紙の本
勉強の哲学感想
2017/09/16 23:56
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:右ソルデ - この投稿者のレビュー一覧を見る
私には難しくて理解できなかった。
だからこそ勉強になった。私にとっては感覚的にも理解できない言葉達『器官なき言語』に溢れていて、私は壊され勉強になった。
紙の本
哲学者による究極の勉強論です!
2019/01/18 13:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、哲学者である著者による究極の勉強論です。「究極の」というのは、他の類書とは根本的にその内容が異なっているかたです。著者はいいます。「勉強とは自己破壊である」と。これまでこのように考えた人はいたでしょうか。同書を読んでいくと、非常に強い言葉が次々に出てきますが、読み進めていくと、それも納得できてしまいます。それだけ、同書には人を惹きつける、共感させる哲学思考が流れていると言えるでしょう。ぜひ、一風変わった勉強論についての書を読んでみられては如何でしょうか。
紙の本
内容は易しくない
2019/10/10 22:31
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Lily - この投稿者のレビュー一覧を見る
読みやすい雰囲気、易しい言葉で書かれていますが、内容は易しくないと感じました。専門分野の入門に関する内容を活かしたいと思いました。最初に入門書を読むのが良いそうです。複数の入門書の次が教科書、その次は基本書の順番だとわかりました。
電子書籍
もっと勉強したくなる本
2017/10/13 22:57
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ミカモ - この投稿者のレビュー一覧を見る
日常に知らないことが、まだまだたくさんあることに気が付ける本でした。目につくもの、耳にするもの、起きてから眠るまで、全ての行動が勉強(研究)の対象になると気がつきます。
投稿元:
レビューを見る
勉強とは何か、ということについて哲学的に書かれた本。途中何度か見失いそうになったけど、何とか最後まで読み終えた…。全く詳しい訳ではないけど、構造主義的な立場、なのかな。
印象に残った点は3つ。
・深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。
勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
・ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。
・信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。
最後に結論としてまとめがあったのでだいぶ助かった。
こういう本、考えることについて考えるみたいな、ある行動や概念について構造的に多角的に見た本はなかなか難しいけど、好きだ。
投稿元:
レビューを見る
処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』も、一定の評価を受けて一定の層に受容されている。その題名からも分かるように著者の専門はフランス現代思想。大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会い、哲学を志したという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いた本が、東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。
「勉強」という一連の作業の中で、情報を探すということに関しては、著者がいうように現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者からしても「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代でもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。
著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになる。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」という。つまり、「勉強とは自己破壊である」ということである。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。
そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示している。なぜなら「言語は他者」であるからである。そして、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きているといえるのである。フランス現代思想においては、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることが哲学というものなのかもしれない。フランス現代思想とは、言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそこから自由になるための勉強論であるのかもしれない。
そして、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的な刺激ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作がある。柄谷は、ここではアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。
著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めるが、まったくその通りだと思う。
そして、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだと��う。その思考スキームは現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。
この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』は邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンはそれ以上に受け付けられなかった。それでも、デリダは頑張って読んだと思う。その頃の自分は、彼らの言語に対してバーチャルであってもリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて言語遊びになっているように感じた。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。
本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことを示している。東京大学に入学したことを考えると例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。それは、そうであっても全くかまわないのだけれど。
最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。そう思うべきであるのかもしれない。
---
参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1
投稿元:
レビューを見る
納得!納得の一冊です。
やっぱり勉強好きは周囲から浮いてしまします。
欲しかったのはのりの悪い友とキモい友です。
自己目的的に語りたくなるのです!
最後まで読んでスッキリしました!
投稿元:
レビューを見る
17/09/02
自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。
ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。
享楽てなこだわりの成立史を年表にする。自分の仕事や主な興味につながる重要ポイントを自分の年表にざっくり書きこむ。背景になっていそうな出来事、商品、作品、人物などとその年を書き込む。
サブとして、つながっているかわからないけど妙にこだわっていたことや印象深いことを書き込む。
最終的に、メインとサブを接続するキーワードを無理にでもわざと考え出す
投稿元:
レビューを見る
2017年発刊の人文書中で話題になった一冊。千葉雅也はlifeとかゲンロンなどで、かすめる程度に知っていたが、なんとなく自己愛過剰なルックスなのでちょっと遠巻きに見ていた。たまたま電車での長距離移動があり、kindleで暇つぶしを探していたら出会い、ものの勢いで読み始めた。
しかし面白かった。ただのポエミーなハウツー本だったら嫌だなと思っていたが、ちょっと先入観が強すぎたようで、準専門書と言ってもいいぐらいしっかり理論的で、かつ読みやすい内容。フランス現代思想の影響を色濃く反映しており、言語に対する視点と扱いから、勉強を考えるという感じ。理論はとてもうなずけるもので、非常にためになった。僕自身も勉強好きで、職場でも多少浮くところがあるので、こういう形で理論づけしてもらえると自身のことながら納得がいって、ありがたかった。
実践編では「読む」ことと「書く」ことを教えてくれている。自身に不徹底なところがあるので、時に思い出しながら癖をつけていきたい。
18.1.22
投稿元:
レビューを見る
二回読んで皆が言うこの本の面白さに行き着けてホッとした、勉強ってなんだろうをテーマに哲学的に解く本。
自分は他者によって構築されたもので、100パーセント自分発の個性なんてない。個性とは私たち一人一人がどういう他者とどのように関わってきたかの違いである。という本の序盤の言葉が響く。とすると自分のいる環境と関わる人ってものすごく大きいじゃないか。もちろん逆も然り。
内容は集団的なノリから自己目的的ノリに移ろう、そのためには物事に対しまず疑問を呈してみることが必要。ただそれが行き過ぎると問題は無限にあること、解がないことに気付き、ナンセンスになる。だから深追いして目移りして深追いして目移りして、とある程度のところで問題を良しとすることが勉強の有限化。
勉強は断定することではなく、調べ物をし別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける、つまり勉強を継続することが大事なんだ。
勉強の視野を広げ、自分の享楽を分析しつつ(自分の好きなものを考えながら)勉強を続けよう。
というもの。
非常に簡単に纏めると勉強はきりがないよ。
終わりがないものだよ。さあ色んな物事に深く突っ込む専門家へ…!みたいな感じです。
投稿元:
レビューを見る
まともな本を読むのが勉強の基本である。
アイディアを出すために書く。アイディアが出来てから書くのではない。
歴史ある学問は、環境にいながらにしていないような思考を可能にする。自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで享楽的に中断することである。
投稿元:
レビューを見る
難しい。
でもなんとなく面白かった。
言語的な話が出てきたのが個人的に嬉しい。
というか、惹かれた理由だろうな。
投稿元:
レビューを見る
周りのノリに流されるやつはバカである、と言っている本。けれども勉強をすると一周回ってそのバカと見分けがつかないバカになることもあるという、アイロニカルでユーモラスな結論。
投稿元:
レビューを見る
p30 「自分とは他者によって構築されたものである」
p34 「人間にとって世界は「二重」になっている〜もうひとつの次元として、言葉の世界が重なっている」
p36 「言語の他者性」
p47 「ただの音としての言語〜器官なき言語」は言語なのか??言語と扱う必要はあるのか?
p50 「言語使用は〜主に道具的である」
投稿元:
レビューを見る
著者は,思考を展開するために」「ノリ」「ツッコミ」「ボケ」という親しみやすい言葉で表現しています。「深く」勉強することはノリが悪い。ノリのいい周りに合わせて動く生き方は深く勉強しないことなのだと。ノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊に踏み込みたい人は手に取ってみてください。