あなたの知らない日本の中世
2005/07/17 19:59
15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:碑文谷 次郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
昨年物故された日本歴史学者が、生涯一貫して探究し続けた「職人」をキーワードとして、本書は、”非人”と”遊女”という、現在一般的に賤視の対象となる人たちの、その発生の起源と変遷についての論考集大成といえよう。
学術論文の故、気安く通読できる本とは言いがたいが、書評者のような全くの門外漢にとっても、中世日本に確かに存在した(筈の)我々の祖先の姿を垣間見ることは、語弊を恐れずに言えば、高質なエンターテインメントを味わう心地よさに通じるものである。
例えば、遊女についていえば、鎌倉時代くらいまでは、決して賤視されていたわけでなく、もしろ天皇に直属する形で宮廷に出入りしていたとのこと。また、非人もこの時期までは、「清目」(きよめ)を芸能として、天皇、神仏に直属する供御人、神人、奇人と同様に聖なる存在として畏れられていたことが、丁寧に論証される。そして、鎌倉時代前までの、「職人」身分は、「天皇、神仏など聖なるものに直属することによって、自らも平民と異なる聖なる存在としてその職能ー芸能を営んだ」と説く。
本書には、(たぶん)たいていの人が知らない、我々日本人の中世の生活が活写されている。非人や遊女を、弱者とか差別の対象として見ないどころか、むしろ、己の芸能を力として生き延びてゆく強靭な生命力に驚嘆と共感を寄せる著者の息吹が伝わってくるようだ。
被差別民と女性(特に遊女)に関して書かれた論文を集めたもの
2017/02/27 21:33
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、被差別民と女性(特に遊女)に関して書かれた論文を集めたものである。本文中に「このことについてはまだまだ研究の余地がある」という意味の文章がよく出てくるが、これは当然のことであり、どんなに優れた人物でもその一生で日本の歴史が全て解明できるはずはない。それでもこの本は、被差別民に対する理解を深めるために非常に深い示唆を与えてくれる。そして網野善彦の被差別民に対する眼差しはとても優しく温かい。
白状するとオレには巻末の「解説」が最も分かりやすかったっす,はい。
2006/10/05 08:28
10人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
予想したよりずっと専門的な本だったのでエラく時間がかかってしまった。そもそもはどこだかで読んだ雑誌……だったかどうかもはっきりしないんだが,で読んだ,中世の日本女性は近世以降と違いバテレンもあきれるほど自由に旅や商売を行っていた,という話に「へぇ」と思って買った本で,オレはそんな「ナントカカントカ絵巻のここの部分に描かれている童形のヒトが団扇を持ち高下駄を履いているのは云々カンヌン」みたいな微に入り細に入りした史学研究に興味はないのだが。
それでも一応門外漢なりに内容を紹介すると,近世以降(現代に至るまで!)賎視,蔑視の対象となっている「非人」「芸能民」「遊女」などは,実は中世までは天皇直属の職能民として聖視されていたことを明らかにし,いかなる社会情勢の変化がこれら職能民をして賎視,蔑視されるものに変えまたそれを固定していったのか,を明らかにすることをココロミた論文集,ということになるんだと思う。なるほど「士農工商」で「工商」が「農」の下にあるウラにはこういう事情があったのか,と勉強になりました。
え,読んでみたい? 非人,遊女だけでなく,犬神人(いぬじじん),清目(きよめ),傀儡(くぐつ)などの専門用語がなんの解説もなくぽんぽん出てくる上,山のように示された参考文献を「読者も読んでいるのが当たり前」と言わんばかりの文章も少なくないので,あんまりお勧めできません。ちうか,白状するとオレには巻末の「解説」が最も分かりやすかったっす,はい。
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投稿者:ぽぽ - この投稿者のレビュー一覧を見る
学校の授業では、教えてくれないような内容になっています。身分差別や、昔の人たちの苦労が、わかりました。
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ちょっと興味があったので、買って見ました。
当時の遊女というか、芸能関係者について、知りたいなと。
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『吉原御免状』からここまで到達いたしました。(笑) 本日図書館にて借りた物。
一番賤しいものが一番聖でもあるっていうのが、私が芸能民に惹かれる所以なのだと思われる。頑張って読む。
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非人・遊女は中世前期において、天皇、神仏の直属民であった。また非人は、その職能が「穢」の清目という呪術的色彩を濃厚に持っていたため、供御人、犬神人、寄人とともに、いわば「聖別」された存在として畏れられてもいたのである。この畏れの意識は人々の差別の意識に容易に転化されることになる。中世後期、天皇・神仏の権威は著しく低下したため、同時に彼ら彼女らの職能民としての社会的地位も同時に低下することになったのである。こうした転換が文明の流れの中で大きく作用していったが、聖から賤へと転落しながらも文化形成の重要な一要素の役割を担ってきたのである。
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網野善彦さんの本は面白くて好きだが、これはちょっと難しめだった。収められた論文はほとんど専門誌に投稿されたもので、つまり本職の歴史学研究者を対象としており、歴史上の用語はどんどん出てくるし、いちいちそれの解説なんて付いてない。
私はこれまで非人に関する本も、網野さんの本も、中世あたりに関する歴史の本も数冊読んできたので、かろうじてまあまあ理解できた。漢文は読めなかったけれど。もしそれらの本を読んでいなかったら、この書物にはお手上げだったかもしれない。
しかし内容はなかなか面白く、死体処理などを任され、年貢を免除されていた「非人」は中世(鎌倉時代)初期にはその「穢」が、穢を清める装置として機能し、世の「聖」にも結びついていたという。遊女も同様だ。
網野さんによると、非人や遊女が社会的蔑視の対象となり、どんどん迫害されていくのは南北朝の動乱期以降だという。そのへんの経緯については、この本ではあまり追求されていないが、古代型の「王権=聖なるもの」が失墜していく過程で「穢」も「聖」との連携を絶たれてしまったのだろう、と推測できる。
よく考えたら、源頼朝の幕府も奇妙なものではあるが、当時はまだ京都の王朝の聖性は守られていたようだし、南北朝時代を経て戦国時代へと推移するなかで、天皇の「王権」は喪われ、「聖」をわかちあう共同体としての日本社会は解体し、個人の能力、軍事的権勢の競争の中から時の支配者が生まれてくるという時代に至ったのではないだろうか。
国家における統合的なものとしての「聖」の消滅という、共同体社会にとっては重大きわまりないターニングポイントとして、南北朝を捉えるという考え方は、たいへん興味深い。
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タイトルのごとく、網野本の中では非人扱いされる前の犬神人や遊女に少し考察がなされている
ただ、他の著作とかなり被る部分は多く、散漫になったのは残念
なんとなく、中世の人々は自由闊達な人々であったという結論から最初にきて逆算してるように感じるのは邪推なのでしょうかね
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やはり専門書なだけあって、きちんと勉強していない身には少々ハードルが高かった。
南北朝時代に、というか建武の新政に時代の断絶というか、価値観の一変があったという指摘は興味深い。文観の手の者が、非人に通じる者だったり、鎌倉時代における農民以外の職能民への蔑視の進行など、新知見も多い。
また、女性を扱った2章は、女性は家に居て、男性を支えるという価値観が、如何に江戸、明治を通じて作られたものかということがわかった。
こうした価値観が、一般庶民に広がったのは、かれこれ100年ほどのことなのかもしれない。
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2005年(底本1994年)刊行。著者は2004年没、本書は没後に文庫化されたものである。
著者らしく、視点・立脚点を揺さぶられる書である。多面的にみる癖を習得するのに格好の著であることは間違いない。
本書は非人と女性論を展開するが、個人的には女性論に興味を惹かれるところ。
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もとは、川端康成などの小説に出てくる社会からはみ出た女性たちの存在に興味をもち、こういった女性はどこから出てきたどうゆう身分の人たちなのか不思議に思ったのがきっかけ。だから本書を読むにあたって一番期待したのは非人ではなく遊女だったが、読み終わってみて、主題は非人、遊女はどちらかというとオマケだと気づいた。
近現代で差別の対象となった/なっている人たちの根源をさぐろうとするのが狙いなのか何なのか、とにかく種々の被差別民が登場する。今の被差別民は古代、すくなくとも中世までは職能民であり、その身分は天皇大王によって保障されていた、つまり元は被差別民どころか神聖な身分ですらあったが、室町戦国を境に天皇の権威が失墜し、それに附従していた人たちも卑賤な存在に転落して、今に至る、というのが本書の主眼。
中世までは庶民だけでなく皇族の貴婦人も自由に各地を旅し、いまの倫理基準では乱交とみなされてしまうことも、当時はある程度認められていたらしい (但し、おそらくは未婚に限って)。遊女も元は天皇皇族のために特殊な職務を帯びた人たちであったのが、身分を失って、職能にたよって生きてゆくとなったとき、そこに男を慰める女性が生まれたらしい。
論題自体はおもしろいものの、文庫でありながら内容は専門書で、体裁としては論文集。一篇おわるごとに大量の文献が並ぶ。筆者が書くのも基本的には過去に提起されたみ方や推論に対する反論であって、過去にどういう議論があったのか知らないと辛いところも多々あるし、そもそもその時代の日本史を知らないとつらい。
そして筆者自身がいうように、元は方々で発表した文章を寄せ集めたもので、もう少し整理したいと思いつつも果たせず、発刊の期が熟したために半ば未完成なままになったのだとか。実際、同じことがなん度もでてきて、まとまりは確かにない。第二部は遊女が中心かと思ったら割と非人系の話が多くて、タイトルとあっていないなとしばしば感じる。
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p.152
……非人や遊女・傀儡子は、たしかに公民、平民百姓を基盤とする「社会秩序」とは異質の存在ではあるが、決して社会秩序の全体から「忌避」されていたわけでも、国家全体の枠外に置かれていたわけでもない。……中世前期---少なくとも鎌倉期まで、遊女・傀儡子は決して賎視されていたわけではなく、むしろ天皇に直属する形で宮廷に出入りしていたのであり、非人もまたこの時期には聖なる存在として畏れられた一面が確実にあった……。それは基本的には天皇、神仏に直属する供御人、神人、寄人と同質の存在であった。……中世前期の「職人」身分は、このように……「聖」なるものに直属することによって、自らも平民とは異なる「聖」なる存在としてその職能---「藝能」を営んだ点に、その重要な特質があるといえよう。しかし南北朝の動乱を境に、天皇、神、仏の権威が低落し、権威の構造、そのあり方自体が大きく転換した結果、中世後期以降……、……実利の世界に転生することが難しく、「聖」なるものに依存する度合いの強かった人々が賎視の対象となっていく……。
女性については、江戸明治と女性が鳥籠に閉じ込められて自由などなかった、というの���一般論であるのに対し、実際の当時の女性たちはそんなことはなかった、といろいろ論証をあげながら語るが、紫式部や清少納言が、誰にでも顔をみせる女房という立場ほどみっともないものはないと語ったらしいように、実際、身分や立場などによっては本当にそうだったのだと思う。貴族が廃れて武家社会になってからは、武士の奥方がつまりはそれを引き継ぎ、いわゆる日本の奥ゆかしい女性像につながったのではないかと思う。
本書は総じて、なるほどと感心感嘆するところも多いものの、筆者の仮説であることが多く、しかも次から次に説明の対象が替わるので、一つ一つの主題が解決されぬまま次の主題に映る感じがして、正直悶々とする。
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p.232
「後藤紀彦……はまた、天皇、上皇、高位の貴族に寵愛されて、その子を生んだ数多くの遊女・白拍子がおり、鎌倉期はこうした女性を母にもつことは、官位の昇進になんら妨げになることはなく、遊女・傀儡はこうした実情を背景として、可也はやくから、前者は光孝天皇の……、後者は村上天皇の「姫君」を祖とするという伝承を伝えていた、という……事実に言及した。」
紫式部作とされる『源氏物語』の帝のモデルおよび紫式部が内裏で女房をしていたころの帝が村上天皇らしい。とゆうことは、紫式部のあの時代に舞妓、遊女が天皇の子を産んでいたのか。登場人物の中に一人くらいはそういう出自もいるんだろうか。承久の乱の直接的原因となった伊賀局は白拍子、つまり遊女だったらしい。
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「網野史観」には批判もあるので、どう読めばいいか、迷うけど。
宮崎駿が『もののけ姫』をつくった際に「網野史観」によりすぎ、と批判があった印象が強い、フィクションから歴史に興味をもつぶんにはオモシロイのだけれど、どうして中世には比較的自由度が高かった女性たちが近世以降、家父長制に取り込まれていくのか、そのへんを知りたい、調べきれていない、
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私にとって目から鱗の書籍でした。
近年海外からの圧力もありジェンダーレス、多様性、男女差別等の議論が不可避のものとなっていますが
本書では、地道に地道に真摯に積み上げてきた研究者達の灯が霧を晴らすがごとく中世日本のの景色を浮かび上がらせてくれます。時折ルイス・フロイスのなんだこれは?!という叫びのような報告書も交えながら、世界的にも珍しい女性が広く識字する稀有な文化が社会変動によって変遷していく日本の姿を旅します。
特に心に残ったのは以下の部分
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未開の柔らかな特質を強く持つ社会が、それ自体の内発的な発展のなかで、畿内の政治権力を中心として、すでに高度の文明のなかで鍛え上げられてきた中国大陸の、家父長制に基づく硬質の律令制度を受容した点である。
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この文は奈良時代の律令制度を指していますが、キリスト教伝来しかり、未文化なものが、後発の型を押し付けた途端にチカラを失っていく様を其処此処に見るにつけ、果たして元々あったものは劣っていたのか疑問に感じる事は少なくありません。
型なきやわらかきもの。しかし生命力を帯びたものを大切にしながら型と組み合わせる二輪駆動。そういう在り方を目指したい、と思うのです。