紙の本
『マルティン・ルター』
2017/10/07 19:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:百書繚乱 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教改革者ルターの生涯と思想を「ことばに生きた人」という視点で描いた格好の入門書
・「自由であって僕」という逆説的意味をもつ「ルター」という名を自身の覚悟として用いる
・「恵みの神が授ける義という贈り物を心から受け止めることによってのみ救われる」という「一点突破」から神学的諸問題を解決する
・「宗教改革=リフォーメーション」は土台だけ残して建物全部を建て替える意味をもつ
・教会に集まって人びとが歌う賛美歌を始めたのがルターであり、生涯で五十編ほどのコラールを作詞、いくつかは作曲もした
・律法による絶望の下で福音が新しく姿を現す、「律法から福音へ」というルターの発見が「福音の再発見」と呼ばれる
宗教改革500年の年にルターを、プロテスタントを、教会を、キリスト教を再発見できる本
同じ著者による『ルターと賛美歌』(日本キリスト教団出版局、2017)もあわせてどうぞ
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教科書で学習するようなわかりやすさで書かれている。
讃美歌もまたルターの発案だったことも知りました。
イメージとして持っていた「過激な人」ということではなく、信念を貫き通す人だったのですね。
カトリックとプロテスタント(反対しかしない人)の単純な二分法ではなく、折衷的なイギリス国教会などもあることも知りました。
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宗教改革の立役者であり、歴史に与えた影響は大きい。偉大な人物であり、今日の我々の生活の様々なところで、彼の遺産を受け継いでいる。彼の生き様も素晴らし。
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ルター研究の泰斗・徳善義和先生の『マルティン・ルター』岩波新書、読了。
副題通り「ことばに生きた改革者」の軌跡を辿り現代的意義を問う。キリスト教史を踏まえ人間・ルターの歩みを「ラング」と「テキスト」の側面からを活写。そのキリスト教史の概観は中世と近代とを「画する」意義を解説。☆4
( ちょっと評価甘めですけどね、後期ルターはフマニスムの観点から個人的には?であるけど ) ともあれ、ルターの新書的入門書が無かったことには驚くと同時に、『ふしキリ』読んでる場合でもないってだけで、全体としてはよくできているんじゃないのかっていうインプレッション。
教科書的「新教vs旧教」の単一なフラグにスルーされる中世~近代の時代の実働の「彩り豊かさ」は見事に描いている。中世に誕生した大学のひとつの帰結の時代にルターは生きたし、普遍語(ラテン語)から国語への転換期でもあるから、極めてアクチュアル。
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宗教改革者としてあまりにも有名なルターの生涯を簡潔に、そして「言葉(聖書)に生きた」という面白い視点で描かれているルターの評伝。
既存のキリスト教に対して葛藤し、苦悩し、ことばの真理を求めた若かりし頃のルターの様子はとても印象的。
特にルター自身が【十字架の神学】と呼び、「十字架のみが我々の神学である」と悟ったその内容はとても感動的だ。
当時中世のキリスト教社会はギリシャ文化の影響をを大いに受けており、【栄光の神】を中心に構築された神学だった。
しかしルターは無残なキリストの姿こそが神が人間に与える義であり、およそ栄光とはかけ離れたみじめで無残なイエスの姿こそ神の恵みと認める神学を打ち立てた。
このルターの悟りは塔の体験と呼ばれ、この悟りがきっかけとなって宗教改革が進んでいく。
宗教改革者としてのルターの、彼がなぜ宗教改革を行うようになったか、そしてどのように展開していったか、そういった内容がルター専門家である著者によって興味深く描かれている。
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平易な言葉でつづられたルターの評伝。平易な言葉ながら、そこに込められた意味は二重にも、三重にも。「ことばに生きた」ルターの評伝にふさわしい。民衆に聖書の「ことば」を伝えることに徹したルターのさまが伝わってくる。神の「義」から「恵みの神」への理解など、翻訳、解釈の深さ。。活版印刷術の普及によるメディア活用。賛美歌はルターがはじめる。五感をフルに活用する聖書の読み。「祈り、黙想、試練」(『ルター ドイツ語著作全集』の「自序」より)。そんな影響力から、ルターによるユダヤ人批判がナチスに利用される。著者のルターへの思い入れが凝縮された1冊のように思う。
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マルティン・ルターって初めて賛美歌を始めた人なのか。
ルターというと宗教改革だとか免罪符(贖宥状というのが正しいらしい)に反対した人という革命家・異端児というイメージだった。本書を読んでみるともう少しソフトな感じかな。聖書に真面目に向き合い、とにかく聖書に殉じた人といったところ。それまでラテン語訳しかなかった聖書をドイツ語訳した人でもある。
カトリックのやり方に疑問をもって対立したという改革者のイメージより庶民に聖書の中身を教えようとした伝道師の要素のほうが強いような気がした。日本だと坊さんが辻説法とかしてたがあんな感じだろうか。
少し意外だったのは、ナチスがルターを英雄視していたことや、ルターがユダヤ批判を書いた本を使って反ユダヤを説いたことなど。ルターとナチスの繋がりなんて全く思いもしなかった。
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ルターのキリスト教への影響の大きさに改めて驚かされた.
聖書に還るという原理主義的な側面.
聖書の解釈の大転換.
特に,聖書の言葉そのものを民衆に届けたことの衝撃は非常に大きい.
現在,我々がキリストがどのような人で何をしたか.
それを知っていること自体が,ルターの功績であると考えると彼の偉大さは計り知れない.
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ルターの業績を追いながら、宗教改革の本質について書かれた本。「ことば」というコンセプトでルターと宗教改革を説明している点がよい。
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ルターの生きていた頃の時代背景についてよく書かれていて、宗教改革の始まりについてよくわかる一般書です。歴史では軽く勉強したけど何故こうなったのかわからない…って人にお勧めです。
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お父さんのハンスは「俺は息子を大学にやるぞジョジョーッ!」と言ったそうで。
ルターさんが雷にうたれそうになったところは石碑がたっているんだとか。「歴史の転換地」っていう名前で。
確かにルターさんが雷にうたれなかったとしたら宗教改革はなかったわけだから、なんだかそうすると神様の意思とかそういうものを信じそうになってしまう。
ルターのいいところは宗教者に厳しく民衆に優しいところだと思う。知識はあるのにそこから目をそむけている神学者や司教にはきつい口調で説き、無知の状態にある民衆へは優しく教えを説いてやるっていうスタンスがかっこいい。いつか神学者たちもわかってくれるはずだって信じてたんだろうなあ。
けどやっぱり苦しむ宗教っていうのは理解できない。
ルターは「翻訳の父」といってもいいと思うんだけどなあ。
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マルティン・ルターと言えば宗教改革の人。ということはもちろん知っているが、しかしじゃあ、具体的にどんなことを知っているのか、と問われたら殆ど何も知らないのだった。
で、取敢えず入門編っぽいものを読んでみたけど、ルターの伝記ではないので、分かったような分からんような…。
明らかに強迫神経症としか思えないルターがなぜ、民衆に届くように聖書の言葉を語りかけたいと思ったのか、がよく分からず、そこが分からないと、宗教改革の発端となった『95ヶ条の論題』をわざわざローマに問おうとしたのかが謎のままだ。
そういったこととは別に、当時の世相なども触れられているのでそれは新鮮だった。
例えばルターですら、修道院に入って初めて聖書を手に取った(しかも鎖で厳重に管理されている!)とか、当時の礼拝は全てラテン語だったので、一般大衆にはチンプンカンプンだったとか。
聖書を読んだこともなく、礼拝で何を語られているのかもわからず、どうやってキリスト教を信じていたのだろう?
当時の人たちのキリスト教信仰と、現代の我々のそれとは、随分様相が異なっているようだ。
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ルターの信仰観では、スピリチュアル・ブームなど許されないだろう。非常に厳しい。しかし本来、信仰というものは厳しさを伴うものなのではないか。 #D46AB30
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テレマンの声楽作品をルター派音楽家としての側面から勉強する中で、ルター派牧師先生から贈られました。音楽の中の「ことば」はよくよく考えられねばならないと改めて思いました。
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「ことば」を中心に編まれたルターの評伝で、専家の手になり、水準が高い。ルター(1518年まで家名の「ルダー」)は、1483年11月10日に生まれた。父ハンスは農民の子だが、ザクセンの鉱山にいき、労働者から身を起こし銅の精錬炉を経営する実業家になった。父は息子に期待し、幼いころからマルティンを学校に行かせ、教育をさずけた。異例だがエルフルト大学にいれている。すえは同業者の法律顧問にしようとしていた。ルターは優秀で1502年教養学士、05年修士、法学部に進んだ。青春時代はツィター(ギター)を弾いた。同年、故郷から大学に戻る途、突然の落雷に遇い、聖アンナ(イエスの祖母)に「助けてください。私は修道士になります」と祈った。この約束を守り、法学を捨て、アウグスティヌス隠修修道院戒律厳守派の裏門をたたいた。修道院で熱心に読むようにと聖書(ヒエロニムスのラテン語訳、ウルガータ)を渡された。生活は「詩編づけ」で、未明3時から夜9時まで7度の定時祷で一週間に二回り「詩編」を唱えつづける。ルターは完璧主義者で、徹夜祷や断食などの生活でも自分が救いに値すると確信できなかった。そんな迷いを抱え、07年に叙階され司祭となる。修道院上司からエルフルト大学での神学研究を命じられ、「服従」(修道士の誓いの一つ)する。11年、選帝侯新設のヴィッテンベルク大学に籍を移す。翌年、神学博士、「聖書を忠実に教える」と契約し、神学教授となった(教会の管理も任される)。メランヒトン(1497-1560、人文主義者、宗教改革の理論家)はヴィッテンベルグの同僚である。大学では「詩編講義」を行うが、「あなたの義によって私を解放してください」という文言の解釈に苦しむ。この「神の義」という言葉を「行為者の属格」(行為の主体を指すと同時に行為が相手に及ぶことを指す)であると気づき、「神の義」が神が贈ると同時に人間に贈られた救済、即ちキリストをはっきりと指しているという解釈に至った。これが「十字架の神学」であり、生涯の聖書理解の基礎となった。「裁く神」から「恵みの神」をみいだしたのである。ルターは庶民にむけてドイツ語で説教をした。民衆に響く言葉を「民衆の口の中をのぞき」ながら選ぶ経験は、のちのドイツ語訳聖書に結実する。「ローマ書講義」「ガラテヤ書講義」「ヘブライ書講義」で、人間には義はなく外からくること、ほんとうに人間の心の底をのぞき込めば、人智で罪は消せないと徹底的に「絶望」すべきこと、そして、「贈り物」であるキリストを信ずるほかないことを確信していく。1517年、マインツ主教あての手紙に「九五箇条の提題」(『贖宥の効力を明らかにするための討論提題』)を添付、神学討論をよびかけるが、無視される。マインツ主教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、フッガー家に援助され教皇に献金、マクデブルク・ハルバーシュタット・マインツの大司教職を兼任、献金の倍額の贖宥状(免罪符)を販売する許可を得ており、ドミニコ会士テッツェルが免罪符を販売していた。ルターは自ら「提題」を要約した「贖宥と恩恵についての説教」を行った。また、「提題」は各地で勝手に印刷され、農民・商工業者・騎士などが賛同した。アルブレヒトは異端の疑いでルターを���皇に訴え、18年、枢機卿カエタンがアウクスブルクで異端審問をしたが、ルターは自説撤回を拒否した(アウグスブルク審問)。19年、ライプツィヒでヨハン・エックと二週間にわたる討論をし、エックから「教皇の権威を認めないならヤン・フスと同じ」とレッテルを貼られる。ルターは「教皇も公会議も誤りを犯すことがある」と反論した(ライピツィヒ討論)。20年、教皇庁との断絶が決定的になり、ドイツ語著作に専念、『キリスト者の自由』などがなる。同年、エック起草の「破門脅迫の大教勅」がつきつけられる。ルターは自説撤回期限に城外で教勅と教会法を焼き捨てた。21年、破門の大教勅が下る。教皇の意をうけ、神聖ローマ帝国皇帝カール五世がルターを召還(ウォルムス喚問)、法的保護を剥奪、いつ殺されるか分からない状況に追いやられる。カール五世は民衆の反抗を恐れ、ウォルムスからは無事に帰すように命じるが、帰途、ルターは消息不明になる。殺害の噂が欧州中に流れ、アントワープにいた画家デューラーも「希望がなくなった」と記す。だが、これはザクセン選帝侯フリードリヒの顧問官たちが行った偽装誘拐でルターはワルトブルク城にかくまわれ、「騎士ヨルク」として生きていた。当地で『修道誓願について』(修道制を否定)、『マグニフィカート』(マリア信仰)を著し、「パトモスの小島より」と署名し、メランヒトンらと文通する。やがて、ルターがワルトブルク城に生きていることは公然の秘密になった。隠密でヴィッテンベルクに帰還したとき、改革が熱狂主義によって騒乱状態になっていることを知り、仲間から聖書翻訳を懇願される。ワルトブルクに戻ると、ルターは10週間で『新約聖書』(1522年出版、『九月聖書』)を訳した。この訳にはルターが言葉を補った所があり、カトリックからさらに弾劾される。23年、ヴィッテンベルクに帰還、8日間の連続説教によって騒乱を鎮め、ゆっくりと改革に着手する。礼拝改革では賛美歌をつくった。教会財産の活用、地域福祉、学校教育の提案(児童には教育を受ける権利がある)など、庶民の生活改善をすすめる。24年、修道服をぬぎ、剃髪をやめ、25年、カタリーナ・フォン・ボラと結婚、26年、長男ハンスが生まれ、子育ての経験から信仰をやさしい言葉で解説した『小教理問答』(29年)を著す。同年、エラスムスと論争、エラスムスは人間には限定的だが自由意志があり、ある程度まで律法を実行できるとしたが、ルターは信仰については譲らなかった。これを期に人文主義者は宗教改革から離れた。ドイツ農民戦争(1525年)でルターは諸侯の責任を指摘し、農民の要求に配慮するようにと仲裁したが、農民の抗議が暴動に発展すると『農民の殺人・強盗団に抗して』を著し、諸侯に鎮圧を要請、10万人が虐殺された。その後、改革の傍ら、聖書を読み続ける生活をし、旧約聖書を翻訳、34年『旧新約聖書』がなる。1546年2月18日、アイスレーベンで君侯の争いを調停したあと、狭心症で死亡した。生涯の著作は544点、うちドイツ語著作は414点、各地で勝手に出版されたものをあわせると3183点になり、推定300万冊の書物を残した。ルターのいた修道院は腐敗とはほど遠く、ルターが直接聖職者の腐敗を目にする機会は少なかった。彼は「聖書を忠実に教える」という誓いを守りつづけたすえに、宗教改革になったのだと著者��指摘している。若い頃は「力によらず言葉によって」騒乱を鎮めたが、晩年、ルターは気が短くなった所があり、ユダヤ人の改宗がうまくいかないと「ユダヤ人はキリスト教世界に住むべきではない」と書いてしまう。これが400年後、ナチスに利用され、ユダヤ人虐殺の根據になってしまう。また、ルターが作った賛美歌「神はわがやぐら」はナチスの行進曲になった。ナチスはルターをキリスト教の英雄として利用したのである。文中では聖書学の造詣も開陳されていて「グロッセ」(行間注・欄外注)、「スコリエ」(講解)という注解方法も書かれている。著者はグロッセを「注疏」と訳しているが、漢文では「注」は「己の意を注ぐ」こと、「疏」とは本文と注を解釈したものだから、少し異なる。「罪」はギリシア語では「違う方向を向く」ことを指し、神から眼をそらすことを指す。ルターが学んだころの大学はオッカムの唯名論とトマスの実在論があったが、実在論を「普遍を問題とし存在と本質を問う」、唯名論を「個体を問題とし、意志と能力を問う」とまとめていて、うまい要約だと思う。ルターはアウグスティヌスに影響をうけているが、20世紀の実存主義にまで影響するアウグスティヌスの影響は巨大だなと思う。