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投稿者:ブラウン - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトル通り言語学を軸にした書籍だが、それよりもピダハンの文化に目を引かれる。……いや、それだと語弊がある。通読してもらえればご理解いただけるだろうが、アマゾンのごく限られたエリアで暮らすピダハンにおいては「文化と言語は不可分」であることが顕著なため、言語に文化が表れていると言えるし、文化を知れば自ずと言語感覚に触れることになるだろう。しかし、私はとにかくピダハンの文化に惹かれた。
豊かだが、獣や病がすぐ近くにある環境で暮らすピダハン。その関心は視界の限り、実際の出来事のみに注がれている。道具は手入れせず常にその場しのぎ。保存食を作らず獲ったらその分だけ腹に詰める。外界から持ち込まれた技術はちょっとやそっとじゃ受け入れない。たとえそれが生命にかかわることであってもだ。万一、死にかけた赤子が外界の医療で息を吹き返しても、徒に死の苦しみを長引かせているとして楽にさせてしまうほど。そこには、頑固なまでの強さの崇拝(これまた語弊があるが、今の私にはそうとしか言い表せない)と、今この瞬間が大事という刹那主義、狭い世界で充分幸せだという精神を感じる。
果たして私たちは彼らほど現在を享受できているだろうか。明日を悩み、過去を悔やみ、今日やるべきことすら覚束ない。果ては、自分と社会システムを繋げる糸のずっと先で起こる政治劇や、会ったこともない男女の痴話喧嘩に右往左往する始末。ピダハンには先端技術の恩恵がない代わりに、その悩みが一切ない。
著者は、ピダハンが世界一笑う時間の長い人たちだと断言する。彼らの暮らしと私たちの暮らしはもちろん一長一短あるが、偏り過ぎたバランスで現代病が生まれたとしたら、彼らの哲学が何か役に立つのではないだろうか。
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早いもので、もう4月。新しい年度を迎えて、新社会人、新入生など、新しい生活へと身を転じることになる方も多いのではないだろうか。
新しい環境に入ると、えてして慣れるまでに時間を要するものであるが、この要因の一つに文脈の把握に時間が掛かるということが挙げられる。話している言葉そのものは理解できても、本当の意味で理解できるようになるためには、その組織体の文化を含めた背景がきちんと理解されている必要があるのだ。ほんの些細なことでさえも、異文化間で解釈が大きく異なるということは起こりうるものである。
そんな中、本書の著者の異文化体験のユニークさは、群を抜いている。ブラジルの先住民、ピダハンの人々と30年以上に渡ってともに暮らし、彼らがどのように世界を見て、どのように理解しているのかを観察し続けたのだ。当初の目的はキリスト教の伝道師として、布教活動を行うこと。しかし、そこでの生活は著者の運命を大きく変えるようなものであった。
南アメリカ北部、アマゾン川を河口から南南西へ向かうとアマゾン川はやがてマデイラ川と名前を変え、南へと支流が分かれている。その支流のさらに支流となっているのがピダハンの母なる川、マイシだ。支流とはいえ川幅が200メートルにもなる大河であり、その川辺の約80kmくらいのエリアに棲む400〜500人の部族、それがピダハンだ。
ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディ・ペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。いわゆるヤノマミのようなフォトジェニックさに欠けるのだ。しかし、その最大の特徴は、彼らが使用する言語そのものにある。
ピダハン語は、現存するどの言語とも類縁関係がないという。音素は現存する言語のなかで最も少ない11種類しかなく、その他にも多くの言語に見られる要素が欠落しているのだ。
まず数がない。そして物を数えたり、計算をしたりということもしない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない、神もいないという、ないない尽くしなのである。
しかし本当に驚くポイントが、さらに2点ある。一つ目は、きわめて音素が少ないピダハン語だが、声調やアクセント、音節の重みなどを駆使し、口笛や鼻歌、叫び声や歌のようにさえ聞こえる言葉を発生するということだ。
これを著者は、「ディスコースのチャンネル(伝達の回路)」と呼んでいる。ピダハン語には5つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっているのだ。5つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。
口笛語りは狩りの時に使われ、ハミング語りはプライベートな語りの時、音楽語りは新しい情報を伝達する時など、文化的な用途に応じて語りが選択されるのだ。このような手段が存在するということは、文化が言語に多大な影響を与えているということの確固たる証拠とも言える。そして、この文化と音声構造の関係というのは、長らく言���学によって完全に無視されてきた領域であったのだという。
もう1つが、多くの言語学者が普遍的な文法の1つと考えていた「再帰」という形式を持たないということである。例えば、「魚を釣った男が家にいる」というような文を例に見てみよう。
「魚を釣った人物」という関係節が「これこれの男」という名詞句のなかにあり、それがさらに「男が家にいる」という文のなかに登場している。このような文や句が、別の文や句のなかに現れる入れ子構造は「再帰」と呼ばれ、言語に無限の創造性を与える基本的な道具であると考えられてきた。これがピダハン語には見られないのだ。よってピダハンの文章は、単純な構造の文章のみで構成される。
このことが真に重要なのは、大部分の人の思考のプロセスで当たり前のように行われている「再帰」が、ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」、あるいはスティーブン・ピンカーの提唱した「言語本能」であるという定説に真っ向から反する事実であったということだ。文法というものが、遺伝子の一部という先天的なもの依拠しているのではなく、知性の働きの一部という後天的なものに依拠している可能性すら示唆しているのだ。
一体なぜ、ピダハンの言語はかくも特徴的なものとなったのか?著者の更なるフィールドワークにより、このピダハンの言語を規定している決定的な要因が「直接体験」というものにあるということが、導き出されてきた。ピダハンの言語と文化は、直接的でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。
この原則に依れば、ピダハンが実際に見ていない出来事に関する定型の言葉や行為を退け、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌うということの説明がつく。数や色がないことも、その一例である。これらは直接体験とは別次元の、普遍化のための技能であるからだ。
その代わりに、実際に経験した人物、あるいは直接聞いた人物が、その価値や情報をできるだけ生の形で言葉を通して伝えようとするのが、ピダハン特有のコミュニケーションということなのである。
このような思考様式を持っているからこそ、ピダハン社会は外の世界の知識や習慣をやすやすと取り入れないようになっているとも言える。実際に、宣教師として訪れたはずの著者は、キリスト教の布教を断念し、なんと最終的には無神論者へと鞍替えしてしまうのだ。
そして本書が問いかけているのは、我々がこのピダハンの特異な文化を、どのように受け止めるべきなのかということでもある。僕は、この「直接経験の法則」に基づく言語を、「言葉の断捨離」と位置付けたら、その捉え方も大きく変わってくるのではないかと感じた。
ピダハンはその法則に基づき、自分たちの思考の範囲を「今、ここ、自分」に絞っている。このことによる機会損失はもちろん否定できないのだが、同時に不安や恐れ、絶望といった西洋社会を席巻している厄災をも、ほとんど取り除いてしまっているのだ。
事実、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのだという。また、著者自身、ピダハンが心配だという言葉を発するこ���ですら、聞いたことがないそうだ。
これに倣えば、我々が普段口にする発言の内容を「今、ここ、自分」に絞り込むことによって、さまざまな弊害が消え、毎日の気分が軽くなる可能性だって否定はできないと思うのだ。
今日、世界には6500ほどの言語があり、その半数が今後50年から100年の間に消滅する恐れがあるという。すでに400人を割っているとされるピダハン語も、その一つだ。そして、これらの消滅言語が一体なぜ残されなければならないのか?本書は、そんな疑問に対するシンプルな解答も提示している。そこには、消えてしまっては二度と取り戻せない、生きるための智慧があるからなのだ。
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アマゾンの奥地に住む少数民族であるピダハンの 生活と言語について書かれた本。色や数を表す言 葉を持たずリカージョン(入れ子構造)もない非 常にユニークなピダハンの言語はそれまでの言語 学の理論に一石を投じる。また、言語学者であり キリスト教の伝道者であった著者はピダハンと接 する中で最終的にキリスト教徒であることを止め 神の不在を確信するようになる。ピダハンの言語 や生活様式の面白さだけでなく、幸せや人間の在 り方について考えさせられる。
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話者400人未満の、アマゾン奥地の隔絶した言語への探究が明らかにする、文化の尊厳に気づかされる。福音伝道者として言語を学んでいった著者が、やがて信仰を失ってしまうという結果は皮肉ではあるが、多くを考えさせる余韻を残す。
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新聞の書評で見かけて面白そうだと借りてみたが、期待以上だった。
アマゾンの奥地に住む民族「ピダハン」にキリスト教伝道のため入り込んだ著者。もともと言語学者でもあり、聖書をピダハン語に翻訳する、という目標もあったようだ。
まず、現代日本やもちろん著者の国アメリカからは想像だにできないような苛酷なジャングルの暮らしに、伝道のために家族で(幼い子供を3人連れて)飛びこむというそのエネルギーに仰天。
著者の学者としての探究心とか、奥さんがそういう未開の暮らしをいとわない成育環境にあったというのも大きな要因だったとは思うが、私のような信仰心皆無の人間からは、まずもって信じがたい。
学術的な記述ももちろんあるが、半分はピダハンとの暮らしのなかで繰り広げられる数々のエピソードで、これがまた驚くべきというか、非常にユーモラスというか、信じられないというか。
ピダハンの人々の、徹底した自分たちの文化への誇りと、生きることへの真摯さと、何ものにも惑わされない信念に溢れたエピソードが満載なのだ。
陳腐なのを承知で言えば、とにかく面白い。
そして、いかに現代文明に生きる人々が、知らず知らずのうちに自分たちの文化を最良とし、少数民族に押し付けようとする傲慢さの中にいるかということも思い知らされる。
それをはねつけるピダハンの人々の逞しさ、清々しさといったら、痛快なことこの上ない。
なんと、著者はそもそも伝道が目的であったはずが、彼らと共に暮らすにつれ、とうとう信仰を捨ててしまったという(ついでに家族とも訣別してしまったらしいが)。
最終章で語られるその著者の気持ちの変化は、非常によく理解できるというか、納得がいくというか…私のような、特段の信仰心を持たない日本人には、きっと得心がいくのではないだろうか。
反面、キリスト教や、篤い信仰心を持つ人々からは驚くべき信じられないような告白なのだろうと思うと、文化や信仰、生まれ育った環境の違いがもたらすものの大きさについて、考えずにはいられない。
文化が言語やその文法に及ぼす影響について、ピダハン研究を通して、それまでの言語学の通説を覆すほどの大きな議論になっているらしいが、学術的な側面は私にはよくわからない。
それでも、私のように単に体験記のように読んだとしても、とにかく胸躍る、エキサイティングな、わくわくする、本当に楽しめる、素晴らしい傑作です。
星10コ付けたいくらい。
多分、私が今までに読んだ本の中で、間違いなくベスト3に入る。
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「ここは美しい。ピダハンは優しい。だからお前はここに来た」
世界中のいたるところにキリスト教を普及させるために宣教師がやってくる。ここアマゾンの奥地にも。
著者はアメリカ人言語学者で福音派の宣教師。人間のこころをつかむにはまずは言語からが基本。聖書を翻訳するため、布教を目的として、著者は原住民ピダハンの言葉を学ぶために家族と一緒にアマゾンの奥地に移住する。電話も電気も水道もない。一家が移住してすぐに妻と娘がマラリアにかかってしまい、狼狽している著者をピダハンは心配もしてくれず「あのひともう死ぬよね」と指をさされながらも必死で医者のいる場所まで家族を運び、なんとか彼らは一命を取り留める。それでもなお半年後には彼らは懲りずに小さな子供も連れてカムバック再度移住。この著者のアメリカ人ファミリー、なかなかタフで信仰が厚くてかなり本気。映画『モスキート・コースト』のようには誰もめげてなんかいない。
原住民ピダハンは死にそうな人間を無理して蘇生しない。マラリアにかかって死ぬというようなことは日常だ。母親を亡くした赤ん坊も、生き延びる可能性が低いので殺してしまう。文明人からしてみればありえないと思える価値観が、ここでは当たり前の生活。
彼らピダハンはよく笑う。「心配する」という語彙を彼らは持たない。人が死んだらすぐ埋葬する。妊婦が苦しんでいても、助けるべき家族でなければ近寄らない。猛毒を持ったタランチュラを殺さないのは、ゴキブリを食べてくれるから。男たちは物々交換で手に入れたラム酒を飲んで酔っ払って暴れたりもする。酒を飲む夫を嫌がる妻の図は万国共通。
酋長もいない。法律もない。結婚という制度もない。子供が生まれれば一緒に住んで核家族の形態にはなるが、浮気もする。ある日、ピダハン夫婦の片割れが別のビダハンとジャングルに行ったまま帰ってこない。逃げられたほうは怒り、錯乱するが、数日後、相手はひょっこり帰ってくる。嫉妬はするが、争いはない。ピダハン同士の暴力は無い。
子供が刃物で遊んでいても咎めない。むしろ怪我をしても与える。なぜと問えば「じゃあどうやって子供は刃物が危険かどうか知るのか?」と母親が問う。
老人には食べ物を運ぶ。「なぜ働かない人に食事を与えるのか」と問えば、「彼が若いときは、子供だった俺達に食べ物を与えてくれたから」当然と答えるくだりは、なぜか“普通に”生きる文明人の私達には感動的ではないか。しごく真っ当な生活だ、それを当たり前と思えない、文明人だと思っているわたしたちの生活のほうが間違っているんじゃないか? はたして文明って本当に人間に必要なものだったのか?
彼らは必要があるときだけ猟に行く。お腹がすくまで食べない。(50代で30代に見える南雲先生より“お腹がすくまで食べない”空腹を先に実践している原住民がここに!)
夜も長くは寝ていない。蛇が出るからあまりぐっすり眠ってはいけない。この本の原題はDon't Sleep, There Are Snakes(眠るな、蛇がいる)おそらくこれが彼らの「おやすみ」という夜の挨拶。おはよう、おやすみ、ありがとう等の挨拶の言葉は彼らにはない。
彼らピダハンの言葉はもともと語彙が少ない。左右もない、数の概念もない、色名もない。時制もなく言葉はつねに現在形。神はいない。精霊は見える。精霊は時々ピダハンに取り付く。夢で見たことも体験したこととして認識される。言葉は伝達する状況や対象によって、声調にバリエーションがあり歌やハミングで意思の疎通をはかる。
オーウェル『1984年』では“無駄な言葉”は極力省略可され、語彙を減らされていく世界がペシミスティックに描かれていたが、ここピダハンの土地で、少ない言語でこれだけ豊かなコミュニケーションが確立されていると、むしろ彼らのほうが洗練されて見えてくる。おそらく、この本の読者は自分の価値観を維持することが難しくなってくるだろう。もしかすると、これは文明人に対する脅威なのか?
この研究の成果が、最終的に著者の師でもあるチョムスキーの説を否定することになるが、その検証にはずいぶん著者は気を使っているようにも読める。ピダハンの住む現地に赴いたMITの研究チームは「こんなに幸せそうな民族は見たことがない」という。一日の笑顔の時間を測定すれば自明であろうと。彼らの幸福の比は巷で幸せキャンペーン中のブータンなんか目じゃない。彼らは現在しか認識していない。過去も未来も表す言葉を持たない。そもそもわたしたちだって、自分の認識の範囲でしか世界を感じることはできないはずなのに。
わたしがここに来た目的を知っているか?と宣教師のはずだった著者がピダハンに問うた時、「ここは美しい。ピダハンは優しい。だからおまえはここにきた」、彼らはそう答えた。布教に来たはずの著者は、ピダハンに真っ向から「俺たちにイエスはいらない」と言われる。彼らは目に見えないもの、体験したことでないと信じない。見たこともない神を彼らに信じさせることは不可能だった。そうやって最終的には、著者の信仰も揺らいでいく。いや、おそらく著者は、ピダハンと共に暮らしていくうちに、ずっと疑問を感じていたのだ。神を知っている者より、神を認識しない彼らのほうが幸せであるということを目の当たりにして。果たして、人間が求める価値とは何だったのか。幸福に生きることを自然と求める人間に、神や文明は不要なのか。この価値観の崩壊に、読者は耐えることができるだろうか。
もし自分が書店員だったらこれが本屋大賞。
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アマゾンのピダハン族と共に暮らした伝道師の話。
ピダハンには、数を表す言葉がなく、色を表す言葉がない、つまり、重要じゃない。必要なものは、いつでも手に入れることができ、共用物しかない。
性的に奔放。暴力は許されない。
事実しか話さない。ゆえに創世記も伝承もない。精霊はおり、夢は事実と扱う。thatなど関係節がない。歌のようなものなど複数の伝達方法がある。大雨でも伝わりやすい。修飾語は1つまで。聖書の翻訳は不可能。
左右の言語がない、川を基点に表現する。
医者がないので、無理に救命しない。伝道師が死相の出た赤子にミルクを飲ませて助けたが夫がアルコールを飲ませて殺した。
細菌の概念がないので、同じ皿でペットと食べ物を共有する。
著者が継母が自殺したのをきっかけに、キリスト教信仰に繋がり、幸福になった話をしたところ、自殺などしないピダハンが爆笑し、直接体験のない話は無意味とすることから、伝道は不可と悟る。
更に、ピダハンは、死をも受け入れて、幸福に過ごし、悩みもなく、心配の言語もなく、不安のない洗練された文化であるのに対し、聖書は処女懐妊など非科学的と思い、キリスト教から離れ、家族に伝え離別される。
世界には言語が6500あり、その消滅は、人間がある環境下でいかに生きてきたかの実例を失う。
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言語学のところは
つらかった・・・
結局
ピダハンには
心配するに該当する言葉がない
夜でも狩りに出かける
左右の概念がない
といったカルチャーショック部分が面白かった
あとは伝道師の著者が
信仰を捨てるところ
家族も崩壊するなんて・・・
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数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない…
あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶるピダハンの認知世界。
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ピダハンの言葉には数の概念も、色の名前も、創世神話もない。
さらにいえば、彼らにとっては自分で見たもの以外、つまり直接体験でないことはなんの意味も持たない。
でもそれは、彼らの文化がおかしいとか劣っているとかではなく、それが彼らの世界観だから。ピダハンたちは外部の人がもたらす様々な異文化を受け入れることもなく、自分たちの伝統を守り続ける。
はたから見れば野蛮で異様なものに見えるかもしれないけど、ピダハンたちは懸命に生きて、そして笑うのだ。
この本は著者であるダニエル・L・エヴェレットが実際にアマゾンの奥地に住むピダハンの人々とともに暮らし、彼らの文化・言語研究、そしてキリスト教布教をおこなった記録です。
ノンフィクションながら「宝島」や「ロビンソン漂流記」を読んでいるような感覚でした。
僕が特に好きだったのは第2部、言語についてまとめられた部分。大学で言語学をかじった人間からするとかなり面白かったです。
言語と文化は切り離して考えるべきなのか、チョムスキーが唱える普遍文法は本当に存在するのか?そして、未知の言語を研究する大変さが非常によくわかります。
敬虔なキリスト教徒だった著者を無神論者にしてしまうほど魅力的なピダハンの文化を覗いたような気がしました。
ちなみにこの本のオリジナルのタイトル『Don't Sleep, There Are Snakes』は決まった睡眠時間を取らないピダハンたちの『おやすみ』にあたる言葉だそうです。
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彼らの言葉には、ありがとうも、ごめんなさいも、ない。そういうことをあらわすのは言葉ではなく行動なのだと。
でも、ピダハンの面白さは、言語だけではない。個人と集団の曖昧さや、困っている人・弱っている人をむやみに助けないこと。ただの幸せな未開民族、ではない。受動態の言葉を持たないということは、いつも誰かの身になって語る、ということじゃあないか。敬虔な伝道師は、ここで暮らして、結果、無神論者になった。
動物には、その動物にしか見えないイリュージョンがある。それは人間同士であっても同じなんだろう。欧米の目では、もう見えないものがあるんだ。
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言語学者であり、キリスト教の伝道師でもある著者は、アマゾン奥地に住むピダハンと呼ばれる民族の村を訪れます。
目的は伝道と、そのための言語研究。(ピダハンの言葉はかなり特殊で、近い関係にある言語がない上に、その他の言語;ポルトガル語や英語が全く通じません。伝道のためには、かなりの時間をかけて、まずは言語を習得する必要があるのです。)
現地での生活ぶりや、ピダハンの文化についての記述は興味深く、言語研究に関する専門的な内容も意味深いもののように感じます(ここは専門的すぎて、私自身は流し読みしかできず)
が、最も面白く感じたことは、そもそも神を信じず、かなり「現実的」な思考をするピダハンの文化や思想を深く理解するに至った著者が、最終的にキリスト教信仰をやめてしまうことでした。
ピダハンは、実際に知っている人の言葉しか信用しないし、自分が経験したことしか語りません。精霊信仰のようなものはあるのですが、宗教とはまた違うようで、会ったこともない神やイエスの言葉を信じ、言い伝えるなんていう「迷信」は受け入れられないというわけです。
また、例えば「不安」を示すような言葉もありません。お礼や謝罪を表す言葉もありません。できることはお互い手伝えばいいし、できないことはできない、といったところでしょうか。人の死に対しても極めて現実的、すべての人はいずれ死ぬのだという前提に基づき、死者を弔う行事すらないそうです。
厳しいアマゾンの自然の中での、現実的な暮らしの中の、現実的な思考。
いつ死ぬかわからない。だからこその現実的な思考なのでしょうか。
しかしこれは、目に見えぬ将来や世間といったものに惑わされ悩む私たちの、生き方のヒントになると、全編通じて感じました。
平均寿命はアメリカ人の半分ほど(というと、40歳〜せいぜい50歳くらいでしょうか?)、原始的な厳しい暮らしをしているにもかかわらず、ピダハンたちはとても明るく、幸せそうにしているといいます。著者をはじめとする、外部の人間が持ち込む先進的な道具や機会に対しても、一部を除いてほとんど興味を持たないそうです。自分たちの文化はあくまで自分たちの文化、よそと比べて悩んだり羨んだりといった概念もないということでしょうか。
さらに興味深かったのは、日本人である私にとっては、こういったピダハンの考え方よりも、キリスト教信仰のほうがさらに理解しづらいことなんだなぁと感じたことです。
(当時は)信心深いキリスト教信者である著者の視点で書かれた文章であるにもかかわらず、その観察対象であるピダハンの感じ方考え方のほうが、むしろ自然に受け入れられるという読書経験。
ピダハンの暮らしや文化は、先進国の私にとっては十分珍しく、厳しそうに感じたにも関わらず!です。
ごく一般的な日本人と同じく、仏教や神道に触れる機会を持ちながら、特に信仰心もない私は、しかし、無宗教だとも考えていません。
お天道さまが見てるよ、といった感覚、あらゆるモノに神が宿るといった感覚は、私はの感性や思考に染み付いていて、それが私にとっての宗教心なのかな、と考えています。
が、著者のような、「本当の(?)」信仰心を持った人からすれば、限りなく無宗教であり、不思議な世界観を持った人種に属するのかなぁと考えたりしました。
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言語の特殊性が興味深かった。アマゾンの生活にも芳醇に触れられている。
・母音が3で子音が8で音素が最も少ない言語のひとつ。アクセント、声の高低が大きな意味を持つ。代わりに子音を変えても同じ意味のままの言葉も多い。アパパイー、カパパイー、パパパイー、アアアイー、カカカイーなどはすべて”頭”を意味する音として伝わる。なので、口笛やハミングで会話ができ、ジャングルなどで伝わりやすい。
・左や右は無く、川の上流と下流を表す語で方向を指示する。数字も相対量を示す言葉しかない。色も赤、青などは無く、血のような、未熟な、のように形容詞に包含されている。
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キリスト教の伝道師そして言語学のフィールド研究者として著者はアマゾンの奥地に棲むピダハンと呼ばれる原住民の文化に入っていく.言語を学ぶということはその文化を学ぶということなのだと再認識させられた.非常に読み応えがあっておもしろい.
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ピダハンというアマゾンの原住民の言語、文化を宣教師として学んでいくうちに、、、っていう話。原住民が、いかにキリスト教を受け入れないか?という話としても面白いんだけど、宣教師は、なぜにそんなことをしようとするのか?っていう物語としても面白かった。そして、チョムスキーってのが言語業界あたりからどのように見られてるかってのも面白かった。まあ、そんな感じで読みました。