感情のぶつかり合い
2018/09/18 09:32
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投稿者:とも - この投稿者のレビュー一覧を見る
彼女のお母さんとの感情のぶつかり合いというか、すれ違いというかは私の家族でもあったもののような気がした。
中の写真がみずみずしくて、流石だと感じた。
読むのも苦しいというのに、それを書いたエネルギーたるや...。
2021/07/18 15:50
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
『かなわない』を読んだのち、いきなり『台風一過』まで飛ばしてしまったことに気づく。間をつなぐように手に取った本作。これもまた、赤裸々な書き様で、読み手はココロが痛むシーンもあるけれど、書き手の著者は、それをここまでよく描き上げることができたものだと思いつつ読み進む。本作は、ずっとうまくいかなかった実母との関係。予想もしなかった義弟の自殺、そして、夫の入院。抱えていかなければならないことがさらに増えた、著者は、そこを、苦しみ悩み、時に感情的になりながら突き進んでゆく。そのエネルギーに感嘆することしきり。
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実母との絶縁、義弟の自殺。夫への突然のがん宣告。
「かなわない」から事態は急転する。
手術後、ICUにいる石田さんを見舞った帰り道、疲れて、弱って、誰かに吐き出したいがその相手が見つからない。筆者はふと石田さんにメールしそうになる。そして、気づく。石田さんの携帯はいま、自分が持っている。貴重品は家族が預かることになっているから、今朝から持たされたのだ。
「石田さんにはいま、どうがんばっても届かない。届けられなくなる日が来るかもしれないと思うと、涙が出そうになった。……p.164」
この箇所で何回も泣いてしまう。「かなわない」では泣かなかったのに、これはダメだ。
石田さんはいいとして、親父や義弟や実母のこと、シッターの村田のエピソードなどは、ここまで赤裸々に書いちゃっていいんだろうかと心配になる。が、書いておかないといけない、書かずにはいられないという植本さんの気迫が文章を通して伝わって来る。
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母親との確執、母親への強い嫌悪感、それらはたぶん、母親へ反抗することで自分を保ってきた部分もあるのではないかなぁ。憎しみの感情や反抗心は、実は母親から自立していないから…とも思えた。でも、甘えたい対象に拒否されたら、いくつになっても悲しいよなぁ。
末の娘が親指を立てながら、寂しくなったらグッドして!そうすれば私と繋がるから!とパパを励ます場面には泣いてしまった。ほんとに優しい子だな。お父さんが病気っていうだけで心細いだろうに。
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植本一子のこともECDのことも知らないまま読み始めたのだけど、冒頭からすぐざわざわの嵐に飲み込まれてしまう。
母、夫の弟、夫の父、そして夫本人と、なぜ周りの人とこんなにも傷つけあいながら生きているんだ、この人は、と。
理解も共感もできないまま読んでいくと発覚する夫ECDの病気。思わず表紙を見直す。「最後の日」か。最期ではないな、よかった。が、全然よくなかった。なんだ、なぜすんなりと日々を過ごせないのだろうか。
もしも彼女が、丸い石が転がるようにすんなりと日々を過ごせる人ならば、彼女もECDも子どもたちも心穏やかに生きていけるだろうに。なぜだろう。わからないまま、わかりたくて読み続ける。けど最後まで読んでも私にはわからない。植本一子という女性のことも、余命宣告されたECDのことも。「あたりまえでしょ、他人のことなんてわかるわけないでしょ」とつっぱねられたまま、私も彼女たちは毎日を生きていくのだな。
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2017.2.21
「働けECD」、「かなわない」を通過してのこの「家族最後の日」。まあ凄い流れだなと思う。
一子さんは相変わらず自由で自分勝手な感じだが、
自由だ、と思った。石田さんの存在の上にある自由。いつもそうだったのだ。という文章にホッとした。
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「かなわない」で文章がすごく好きだと思った植本さんの新著。
旦那さんである石田さんが癌だということが分かり、この先どう頑張っても終わりようのない日々の始まりが少し書かれている。
前作との比較になるが、文章からはだいぶ落ち着いたんだな、ということがうかがえる。前は文章もすごく凶暴で乱暴で、怖かったのだ。感情をぶんぶん振り回し、子供のように泣く一子さん、怖かったけど好きだと思っていた。
読みながら「家族最後の日」の意味を考えた。それはあとがきで明かされているのだけれど、そうかあと納得できた。家族を二つ持つことの意味を、私はまだまだ理解出来ていなかった。
読んで心が不思議と落ち着いた。、
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良くも悪くも自由な人という印象。
家族最後の日は、実母、義弟、夫、三つの家族について。
石田さんと一子さんたちの家族は新しく始まったところ。再生の物語に続くのかな。
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ーーー絶対に、死なれてはならない。ーーー
またとんでもない本が一冊この世に産声を上げた。
家族最後の日、と題された本書は、三人の家族との最後をそれぞれ記している。
母、義弟、そして夫の石田さんだ。
それぞれ何が「最後」なのかも形が全部違っている。
SNSをフォローしているので、あのときのツイートの裏面でこんなことを考えていたのか、こんなことが起きていたのか、と、彼女のその時の心情を思うと、とても、かなしくなったりした。
誰かに対して何かをおもうことについても、日々、日常生活で自分も誰かを無意識に傷つけたり傷つけられたりしているのだろう、といろんなことを考えさせられる。
表面上こうだったからって、人間の心情がそうとは限らない。そんなアタリマエのことをまっすぐに書いている。
石田さんのことで「どうしよう」と思っているのに、石田さんにメールしそうになったり、
お母さんに泣きつきたいとおもったり、TwitterやInstagramのフォロワー数だけが伸びていったり、よくないのにたくさんのいいねをもらったり、でもそこは書けなかったり、ほんとうにほんとうに、植本さんは文章で、写真で、生きる痕跡を残していく。
石田さんのネタで稼ごう!死ぬ前に一花咲かせよう!という発想など、笑けてしまう。
下の娘(えんちゃん)の「とにかくちからをあわせなきゃいけない」など。
石田さんの音楽仲間たちや、シッターをしてくれている仲間たちの話も、ただただありがたかったり、え、とおもったり。
生きているし、生きていく。
ヘビーだけど光がある。
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かなわない、に続いて。
かなわない、よりは辛くはないけど、でもやっぱりしんどい。
占いの話や石田さんについてのエピソードを読むと、どうしてこんなに無神経なことを言う人がいるんだろう、いまなんでこんなことを言うんだろう、ひどいって思う一方で、お二人の周りにいるさりげない優しさをもった人や、お友達についてのお話がしみじみと良くて。
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「家族」をテーマにしたエッセイというか、日記。誰かが勧めていたのを見て読みだしたのだけれど、よくよく考えると「かなわない」は読んでないし、植本さんの写真はちゃんと見たことないし、ECDも石田さんのラップも聞いたことはない。
冒頭の広島の母との話で、「あぁ、最後ってこういう意味か」と思って読んでいたけれど、大半は法律上の夫である石田さんがガンで入院してから2か月ぐらいの諸々。どうしたって子育ても続くし、日常はしんどいし、不安も、疲れも、まぁ読んでて楽しくなるものではない。万人受けしないものだと思うけれど、個人的には読み進めずにいられないものでもある。
タイトルの「最後」に絡めていうならばどこかでピリオドが打たれる、というよりも、変わり続けていくということなのかしら、と。「理想の家族」像ってあんまり思いつかないし、わからないし、いい意味であんまり意識したくない。プロフィール見ると1つ年上なだけでまさに同世代で、同世代の人がこういう内容のエッセイを書く歳なんだなぁなどとも思ったり。
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作者のこと、周りの人たちのこと
前作、何一つ知らずに友人にもらって読んだ
正直共感できなかった
文章がザラザラしてて
読み終わってやれやれと思った
≪ 最後から 再生のとき 家族です ≫
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働けECD、かなわない、そして本作と立て続けに著者の作品を読んだ。
とても正直にありのままを淡々と文章にする人という印象で、とにかく読ませる力がある。ひどく辛い心情であってもそれを静かに淡々と文章にしており、こちらはそれをひたすら静かに読み入るというような感じ。そしてたびたびハッとさせられる。私はこうやって著者を傷つけるような発言を誰かにしてこなかっただろうかと。
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「かなわない」で知った植本さんの続編。母親との確執、義弟の自殺、夫の入院に対し、ありのままの言葉で紡いでいる。娘二人と家族構成が似ているためか、自分のパートナーに癌が見つかったら、どうするか?育児と仕事と家事と一人でカバーできるのだろうかと想像しながら読了。つい最近までの出来事を記録されており、義父のこと、知り合いのことここまで赤裸々に書いて大丈夫なのかと要らぬ心配もしてしまったり。
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淡々とした日記のなかに、媚びへつらわない正直な毎日が、想いが、詰まっている。
「写真を撮っているとき、そして文章を書いているとき、私の精神は安定している。そのときは誰にも依存せず、自分一人で立っている気がする。」
そう言う筆者の植本さんにとても共感する。
一人で立つ、ということばがよく出てくる。自立、自律?
一人で立たなければいけないと私もずっと思っていたけれど、本当にそうなのだろうか。
人という文字は、人と人が支え合っている様子を表しているなんていうけれど、その角度というか、支え具合、支えられ具合はフレキシブルに変化していくのが理想だと思う。常に寄りかかっていなくても良くて、でも立っていられないときには、「助けて」さえ言えれば、いろんな人が少しずつ支えてくれる、はずだ。
「すべてを支えてくれる人は、本当にこの世のどこにもいない。いろんな部分をいろんな人に少しずつ支えてもらって、やっと一人で立っていられる。」
そもそも、一人で立っていない人なんて世の中に沢山いるじゃん、とも思う。それでもきっと別にいいのだけれど、それを許せない自分がいる。本当は羨ましいのかもしれない。そこに対して頑ななのは、やはり自分がどこかいびつなのかなとも思う。せめて、素直に「助けて」が言えるように。植本さんは、一人で立つことに対して、とても誠実だと思った。そういうところが、好きだと思った。
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ふと、お母さんに泣きつきたいと思った。私のいまの苦しみや悲しみをいくら周りの人たちに伝えたとして、ちっとも減る気がしない。全部をさらけ出せて、受け入れてくれるのは、結局お母さんしかいないのではないだろうか。周りを見渡しても誰もいない気がして、どうしてもそこに行き着いてしまう。そんな希望が昔からずっとあって、それがかなえられることがなかったから、私はいまこんな風になっているというのに。母への憎しみとともに、子どものように泣きつきたい衝動にかられる。
結局私は自立をしないで生きてきたのだ。お母さんから石田さんへ、バトンが渡されただけだった。それがいま、自分に戻ってきてしまったような思いがする。自分のバトンは自分で持ちなさいと。こんな形で自立をしなければいけないなんて、思ってもみなかった。