紙の本
凛として生きる遊女の姿から近代日本が見える
2016/02/28 21:14
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投稿者:まさ - この投稿者のレビュー一覧を見る
富国強兵、殖産興業…。明治の日本の表舞台にはいつも男性が立つ。しかしこの物語は、それとは別世界の遊郭で、身を呈して生きる女の明治を描く。硫黄島から売られて熊本の遊郭に来た青井イチ。小鹿と名付けられた少女は、花魁の東雲さんや女紅場の鐵子さんの支えによって洗練され、やがて女としての実存の言葉を手に入れてゆく。
紙の本
健気に頑張るイチ
2021/09/25 21:30
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「鍋の中」(ラストで許そう黒沢明と村田氏が雑誌に寄稿したのは有名な話、私もリチャードギアに原爆のことを謝らすのは意味が分からなかった)「龍秘御天歌」も優れた作品、この作者なら読んで失敗はないと言い切れる作者の一人。「ゆうじょこう」の優れているところは親に売られて遊女になってしまった女の子イチがいつまでも穢れを知らない乙女のように描かれていること、商売のシーンがほとんどないこと、硫黄島の強烈な方言を使い続けていること、女紅場(遊女の寺小屋)での主人公の生き生きとした先生・鐵子とのやりとり、などで悲惨な身の上をオブラートで包んでいる、しかし、もちろん、その生活が過酷であったであろうことは鈍い私でも想像できるわけで、最後の集団逃亡には胸が熱くなった
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硫黄島を離れ、熊本の廓へと売られた主人公イチ。
悲惨な話なのに何故か温かさを感じる作品。
遊女らしくない天真爛漫なイチにとても惹かれました。
途中、福沢諭吉の学問のすゝめが一部抜粋されており、かなり奇抜な事を書いているんだと無知な私はちょっと鳥肌モノでした。
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遊女もの、は好きで色々読んだけどなかなか新しい視点とヒロインで面白かった。
村田喜代子、の時点でなんというか土着的な空気は予想していたけれど。
願わくばもうちょっと、色めいていてもよかったかなぁ。好みとして。
ヒロインがあまりにも女、として開いていかないのがちょっと不思議ではあった。
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南の小さな島で、貧しい漁師の家に生まれたイチは、15歳で熊本の遊郭に売られる。
広い海で大きな海亀と泳ぎ暮らしていた少女は、きらびやかな牢獄で囚われの日々を送ることになる。
鄙で生まれ育ったイチは、訛りがきつい。「ください」は「けー」、「ここへ」は「こけー」、「これ」は「こー」、「食え」は「けー」、「来い」は「こー」。口数の少ない少女が必要最低限のことをしゃべると「こけー、こー、けー、こー」とまるでニワトリのようであった。
体は真っ黒に日焼けし、行儀も何もなく、小柄で痩せてサルのよう。
どたばたと歩き、訛りを隠すための遊郭独特の言葉もまったく身につかない。
およそ人間らしくない野生児が、突然、絢爛豪華な世界に放り込まれる。見た目は美しい極楽のようだが、その実そこは、性と金に支配される底なしの地獄だった。
島で育ったうえ、まだ子供であるイチは、島の外の広い世界のことは何も知らない。だが彼女には強靱でしなやかな身体とそれに見合う「魂」があった。
女紅場(じょこうば)と呼ばれる遊女たちの学校で、日記を書くことを教えられた少女は、つたない国言葉を重ねて、汚い字で、日々のあれこれを綴る。
有無を言わせぬ破瓜。望まぬ務め。不人情な客。かさむ借金。身勝手な親。
理不尽な出来事を睨みつけ、叩き付けるように文字にしていく。
それは世界をぶった切ろうとする、小さなしかし鋭い刃のようであった。
イチを見守る2人の女がいる。
1人は、イチを預かり、面倒を見ることになった姉さん格の東雲(しののめ)。店一番、いや廓一番の売れっ子で、遊女のトップクラスである「太夫」である。時には菩薩のように、時には魔物のように、底知れぬ美しさを持つ。
いま1人は、女紅場の先生である鐵子。遊女上がりである。幕臣の家の出で、御維新で家が傾いた。大家族が田舎に引っ越す工面をするため、長女である鐵子が身を売ることになった。つらい年季が明けた後、遊女たちに文字や書、算術を教える先生の職に就いた。
非常に対照的な女たちだが、いずれも凛と芯が強い。
激動の時代の中、女たちは自らの境遇や世の中を見据える。
世界の価値観が揺れ動く中、女たちは考え続ける。自分たちはどういう場所にいるのか。ここで何が起こっているのか。これは「正しい」ことなのか。
イチはこの2人をつなぐ架け橋となる。
東雲は太夫として何不自由ない暮らしを送っている。艶然と男たちを意のままに扱い、楼を支え、多くの者を養う金を稼ぎ出す。それでもなお彼女は「売られた」身で、「賤業」に就いていることには変わりはない。
鐵子は若き日、福澤諭吉の「学問のすすめ」「新女大学」に感動した。だがそれは読み込むにつれて、彼女を落胆させる。すべての人が平等と謳いながら、裏には女、特に遊女を低く見る偏見が渦巻いているのが彼女には見えた。
明治維新という激動の時代の中、それまでの世界を支えていた制度や価値観が崩れ、遊郭も揺れた。キリスト教的な思想による外圧もあった。人権意識の高まりもあった。
物語のモデルとなった熊本・二本木では、1900年(明治33年)���遊女による大規模なストライキが起きている。
そんな中、遊女たち自身はどう暮らし、何を思っていたのか。著者の濃密な筆は、力強く、ときにユーモラスに、ときに壮絶に、女たちを描き出す。
イチは日記を綴り続け、考え続ける。その国言葉は稚拙かもしれないが、強い。彼女は最後まで、国訛りを捨てない。それは、自分の言葉で考え、自分の言葉で表現する術を捨てないということだ。
その考えがたどたどしくても、ときに浅薄でも、身のうちから発した思想は強い。それは誰にも奪われぬものだから。
彼女は最後に、自らの意志で海に泳ぎ出す。荒海かもしれない。生き延びることは叶わぬかもしれない。けれど、決めたのだ。
びんと強靱な尾びれを振って1匹の魚がゆく。その潔さがまぶしい。
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明治中期、硫黄島で生まれ育ち、当時全国有数の花街だったという熊本のなかでも最上格の廓に親によって売られたイチの1年ばかりの日々。明治の空気か女紅場のような一応の教育施設もあり、そこでイチはお師匠さんの指導のもと自分の気持ちを文章にすることに没頭する。そこここにその文章がはさまれるんだけど、硫黄島のことばそのままに文字になったようなその文章にイチの素直な喜怒哀楽がほとばしっているようで、昔が舞台の物語に生き生きとした勢いをつけている。
ことさらに遊女の不幸を語りたてることなく、おそらくそうであったように、当時その場にいれば誰もが生きていた毎日として描かれているのも好感。イチ自身は最上格の遊郭で最上位の花魁・東雲さんに面倒をみてもらうというなかでも恵まれた状況にあり、その一方で挿話的に転売されたり、病んでいつの間にかいなくなったり、妊娠する女たちの模様も描かれる。こんなんで遊女としてやっていけるのかなと思うようなイチの直情さが、それぞれの出来事に対して反応する様子をとおして深々と遊女たちの過酷な生き方が伝わってくる。
最後は遊郭を出たイチだけど、この後どうやって生きていけるだろうか。父親によって二重に借金を背負わされたこと以外は、これといって過酷な目に遭っていないようだし、周りについていくかのように遊郭を出たイチの先行きが不安。
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村田喜代子さんにハマって三冊目。
明治後期の九州にある遊郭が舞台の物語。
貧しい親に売られた娘たちが次々と送り込まれてくる。
その遊郭は一番格の高い店ではあるけれど、行われていることは残酷だ。でもそれを受け入れないと生きていけない。
そして遊郭の外にも店はあり、そこでは一体何が行われているのかは分からない、という言葉にはぞっとした。
主人公のイチは遊女のための学校に通い、読み書きを覚えて、いきいきと自分を表現し始める。
悲惨な環境の中で、光のかたまりのようなイチの素直な心に、不思議と励まされ救われるような気持ちがする。
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硫黄島育ちのイチのカラッとした芯の強さと、遊女という切ない仕事のギャップが素敵。
遊廓の話といえば江戸時代ですが、明治という設定も斬新。
福沢諭吉は、嫌いになりました。
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健康的で尊敬する海人の母。青く広い海と、海亀。遊郭という非常識な世界にきた15歳の少女の悩み、明治の教育と遊郭の矛盾、人間の生や尊厳と遊郭の矛盾。何もわからない少女だからこそ。
架空の作文だとはわかっていても胸を打つ。素朴で本質をついてくる感じが逆に技巧的でわざとらしく感じるけど。
ストライキも労働者とか権利ではなく、自分の欲求と意地の張り合いという視点。外野には自分達の世界はわからない。東雲さんがどっちに転ぶか気になってたけど、最後まで格好よくて良かった。
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時代は明治初期、場所は熊本の遊郭。ちょっと変わった設定だが苦界に身を置かざるをえなくなった少女を中心に、社会の変化に戸惑いながらも新しい時代を逞しく生きる女性の姿が描かれる。方言で綴られた少女の日記が効果的にその真摯な思いを訴える。
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明治の熊本の遊郭を舞台にした作品。
「吉原炎上」やら、荷風その他の男性作家の作品と大きく違う。
硫黄島から、両親に売り飛ばされた娘、イチ。
その境遇は苛酷だけれど、「かわいそうな女性」と、ヘンに美化されない。
その体の上に起こる様々な状況、生々しい身体感覚も、意外とドライに描かれる。
だからこそ、心を動かされる。
イチの一本気な性格によるところもあるのかもしれない。
イチの人柄は、彼女が女紅場で師匠の鐵子さんに出す日記によく表れている。
皮肉なことに、彼女は遊郭に売られて、始めて文字を覚えた。
それ以来、書くことに憑かれたようになる。
鐵子さんも没落士族の娘で、かつて遊郭に売られた身。
イチたちを案じつつも、見守るしかないこの人も、教養のある人ながら、娼妓であったことで社会的に蔑まれてきた。
野生児のようなイチと、鐵子さんがつながる。
このことによって、物語が終盤、大きく動いていく。
読んでいて、わくわくするところだ。
イチの売られた娼館、東雲楼は、熊本きっての名店。
楼主も、それほど阿漕な人ではなく、比較的娼妓を大事に扱う。
娼妓同士の諍いも少ない。
えげつないプロレタリア文学は、これでもか、といわんばかりに、その悲惨さを強調するところだが、この作品ではそうではない。
だからこそ、最後に娼妓たちがストライキをして出ていくところが胸を打つ。
暴力に余儀なくされて逃げるのでなく、自らの考えで出ていくことを選び取っているように感じられる。
夜通しの「遊女の大行進」を、応援したくなってくる。
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硫黄島の海女の娘・青井イチ。困窮する家を救ふために、熊本の郭に売られてしまひます。15歳。時代は明治中期くらゐでせうか。当時は貧しさゆゑに、娘を売る家は珍しくなかつたと聞きます。
イチが売られたのは、熊本一番の遊郭である「東雲楼」。楼主の羽島茂平は、大阪堂島の米相場を牛耳る実力者。
ここでイチをはじめとする娘たちは、各花魁に遊女としての教育を徹底して仕込まれるのであります。イチは「小鹿」なる源氏名を与へられました。
イチが預けられた花魁は、一番の稼ぎ頭である東雲さん。聖母のやうに、後輩たちを温かく見守ります。
当初のイチは、島ことば丸出しで、「けー、こー、こけー、こー」などと、ニワトリみたい。現在でもネイティヴの鹿児島弁は、耳で聴くだけでは理解出来ぬ事が多い。まして当時の、しかも島ことばになりますと、本土の人にとつては外国語そのものでしたらう。
郭には「学校」もあり、「女紅場(じょこうば)」といふ名前。ここで一人前の娼妓としての技能知識を身に付けるのです。先生に相当する「お師匠さん」は、赤江鐵子さんといふ中年女性。キリッとタスキをかけてゐます。
女紅場でイチが書く日記が面白い。島ことばで書くので、文字で見ても理解不能。それで標準語のルビが振つてあり、やうやく理解できるのであります。
鐵子さん自身も勉強家とお見受けしました。福沢諭吉の欺瞞を指摘する箇所などは、快哉を叫びたいところでした。さうなんですよ、著書を読めば分かるが、この福沢翁は、徹底した差別論者であります。しかも自身の自覚はどうやら無い。なぜ未だに神格化され、お札の顔なんかになつてゐるのか、わたくしには首肯しかねるのであります。まあいいけど。
女としても成長してゆく青井イチ。郭の中では様様な出来事が起き、その都度新しい発見や悲しみが。逃亡する女郎、妊娠する花魁、刃傷沙汰......そして天神(花魁に次ぐ位)の夕浪さんの一言をきつかけに、物語は大きく展開してゆくのです......
生々しい女だけの世界を描きながら、ドロドロした感じは全くなく、寧ろ爽やかな感動を呼ぶ長篇小説であります。面白いよ!
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-711.html
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粗にして野だが率直で利発、磨かれる前の原石そのもののイチがどう成長していくのか、廓の天国と地獄の狭間でハラハラしつつ興味が尽きない。
「踏みしめる足場のない所」で垣間見える鐵子さんや東雲さんの優しさにホロッとくる。三人の心が交流する紅絹の休みの話が好きだなぁ。
反面、娼妓を取り巻く世間や環境は怒りが湧くことばかり。
火山の溶岩が海へ流れ出すような静かに燃える熱いラスト、彼女たちのあまりに険しい前途を思うと若干気持ちは暗くなる。それでもこの選択が報われることを祈らずにはいられなかった。
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先日花魁道中を見に行った。
これがあの八文字かと胸を高鳴らせた。
混み合っている中、そばにいた中年女性が連れに言った。
「女なら憧れるわよねえ。綺麗な着物着てさ」
確かに綺麗な着物には憧れるけれど、実際の花魁に憧れを持つかといえば、どうだろう?
身体を売ることに抵抗がある(だからと言ってその職にいる人を貶めるつもりはない)だけではなく、病になっても医者に見せてもらえずそのまま命を落としたり、誇りを踏みにじられたり、親に借金をどんどん増やされたり......。
苦界そのものだ。
男たちの作った世界、彼らが思い描き、その思い通りの時間が流れる中で、女たちはどれほど犠牲を払い辛い目にあってきたのだろう。
本書は明治になってからの熊本。
硫黄島から売られてきた青井イチ(子鹿)の目から見た廓の物語だ。
太夫の妊娠、出産、位の低い遊女の逃亡、転売。
その中で生きるよすがとなるのが女紅場と呼ばれる遊女たちの学校だ。
教師役の鐡子は元武家にして元遊女。
彼女が遊女たちの背中を押す。
誇りを持て生きよ、と。
鐡子は福沢諭吉の『女大学』に希望を持つが、次第に諭吉の不平等、不公平の思想を見、失望し、怒りを覚えるようになる。
そして遊女たちに知恵を授け、ストライキを起こさせるのだ。
福沢諭吉の不公平の思想は当時からすれば、それでも画期的なものだったのかもしれない。
しかし私も受験生の頃にその違和感を感じたのを覚えている。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり、そう語ったのと同じ人物とは思えなかった。
東雲太夫の言葉が胸に残る。
楼主は決して悪人ではなかった。
遊女を騙したり、酷いように扱ったりはしなかった。
「それでも」「それでもお前様は、人を売り買いしなさんした」
美化された言葉ではこの太夫の言葉は伝わるまい。
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熊本の遊郭に売られた15才の少女の物語。
主人公のイチは硫黄島の漁村で生まれ育った。
しかし、生活が苦しい家族によって熊本の遊郭に売られてしまう。
彼女は、これまで自然豊かな島でどちらかというとプリミティブな生活を送ってきており、教育も受けたことが無い。
元々は健康ですごくピュアな感性を持っている明るい子である。
それがいきなり慣れ親しんだ故郷の島を離れ、熊本の遊郭で働くことになる。
悲劇以外の何物でもない。
イチを通して描写される遊郭という世界。
舞台は現代からたかだか100年ちょっと前の時代である。
貧しい家から娘達が売られてきて、毎日のように体を売り10年程の年季明けるまで遊郭という世間と切り離された世界で生きてゆく。
人としての権利なんかは、とっくに蹂躙されていて、病気、犯罪、絶望による自殺で若くして命を失っていくものも多い。
想像を絶しているとしか言いようがない。
物語では、当時の遊郭での娼妓達の生活がリアリティー豊かに描かれている。
(当時の彼女達の生活感が伝わってくるほどであり、著者の入念なリサーチには感服する)
当時大きな遊郭では、読み書き計算を教える学校(女紅場)があり、娼妓達はそこで勉強していたらしい。
イチは女紅場で勉強するのが大好きで、ほぼ毎日通っていた。
中でも作文が好きで、訛がすごくて文章が拙いため中々読みにくい文を書くが、内容は彼女のピュアな感性が光るものである。
この小説の各章の題名はイチの作文から採った文で、各章のハードな内容と彼女の子供っぽい文章のコントラストが強く、年端もいかない子供が過酷
な環境で生き抜いていかなければならない状況が鮮明になり哀愁を誘う。
個人的に一番やりきれなかったシーンがあった。
父親が訪ねてくると聞いて喜んでいたイチは、なけなしのお金で姉の為の手鏡を買い、父親に会ったら渡そうと楽しみにしていたのだが、実は父親は更なる借金を申し込む為に来たのであり、イチが働いて返さなければならない借金はさらに大きくなったのであった。
しかも父親は、イチに会うことなくさっさと島へ帰ってしまう。
イチは、自分の将来に絶望感を持ってしまう。
イチが拙い文章で作文に父も母もいらないと書いていたのが、あまりにも哀れだった。
15才の娘を遊郭に売り、親の借金を返すために信じられない様な苦労をしている彼女を労いもせず、平気で更に借金をしていく親。
ちょっと酷過ぎやしないだろうか・・・
彼女の辛さを思うと涙が止まらなかった。
またこの作品には、元武家の娘で、吉原の遊郭に売られが年季が明けた為、女紅場で教師をしている鐵子さんいう40代半ばの女性が登場する。
彼女は、教育がある女性なので最初は、福沢諭吉の思想に感銘を受け新しい時代の息吹を感じていたが、徐々に福沢諭吉の持つ思想が社会的弱者に対
する配慮を欠いていることに気付き絶望する事になる。
私も今まで福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」なんて事を言ってるので非常に啓蒙的な人物と考えていた。
しかし、鐵子さんが指摘したように、彼の思想は社会的弱者を明らかに考慮していない。
彼に対する評価が私の中で少し変わった。
最後にイチと娼妓達(廃業することを望んだ)は遊郭から抜け出す事ができ、外の世界で新しい人生をつかむチャンスを得る。
イチの今後の人生が幸せなものになる事をを切に願う。
歴史の中に消えてしまったが、確かに存在した世界を活写してくれた著者に感謝したい。