道草
著者 夏目漱石著
『道草』は漱石唯一の自伝小説だとする見方はほぼ定説だといってよい.すなわち,『猫』執筆前後の漱石自身の実体験を「直接に,赤裸々に表現」したものだというのである.だが実体験...
道草
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商品説明
『道草』は漱石唯一の自伝小説だとする見方はほぼ定説だといってよい.すなわち,『猫』執筆前後の漱石自身の実体験を「直接に,赤裸々に表現」したものだというのである.だが実体験がどういう過程で作品化されているかを追究してゆくと,この作品が私小説系統の文学とは全く質を異にしていることが分る. (解説・注 相原和邦)
目次
- 目 次
- 道 草
- 解 説(相 原 和 邦)
- 注 (相 原 和 邦)
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「どうでもいいことほど片付かない」−−漱石先生のトホホな苦悩を脚注・解説が充実の岩波文庫で!
2001/03/27 18:51
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
繰りかえし訪ねてきて借金の申し入れをして帰る養父。おのれの精神生活をまったく理解できない、朝寝でヒステリー持ちのの妻、かわいく思えない欠点だらけの子どもたち…自身の生活体験を織り込んで書かれたと言われる作品は、よく見かける文豪・夏目漱石のどことなく苦渋が漂うポートレートの表情を思い起こさせる。
頭に軽く結んだ拳を当て、首を傾げたあのポーズ。新潮文庫のキャンペーンでリストウォッチの文字盤にもなったアレである。
本文16ページ分に及ぶ情報量たっぷりの解説によれば、この『道草』は『我輩は猫である』を発表した前後、明治36年から42年ぐらいの漱石の実体験を赤裸々に表現したものと言われてきたが、夫婦のすれ違いは大正3から4年ごろの漱石の日記の記述とも重なり合う部分が多いということである。
文学研究の成果で、漱石が実生活に取材した期間がいつからいつと限定できなくとも、この物語に描かれたエピソードの数かずは「お気の毒さま」と同情を禁じえないものばかり。
借金を願う養父の様子は現実より誇張して書かれ、妻の言動は現実より幾分ソフトに書かれているらしい。
だが、多少の程度の差こそあれ、俗塵にどっぷりつかってあっぷあっぷする洋行帰りのインテリの苦悩や苛立ち、諦念には、これでもかこれでもかという追い討ちがあって、「いやはや大正の世も平成の世もつらいねえ」と、インテリにあらざれど、思い通りにいかない浮世は誰にとっても公平と深く共鳴できる
あの写真のように、くっきりと濃い眉と眉の間や眉根に深いシワを寄せながら文章を書き続けている端正な顔だちの漱石先生を思い浮かべれば、やるせない気がしないこともない。
でも、それよりもこの小説はあまりに大真面目すぎて、私にはかえってユーモアたっぷりに感じられた。真面目な人の行き過ぎた言動ほど、斜に眺めれば滑稽なものはないではないか。そう、ちょうどチャップリンの映画の人物たちのように…。
私は女で妻で母であるから、自然に主人公・健三の細君に目が行く。彼女が宵っ張りの朝寝で昼寝好きであることもヒステリーであることも、共通の資質として大いに惹きつけられる。
細君は健三に、
−−彼女は理智に富んだ性質ではなかった。
と、容赦なく評価されている。少し込み入った議論の筋道を辿る必要があると、その問題を投げ、解決しないために起る面倒臭さは何時までも辛抱するのである。このぐうたらぶりが何ともユーモラスである。
−−二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。
そうして御互に腹の中にあるわだかまりを御互の素振から能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
この陰湿すぎる徹底した夫婦げんかが滑稽ではないか。
夫婦の対決は、高潔なる精神生活とどっぷりとした日常生活の対決という構造をとっている。「ここまで書くか!」と楽しくなってしまう言い合いや人物描写が随所にある。
「来たか長さん待ってたほい」と語呂のいいセリフが、この小説の中にあることも愉快この上ない。皆さん、知っていました?
滑稽な結末
2001/08/05 21:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
従来からこの小説は、漱石の自伝的要素を多く含んだ作品と言われてきた。おそらく研究も漱石の実人生と重ね合わせることで、解釈されてきたのだろう。でも、主人公の健三が漱石の分身だとしたら、漱石はものすごい女嫌いに感じてしまう。健三の妻に対する言葉には、女を憎んでいるようにしか思えないものがたくさん現れているからだ。しかしながら、このような女を憎む主人公は、『道草』に限らない。漱石文学の特徴の一つだ。
もう一つ、漱石文学の特徴はお金にまつわる人間関係であろう。『道草』には、それが露骨に語られている。縁を切ったはずの、かつての健三の養父がお金をせびりにくる、それに健三は悩まされることになる。この養父島田の姿が、いやらしく描かれている。
だが、健三の悩みはこうした生活上の悩みだけでなく、もっと根本的な悩み、不安がある。その不安は、自分の存在に対する不安だ。
養父母の島田夫婦が子供の健三に、自分たちのことを「御父さん」「御母さん」であることを確認させる『道草』の有名な場面がある。健三は、島田夫婦に「御父さんは誰だい」と何度も質問されて、厭々ながら答えているが、夫婦は健三に指をさしてもらって、「御父さん」「御母さん」と声をだして言ってもらえなければ、自分たちの存在の意味が確認できないのだ。つまり健三との関係において、自身の存在を確認できるのである。存在の不安を解消する方法はこれしかなかったのである。
一方その健三も存在論的不安を感じていることは、文中に語られている。健三は、こう言っている。「御前は必竟何をしに生まれて来たのだ」と。また、健三は自分の姿を島田に見ているのである。
「その時健三の眼に映じたこの老人はまさしく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。」
島田の姿は、健三自身でもあったのだ。島田が健三に指さされることで存在を確認していたのに対し、健三は細君に見つめられることで存在を確認していた。細君が眠ってしまい、その瞳に自分が映っていないと健三は不安を感じるのだ。
「しかしその眠りがまたあまり長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。」
健三もまた関係性において自身の存在を確認している。細君がいなければ、健三は自分の存在を確認できないのである。こうした存在の不安が語られているのは、自分の存在の絶対的な根拠がないからで、そこには健三がお金と交換が可能である存在であったからではないだろうか。島田にとっては、健三はお金になる存在だ。お金で人から人へ交換されてしまう自分の存在。自分の存在が、簡単にお金で量られてしまうことの不安があるのだろう。 それにしても、最後に島田が健三に100円を要求するのだが、その根拠となるのが、島田から復籍したときに書いた「不実不人情に成らざる様」などと一行ほど書いた、ほとんど意味のない文章であったというのが滑稽だなと思う。この書付のために、健三は島田に悩まされつづけていたのだから。