紙の本
世界の空を救った男
2018/02/17 18:40
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コアラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
世界的に有名でも日本国内では無名だという人は多い。本書で語られている藤田哲也も,その一人であろう。Mr.トルネードの異名をもつ気象学者であるが,藤田博士の最大の功績は,マイクロバーストと呼ばれる極小地域で発生する急激な下降気流の解明である。今日われわれが安心して飛行機に乗れるのは,この人のおかげなのだ。その功績はいくら讃えても讃えきれない。その解明に原子爆弾の被害調査が役立ったというのは悲しい話だが,マイクロバーストを解明する過程は,まさに科学者とはこういう人をいうのだというお手本である。研究者の端くれとして襟を正しながら,そして航空機の利用者として感謝をささげながら一気に読み終えた。
電子書籍
航空の安全に多大な貢献
2017/08/15 12:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野次馬之介 - この投稿者のレビュー一覧を見る
航空関係者であれば「ダウンバースト」という言葉を知らぬ人はあるまい。しかし、それがどのようにして航空事故をもたらすのかを知る人は、定期航空にたずさわる人を除いては、少ないであろう。
そのメカニズムを発見し事故の防止策を確立した天才、藤田哲也の名前は日本では、少なくともこの本が出るまではほとんど知られていなかった。逆にアメリカの気象学会で有名だった気象学者である。
藤田は若いとき、竜巻の中に下降気流のあるのを見つけて論文を書き、シカゴ大学に送った。アメリカはメキシコ湾の暖かく湿った空気とカナダの冷たい空気がぶつかり合う「竜巻大国」で、その大きな被害は絶え間がない。論文を読んだ大学はすぐに無名の藤田を招聘することになった。
藤田の渡米は1953年、33歳のときだったが、竜巻の調査研究を進めているうちに、1975年イースタン航空66便がニューヨーク・ケネディ空港に着陸しようとして滑走路の手前で墜落、乗っていた115人が死亡する大きな事故が起こった。
この事故について、米運輸安全委員会(NTSB)は、パイロットの操縦ミスが原因という事故調査の結果を発表した。しかしイースタン航空は納得できず、藤田に詳しい調査を依頼してきた。そして、ほぼ1年後、藤田は事故の原因は「ダウンバースト」と結論づけたのである。
では、ダウンバーストはどのようにして航空機を墜落させるのか。それは雷雲の中に発生した下降気流が地面に衝突し、爆風のように放射状に広がる。その爆風の中へ旅客機が入ってくると、まず向かい風を受け、機首が上がって速度が落ちる。そこでパイロットは操縦桿を押して機首を下げ、速度を上げようとする。
そのとき機体は下降気流の中心部に達し、大きく沈下する。パイロットは今度は操縦桿を引き、エンジン出力を上げようとするが、機体の反応が間に合わぬまま放射状に広がった爆風の向こう側に達する。すると激しい追い風を受ける恰好になり、当初の機首下げのまま地面に突っこむのである。
これが藤田の名づけた「ダウンバースト」による事故原因である。なお、この現象を「マイクロバースト」という人もあるが、これも藤田の命名で、彼はマイクロ(小さい)バーストとマクロ(大きい)バーストの二つに分けた。マクロバーストは直径数キロ以上の大きな吹き下ろしで、風速も毎秒40メートル程度だが、マイクロバーストはごくせまい範囲に発生し、風速は毎秒80メートルほど。この強風が航空事故をもたらすのである。
しかし、藤田の努力は事故原因の発見ばかりでなく、その事故を如何にして防ぐかに至る。そして当時開発されたばかりのドップラーレーダーによって風の状態を検知する方法を編み出し、今では世界中の空港がドップラーレーダーを備え、そこで離着陸する旅客機はダウンバーストを避けることが可能となった。
ここに至るまで10年以上。イースタン航空を含め、パンアメリカン航空(1982年、死者153人)、デルタ航空(1985年、死者137人)と3件の大きな事故が離着陸中に発生した。ほかにもダウンバーストが原因と思われる事故が頻発し、1983年にはレーガン大統領を乗せたエアフォースワンがアンドリュー空軍基地に着陸しようとして、危うくダウンバーストにぶつかりそうになったこともある。
そうした危険性を取り除いた藤田博士は、さまざまな反論を受けつつも「不世出の気象学者」として「先駆者であり、開拓者であり、革新者でもある」道を歩みつづけた。だからこそ世界の空を救うことができたのであろう。
多くの人に刺激を与える本である。
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【こんな日本人がいた!】天才科学者・藤田哲也の世界初の評伝。謎の気象現象ダウンバーストを解明し、飛行機事故を激減させた男の人生は小説より面白かった。
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Mr.トルネード藤田哲也。知らなかった。こういう人を科学者と言うのだろう。事象を観察し事実を積み上げデータを作り、想像力を駆使し理論を組み立て、そして証明してみせる。何より不幸な事故を失くしたいという思いが強かったのだろう。世界中から尊敬されているのに、なぜか日本では無名な存在。本書によって藤田哲也を知る事が出来て良かったと思う。
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旧制小倉中学から、明治専門学校(現九州工業大学)を経て、米国シカゴ大学の教授となられた、伝説のタイフーン藤田。様々な伝説に彩られた彼の人生を、垣間見ることができます。お墓は、北九州(苅田)にあるとのこと。
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なぜ日本ではイノベーションが起こらないのか、みんなで議論している昨今ですが、その答えが本書にあると思いました。「Mr.トルネード」藤田哲也は、やはり日本生まれたけどアメリカしか育てられなかった天才なのだと思いました。特異点を打ち消す同調圧力社会と特異点がさらに特異になっていくことを称賛する社会の違いを強く感じます。アメリカでも批判や無視もさらされる「変わった」学者であり、批判者が味方になっていくプロセスや、あるいは共同研究者へも訴訟を辞さないエキセントリックなエピソードは本書のハラハラドキドキを作り出しています。また著者がTVディレクター出身だけあって、証言者の顔が写真としてそれぞれに掲載されているので彼らの藤田に対する想いがビビッドに伝わります。死を恐れずダウンバーストの中を飛行したがる狂おしいまでの好奇心と計算尺まで手作りするような圧倒的なクラフト力と理論より先に現象をビジュアルで捉えることの出来る直観能力と、つまりクレイジーなまでの心と腕と目をもった観察少年、それが「Mr.トルネード」なのでありました。こんな特異点、教育でつくることできるのか?それでもいくつもの賞をとった彼がキャリアの中で大事にしていたのが「昭和十四年 小倉中学 理科賞」というところに希望を感じたりします。褒められることから生まれる自己肯定感、それがトルネードのようにどんどん渦を作っていくようなそんな体験を子どもたちに与えることが大切なのかもしれません。
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2017.08.10読了
大型旅客機が相次いで墜落した時代に、“ダウンバースト”という気象学的現象を発見した日本人がいた。藤田先生がいなければ、飛行機が謎の墜落を繰り返す時代はさらに10年間は続いただろうと言われている。
本書を読むと、ダウンバーストの発見には原爆投下直後の長崎に入り、被害を記録していった藤田先生の経験が大きく活かされていることが分かる。
8月9日に長崎の地でこの章を偶然読み、鳥肌が立った。原爆資料館には藤田先生の撮影した学校の写真が保管されている。
その写真は、薙ぎ倒された木と直立した木が一目で分かる構図になっている。説明されて初めて気付く爆風の特徴。ダウンバースト発見に繋がる研究者としての目線が、すでに示されていたのだと感動した。
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本当に研究観察一筋の人生だったのだと驚きました.私生活についてはほとんど触れられてなかったですが,それは少し淋しい感じで,でもそれがあってのダウンバーストだったのかもしれないとも感じました.日本でもっと知られてもいいと,この本で広まることを願っています.
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謎の飛行機事故の原因、ダウンバーストを発見した研究者。空の旅を安全なものにしたその偉業は日本ではほとんど知られていなかった。彼の幼少期からのエピソードを読むと、あまりの天才さに驚く。周りの誰もついて行けない思考と行動力。自分の説に自信があり、批判されることを好まず、査読審査のある雑誌などには論文を出さなかった。どんなときでも研究のことを考え、研究だけが人生だった。こんな人がいたんだなぁ。偉人の話は面白い。
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うーーーん… ほぼ在野で物理学から竜巻研究へ転じアメリカで成功、さらに航空事故を大きく減らす発見をしたという題材としては面白そうだったんだけど… 抽象的な説明に留まってて、もっと掘り下げて欲しかった。没後しばらく経っているからだろうか。
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著者はNHKのディレクター。NHKのテレビ番組『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~』の取材をもとに書かれた『辞書になった男』がたいへんおもしろかった。同様に本書も先にテレビ番組『Mr.トルネードから気象学で世界を救った男~』が先行していて、その取材をもとに書かれたものだ。
竜巻という自然現象の発生が北米に集中していることから日本では知名度がないが、藤田哲也博士はアメリカでは気象学の分野で非常に有名だということだ。著者はその姿を立体的に描くために、日米に散らばる関係者の多くにていねいに取材している。「理論家」というより「観察者」だったという藤田博士の姿勢につながるかのようだ。
幼少時のエピソードがおもしろい。中学三年のとき学校のイベントで、江戸時代に和尚がノミと槌だけで掘ったトンネルで有名な大分県の「青の洞門」を訪れた。感想文としてクラスメイトが「和尚はすごいことをしました。見習うべきです」とか書いているなかで、「自分なら道具を作ってから穴を掘る、そうすればトンネルと道具の両方を残すことができる」と書いたという。藤田は研究に使う道具を自分の手作りで作ることで有名だったそうである。
航空機が着陸時に急に制御を失い墜落してしまう現象。その原因は、藤田が発見し「ダウンバースト」と名付けた、地表近くに局所的に発生する強い下降気流だった。藤田がその存在を信じることができたのは、長崎に落とされた原子爆弾の調査にあったという挿話も興味深い。
藤田のおかげで、以前は「1年半に1回」起こっていたという墜落事故が、劇的に少なくなったという。そのことは今後飛行機にのるたびに、思い出すことだろう。
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竜巻研究で名を馳せ、ダウンバーストの発見で世界の空を安全にした藤田博士の足跡を追いかけた書。関係者へのインタビューを元に、博士の姿を浮かび上がらせる。
博士は物理学出身で地学の助手を経て気象学へ入った異色の研究者。学際的な才能の持ち主であり、そして『ファイター』である。査読や修正などで時間のかかるジャーナル論文は、ほとんど発表せず、世の中に役立てることを優先。学会の批判や反発を招くが、我が道を貫いた。
良書。
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気象学の面から無数の人達への、"意識されない大きな安全"を与えてくれた天才の話。
自伝的な記録からの引用もあるが、敢えて少ない。
実績を上げる為に必須だったと思われる、”アメリカ”という場所と文化。
憑かれたような研究欲、呼吸するがごとく研究に沈溺しながらも、謎の不調に激しく苦悩しながらの晩年。
日本人として、もっと日本で過ごしたかったと思う、自身の人間的な本能。
天才を理解し受け容れ、支えるアメリカ人達の深い思いやり。
書籍としても読み応えが有った。
同時に、自身の行動を一切伴わないで得ている恩恵というのは、認識する機会も無く、教科書にも載らない...、そんな切なさが痛く感じた。
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これもテレビをみて興味を持ったので読んでみた。昔は大抵の人が飛行機を怖がっていたように思う。私の記憶によればリトル巨人くんという漫画の中の中畑選手は飛行機に乗るとなればお経を唱え怖がるなんて描写があったくらいだ。つまり飛行機事故の報道も多く覚悟して乗るものでもあったよう。(もちろん今のように身近な交通手段としては高すぎて何回も乗れないものでもあった)その原因の1つであるダウンバーストというものを発見したのがこの藤田である。番組では短くまとめられた藤田哲也がたくさんの証言やら自身のインタビューやら事実から浮かび上がってくる。その業績から研究熱心さから天才的と言われた閃きから…もちろんそれだけの独自性や天才性がある分個性的でもあり彼なりの欠点が人間として科学者としての賛否両論を巻き起こしたという面もきちんと記載されていた。彼は正規の専門教育(大学過程の)を踏まなかった事もあるが日本人と西洋人の考え方というか文化的違いも大いにあったであろう。西洋(というかその時代の科学はじめ学問は西洋中心だったのもあるが)では理論がものをいうが、藤田は観察という経験からくる(その経験も膨大なものではあるが)直感、閃きでの発表であったから。このエピソードをみたときは故任天堂社長の岩田氏がコードを印刷してその並びから不具合を発見するのを思い出した。それは置いといて。あ、もう一つ、藤田は発見ではなく認識だと言っていた。つまりボロブドゥールを発見したのではなくボロブドゥールは常にそこにあったので認識したというのが事実みたいなことか。
それでも、彼の最も大きな業績の1つのダウンバーストを追うところは調査依頼から始まりその発見実証までとてもスリリングだった。息つく間もないくらいと言えるほど。
ドキュメンタリーの方も短くまとめてあるけれどとてもいい。藤田を実際に知っていて付き合っていた人が彼を思い出す表情に涙が出る。ある者は確かに感情を損ねていたがある者は彼の欠点をも含めて懐かしみ愛(といっても友情)していたことがわかる。
類稀な人生を送り類稀な才能を発揮した彼の言葉はそれでも誰の人生にも勇気を与える言葉だと思う。「『恥ずかしがらずに言いたいことを言いなさい』そのうちの半分は間違っているかもしれない。しかし、残りの半分は正しいかもしれない。もし、あなたの主張の50%が正しければ、価値のある人生を送ったということです。幸運を祈ります。」
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「ショックです。日本で彼の存在があまり知られていないなんて。・・・(略)」
この本の冒頭は、このように始まっています。日本で知られていない氏の名前は藤田哲也。竜巻を観測しつづけ、竜巻とは違う何かであったであろうダウンバーストを最初に確認した人です。
アメリカでは竜巻が多発します。そして数年に一度大きな飛行機事故が起きていました。その原因を突き止めたのが藤田。藤田はダウンバーストを観測し飛行機事故の原因を突き止め、飛行機事故を激減させた功績でアメリカで有名です。
藤田は、企救郡中曽根で生まれ、苦学して小倉中学(現小倉高校)を卒業しました。その後、現九州工業大学で教職につき過ごしました。この時点では物理の先生でした。苦学の影に周りの人たちの助けがあったことが書き出されています。
戦後、広島長崎の原爆調査に参加。調査の写真には、悲惨な情景は写し出されていませんでした。学術的に意味のある写真しか撮っていなかった。情緒に訴えること無く、学術的に資料効果の高いものを求めた結果なのでしょう。
その後、背振山での観測が認められ、かのシカゴ大学に招請されました。私の知るシカゴ大学は、ノーベル賞学者を多く排出し、グローバル経済を推し進めるシカゴ学派と呼ばれる経済学者ばかりだと思っていましたが、様々な研究者を擁し、認められれば待遇は凄いそうです。藤田はビルの一フロアを与えられていました。
藤田は日本語訛りの英語だったといいます。どういうものが想像できませんが、それは当然北九州よりの日本語訛りでしょう。
自分で計算尺を作り、気象観測をする学者として当時(今も?)珍しい存在でした。手が器用で必要なものは、なんでも自分で作ったそうです。物づくりの地元に強く繋がる印象を持ちます。
本当は、日本に帰りたかったらしいのですが、日本では研究がままならないので、国籍を変えてでも研究を続けようとした様が読み取れます。気象情報は国家機密。国籍を変えないと研究に支障をきたしたのでしょう。日本は研究に適してないのかと思うととても残念です。
幼少の頃、曽根干潟で潮の満ち引きを体験して引力の凄さを実感し、アメリカに発つ前、現在は都会になり見ることの出来ない故郷の自然豊かな中曽根の風景を写真に収め、それ励みにしました。
弟が亡くなった時、こう弔事を送りました。「哲也はアメリカに骨を埋めることはありません。両親、碩也(弟)、妹が無言で待っている中曽根に必ず帰りますので、再会の日を静かにお待ち下さい。」地元を強く愛していたことが伺えます。企救郡中曽根の豊かな自然のなかで生活し、自然の営みの凄さを感じ、科学者をこころざし、父親を亡くし進学を諦めかけた藤田に多くの人が救いの手を伸ばし、藤田は学術に邁進した。これほどの地元の誇りはなかろう。
藤田は1942年から現在の九州工業大学で教鞭をとっています。本には書かれていませんが、日本に初めてアメリカのB29が空襲した1944年から1945年には北九州にいました。地元での空襲を実体験として持っていたのかもしれません。���後、広島長崎の調査。原爆は上空530mで爆発するように設計されていました。それが一番被害を与えることが出来るからです。藤田は放射線状に倒れた樹木から正確に原爆が爆発した高さを割り出しました。樹木は上から押し付けられるように倒れていたのです。そしてそれがダウンバーストの観測に役立ったのかもしれません。
藤田はアメリカでダウンバーストを発表した時、学会は半信半疑でした。学会で認められるにはそれなりの過程を辿らないといけません。藤田は事故を無くしたいという一心で学会に立ち向かいました。それは地元であった空襲、広島長崎を調査し、本や論文には出てこない多くの不幸を背負っているのではないか、そしてそれは藤田にしか解決することできなかった。戦争で被災にあった国の学者が、原爆を落とした国の飛行機事故を必死に防ごうとした。とてつもなく大きな運命、因果を感じます。本を読んで、北九州の人なら、これに気が付かないといけないとすら思います。
藤田はいま、地元で家族と静かに眠っています。
藤田の足跡はちゃんと北九州にも残っています。平尾台の藤戸洞という鍾乳洞。これは中学の時、藤田が発見した鍾乳洞です。どこまでも地元に立脚している世界の藤田だと思います。
冒頭の「ショックです。日本で彼の存在があまり知られていないなんて。・・・(略)」それは地元北九州に対して言われているようです。