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投稿者:トクちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
全6冊・・・2年かけて読み終わりました。
2月12日・・・菜の花忌
亡くなられても司馬さんには教わることばかり・・・。
海軍について語りつつ
2024/03/31 02:42
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
その名を冠した史観すら巷間に
流布している、昭和を代表する
作家による、月刊文藝春秋誌上の
名物連載をまとめた書籍の文庫版
第六巻を電子書籍化したものです。
その主たる内容とは、
歴史のなかの海軍、旅の効用、
うたうこと、醤油の話、
言語についての感想、
原形について、街の恩、
源と平の成立と影響、など。
海軍について語りつつゆけば
2024/03/31 02:41
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
その名を冠した史観すら巷間に
流布している、昭和を代表する
作家による、月刊文藝春秋誌上の
名物連載をまとめた書籍の
文庫版第六巻です。
その主たる内容は、
歴史のなかの海軍、旅の効用、
うたうこと、醤油の話、
言語についての感想、
原形について、街の恩、
源と平の成立と影響、など。
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(2006.07.21読了)(購入日不明)
(「BOOK」データベースより)amazon
巨星、墜つ―。1996年2月12日、十年間続いた『文芸春秋』の巻頭随筆「この国のかたち」は、筆者の死をもって未完のまま終わることになった。本書は、絶筆となった「歴史のなかの海軍」の他、書き言葉としての日本語の成り立ちを考察した「言語についての感想」「祖父・父・学校」などの随想、講演記録「役人道について」を収録。
☆関連図書(既読)
「この国のかたち(一)」司馬遼太郎著、文春文庫、1993.09.10
「この国のかたち(二)」司馬遼太郎著、文春文庫、1993.10.09
「この国のかたち(三)」司馬遼太郎著、文春文庫、1995.05.10
「この国のかたち(四)」司馬遼太郎著、文春文庫、1997.02.10
「この国のかたち(五)」司馬遼太郎著、文春文庫、1999.01.10
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「このままではこの国は滅びます」という、司馬翁最晩年の危機感を窺い知る
http://www.amazon.co.jp/review/R3NRKZNB599V3P/ref=cm_cr_rdp_perm
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本書は天皇、統帥権、仏教、神道、儒学など我が国にまつわるテーマとした短編コラム(1986年~1996年)をまとめたもので、日本人や日本をかたち作っている何かを探す意味で興味深い。
<印象深かった内容>
【第4巻】
(日本人の二十世紀)
・我が国の為政者は手の内(特に弱点)を明かさない-不正直は国を滅ぼすほどの力がある
・日露戦争の時は武士の気分がまだ残っており、軍人も外交官も武士的なリアリズムや職人的な合理主義があった(故に海軍、陸軍、外交においてロシアに一矢報いることができた)
・知識人に軍事的教養がないことが、第二次世界大戦に繋がる軍部の戦略を批判することもなく、軍部の気分に乗ることが愛国と思われるようになった原因であった
・近代国家は石油という巨大なエネルギーを消費しながら航海している。目標を失うと必ず江戸時代などへの回帰論が出てくるが現実逃避はできないので、次なる目標を考えないといけない。
⇒商人国家のリアリズムに基づき、状況状況で自らを慰め、相手に訴える、素晴らしいレトリックをウィットとユーモアに富んだ華やいだものとして展開する必要。
【第5巻】
(人間の魅力)
・昭和初年から太平洋戦争終了までの日本は、過去の長い日本史とは不連続な異端な時代であった(統帥権の無限性と帷幄上奏権により日本国をほろぼし、他国にも深刻な罪禍を残した)
・物事を成す魅力-坂本龍馬(薩長同盟や大政奉還(船中八策)は海援隊の片手間)
・底抜けに明るく、褒め上手だった大秀才-吉田松陰
・風雲に臨む気質-高杉晋作
【第6巻】
(歴史のなかの海軍)
・改革者としての山本権兵衛。海軍建設にほとんど独裁的な辣腕を振るえたのは、海軍大臣西郷従道(西郷隆盛の実弟)の理解と支えがあったからだが、一大人員整理案(無能老巧の将官8人(多くは同郷の薩摩人)に左官尉官含めて97人のクビを切る)だけは、従道も驚いた(が支持)。
・その改革の全てはロシアに勝つため。日露戦争に向け、軍艦の質を高水準に、燃料を良質の英国炭に統一、無線電信機を搭載、そして、同胞の朋友の現役長官から退役リストに入っていた東郷平八郎を連合艦隊長官に抜擢。
・以上の結果、日露海戦に勝利したが、自らの功を誇ることなく、戦後、東郷の功のみを褒め称えた。
(役人道)
・アジアでは歴史的に官僚組織を作れば平然と汚職する(科挙試験を一青年が突破すると一村が潤うため、村を挙げてのお祭りとなる)。いわばアジア的な大家族主義で、自分が太ればいいというところがある。
・日本の厳格な官吏道は江戸中期に確立したが、その原型は鎌倉幕府の事務官であった大江広元、青砥藤綱に遡る。彼らは日本的な法治主義者として、私服を肥やすことからおよそ程遠かった。
・明治政府は江戸期からの役人道を相続したが、それが明治日本という国家社会をアジアの一角で展開できたほとんど唯一の基礎的条件だったといえる(八幡製鉄所を作るのに大きな金を寝かせたが管理する役人に一人としてそれを食った者がいなかった)。
・この点、今の日本社会(1996年時点)は、律令体制と縁を切って(鎌倉幕府の成立)以来700年ほどかけて作った非常に不思議な社会から、政界を核にしてアジアに還ってきつつある(自民党は古いどろどろとした非常にアジア的な体質にまみれている)。
・最近は公共土木工事の談合が問題化しているが、江戸期の土木工事は、当初予定していた費用を結果として上回った(藩に損害を与えた)として現場で切腹して死ぬケース(薩摩藩士51人の自刃)や治水工事のために家産を傾けて実施した庄屋階級のケースなど、みんな手伝いや持出しなど誰も儲かることはしなかった。
・日本的な「公」というもの=日本の歴史そのものが我慢してきたこと
日本では、社会や組織を私物化するのではなく、社長であってもいわば預かり物として狭い権限内で自分に出来ることを可愛らしくやる。世間はそこからはみ出した可愛らしくないやつを叩く。自分の中にある、自分が我慢してきた、日本歴史そのものが我慢してきたのに、あいつは何だという「公」の思想が無意識のうちに批判の基準にある。
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司馬遼太郎さんは、凛としてさっぱりとした人間が好きなのだと改めて感じる文章だった。
戦国期の侍や、幕末の志士や、明治の日本人が好きで、昭和初期の軍人が嫌いなのだろう。
そういえば、半藤一利さんがそんな事を書いていた気がする。
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司馬遼太郎の文章が好きだという嗜好が根底にあるのだが、
このシリーズを読破してこの国が愛おしくなったことは間違いない。
同時に、今この時点のこの国を哀しく思う気持ちも大きくなる。
周囲から学んで吸収するチカラの大きさをそのままに精神の貧しさを払拭する方法ってないのか。
過去を懐かしんでばかりいるのは無意味だけど過去も未来も関係なく堅持すべきものってあるんじゃないのか。
彼は、この連載を終えるときにどんな総括をしてくれるはずだったんだろう。
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司馬遼太郎の日本人観コラム集、最終巻。
巻末の「役人道について」という章での、日本人には自分や日本歴史が我慢してきたのにあいつは何だという「公」の思想が批判の基準にあるという指摘が面白かった。確かにこの思想のおかげでマナーの良さなどの良い面に繋がっているのかもしれないが、逆に我慢しすぎて幸せを感じにくくなっているのではとも思った。
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海軍の話。その成立が違っていた。植民地を取得するとかでない。よった、日露戦争勝利後、海軍は行き場を失った。ただ、かいぐんは、省益を優先して、肥大化した。そして、軍縮会議。
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司馬遼太郎は、1996年2月に亡くなっているが、本巻はその年の巻であり、実際は5つの章のみで、あとは随筆集が掲載されている。最後のテーマは海軍である。海軍は商船を守る形で誕生したということが語られている。
結局司馬は、本シリーズを通して何を言いたかったのだろうと考える。
司馬は日本をこよなく愛していると感じた。室町時代に現代に至る文化の萌芽が芽生え、育っていったが、昭和初期の統帥権解釈の拡大によって、その日本は暴走を始め、滅んだ。司馬が愛している日本は、この昭和の初期までだと感じた。その愛で様々なポイントに光を照射して浮かび上がった像を鋭く描写しているのが、このエッセイの形だと思う。
自分の言いたいことが載せられるエッセイを最後にやれて良かったなぁと思った。種々雑多なことまで、いろいろ自分の考えを表現できたのだから。
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この巻の途中で、司馬遼太郎は、死んだ。
あの世で高田屋嘉兵衛と話せるといいね。歴史家には死んでからもその楽しみがある。
司馬氏が一番書きたかったのは、昭和の戦時下の歴史のはず。事実、司馬氏はなぜ歴史を書くのかという問いに「22歳のころの自分に手紙を書いている気持なんだ。何で日本があんな風になっちゃったのか。昔の日本人はもっとまともだったに違いない。そう思って歴史を書いている。」とこんな感じで答えている。つまり、昭和の15年戦争を追及するために歴史に携わっているということだ。
けれども、司馬遼太郎はその昭和の時代の作品は書けなかった。「書いたら、俺は、死んじゃうよ。」そう言っていたらしい。
そんな司馬氏だが、このエッセイではちょいちょい昭和の陸軍のことに触れている。死ぬ前にやっぱ書いたんだな。にじみ出たんだなー。
そういう意味で、司馬遼太郎の作品の中でも価値の高いシリーズだと思います。(この巻ではあんま戦時中のことはでない。4,5巻の方が詳しい)
________
p22 スペインの失敗
スペインが17世紀に海上覇権を握ったが、後にイギリスに奪われる。それは、スペインが植民地貿易に依存しすぎて国内産業を育てなかったからである。イギリスは囲い込みによる毛織物産業を興し、その技術を用いて綿織物産業に進出し、蒸気機関の発明に至る。
p47 海軍のいる国
大海軍を持つ国というのは植民地を持つ国である。植民地貿易の商船を護衛し、商業圏ににらみを利かせるために海軍を持つのである。しかし、日本は植民地を持たないのに海軍を作った。それは植民地にならないため、自衛の手段として海軍を作り、バルチック艦隊を倒した。危機が去ったなら浪費でしかない海軍は解体されるか規模縮小されるのが正しい。しかし、日露戦争で名誉を遂げた日本海軍は規模拡大を求めた。
欧米列強でさえ、当時の建艦競争で財政が逼迫して、海軍軍縮協議がされたほどである。それでも日本の軍部は軍縮を渋った。
ロンドン軍縮会議を日本が批准した時も、時の浜口雄幸内閣に軍部は猛抗議した。この時、「統帥権干犯」という滅びの呪文が登場した。
p78 声楽の導入
日本に声楽が正式に導入されたのは平安時代の空海や円仁の時と言われる。声明といわれる読経の調曲が唐から入ってきた。 声明の起源は古代インドにある。神秘的な発声が呪力を帯びるという信仰から始まったらしい。中国を伝って日本に来た。
琵琶法師や江戸時代の邦楽の歌い方は声明にある。
p83 オルガンが声明を殺した
明治期に教育制度が確立されて、オルガン唱歌が普及した。ここから日本人の歌の基本が変わった。現代では演歌の中にかすかに独特の節回しが感じられるかもしれないが、若者の間では、消えた。
p84 木曽義仲
信州木曽谷からでた木曽義仲は源氏の流れを汲んでいる。彼から先の時代になって、信州は人材を輩出する地になった。鎌倉時代、臨済宗の巨人になった覚心(1207~98)もその一人である。
p90 せうゆ!
覚��和尚は入宋して、径山寺(きんざんじ)で修業した。その時に食べた味噌が大変気に入り、帰国し紀州の由良にもどってから、まねて作ってみた。それが今日の和歌山名物「きんざんじみそ」であるが、覚心がつくった味噌で醤油ができた。これが日本のソウルフード醤油の起源である。
p93 言葉は緊張する
司馬先生が学生時代にモンゴル語を勉強した時「400語を覚えればゲルで暮らせる」と言われた。遊牧民の原始的な生活には高度な論理能力は必要ないということ。これは古代の狩猟民族のほとんどに当てはまるのだろう。本来人間は生きていくのに対して語彙は必要ないのである。たとえば、自宅でどれほどの言葉を使って生活しているだろうか。「おい。」「はい。」で成り立つ夫婦もいるのだから推して測れる。
これは手抜きではなく、大脳の言語中枢を休ませているのではないか。休ませる必要があるほど、社会において使われる言語は脳を緊張させ、疲弊させる。
疲れることなく絶えずおしゃべりしているオバさんとかもいるが、その内容はたいして頭を使ったものではない。決まり文句というものがあるが、人々は日常会話の中でも自分でそれを作り、会話における脳の疲弊を避けているように思う。
p97 商業は抽象を生む
自給自足の社会では現物がすべてである。しかし、商品というものとして野菜や採集物を見れば、「価値」という抽象的な概念が発生する。価値を付けなければ売れるものにならない。
p98 木炭
抽象の続き。紀州南部(熊野)の人々は山地に住んでおり、農業生産が低かった。早くから商品を作り、経済活動をしていた。木炭を売った。備長炭である。
ただの木炭ではなく、備長炭という特殊なものを作る技術には、科学や計算が必要になってくる。売りだすには、相場や流通の地理的知識などが必要になる。祖・庸・調の税がかかれば政治の知識が関わる。
木炭を作るにも、語彙や知識が必要になってくる。
仲買人など商人になれば論理力も必要になるだろう。商業による人の交流が人間の言語力を発達させた側面がある。
p102 武士=農民
今となっては武士階級というものがあったと定義されるが、鎌倉幕府のできた頃は武士は武装農民である。農民集団のリーダー格が自衛のために武装して、それが各地で政治を始めたということにすぎない。公地公民だから、武士も貴族にとっては領民でしかない。
とはいえ、武士という農民から一歩進んだ人たちのおかげで庶民文学ができた。『平家物語』などがそうである。日本の言語の発展の一段階。
p122 読みにくい文章は口に出して読んでみる
現代の私たちは、文字を目で読む者だと思いきっている。昔は黙読だけでなく、朗読も一般的だったようだ。
目で読むだけでは頭に入ってこない文章は、声に出してみると変わるかもしれない。
p128 セザンヌ
セザンヌはただ絵を描いたのではなく、絵を幾何学的に分析して造形理論を展開し、彼の理論を用いれば誰でも絵画を構成できるように、絵画に普遍性を生み出した。
日本文学においては漱石がセザンヌに匹敵する。
p150 都市
正岡子規が東京に出てきて驚いたことのひとつに、東京の女は自分で包丁を持って魚をさばくことができないということである。子規はその理由を知っている、それは魚屋がやることだからである。
都市とはそういうものである。
だから、生活に関係のないものが発展する。芸術、学術、娯楽…。
p152 漱石の無知
漱石の家は東京の牛込にあった。そこから少し行ったところには稲穂のそよぐ田園があったらしい。子規と漱石がそのあたりを散歩した時に、漱石は米が稲の実だと知らなかったことが判明。都会の人はそういうもんである。
p171 作者:歴史
大阪の靫というさびれた町の感想。江戸時代には金肥の卸売市場として盛大に栄えた町だった。しかし、明治維新で開国した結果、外国の安い綿織物の輸入で日本の綿花産業は衰退し、金肥の需要もなくなった。そうして廃れたのだが、さらに第二次大戦の空襲で灰燼に帰して、戦後は米軍の飛行場にされた。
歴史の敗北を次々と味わってきた。きらびやかな繁華街もあれば、寂れた街並みもある。こういうのは歴史が作った芸術のようにも思える。
p201 源氏姓は中国的
源姓は平安初期の頃、814年に嵯峨天皇が皇子皇女を臣籍降下させるために名乗らせたのが始まり。こうして逼迫した天皇家財政から養う人数を減らすようにした。
中国において、苗字が二文字であるのは蛮族の名称である。ついでに、国名も蕃国は二字で表される。(匈奴、鮮卑、突厥…日本。)遣唐使の時代であった平安の世で、中華思想に倣って一字姓を使いたがったのもわからないでもない。見栄を張りたいのだ。
源姓を最初に用いたのは源信(承久の変)と源融である。下の名前も訓読み音読みどちらにも対応しやすいものがつけられるようになった。
p206 平安の土地制度
平安の土地制度は公地公民制であった。臣籍降下した者たちが東国支配を進めて新たに農場を開墾しても、所有権を持つわけではなく、中央の公家の臣下として管理人を務めるにすぎないのである。そのため武士は中央に参じて公家のご機嫌取りをしなくてはならなかった。
ちなみに、○○兵衛という名前が多いのは、公家が武士に対して荘園管理人としての地位として兵衛(ひょうえ)というか下級官職を与えたことが名残である。
このように平安の土地の権利は公家にあった。だから、各地を治めるには源平藤橘どこかの勢力に与することになる。源平藤橘の名前が日本でこれだけ影響力を持つのはそのためである。それほど平安時代の公地公民という仕組みは簡単になくなったものではなかったのである。
p208 公家が生き延びたわけ
鎌倉幕府以降で武家政権が実権を持った。なのになぜ公家は生きているのか。中国なら易姓革命の理論で前政権は中絶される。
源氏は天皇家の臣籍である。本当に血のつながりがあるかというと、定かではないが、先祖は公家なのである。だから武士が政権を握っても、本家をつぶせるものではないのである。あくまで天皇の臣下として征夷大将軍を任じられている存在なのである。
苗字というのは、歴史が深い。
p218 アジア的なもの
1919年5月4日の中国の五・四運動はアジア的なも���からの脱却だった。マルクス唯物史観のリアリズムで儒教という腐敗してしまった道徳をぶっ壊す運動だったのである。
p220 江戸の抽象化
江戸初期のころは戦国時代の名残もあり、藩主に家臣が仕えているという意識が強かった。ゆえに殉死という慣例もあった。武家諸法度によって禁じられたが、御家と人のつながりが強かった。
江戸中期以降になると藩を法人としてみる意識が強くなった。藩主は「君臨すれども統治せず」で老中らが行政を担った。幕末の志士たちの思想、特に長州は完全に藩主を忘れているようである。藩は藩主のものではなく、そこに住む者のもの。
江戸時代は抽象的な「公」の精神が根付いてきた時代である。
p230 田沼意次
江戸時代の藩財政は困窮していた。農本主義は気候いかんで黒字赤字が乱高下する不安定な産業基盤の上に立っている。そこで各藩は産業を興すようになる。その役を任されたのは立直し屋といわれる人で、民間人が登用された。金儲けをするために呼ばれた人だから、当時の武士の価値観からすれば低俗な人間と思われたであろう。
江戸幕府でも立て直し屋が政権をとった。家治の時代の田沼意次である。
p239 アジア的な自民党
政治家が外国にはいってロビィ活動をするとどうなるか。その人はその国の黒い部分にまみれて帰ってくる。アジアなら古い中国の賄賂の文化なんかを経験して帰ってくる。自民党の人間なんかは外国で活動した人もいて、そういう人はアジア的になっているといわれる。結局日本もアジア還りしている。というのは田中角栄とかの時代か??
p245 薩摩藩の役人道
江戸時代の土木工事はすごい。薩摩藩は幕府に命じられて木曽川の治水工事を費用は薩摩藩持ちでやらされる。自国領とはなんの関係もない土地の土木工事の責任を取らされるのである。当初20万両の予定が40万両かかってしまった。藩に損害をかけたということで奉行を務めた平田靫負ら51名の藩士が現場で腹を切った。
汚職の真逆である。かつての日本人にはアジアとは全く相いれない思想が根付いていた。
他のたとえで言えば、築城や城の修復。これは藩主がやるのではなく、家臣に命じて家臣が自腹でやる。そして領民が畑作業の暇を見て手伝いに来る。
このような土木工事がなされていたからか、土地や城は権力者である幕府や藩のものという考え方はなかった。そこからも法人という観念が生まれる下地になったのだろう。
土木工事で談合が行われるようになったところを見ると、現代日本はアジア還りしているんだなと思われるわけですよ。
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この本は教養が深まるとおもう。
教養とは、知識によって形作られる人格のこと。
この本を読んで得られた歴史の知識は、日本人としての思想に影響を与えないわけがないだろう。つまり、教養が増す、気がする。
ある程度司馬シリーズを読み終えたら、再読しよう。
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…巨星、堕つ。1996年2月12日、十年間続いた『文藝春秋』の巻頭随筆「この国のかたち」は、筆者の死をもって未完のまま終わることになった。…
電車に乗って「さぁ最後の完だぞ!」と本書を手にとった瞬間に飛び込んできた文字列。裏表紙に記載されていた。とてもショックだった。司馬さんが亡くなられていたのは知っていたが、この本が絶筆になっていたとは…とても悲しくなった。呆然とした。なぜだか…
1996年2月といえばわたしが役人を辞めて一年ほどフラフラして退職金を使い果たしてやっと仕事を始めた頃であった。それから18年。全く何をやっていたのか?ただ、生きてきた。ずいぶん思い悩んだが、まぁそれでよかったのだろう。生命というのは生きることがその本質であろう。まちがいなく生きてきた。
言語についてとても興味深いことが書かれていた。話し言葉と文章の言葉とは違うのである。耳はバカだから。目はそういう訳にはいかない。目は厳しい。しゃべりは適当でもいいが、書いたらそうはいかない。もう少し書けるようになれたらいいな。
Mahalo
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「明治の脾弱な国力で、この一戦(日露戦争の日本海海戦)のために国力を越えた大海軍を、もたざるをえなかった。問題は、それほどの規模の海軍を、その後も維持したことである。」
撤退戦略から目を背けない文化がある国だったら、歴史も将来も大きく変わっているだろうに、とつくづく思う。
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シリーズ最終巻にして絶筆となった随想が含まれる。「この国のかたち」というタイトル通り、作者が存命だった90年代までの、この国の根源のようなことが解説されている。冷静さと緻密な描写と圧倒的な取材に基づいた作品、多少突き放した感があって、それがかえって近づきたさを醸し出す。大学時代に講演にお呼びしようとして丁寧なおお断りの手紙をもらったっけ。どこへしまいこんだかなあ。