ニコライ・スタヴローギンの内面
2006/01/11 13:20
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
19世紀ロシアにあらわれたニヒリストと呼ばれるテロ集団を題材にした物語。ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーに率いられた彼らは、巧みに県知事に取り入り、暴動や放火をかげで操る。そして、転向者のシャートフをリンチして殺害する。暴力や殺戮場面の連続には少々気がめいるものの、ドストエフスキー文学特有の個性的な人物群は、忘れがたい印象を私たちの中に残してくれる。
シャートフは短気で喧嘩っ早いが、根は純粋で正義感にあふれた青年である。その友キリーロフは、人生に何の意味も希望も見いださず、虚無を生きようとするあまり、いつ何時自殺をしてもかまわないと常々公言している。しかしその一方、子供好きで、友への思いやりももっている。彼は自らがシャートフ殺しの犯人であるという遺書を書いて自殺させられる。ピョートルの父で、西欧かぶれの衒学者ステパン氏は、ロシア的知性に失望し放浪の旅に出るが、最期にロシア民衆の精神に真の救いを見いだす。旅先で死の床につく彼を看病する心優しい聖書売りの女性ソフィアも魅力的な存在である。
しかしこの作品中最も深刻な人物像は、主人公ニコライ・スタヴローギンであろう。虚無と暴力のいずれかに生きることしかできず、最後に自ら死を選ぶ彼の内面はどのようなものだったか。同じく死を選んだキリーロフとの次の会話が、その一端をのぞかせてくれる。
〈「かりにきみが月に住んでいたと仮定してみる...そこで、滑稽で醜悪な悪事のかぎりをつくしてきたとする...きみはここにいても、月ではきみの名前がもの笑いの種にされ...唾を吐きかけられるだろうことを確実に知っているわけです。ところが、きみはいまここにいて、こっちから月を眺めている。だとしたら、きみが月でしでかしたことや、月の連中が千年もきみに唾を吐きかけるだろうことが、ここにいるきみに何のかかわりがあります、そうでしょうが?」
「わかりませんね」とキリーロフは答えた。「僕は月にいたことがないし」何の皮肉も交えず、彼はこうつけくわえた。」〉
ニコライはここで、自分がどんな罪を犯そうとも、世間からの非難など気にしないということを主張している。しかし、彼がことさらに月のようなはるか彼方の世界に自己の悪行をおきざりにしようとする理由は何か?それは彼が自ら犯した罪をおそれ、そこから遠く離れようとしているからではないか?一方、精神にいささか異常があるものの、良心には一点の曇りもないキリーロフにこの比喩は通じない。そもそも自分への罵倒を月面上で聞くのと地球上で聞くのに、どんな違いがあるのかが彼には理解できない。キリーロフが皮肉なしに上の言葉を吐いたのは、ごく自然なことであった。
本書が発表された当時、出版社の検閲により削除された「スタヴローギンの告白」の章において、ニコライは、神父のチホンに向かって、かつて自分が少女を犯し、自殺に追いやったことを告白し、世間にそれを公表すると明言する。しかし、チホンも指摘するように、そこには、自分がどんなにすごい悪人かを人々に見せつけようとするニコライの虚栄心が垣間見える。そこに真の悔悟はなく、存在するのは社会に対する意地の悪い挑戦だけである。ちょうど月にいる人々に何を言われようとかまわないと言ったのと同じ態度なのだ。
さらにこの告白では、ニコライがおびえているものが明らかにされている。それは死んだ少女の亡霊である。ある意味でそれは、彼の罪が作り出した良心の呵責ではないだろうか?亡霊の正体が何であれ、ニコライは最後までそれに悩まされ、それにより自ら命を絶った。彼にとってそれは、月の世界の出来事とは到底考えることのできない現実であった。
埴谷雄高の『死霊』と併せてお愉しみください
2005/09/20 09:27
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:phi - この投稿者のレビュー一覧を見る
成る程,確かに,これは埴谷雄高の『死霊』のサンプルですね。と言うか,サンプリングのレヴェルではなく,もうカヴァリングです。この作品に『カラマーゾフの兄弟』とカントの『純粋理性批判』とを加えて,それを掻き混ぜると,『死霊』の出来上がり,と,こうなる訳ですね──大雑把に過ぎますか──。
ドストエーフスキイの諸著書について,良く言われるように,これも,リーダビリティは高いです。読ませますね。しかし……,まぁ,私などが大先生の作品にけちを付けても,袋叩きを通り越して,完全無視されるでしょうが,やはり気になったもので。
それは全体の構成です。各章の接続が貧弱なんですよね。シークェンシャルに書いたのではなく,各々のピースを,用意しておいて,パズルのように配置しました,という感じ。この不連続感は,この作品が連載物だった,ということに起因しているかも知れません。19 世紀のことですから,現在の,コンピュータでのエディットなどは勿論無かった訳ですし。
後,登場人物の中では,キリーロフに若干の共感を憶えました。某教授は某誌において「スタヴローギンに強く心を惹かれていた」と書いてらっしゃいましたが,私には,完全無欠である彼は遠過ぎます。
読了後,『死霊』も,もし完成していたら,この結末だったのかな? と考えました。んんん……,やはり,この他に,書きようは無い気がします。■
印象に残る作品。
2016/01/08 11:26
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投稿者:あかーきぃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初、ステパン氏の話が滔々と続く序章で挫折しそうになったが、主人公の貴公子ニコライ(スタヴローギン)が漸く登場する辺りから、物語は段々と面白くなってくる。ピョートルの動きは忙しなく、そしてあざとい。スタヴローギンへの彼の心酔ぶりは異常な程である。何とも言えない不気味な感じが作品全体を通して漂っている。それは、思想に取り憑かれた人々の末路、主人公の持つ性格の所以であろうか。救いが無く、全体的に暗い雰囲気であるが、ドストエフスキーの長編作品群の中で、これが最も印象に残った。本作については恐らく好き嫌いが分かれるだろう。
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不安と恐怖の渦巻く時代、スマートで教養がありながらも絶対悪として描かれた青年を中心に、さまざまな思いを抱えながら破滅へと進む人々が描かれる。
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「あなたが無神論者なのは、あなたが坊ちゃんだからです、最低の坊ちゃんだからです。というのは、ぼく自身、坊ちゃんだからです。いいですか、労働によって神を手に入れるのです。本質のすべてはここにあります、さもないとあなたは、醜い黴のように消えてしまいますよ。労働で手に入れるのです。」
「神を労働で?どんな労働でです?」
「百姓の労働です。さあ、行って、あなたの富を捨てていらっしゃい…ああ!あなたは笑っていますね、それがただの手品になるのがこわいんですね?」
しかしスタヴローギンは笑っていなかった。
「きみは、神を労働によって、それも百姓の労働によって手に入れられると考えているんですか?」
まるで熟考の必要のある何か新しい重大なことをほんとうに見いだしでもしたように、ちょっと考えてから、彼は聞き返した。
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漫画の「モンスター」もモチーフにしたんじゃないかと思う。背後で静かに笑う、冷徹な悪の存在がリアル。ただ、結局歪んだ思想の悪は勝手に破滅するとういう結末で、もっと盛り上がって終わってほしかった。
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今読んでる。
ドストエフスキーの良き個性、特徴であって悪い所でもあるんだけど、同じ所を何回も読み返さないと何を言ってんだか分からない(笑)
なんか思想家(?)としてのドストエフスキー全開な本だと思う。
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なんかすごいということがわかる。
カラアニもだけど、、、文章の密度というか、おいしさというかコクというのか。
ドストエフスキーが特別なのか、それともこういう雰囲気の小説はほかにもあるのだろうか?
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無神論的革命思想を携えて集まった秘密組織の人たちが上流階級の秩序を破壊する様を、悪霊のらんちき騒ぎに見立てて描いた小説。【参考】人物相関図を印刷して持ち歩かないと確実に登場人物がこんがらがるので次を参照。→http://f.hatena.ne.jp/ariyoshi/20080208201513 。2008.8.1-4.
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農奴解放令によってこれまでの価値観が崩れ、混乱を深める過渡期のロシア。改革という名のもとただ破壊に走る若者達の破滅的な行動を、作者は「悪霊につかれた者たち」として表現しました。それは人間誰もが潜在的に持っている「悪」の表出にすぎないのかもしれません。数あるドストエフスキーの作品中でも「救い」の見られない、残酷で悲しい作品です。
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2009 9/22
第一編を読み終えた。第一編の範囲での感想を書いてみよう。
長編小説と言うと、面白くなるのが遅いと言う印象がある(現在の小説は別だが)。この小説もその例に漏れず、第一編ではストーリーに直接関係ないステパン氏やワルワーラ夫人の逸話が多く語られるため、この上巻を評価する際、面白さを考慮に入れると、星五つを献上するのが難しい。しかし、あくまでまだ面白い部分に差し掛かっていないと言うだけのことであり、第一編だけでも例えばキリーロフの人生論など、深い部分は沢山ある。そういう部分を味わいつつ読んでいけば、十分楽しめる内容と言えそうだ。
しかしながら、スタヴローギンが現れるととたんに面白くなる。まだ第一編の範囲では、彼の『悪魔的超人』と呼ばれる所以の魅力は現れていないようなので、第二編、第三編への期待はいやがおうにも高まってくる。この先彼がどのような言動と思想を披露してくれるのか楽しみだ。
よく『悪霊』は面白くて深い本だ、と言われる。調べてみると分かるが、前半は僕が感じたとおり、面白さで言うとやや劣るが、後半に入ってストーリーが怒涛の流れを見せ始めると、恐ろしいくらいに面白くなるらしい。しかし、どのように面白くなるのかについてはネタバレになるせいか殆ど書かれていない。なので、後半でいかにして面白くなるかが楽しみだ。その面白さの鍵は第一編で殆ど出てこなかったスタヴローギンが握っていることはまず確実だろう。
2009/10/2 追記
多くの人が理解するように、著名な古典長編小説は面白くなるのが遅い。上巻を読んで、それはこの小説にも当てはまると確信した。
もちろん、深さや広さと言った要素は初めからあるのだろう。箴言のような言葉はのっけからそこらじゅうに漂っている。そもそも古典小説に面白さを求めることが間違っているのかもしれない。しかし僕はそうやって、これまで数多くの古典長編小説を面白く読んだ。
この小説は、上巻に関して言えば、ドストエフスキーを読んだ事がないという人には薦められない。内容が難解と言うより、単純な面白さと言う面で、初心者の人には厳しいところが大きいと思うからだ。挫折してしまっては勿体無い。そんなわけで僕はドストエフスキー入門には素直に『罪と罰』を薦める。
こう書くと面白くない小説と取られるかもしれないが、それも間違っている。ステパン氏の滑稽な言動など、笑いポイントは随所に用意されているし(ただしこれはある程度ドストエフスキーに慣れている人にしか理解が難しいと思われる)、上巻終盤のセミョーン聖者の逸話は、思わずぷっと噴出してしまうようなドストエフスキー一流の楽しさがあった。これがあるからドストエフスキーを読むのをやめられない、と言うところだ。
また、これは蛇足かもしれないが、ドストエフスキーは病んだ人間の描写が上手い。そう言うと、「いや、彼の小説はみなどこか病んでるよ」と言う意見が帰ってくるかもしれないし、それには賛成なのであるが、僕が言うのは狭義のいわゆる『統合失調症等精神疾患に罹患している』人の描写も不気味なくらい上手いということだ。上巻ではその病んだ女性マリ���が4ページほど延々と、前後のつながりが断絶されている意味不明の話をするシーンがあるのだが、その意味不明具合までがまさに『病んだ人』そのものだった。
下巻には怒涛の展開が用意されており、読んだ人の総評から『恐ろしく面白い』とでも表現できそうな面白さがあると言うことなので、これからの展開が非常に楽しみである。
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友人の影響で、ちょっとドストエフスキーを読んでみたくなり、図書館で借りてきて読んでみたのですが・・・・。
うーむ、なんか辛い。
気になっていた文体的にも読みにくい訳ではないのに、何故か全然ストーリーが頭の中に入ってこない!全然読み進められない!!!
2週間の貸出期間の半分過ぎても上巻の2/3しか読めないため、とりあえず今回の読破は断念しました・・・。
ドストエフスキーは難しいです・・・・
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(2004.08.23読了)(1997.09.19購入)
高校生の頃、米川正夫訳で、「罪と罰」を読みました。何がなにやらよくわかりませんでした。2000年に、工藤精一郎訳で「罪と罰」を読み直しました。今度は面白くてどんどん読めました。訳者との相性で、読みやすさが違うのではないかと思います。
今度の、「悪霊」は江川卓訳です。残念ながら読みにくかった。訳に関係なしに翻訳物のわかりにくさの原因の一つは、苗字、名前がなじみがなくさらに愛称が使われると、慣れるまで誰のことかがわからないというのもあります。
物語に主に出てくる人物は、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー氏とワルワーラ・ペトローヴナ・スタブローギナという陸軍中将夫人。
ステパン氏は、外国帰りの大学講師。詩人、学者、市民活動家。ワルワーラ夫人は資産家。
二人の交流は、22年続いている。夫人は、乳母のようにステパン氏の世話をやいてきた。その代償として、時には奴隷的服従を彼に要求した。
新しい時代の動きを感じ取ったワルワーラ夫人は、時代がどう動こうとしているのかを知るために、新聞雑誌、国外で出される禁制出版物や、檄文にいたるまで、全部自分で読んでみようとした。だがわけがわからないので、ステパン氏に説明を求めたが、彼の説明は夫人を少しも満足させなかった。
そこで夫人は、ペテルブルクに出て、万事実地に確かめ、直接に当たってみた上で、もしできるなら、新しい活動にすべてを賭けてみようといい、自分の手で新しい雑誌を創刊して、それに余生のすべてを捧げるとまで言い出した。
夫人は、新思想に身を投じるために、自宅で夜の集まりを催し始め、文学者仲間に声をかけると、大勢押しかけてくるようになった。批評家、小説家、劇作家、諷刺作家、暴露記者と揃っていた。ステパン氏は、新思想の指導者たちに渡りをつけて、ワルワーラ夫人のサロンに招待したりした。サロンでの話題は、検閲や硬音符の廃止、ロシア文字のローマ字化、追放事件、勧工場のスキャンダル、自由な連邦的結合のもとでのロシアの民族別分立策の利点、陸海軍の廃止、ドニエプル沿岸のポーランドの失地回復、農民改革や檄文の流布、相続、家族制度、親子関係、聖職者の廃絶、婦権問題、等等であった。
ロシア帝政末期の貴族社会の様子が描かれているのだろう。ロシアの歴史を勉強してみるか。
著者 ドストエフスキー
1821年10月30日 モスクワ生まれ、次男
1837年2月 母(マリヤ・フョードロヴナ)死去
1839年6月 父(ミハイル・アンドレーヴィチ)農奴に惨殺される
1843年8月 工兵士官学校卒業
1846年1月 「貧しき人びと」発表
1849年4月23日 逮捕、11月死刑判決(ペトラシェフスキー会)
1865年 「地下室の手記」発表
1866年 「賭博者」「罪と罰」発表
1868年 「白痴」発表
1871年 「悪霊」発表
1881年1月28日 死去、59歳
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この作品は一度では理解できないのではないか。スタヴローギンについては再読で考えたい。ステパン氏が当時の知識階級の投影であろう。非合法組織の内ゲバ、密告は運命だ。最後は宗教的慈愛に取り込まれるように描かれているが、これは検閲へのオブラートであろう。作者のシンパシーは穏健改革・無血革命にある。
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1861年の農奴解放令によって一切の旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り、秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。本書は、無神論的革命思想を悪霊に見立て、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。
登場人物が多いのと、一人の登場人物に対して呼び名がいくつもあることが災いして、誰が誰なのかよくわからなかった。
物語自体も内容が込み入っていて、一度読んだだけでは理解できない部分が多く、非常に難しいと感じた。