よくぞはっきりと言い切ってくれた、と著者には申し上げたい
2002/01/14 23:57
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
よくぞはっきりと言い切ってくれた、と著者には申し上げたい。そう、「日本語には主語などもともとない」のである。本書は日本語学者の三上章の「主語無用論」を継承・発展させたものである。
明治以来、近代化=西洋化を国是とした日本は、日本語を劣等言語とみなしてこれを改造しようとした結果、言語構造のまったく異なる英語の文法でもって日本語を説明しようとして国語文法が作られた。その結果、日本語では「主語が省略されることが多い」などと説明され、英語と比べて日本語は非論理的だなどという自虐的な発言がまかりとおる事態となっているのである。
そしてその弊害が、海外の日本語教育の現場で発生していると著者は訴えている。著者は言語学者だが単なる学者ではなく、カナダのそれも英仏二言語併用のケベック州で日本語教育の研究と実践に従事している「現場の人」である。その人が、現行の日本語文法(国語文法)では日本語をきちんと説明できない、あまっさえカナダ人の教え子たちに対して申し訳ない、とさえいわざるをえないのが現状なのだ。
そういう人がタイトルとおりの主張をしているのだから説得力は強い。しかも本人は「不退転の覚悟」で望んでいると書き記している。日本語という人間関係重視が目的の言語でこういう内容の本を書くというのは実に難しいことなのだ。
本書がとくに痛快なのは、エイゴ(=英語)セントリック(=英語中心主義、言語学者角田太作氏による表現)を徹底的に攻撃している点である。英語(というよりも米語)しか解さない日本の言語学者の多くが、チョムスキーの生成文法にしたがって日本語を分析しているさまを、著者は悪しき実例として滑稽さとともに描き出しているが、日本語を英語の文法で説明することなど土台ムリな話なのだ。
本書は実に痛快な本だ。だがちょっと残念なのは、「母語」ではなく「母国語」と一貫して表記していること、東アジアの言語として日本語と朝鮮語、中国語を並列的にならべていることである。日本語とまったく言語構造の違う中国語ではなく、むしろ朝鮮語、モンゴル語をあげてもらった方がよかったのではないかと思う。この点の説明が足りないので誤解が生じる恐れがある。
本書には田中克彦の『国家語をこえて』が引用されているが、ぜひ『ことばと国家』や『チョムスキー』などに展開されている視点も加えると、本書はさらに現状に対するラディカル(根源的な)批判となって、もっと面白い本になったものと思う。
ぜひ著者自身による日本語文法書と教科書を、日本語と英語その他で作ってほしいものだ。
主旨にはうなずける、だけど…
2002/12/04 12:07
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あきやま - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の基本的な主旨は、
「日本語に<主語>はない」
「日本語の自動詞/他動詞は印欧語のそれと違って独自の論理をもつ」
ということで、その部分には賛成します。
問題は、主旨から離れたおしゃべり、雑談の部分。
この著者、カナダ・ケベック州在住のモントリオール大の先生で、
カナダ就中ケベックは世界一暮らしやすい、なぜなら
夫婦別姓・死刑廃止は当たり前、英語圏で仏語を話すその多言語性が象徴するように
そこは多様性を許容する国柄だからだ、とお国自慢を始める。
そこから日本の英語偏重・アメリカ礼賛を斬るわけだけど、
確かに話のつかみとしてはいいかもしれない。
でも、
一方で日本の若者の茶髪を「orange hair」とかいって侮蔑してたりして、
「今の証言はムジュンしている!」((c)カプコン)。
だいたい、ケベックが孤軍奮闘ながら仏語を守っているという話にしたって、
英語禁止法を通した本国フランスを見てもわかるように、
それは愛国主義色の強いフランス語だからそういう芸当が可能なわけで、
単純に多言語主義のようなところに接続していい話ではない。
チョムスキアンに対する「難解だ!」という非難も、
物理学が「物体の落下速度は落下時間に応じて速まる」なんて
曖昧な言い方してたら今の発展はなかったわけで、
そういう曖昧性を減じるためにも、正確な学的判断を下すためには、
数値化できることは最大限数値化すべきだし、
形式化できることは最大限形式化すべきだと思う。
それからすると、素人が入り込めないからダメだみたいな著者の口吻は
学者の言うことにしてはいかにもカッコ悪い。
この本、主旨はそう間違ってないと思うので、
それ以外はヨタ話として無視して読むのがいいと思います。
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英語文法に引きずられた日本語文法の常識を打ち壊す一冊。西洋の言語学・文法がそのまま日本語に適応されたことによって、どのようなひずみが生まれたのかがよく分かります。
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「すべての日本語話者、必携の書」という惹句がすごい。労作である。力があって引き込まれた。「英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する」という内容だ。
言語学者の論文といえるものを一般読者にも読めるようにしているところがよい。読み初めからそう感心していたが、終章「モントリオールから訴える」に「一部の専門家の目だけに触れる形では出版しないことにした。……文法的にかなり突っこんだ内容でも、可能な限り平易な普通の言葉で、誰にでも理解しやすい表現を心掛けたのはそのためである。」とある。正直言って、第五章「日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解」はさらっと読んだだけではむずかしかった。だが、前半は楽しく読めた。
ユーモアがちりばめてあるのもよい。「オッカムのかみそりというユーモラスで有益な言葉をご紹介したい。……説明原理はできるだけ切りつめるべきである、という原理である」。この尊敬するオッカム先生のかみそりが随所に登場して、不必要に重たくされた日本語文法の「髭」を剃る。かみそりの切れ味は良く、見事にすっきり剃りあげて、痛快なほどだ。「日本語には日本語の論理があるのだから、非論理的だなどという誹謗中傷は止めてもらいたい。これははっきり言って冤罪である。日本語は無実だ」というのもわかりやすい。英文法を基にして日本語を分析することの非を説くのに「英語セントリック」という言葉を使うが、「この「英語セントリック」という言葉は言うまでもなく《Egocentric》(自己中心的)の洒落であ」って、角田太作という学者の造語だ。「三上の「ピリオド越え」は義経の「鵯(ひよどり)越え」のパロディかも知れない」もおもしろい。著者も含めて言語学者だけあって、さすがというべきだろう。
建築家の黒川紀章は「明治が間違っていて、江戸が正しかった。もう一度、江戸に戻れ」と言ったそうだが、英文法の影響がなかった時代には、国学者たちが日本語そのものを見て日本語文法を説いていたそうだ。著者は本居宣長の息子の春庭の業績を賞賛している。もっと古くは「時は12世紀の平安末期、「右衛門督家歌合(うえもんのかみけうたあわせ)」という和歌の手引書に」日本語の自/他動詞研究の問題の正しい理解があるという。
著者がカナダの仏語圏であるケベック州で日本語教師をしているということが、本書に大きく貢献している。助詞の「は」と「が」を比べる議論があって、日本語を学ぶ外国人に、今の日本語文法を使って違いを説明するのは大変なようだ。だが、ケベック方言のフランス語にある「ラ、ラ」を使えば極めて簡単に済むそうだ。人に日本語を教えるという立場で書いたというのが、机上の空論でない議論になっていると思う。
日本語は曖昧な言語であるとか、非論理的であるとかは、聞いたことがあるが、実はそうではないということがわかった。森有礼や志賀直哉の日本語廃止論などにもかかわらず、日本語は、特に話し言葉ではその独自性を保ちながら、今日も生きている。本書のおかげでネイティブスピーカーとして誇りを感じさせてもらった。
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一応、一通り目を通しました。
途中、難しくって、何が書いてあるのか良く分からない所も多かったです(汗)。
タイトルにもなっている「日本語に主語はいらない」という考え方は、それを取り入れることで、なんだか(日本語を話す・書くのが)ラクになった気がしました。
また、頭が賢くなったら、もう一度、読み返してみようかな…(苦笑)
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いきなり外国の人から「あなた」と呼びかけられて狼狽する。あるあるあるー。仮主語の「it」は昔から不思議だつたけれど、英語などはこれがないと成り立たない不自由な言語、といふこともできるのか。図書館で借りたけど、買つて再読したい。
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モントリオールで日本語の教育に携わっている著者が提唱するユニークな日本語文法論。
そのユニークさを味わうために、まずは学校で習った文法を思い出してみよう。日本語には主語と述語があると習ったはずだ。でも、主語はよく省略されるとも。日本語は主語をあまり主張しない、あいまいな言語だ……なんてことも習った。
でも、「そういう文法」では、外国人に日本語を教える役に立たなかったのだと著者は憤慨する。例えば「I love you」は日本語でなんというか? 「私はあなたを愛しています」か? 違う、そんなことふつーの日本人は言わない。それではいつまでたっても「外国人のバタ臭い日本語」にしかならない。ふつーの日本人は「私」も「あなた」も言わない。ただ「好きよ」って言っているのだ。
間違いのおおもとは何か? 主語を省略しなきゃとか、自明の目的語も省略されるとか、そういうことではないのだ。「主語」という概念そのものを、日本語文法からなくさないといけないのだ。
そもそも主語という概念は、どこで日本語に導入されたか。江戸時代に優れた日本語研究を行った本居宣長だって、「主語」なんて概念を扱うことはなかった。もともと洋学の家系に生まれた大槻文彦(日本最初の近代的な辞書『言海』で有名)が、明治の初期に英語に即して日本語文法を体系づけてしまったことが間違いのもとだった。どっかで改めればよかったものを、学校文法はこの明治の偉人がおかした過ちを、そのまま100年以上引きずってしまっているのだ。
英語の構文についてはS+VだとかS+V+Oだとか習ったことがある。共通するのは、すべての構文に「S」つまり主語があるということだ。では、「主語を持たぬ」日本語はどういう構造を持った言葉であるか? 著者は、日本語の基本文型は3つしかないとする。
「愛らしい」(形容詞文)
「赤ん坊だ」(名詞文)
「泣いた」(動詞文)
日本語では、これらはみな立派な「文」である。日本語は言うならば、主語不要の「述語一本立て」なんである。
主語という概念をなくすと、何がいいか。
まず「が」と「は」の違いなんてことに頭を悩ます必要がなくなる。「人称代名詞」なんて区別は必要なくなり「私」も「彼」もただの名詞というシンプルなことになる。「私はうなぎだ」みたいな文章で、「主語は“うなぎ”?」なんて間抜けなことを言わないで済む。「こんにゃくは太らない」なんて文章だって説明がつく。なんてすばらすぃ。
これだけではなく、「は」のスーパー助詞としての働き、人称代名詞の日英仏比較、日本語における自動詞/他動詞など、この本ではいろいろな発見がある。金谷氏は先人・三上章の日本語論に傾倒し、さまざまな影響を受けていることを明言しているが、「海外で日本語を教える」という自分自身の経験から三上文法をよりブラッシュアップしている印象を受ける。
とりあえず、へーとかほーとかうなずきながら興味深く読める「日本語文法論」であり、かつ「そーいうものなんだ」じゃなくて「そうだったのくゎ!」という読後感を持つという点では、画期的なんではないのかと。いかに学校文法というのが、実態に即してないものだったかということがよくわかるぞ。あんな役立たずな文法を教えている学校の先生ってば、何を考えておるのくゎ。いますぐ学校の国語文法から「主語」というのをなくすべきどゎ、と強く思ってしまうほど、説得力の高い「日本語文法論」だった。いわゆる「こなれた日本語」というものを書くためにも、知っておくと役に立つ知識が、いっぱい入っていると思う。
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一気に読んだ。
最初はカナダかぶれの方かと思って読み始めたが、目から鱗の数々。日本語の文法は間違っている、主語など無い、とはかなり刺激的。
だが、全く腑に落ちる。スーパー助詞の「は」といい、使役と自動の対比といい、その通りと得心する。
その根源が明治時代の脱亜入欧にある、と言われると卒然とする。言葉を取り戻すことは精神性を取り戻すことに等しいのだ。
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象は鼻が長い
日本語には主語が必要なのか?
日本の文法はS+V+O と言った具合になっているのか?
私たちは「国語」の文法を、
英語の文法を習い始めた後に、英語の文法のように、習ってきた。
そんな気がする。恐らく、そうなのだ。
「主語を抹殺した男――評伝 三上章」(金谷武洋著、講談社)はそんな「国語」の文法を、日本語の文法として考えなおそう、と「土着主義」の「街の語学者」が闘い、倒れていった姿を追った評伝だ。
筆者の金谷は、’51年に北海道に生まれ、函館ラサールから東大に進み、国際ロータリークラブ奨学生としてカナダに留学、そこでカナダで「日本語を教える」ことになる。
そこで疑問にぶつかる。
「ジュ・テーム」を日本語でいえば「私はあなたを愛しています」。
だけど、本当に日本語で、そんなことを言うだろうか?
「愛しています」ということはあっても、だ。
文法的には合っていそうなのに、実生活では言わないに違いない。
主語は省略されているのか?
疑問の前に立ち止まっていた筆者に解決の糸口を与えたのが三上章の文法。「象は鼻が長い」という妙なタイトルの本と『現代語法序説』という文法の入門の本だった、という。
日本語は、英語やフランス語の語法とは構造が異なる――という主張だ。
英語やフランス語の動詞は、主語が決まらないと、決まらない。
三人称・単数・現在形といった動詞の活用には、仮に省略されたり、隠されたとしても、主語の存在が不可欠だ。
これに対して、日本語に、その必要があるのだろうか。
「は」「が」という助詞が、「主語」につかなければならにのか?
三上の文法を研究して、金谷は「日本語に主語はいらない」
さらに「日本語文法の謎を解く」「英語にも主語はなかった」との
成果を生み出していく。英語やフランス語にしても、
現在は、必ず主語が必要だが、西欧古典語には主語がなかった、との
知見に到達する。
そこで、金谷は、三上の評伝を書くに至る。
’03年(明治33年)、広島県の甲立という田舎に生まれ、土地の素封家にして
「天才」としての育ち方をしていく。
和算の研究家として知られ
「文化史上より見たる日本の数学」で世界に和算を知らしめた三上義夫を大叔父に持ち、自身も理数系へ進んでいく。
山口高等学校に主席で入学するものの、数ヶ月で自主退学、京都の三高に進む。
ここで後の京大山脈と称される、今西錦司、桑原武夫らと切磋琢磨の時代を送る。
今西理論の源流にある「土着主義」は三上に啓発されるところが大きかった、という。
大学は東京へ出て、工学部の建築学科を卒業、台湾総督府に就職する。が、これも辞して朝鮮、日本の旧制中学の数学教師を歴任する。
この台湾時代に、三上は早川鮎之助の名前で処女論文「批評は何処へ行く?」を書き、これが雑誌「思想」に投稿し、入選した。
この時期、三上にもう一つの出来事があった。
ゴーゴリの『狂人日記』の英訳を読んでいて「私がその王様なのだ」と直��できるロシア語の文章が「I am
that King!」と英訳されているの読んだときに
心中にこう叫んだという。
「この”私が”は主語ではない。補語だ!」と。
三上の文法との出会いが、ここに始まったのだという。
評伝は、三上の歩みに寄り添いながら、時に強引な我田引水を含みながらも
その思い入れがよく伝わってくる。
三上の新しい文法の提言は、歯牙にもかけられない。
「学校文法」は、東大の橋本文法の流れが揺らがず、なお三上への反論すらない
いわば黙殺だった。これが三上への、さらなる苦痛となっていく。
一度目のスランプを救ったのは、金田一晴彦だったが、二度目には芥川龍之介と同じ睡眠薬で辛うじて不眠を乗り越えていた中で、狂気に近くなる。
支え続けた妹の茂子さんが不在であったボストンで限界を超えてしまった。
文法の細かなことは分からないが、
素朴に思っていた、英文法から国語の文法を借りてくるような違和感への
答えであるようには思う。
筆者の一生懸命さに、最後まで
読み通した。
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昔、学校で国語の文法問題を解くのに日本語を英訳して答えを書いていたのを思い出した。こうすると、よくわからないものが簡単に解けるので、やはり日本語には文法と言うものはなく、英語の力を借りないとだめなのかと考えていた(ような気がする)。
さて、ひょんなことから知ることになった、国語文法:学校で習う国語の文法がとんでもないという金谷氏の主張の興味深さから、この本を手にとってみた。
まず、冒頭の『日本語に人称代名詞という品詞はいらない』に驚き、(かれ、それという言葉があるのに何で?)読み進むうちにその明快にして、深い切り口に納得。その後の『日本語に主語という概念はいらない』から本題に入っていく。 主語はいらないと言ったって、現に○○は××したと いう文があるではないか。○○が主語でないのか?と疑問に思いながら読んでいくと、次第に驚きの事実が判明していく。
結論を言ってしまうと、日本語に主語が無いのではなく、英語文法でいう主語という概念に相当するものが日本語には無いということであった(必然的に「日本語では主語が省略されることが多い」ではなく、省略しようにももともと主語が無い)。なぜ、日本語に主語の概念が無いのかについて、わかりやすく説明したのが5章の『日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解』である。ここから先は実際に読んでみてください。まさに、目からうろこです。なぜ英訳すると日本語の文法がよくわかったのかというと、学校で習っていた国語文法が英語の文法を元に作られていたからだった(当たり前でした。英語と国語の授業で二重に同じ文法を習っていたんだ)。
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「日本語に主語、入らない」じゃないですょ・・・^^;。
かねて、「イギリス語の“I”一種類に対して、日本語には“僕”“わたし”“オレ”“それがし”など無数の言い方がある。日本語って、なんて細やかなんだべ!!」と思っていたんだけど、どうもこれ、そうカンタンにはいかない問題だったらしい。
そもそも“I”と“わたし”では、文法的な機能がまるで違うものである。
(どう違うかは、面白いから本書をお読みください^^;)
日本語文法に「主語」という概念を導入する必要はまったくないし、イギリス語の法則から日本語を考えても意味はない。それは、明治維新以来のイギリス語偏重主義の弊害であり、現在の学校文法は間違いである。
と著者はいう。
明治の頃、初代文部大臣の森有礼という人は「日本語やめてイギリス語を国語にしちまえ」という暴論を吐いた。前島密は「かな漢字をやめてローマ字を使うようにしちまえ」と言ったそうだ。
(言葉を捨て去ることは、そのまま文化、ひいては民族アイデンティティーの放棄である)
で、大槻文彦という人がその後の「日本語文法100年の誤謬」を決定づけた。・・・
また明治かよ、ですな。
そんな中で、イギリス語やフランス語の話者に日本語を教えて来た著者(モントリオール大学の言語学教授)のアンチテーゼには非常に説得力がある。
後半の自動詞と他動詞の問題あたりになると、かなり難しくて一読では噛みきれなかったんだけど、「は」「が」論争の不毛さも含めて、いかに日本語文法は誤った路地裏にさまよい込んでいた(いる)のか、ということがよくわかる本である。
あとがきにも、日本語教育に携わる方はぜひご一読を、と書いてあるが、日本語のためにオレからもぜひ、とお薦めしたい内容である。
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どういうものを「論理的な言葉」とするのかという定義自体が、確かに英仏の言葉にひきづられているものだとハッとする。
Iがひとつではないと言った日本語ならではの細やかさをもっと楽しもうと思う
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國分功一郎さんの「中動態」の議論に触発されて、これは日本語的にはどうなんだろう?と考えたときに、日本語ではしばしば主語が省略されるということに興味がむかった。で、なんかないかなと思って、Amazon検索したら、ずばり「日本語に主語はいらない」という本書がヒットし、即、ポチって購入。
さて、内容については、まさにこれが知りたかったということにドンピシャ。
日本においては、「主語」は「省略」されているのではなく、もともと文法的には必要ないということ。
主語の「ある」文章はたくさんあるのだけど、それは主語なしで一つの文章として文法的には成立していて、それへの追加情報として、主語的なものが付加される考えべきという主旨。
では、どうして、もともと「ない」はずの主語が「ある」ことになったかというと、明治以降、英文法との比較において、日本語文法が体系化されたということ。つまり、脱亜入欧ということで、印欧語同様、日本語もちゃんと主語があって、目的語がある文法であるという方向で整理したということらしい。
この辺の議論を、難しい理論ではなくって、日常的なありふれた表現について、英語とフランス語、ときどきドイツ語との比較をしながら、検討していて、とてもわかりやすいし、説得力がある。
これは、カナダのケベックというフランス語と英語が使われる場所で、日本語教師をしている著者ならではの明快さなんだろうと思う。
外国人に、日本語をいわゆる日本語文法にそって教えると、変な日本語をしゃべる人になってしまうという現実、そしてどういう教え方をすると「自然な」日本語を習得することができるかという実践に根ざした議論だと思う。
さて、「日本語に主語はいらない」を証明するだけでなく、この本はその先まで進んで、自動詞と他動詞の関係を論じていく。途中、専門的になって、ちょっと難しくなるのだが、我慢して読んでいくと、それは、「自然」と「人為」の差の問題であることが浮かび上がってくる。
そして、日本人は、人為的になにかをするというより、自然にそうなる、ということを大切にしてきた人々だったのだというところにいきつく。
え〜、これって中動態の話しではないか!
なんて、思っていたら、間髪を入れず、印欧語の中動態の議論についても、さらっと言及される!!!
しかも、この「自動詞」と「他動詞」の関係については、江戸時代、あるいはさらに遡って平安時代の歌書に、その違いについての理論的な説明がなされているという!
どうして、日本人は、自分の国の言葉の文法に関する先人の研究を忘れてしまったのか?
というと、やっぱ、脱亜入欧なんだろうね〜。
人間の思考が言語によってなされることを考えれば、自分たちの使っていることばを、英文法に無理やりに当てはめたようなものでなく、日本語の文法として再構築するというということが、日本が英語セントリック(エゴセントリックのもじり)な世界からの自立するために必要なことなのかもしれない。
まさに、精神的な隷属から��解放だな。
そして、その自立や解放は、エゴセントリックなものではなくて、日本語自体の構造や内在的な論理として、自然とそうなる、というようなものになるはず。
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AIの松尾教授の読んだ本にあるのを見て読んでみる。AIにどう役に立たせるのか不明。松尾氏の説明を知りたい。
「日本語に主語はいらない」と言うのは、「日本語には主語がない文が基本であり、それは省略されたと考えるべきモノではない」と言うことのようだ。確かにそれは分かる。しかしそれでどうなのか。著者は外国で外国人に日本語を教える日本人。そういう場面では役にたつのだろうか。
著者の熱い気持ちは伝わる。
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人称代名詞はいらない。名詞と構文的な振る舞いが同じ。日本語の人称代名詞は修飾が可能。これは名詞と同じ。英語の場合はIを修飾することはない。
英語を世界の言葉の標準としてはならない。
欧米の言葉は名詞を代名詞で置換すると、語順が代わる。
日本語は主語を省略しているのではなく、大事なのが述語だから。述語だけで文章になる。
単語で答えると文になっていないと感じるが、です、をつけると文になっている。いくつですか?に10才、なら単語だが、10才です、は文章。日本語は述語があれば文章となる。
伊丹十三の翻訳の実験。「パパ・ユーアークレイジー」の後書きで、人称代名詞を省略しないというルールを設定した。しかし訳のわからない文章になった。
「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」→「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」
日本語には主語の概念は不要。述語だけで基本文になる。