皇帝位を捨てて引退する。権力のために皇帝の専制君主化を行ったのではなく、国家のためだと言いたかったのだろう。元首政下なら、安穏に生涯を終えることもできただろう。しかし、専制君主政下では、その代償が大きかった。妻と娘はリキニウス帝により殺害される。
そして、分治制度が持つ危うさゆえに、ディオクレティアヌス帝が始めた四分統治制度は崩壊する。しかし、ディオクレティアヌスはすべてを失ったわけではなかった。ディオレティアヌス帝が作った専制君主政に適合したローマ帝国はそのまま継続した。
3世紀前半、世界を支配するローマ帝国皇帝のこころを、当時の状況と社会環境のなかで、キリスト教の何があそこまで捉えたのでしょう?
2008/06/25 17:34
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:緑龍館 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ローマ帝国の制度的疲弊が激しくなる3世紀後半、ローマがローマ的でなくなっていく時代の物語です。
284年にローマ皇帝となるディオクレティアヌスは、北方からの蛮族の襲来を防ぎ広大な国境線を死守するため、帝国の領土を四つに分け、それぞれに正帝や副帝をおく「四頭制」を創設します。これにより帝国の平和は守られましたが、兵力は倍増し、かれらを養うため税金の徴収額もうなぎのぼり。また、ほとんどすべての職業に世襲制を敷くことにより、社会の流動性も失われ、ローマ社会はより一層柔軟さと変化に対応する力を無くして行きます。
その一方、ディオクレティアヌスは生前に自ら進んで退位し、鮮やかな退き際を見せますが、引退後の帝国は彼の思惑とはまったく異なる方向に進んでしまいます。四頭制のはずだったのが、あちこちに自称皇帝が乱立していつのまにか「六頭制」となってしまい、帝国はふたたび混乱に陥ります。これを鎮め帝国を統一するのが、キリスト教を公認し、「大帝」と呼ばれることになるコンスタンティヌスです。
彼が招聘した「ニケーア公会議」において、神とイエスは同位ではないとするアリウス派が異端とされ、「三位一体」が確定するのですが、人間の「救済」を象徴するキリストの復活と昇天を認めることにより、キリスト教ははじめて「世界宗教」となる礎をもつことになったという著者の指摘には、フンフンなるほどと頷かされました。「なぜなら人間は、真実への道を説かれただけでは心底から満足せず、それによる救済まで求める生きものだからである。」 そこでフト考えたのですが、だとするならば、他の世界三大宗教となっている仏教とイスラム教が、その理念のなかにもっている、世界宗教としての「力」とは何になるのだろうか。他の宗教が廃れていく中で、なぜこれらの宗教はいまだに世界中の人々のこころを捉えて放さないのでしょう?本書とは関係無いけれど、知りたくなりました。ところでニケーア公会議以前の段階において、キリスト教会は上記の教理解釈などを巡ってかなり分裂していたようで、ここでの決定が無かったら、キリスト教は果ての無い教理論争によって分裂を重ね疲弊して歴史から消えうせていった可能性が高い、という宗教学者の見解もあるそうです。
コンスタンティヌスはまた、自らの名前を付けた「コンスタンティノーブル」(現 イスタンブール)に帝国の都を遷都したことでも知られていますが、にも拘わらず、社会、経済、軍事などのあらゆる方面において、ローマ帝国の衰退は留まるところを知らず進行していきます。塩野は、ローマがそのもてる力を喪失していくありさまを、文化の側面でも「芸術」との関係で一例を紹介していますが、これは興味深いものがありました。建設期間の関係で、過去のあちこちのモニュメントから引き剥がしてきたパーツのいわば寄せ集めとして作られたローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門。そこに新しく施された彫刻は、それと並んで外壁を飾る、過去の2世紀頃までの浮彫彫刻に比して、素人目にもその稚拙さが際立っているのです。ひとつの社会における芸術の水準は、国力に影響される -考えてみれば当たり前のことでありますが、鋭いシテキだ。
キリスト教徒に対する最後の大弾圧を強行したディオクレティアヌスに対して、彼の実質的な継承者であるコンスタンティヌスは、なぜ一転してキリスト教を公認し、最後には死の床で帰依までしたのでしょうか?著者は、コンスタンティヌスが自らの帝位を確固としたものにするため、キリスト教を支配の道具として利用したのだ、つまり、以前のローマ市民と元老院から委ねられた皇帝の地位から脱して、一神教である故に絶対神からの権力の行使の委託を受けた存在として不動の帝権を確立するという意図を強調し、そのプラグマティックな側面のみを指摘していますが、これだけではなんとなく納得がいきません。この推測はあくまでも著者の想像であり、具体的なその根拠も提示されていません。また死ぬ直前に洗礼を受けたというコンスタンティヌスの心理解剖は、塩野らしいシニカルな視点からのもので、読んでいてニヤリとさせられるのですが、しかし肝心の、キリスト教の何が彼の心を捉えたのかという点は語られていません。この彼の信仰心と、権力保持の道具としてのキリスト教の利用というマキアベリズムとの乖離も放置されたままです。もちろん言葉を残さず死んでしまったコンスタンティヌスの心中を推し量ることは不可能なことなので、この謎に答えることが出来るのは、歴史学者的視点からのアプローチではなく、小説家の創作しかないのかもしれません。でもそれ故にこそ、どうせなら塩野にはもう一歩踏み込んで想像の翼をはためかして欲しかった。3世紀前半、世界を支配するローマ帝国皇帝のこころを、当時の状況と社会環境のなかで、キリスト教の何があそこまで捉えたのでしょう?ぼくとしては、これは非常に好奇心がそそられる点なのです。この問題に対する塩野の視点は、状況に対するシニカルな解釈に留まっていて、いつもの思い入れと鋭い問題意識が感じられず、ちょっと物足りなさをおぼえました。ひょっとして、自らは信じる宗教を持たないみたいな著者の限界が現れてしまったのかも知れないと言ったら、言葉が過ぎるだろうか。
→緑龍館 Book of Days
なぜローマ帝国はあれほど忌み嫌っていた一神教を選択したか
2005/06/15 11:51
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
「四頭政」を創始しキリスト教を弾圧したディオクレティアヌスと,その政体を崩壊させて絶対君主となり,同時にキリスト教を公認して中世の扉を開いたコンスタンティヌスの時代。毎年一回このシリーズを読むと遠い昔の世界史の授業を思い出すな。そうでしたそうでしたローマ帝国でキリスト教が公認されたのは「ミラノ勅令」によってでした……。
そうは言うがオレが受けた授業では当時のローマ帝国のコトコマカな事情など全く説明されなかったから(日本の学校教育では当たり前?),1970年代のジャガイモ高校生としては「コンスタンティヌスという皇帝がいきなりキリスト教に帰依して帝国の方針を180度転換し,ついでに首都をコンスタンティノープルに持って行った」てな印象しか残っていなかった。
が,やっぱり全然違うんですね。つか,洋の東西を問わず帝国のトップに立つようなヒトはそんなに単純ではないのであった(あ,たった今,頭の中に現存する例外の顔が浮かんだヒト,私も浮かびましたがとりあえず忘れましょう)。コンスタンティヌスがキリスト教を優遇したのは彼が実現しようとした絶対君主制にとってローマ・オリジンの多神教より一神教であるキリスト教の方が便利だったからだったのだ。
構造的にはこれ,国策として仏教を保護し,政治をホトケの教えで権威づけようとした飛鳥王権(聖徳太子と書いてもいいんだけど,オレはこのヒトの実在を疑う説の支持者なのだ)の同じテグチなわけなのだ。手塚治虫「火の鳥・鳳凰編」および「火の鳥・太陽編」参照,というトコロですな。コレはオレの個人的な飛躍だけど,安土時代に信長がキリスト教に肩入れしたのもこのコンスタンティヌス的思惑によるものだったかも知れぬ。彼も絶対君主を指向していたのでは?
塩野の冷静さに思わず頭がさがる。それにしても思うのだ、もしコンスタンティヌスがキリスト教を認めていなかったら、いまごろ世界はどうなっていたのか、と
2005/03/05 21:14
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
巻頭に、この巻の扱う時代を簡単に説明した1頁の「読者に」があって、以下、第一部「ディオクレティアヌスの時代」(紀元284年〜305年)、第二部「コンスタンティヌスの時代」(紀元306年〜337年)、第三部「コンスタンティヌスとキリスト教」と続き、それに年表、参考文献、図版出典一覧という構成。
このシリーズを読み始めて10年以上にもなるので、正直、年代的なことを殆ど忘れている。そんな私に配慮してくれたのか「読者に」では、
「紀元前八世紀からはじまって紀元後五世紀に終わるのがローマ史だとする史観に立つならば、ローマの全史は次のような進み方をしたと言えるだろう。
王政→共和制→初期・中期帝政(元首政)→後期帝政(絶対君主政)→末期
この巻でとりあげるのは、歴史上では「帝政後期」の名称で定着している、絶対君主政体に移行した時期のローマ帝国である。
なぜ、絶対君主政に移行したのか。
その実態は、どのようなものであったのか。
そのどこが元首政とはちがうのか。
そしてそれは、どのような結果につながっていくのか。」
その鍵を握る人物が、第一部で取り上げられるディオクレティアヌス。たしかに、名前は覚えている。しかし、この人は何をやって有名だったのだろう、なにか大きな戦争で劇的な勝利を挙げたとか、あるいは凄い建築物を造ったとか、文化的に寄与したとか、はたまた悲劇のヒーローだったとか。
そう、どれも違う。塩野の「読者に」では、最初からこのディオクレティアヌスが絶対君主政への道をこじ開けたかのような印象だけれど、本文を読めば、まず彼が手をつけたのは、ローマ全土を二人の手で統治する「二頭政」であり、それをさらに「四頭政」にまで拡大していく。
しかし、この巻で印象的なのは組織の肥大化と、それを機能させるための官僚機構、それがもつ非効率への言及である。帝国が大きくなる。ピラミッド型の組織を作る。それを分割する。分割されたピラミッドは、各々が重複する部分を持つ。必然的に官僚の数が増える。そして増税である。税を納める人間より、税で食べる人間が増える。おいおい、これって今の日本だろ。
勿論、塩野のことだ、それを十分に意識している。組織が完成度を高めることは、必ずしも国民の幸せを意味しない。その例がディオクレティアヌスの時代だとすれば、巨大化した国家を延命させるために無駄な努力をする、そのために宗教を利用するというのがコンスタンティヌスの時代だ。
そして重税にあえぐローマ人は、税が免除される官僚になるか、同じく税金を払わなくていいキリスト教のどちらかになろうとする。それがさらなる国家の肥大化と、キリスト教の興隆をもたらす。そして、現在にいたるも止むことのない宗教を旗印にした戦火の発端もここに始まる。
それらを、塩野のこの本ほどに分かりやすく、説得力をもって解き明かした例を私は知らない。見事、である。無論、塩野はキリスト教の問題に深くは踏込もうとはしない。むしろ、その距離感が、たとえば紀元325年に開かれたニケーア公会議での三位一体説採択のもつ意味を、明らかにする。
それにしてもだコンスタンティヌスの死の直前の洗礼を巡って、吉田茂の例をだしながら「だがこうなると、処女作以来一貫して非宗教的な視点に立って歴史を書いてきた私にも、キリスト教的に救済されるには、死の直前に洗礼を受けるという道がまだ残されていることになる。」とは見事の一語につきる。この冷静さなくして、歴史を語る資格はない。「国民のため」などという大げさな謳い文句をつけ、血が頭に上ったような歴史書のレベルの低さと塩野のそれとの差は、決して埋まることはない。
ローマがローマでなくなる
2023/12/01 09:12
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る
ローマ帝国という「形」を保とうとする最後の努力が、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝にってなされ、ついに「ローマがローマでなくなる」という ローマ的な主体も精神も変質してしまう改革がなされてしまう という巻である。自分たちの「第一人者」としての皇帝を、至高の存在「神」から任命されたもの としなければローマ帝国という「形」は保ち得なかったのか 深く考えさせられる。
ローマ帝国の変質と対照的な二人の皇帝
2004/12/24 12:22
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:苦楽 - この投稿者のレビュー一覧を見る
相次ぐ異民族の襲撃と治安の悪化という目に見える現象の下、ローマ帝国は衰退の道を歩みつつあったが、それを食い止めようとした二人の皇帝がいた。ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスである。
ディオクレティアヌスは当初は二頭、ついで四頭と分割統治によって帝国の防衛線を再構築し、皇帝の権威を高めるために既存の宗教を優遇、キリスト教を弾圧することになる。
対照的に、コンスタンティヌスは分割統治体制を崩壊させ、自らが唯一の独裁君主となることで帝国の再構築を行い、さらにはミラノ勅令でキリスト教を公認、ニケーアの公会議で教義を統一し安定化させ、自らの統治に役立てようとする。どちらも手法は異なれども、創成の頃の皇帝達と比肩できる久しぶりの実力派の皇帝である。
しかし、これらの努力が、守ろうとしたローマ帝国を変質させ、結果として衰退が続いたというのが何とも皮肉な結果であろう。異民族をも同化させ、そして同化されることに魅力を感じたローマ帝国ではなくなったということをつくづく実感できるのがこの巻である。重い税負担、継ぎ接ぎや放置されたインフラ、そして第一人者から君主へと変貌した皇帝、そして、宗教的寛容さの消失。
住民にとって、異民族にとって、そして日本の読者にとっても魅力的であったローマ帝国が変質したということを読むにつれて理解できる。
そして、もう一つ本書を読んで痛感したのが、ディオクレティアヌスの人生の痛ましさである。分割統治によって帝国の防衛を安定させ、東西の正副帝の設置によってそれを制度化し、キリスト教を否定することで従来の宗教を背景にした皇帝の権威を高めようとし、そして存命のうちに皇帝の地位を譲ることで自らのシステムの継続を確認しようとした、その全てが否定されるのを人生の末期において目の当たりにすることになる。
ビジョンも、意欲も、実務能力もあったが、ただその理想故に自らの仕事の成果が全て否定されるのを己が目で見るというのが、どんなものであるのか、私には見当も付かない。
キリスト教の公認によって、ローマ帝国を決定的に変質させるレールを引き、はるか中世や現代に繋がるレールを敷いたコンスタンティヌスより、私はディオクレティアヌスの方が印象に残った。
ローマ帝国存続のための努力と、それによる帝国の変質、やがて訪れる破滅と中世の到来を予感させて本書は幕を閉じる。
歴史上に屹立する二人の皇帝の業績の光と影を描いた本書は、「こうまでして」と作中に引用された歴史家の言葉を自分でも呟きながら、ローマをローマたらしめていたもの、ローマとはなんだったのか、それを深く考えさせてくれる一冊である。
帝国の分割と再統一
2024/03/11 20:31
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:DB - この投稿者のレビュー一覧を見る
前半はディオクレティアヌス帝の政策について論じます。
雷に打たれて死んだヌメリアヌス帝の跡をついだディオクレティアヌス帝は、キリスト教徒を弾圧したことから後世の評価はネロやカリグラ並みの暴君とされている。
しかしこの弾圧で殉教したのはローマ全域でも数千人だった。
その数が多いのかどうかは置いておいて、本著を読めばキリスト教徒だから弾圧したのではなくローマの政策に反対したため処罰されたという方が近い。
もちろんキリスト教徒側からすればその政策が異教徒のものであり受け入れられるものではなかったのだろうけれど。
ディオクレティアヌスは皇帝の持つ力を絶対王政並みに高めたが、ローマ帝国を一つの共同体としてその中にいるすべての人は義務と役割を負うというローマの伝統は守っていた。
そんな皇帝にとって共同体を守る義務よりも神の言葉に従うキリスト教徒は邪魔だったのだろう。
しかしローマを脅かす外敵に対しては、ディオクレティアヌスの導入した四頭政がそれなりに機能したようです。
自身を含めた2人の正帝に2人の副帝で広大なローマ帝国を分割し、それぞれの守備範囲を定めて守るという。
案としては悪くなかったのだけど、それによる軍備の拡張と増大した経費の転換先としての重税が問題となる。
さらに在位20年であっさりとディオクレティアヌスが引退した後は、帝位の円滑な譲渡などあるわけもなく激しい権力争いへと再び逆戻りしていった。
6人もの皇帝が乱立するレースを制したのが、後半の主役となるコンスタンティヌス帝です。
キリスト教の繁栄をもたらすとともに暗黒の中世の始まりともなった皇帝だ。
コンスタンティヌスがキリスト教を認めて優遇したのには、それまでのローマの精神が瓦解しかけていた時期に取って代わるのに便利だったからなのだろうか。
皇帝の権威を絶対的なものに強化するための方便だったというのが一番近いだろう。
実は帝政時代からの遺跡を貼り合わせて建てられたというコンスタンティヌスの凱旋門の詳細も述べられていて面白い。
軍人皇帝時代には属州出身の皇帝たちにとって首都ローマの重要性は低下していたが、コンスタンティヌスはそれをさらに推し進めて首都をコンスタンティノープルへと移してしまった。
ビザンツ帝国のはじまりですね。
ということは初期キリスト教ってカソリックよりも東方教会のカラーの方が強かったのだろうか。
宗教会議で皇帝が臨席していても、東方教会つまりはギリシャ人の司祭たちが議論に紛糾していたというくだりに笑ってしまった。