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その後の慶喜 ──大正まで生きた将軍
著者 家近良樹
1867年、大政奉還を行った徳川慶喜は歴史の表舞台から姿を消し、1913年に没するまで時代との係わりを断って静かに暮らした。旧幕臣たちとの微妙な関係、狩猟や写真など多岐に...
その後の慶喜 ──大正まで生きた将軍
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その後の慶喜 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫)
商品説明
1867年、大政奉還を行った徳川慶喜は歴史の表舞台から姿を消し、1913年に没するまで時代との係わりを断って静かに暮らした。旧幕臣たちとの微妙な関係、狩猟や写真など多岐にわたる趣味、たくさんの子どもを作った家庭人としての側面、そして自分を追い落とした明治政府と皇族への感情。謎に包まれた「最後の将軍」の長い余生を第一人者が鮮やかに浮かび上がらせる。
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紙の本
有栖川宮家は「南朝の出」なのか?
2018/10/07 14:41
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この文庫本が出る前に出た「徳川慶喜」では慶喜の母方でもある有栖川宮家が「さかのぼれば、霊元天皇にたどり着く名家であった」(同著3頁)とあるのに、何故か「水戸学が正統と認めた南朝の出であり」(59頁)となっている。講談社から出た親本は読んでいないから分からないが、何故間違った記述なのだろうか?おそらく「女聞き書き 徳川慶喜残照」にある「有栖川宮家とは古い昔の”南北朝時代”に北朝へ天皇のお位をお譲りした後、唯一残った南朝のお家」(同書282頁)の間違った記述をなぞったのだろうが、不可解だ。
慶喜が征夷大将軍を辞してから薨去した大正2年まで、新政府と旧幕臣の双方から冷ややかな視線を受けながらも、半世紀近い長い余生を趣味に生き、宗家とは別に公爵家に叙せられて復権するまで、類書がそうないので、興味深い内容ではある。
慶喜の娘が皇太子嘉仁親王の妃候補になったが、意外と華頂宮博恭王(昭和期に軍令部総長になった伏見宮博恭王)の妃となった事は触れられないものだ。