紙の本
言葉というやっかいなものと戦った男たちの物語
2016/08/12 07:35
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
辞書を持っている人は今どれくらいいるだろうか。
持っていてもそれを活用している人となるとうんと少なくなるのだろう。
ましてや最近のようにインターネットが発達してくると、言葉を調べるのもネットを使うことが多いのではないか。
本書はそんな中でも人気の高い辞書『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』をつくった二人の編纂者の生涯にスポットをあて、生きる上での言葉のありようという深い森へと読者を誘う。
それはまるでミステリーを読む如くであり、特に『新明解』の人気となった独特な語釈が生まれた謎にも迫って、読書の面白さを満喫できる一冊になっている。
それはちょっとした言葉の行き違いだったのかもしれない。見坊先生が「助手」と山田先生のことを称したことがのちに二人の人生を交えることのない流れに押しやったともいえる。
本書では実はそこまで書かれていない。二人の先生が仲たがいをしたきっかけやそこに出版社の思惑のようなものがあったことまでは追求されている。しかし、人は些細な一言が後々まで残ることがあるものだ。
些細な傷から大量に血の吹き出すこともある。
真実はひとつかもしれないが、実はそれを受け止める人の立場であったり感情であったりで大きく違ってくるのはままある。
二冊の辞書をもって引き比べすることはあまりないが、少なくとも辞書をもっと活用しないことには辞書に人生をかけた二人の先生に申し訳ない。
事の真相よりも二人の先生はそれを望んでいるだろう。
紙の本
字引の裏側
2017/03/09 23:58
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投稿者:安堵 玲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
辞書出版の裏側をおもしろく伝える書物は多いが、その「人」を知る1冊として興味深く読める。ただ その「人」たちは、「先生」なのか 「さん」なのか。敬称あり、敬称なし、この不統一は辞書というものの象徴か。
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テレビのドキュメンタリー番組の取材・製作にもとづいた読み応えのあるノンフィクション。出版元や交流のあった編集者はじめとする関係者の貴重な証言にもとづいて「三省堂国語辞典」と「新明解国語辞典」という個性的な2つの国語辞書の生まれた経緯を追い、辞書に生涯を捧げたと言っても過言ではない二人の人物を掘り下げている。
多くの人が辞書に期待するような「唯一絶対の語釈」「意味の正解」などないのだ、ということを地でいくすれ違いエピソード、その痕跡がそれぞれの辞書に残っている驚き。仕事柄あっというまにひきこまれてぐいぐい読めた。
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辞書編纂の人間臭い裏話。
ほぼ学者のような二人の編纂者にサラリーマンの出版社員が絡んで、二人の関係は修復することがなかった。
ただ、いずれにしても二人の関係は、遅かれ早かれ破綻することになったのだろう。
完成した作品である辞書を楽しんでみよう。
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【辞書は小説よりも奇なり】一冊の辞書を共に作っていた二人の男はやがて決別し、二冊の国民的辞書が生まれた。「三国」と「新解さん」に秘められた衝撃の真相。
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一冊、面白く読んだ。
山田忠雄と、見坊豪紀(ひでとし)という、不世出の二人の辞書編纂者の生涯を追った本。
一時は共に学び、ともに仕事をした二人が、個性の違いや、大人の諸事情により、やがて袂を分かっていく。
少し切ない部分もある。
さて、赤瀬川さんの『新解さんの謎』もあって、新明解にはなじんできた。
山田先生の、タラの語釈に、「美味、うまい」とすればよい、と主張し、編纂仲間の金田一春彦さんに笑われて激高したエピソードが強烈な印象を放っている。
あの独特な語釈は、実際、奇を衒ったものではなく、純粋にそれがいいと思ってなされたものだった、ということに、やはり衝撃を受けた。
そして、山田先生は、ビアスの『悪魔の辞典』をイメージしていたとは。
先ごろ話題の『暮しの手帖』商品テストで国語辞典が取り上げられ、問題化した辞書の盗用体質に、新明解は決別する辞書たらんとしたことも。
古語辞典を引いていて思うのは、この言葉ってどういう場面で、どんなニュアンスで使われていたんだろうということ。
だって、形容詞の訳語は下手をすると大方「趣がある」か、「はなはだしい」か、「不快だ」になってしまう。
どう違うのか、とじりじりしてしまう。
新明解はそういった色合いを記述しようとし(てああなって)いったのだという。
本当に、表面的にしかこの辞書のことを知らなかった。
一方、『三省堂国語辞典』のケンボー先生。
実は今まで一度も三国を手にしたことがない、と思う。
きっとこれと先に出合っていたら、自分の中の基準になっていた気がする。
今は飯間浩明さんが仕事を引き継いでいるそうだ。
十四万語の用例に裏付けられた、簡明な辞書。
たっぷりの野菜や肉類を煮込んで濾して作った、その割に驚くほどあっさりした味わいのコンソメスープのような辞書?
やはり一度手に取ってみたい。
山田先生こと忠雄が山田孝雄の子だったことも、初めて知った(が、それほど驚かなかった)。
むしろ驚いたのは、今を時めく日本語学者の今野真二さんが山田先生の甥御さんだったということ。
金田一一家といい、山田家といい、日本語学者もお家芸なのかな?
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ケンボー先生曰く言葉は生まれた時から古くなる。
だからこそ145万語というワードハンティングをして確証をとってから実証をするというのは言葉を古くさせないためである。
対して山田先生は
新明解の文例の特異さだけが注目されているが
まずは堂々めぐりをやめさせたかった。
右とは左ではないもの
左を引くと右ではないものという説明しているようで説明していない。
それを単語をスケッチ、
写生することによって捉える。
どちらも言葉の重み、
動きを分かってるからこそ
同じ心意気なのに方法論が違うために
二頭合間見えず。
一緒に出来なかったからこそ日本は世界に誇る個性のある辞書が生まれたのである。
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サンキュータツオ経由で本書の存在を知り、長く気になっていた。
思い切ってもとになったテレビ番組を見てみたら、これが一大ミステリースペクタクル!
大興奮して本書を読んだ次第。
「明解国語辞典」
金田一京助の名義のもとに、ケンボー先生がほぼ単独で作り、山田先生が「助手」を務めた。
ふたりの理想は食い違い、改訂のタイミングを巡って三省堂編集者の作為も悪く作用して、仲たがい。
「三省堂国語辞典」
独特な性格も相俟って言葉の海に飲まれてしまったともいえるケンボー先生。
辞書は鑑となる前にまずは鏡であるべきだと考え、凄まじい量の用例を収集した。
「新明解国語辞典」
「学生のひねたような」山田先生が、文明批評であるべきとしてビアス「悪魔の辞典」のベクトルで推し進めた。
「見坊に事故あり」という序文が離別の引き金になってしまったという歴史。
いわば編集主幹の「乗っ取り」。
これが関係者の証言だけでなく、各々の辞書の例文の中に手がかりが求められるのが、大変面白い。
「新解さんの謎」で知ったただの笑える例文かと思いきや、人生がかかっていたのだ。
ふたりの性格や超人的な体力に、読んでいて魅了される。
本の後半に「柔の見坊」「剛の山田」という一見の印象を覆す記述(ケンボー先生のほうが強情、山田先生は卓球好きで面倒見がいい、など)もあり、
辞書のスタイルも別ベクトルだが見方によっては表裏一体な部分もある、という着地が、もうできすぎたミステリーのように面白かった。
共同作業ができなかったからこそよかった、と人生の終盤に零していたという記述もあったが、
これこそ世界の豊かさというものだ。
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辞書編纂者の偉人「見坊豪紀」その人物像がよくわかる。それだけではない。この偉人は、もう一人の偉人「山田忠雄」がいてこの人がいなければまた、ケンボー先生も偉人足りえなかったことがよくわかる。なかなかの快作です。
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三省堂の三国と明解を作り上げた先生方の本。これは私の周りのことではあるけれど、○○対▲▲という個人間の対立(というよりは衝突?)には必ず第三者の横槍というか意向が入っている事が多い。この場合は三省堂という会社の意向が多大にあったと言える。この第三者が徹底的に2人の道を分離させた。
それにしても、膨大な言葉を扱う辞書を作り上げるというのは途方もない事業。特に今のようにデータ化が当たり前にある時代ではないのだから。そういった事業に携わる人らしく2人とも(というかその周りの人たちもではあるが)個性が強い。三浦しをんの「舟を編む」に出てくる人たちの個性の強さよりも更にアクが強い。
取り急ぎここまで。
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ちょっと変わった辞書として有名な、新明解辞典(以下新明解)、そして学生向けに作られた三省堂国語辞典(以下三国)、それぞれの辞書を作ったのは2人の男だった。
山田先生は新明解を作り、ケンボー先生は三国を作った。
けれども、最初は、明解国語辞典を2人で作っていた。
辞書といえば言葉の定義がはっきりとしていて、誰が作っても同じというかわかる内容となっているイメージだが、新明解は割と恣意的な説明が多い。それに比べ三国は簡潔に平易に説明をされている。
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昭和に誕生した2冊の国民的国語辞典「三省堂国語辞典」「新明解国語辞典」。この2冊の源流というか母胎は
昭和18年に出版された「明解国語辞典」。
この2冊「客観」と「主観」、「短文」と「長文」、
「現代的」と「規範的」、とにかく編集方針から
記述方式、辞書作りの哲学、それらすべてが性格が
異なり、似ても似つかぬ姉妹辞書が同じ親から誕生。
「辞書なんてどれも一緒である」は、この二冊限っては
小説同様「文は人なり」の言説が辞書にも通じること
なんだと教えてくれる。そこには編纂者の思いや性格が
ありありと滲み出ているからに他ならない。
本書は「明解国語辞典」を共に編纂してきた東大の
同級生であり、理想の国語辞典を目指し手を携えてきた
良き友であった見坊豪紀と山田忠雄がなぜ袂を分かち、
見坊(ケンボー)先生は「三省堂国語辞典」を、
山田先生は「新明解国語辞典」を作ったのか。
著者はわずかな手がかりを頼りに丹念に取材を進めるも
難航。ある日、思いもよらない証拠にぶち当たる。
それは、辞書に記載したある言葉の用例が昭和辞書史の
謎を解く鍵だった…
辞書界を揺るがせた最大の謎を上質なミステリーを
読んでいるかのような知的興奮を覚える一冊。
秋の夜長にどうぞ。
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国語辞書はどれも同じ、一冊あれば十分。と思っていたが、そうではなかった。どの国語辞典にも「個性」があり、その個性とは書き手の「人格」に他ならい、極めて人間味の溢れるものである事を知る事が出来たのは、大きな収穫。さらに、ケンボー先生と山田先生という、二人の辞書編纂者の生き様も大変面白かった。
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興奮をもって読んだ。三省堂国語辞典・新明解国語辞典それぞれの主幹編集者・見坊豪紀と山田忠雄。見坊は145万にも及ぶ用例採取で,山田はその独特な語釈で知られる。2人は元は明解国語辞典をともに作ってきた間柄であったが,あることをきっかけに決裂しそれぞれ三国・新解という2つの国民的辞書を生み出した。この本はテレビ番組制作を機に行った関係者・家族への取材を元に,2辞書の歴史,決裂の事情とその後を物語る。国語辞典のあるべき姿についての主張,スタイルの違いはあるものの,仕事に対する思いは執念ともいうべきあついものであった。
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数年前にNHKで放送していた番組は見ていたけど、番組放送後に判明した事実なども補完されていて面白かった。
見坊先生の言葉に対する姿勢が、辞書は言葉を正すものではないというOEDの姿勢とまったく同じというのが面白い。