歴史を後世に伝え行くために
2009/08/03 05:22
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投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
8月1日付けの朝日新聞によると、広島・長崎の平和式典に出席する国連総会議長が訪日前に会見し、次のように語った。
「(原爆投下は)人類の歴史における大変な悲劇だ」「二度と繰り返さないためにも忘れてはならない」
自身がカトリックの神父でもある議長は、「キリスト教社会を代表して許しを請いたい」とも語ったとある。
また、同じ新聞の別の面には、その長崎での記念式典において長崎市長が読み上げる平和宣言の骨子が発表されている。
市長は、その冒頭で、「核兵器のない世界をめざす」と表明したオバマ米大統領のプラハ演説への評価を掲げ、世界の人々へプラハ演説への支持表明を訴えるそうである。
毎年この時期になると、広島の原爆が怒りとともに伝えられる。その訴えの中には、なんら一切の迷いも含まれることなくはない。純粋に原爆被害者であるヒロシマの怒りが核廃絶の願いとともに伝えられる。
しかし、一方の長崎の訴えは、広島のそれとは大きく対照的である。どちらかというと、どこか祈りとも感じられる静かな響きがある。
冒頭で紹介した国連議長の発言、にどこまでその意識が込められているのか、定かではないが、長崎の原爆には、通常の戦争における敵味方の闘いとはどこか少し異質の感がどうしても残る。
長崎原爆は、キリスト教社会の代表国の一つアメリカが、日本の中でも特にキリスト教信者が多い長崎において、しかも信者の街浦上の天主堂直上で炸裂させたものであったことが、その異質感の正体である。
核廃絶を願い訴える気持ちは、広島も長崎も同様である。しかしながら、その戦後の歩みは、先の異質感そのまま、大きく異なっていくこととなった。
長崎に戦後10年ちょっとの間、もう一つの原爆ドームが存在した。
爆心地近い浦上天主堂の崩れかけた壁を中心とする崩落した建築物や像の「ガレキ」である。
そのありし日の写真を見る限り、もしそれが現代に残されていたなら、まちがいなく、広島の原爆ドームに匹敵する反原爆の象徴的遺物となったであろうことはまちがいない。
レンガを積み上げた壁、壁に残される丸窓とアーチ型の入り口。そして一帯には、黒く焼け焦げたマリア像や顔が半分えぐりとられた天使像、立ったまま首の無い聖マルコ像が散乱する。
ある意味、原爆ドームより、はるかに見る者に原爆の威力と悲惨さを訴える力が大きかったのではないか。
しかし、それも、ほんの一部が移築され保存されただけで、1958年3月14日に取り壊されてしまう。
広島と長崎の戦後の歩みは、その時点から大きく異なる別な道を進んだと言える。
なぜ、浦上天主堂は原爆ドームのように保存されることがなかったのか。なにがその撤去を決断をさせたのか。
市の中心部と爆心地浦上の宗教的、文化的亀裂の長い歴史、戦後急に沸き上がったセントポール市と長崎市の姉妹都市提携の謎。
政治と、イデオロギーに翻弄される人々の姿が描き出される。そして、黒こげのマリア様は、その翻弄の波に結局飲み込まれてしまうことになる。
日本軍が中国や朝鮮の地で行った数々の蛮行の記録を残そうとする人たちがいる。そのことが二度と同じ過ちを繰り返さないための使命だと感じる人がいる。一方、過去の日本が行った行動を美化したい人たちがいる。日本軍の過ちの記録を消し去ろうと躍起になっている人たちがいる。また、別な意味で、日本軍の蛮行を強調する一群もある。日本軍の蛮行を強調し、日本への原爆の投下を正当化しようとするアメリカの言論もある。
数々の思惑とたくらみの中で、歴史の事実が隠されたりゆがめられたりしていく。
われわれは後世に、どのようの歴史を伝えていけばよいというのか。
本書より、1962年5月の雑誌TIME記事。
「広島は今でも過去の「キノコ雲の残影」に捉われているが、長崎は今を生きる強い決心がある。米国の原爆に関する調査委員会は、「この都市(広島)は世界で唯一、過去の不幸を宣伝している」とコメントしている。」
冗談ではない。原爆ドームは決してヒロシマの“誇る”観光施設なんかでは決してない。
われわれが後世に、公平な判断基準をゆだねるために歴史に残すことができるのは、歴史が生み出したそのままの遺物だけなのではなかろうか。
正の遺産も負の遺産もすべて含め。
米国の政策を妨害する敵対的な動きを暴露し 米国政策に対する理解を促進するようなアメリカの生活や文化的側面を説明すること
2010/08/08 10:49
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:sheep - この投稿者のレビュー一覧を見る
夏の平和記念式典というと、広島が連想される。決して長崎ではない。しかし、それがなぜなのかという理由、これまで全く考えたことはなかった。今年は、原爆を投下した国の代表も参列することになり、アメリカ国内では反対論もあるという。
最近博多にでかけ、帰路長崎に寄った。以前広島を訪問し原爆ドーム等を見学したことがあるので、同じようなものがあるのだろうと勝手に想像して町を歩いて驚いた。広島に比べ、原爆遺構の影は驚くほど薄い。行き交う観光客、坂本龍馬参りの方ばかり。龍馬通りや中華街、大変に明るい。それが悪いとは言わないけれど、きつねにつままれたよう。素晴らしい観光地なのだが、原爆の遺構はほとんどない。爆心地に行ってみると、広場の隅に慰霊碑と教会の壁の一部が建っている。平和公園では巨大な像が天をさしている。公園には今はなきソ連・東欧から寄贈された彫刻がおかれている。アメリカが原爆投下の地に慰霊碑を贈るはずもあるまいが、念のため探した所、セントポール市のものがあった。他は全て国からなのに、アメリカは都市からの品というのが不思議に思えた。
そこから程遠くない場所で、ひどく破壊されていた浦上天主堂、残骸を撤去してから、元の場所に再建されている。新天主堂には残骸のごく一部、マリア像の頭が置かれているらしい。
長崎原爆資料館、浦上天主堂の一部が巨大なレプリカになっているが、暗くて良く見えない。売店に『長崎旧浦上天主堂1945-58―失われた被爆遺産』が置いてあった気がする。ぼんやり記憶にあった本書も探してみたが、見あたらなかった。結局、旅の後、本書を探して読んだ。内容からして本来売店に並んでいて当然だが、これも不思議。
本書の内容、驚かされることだらけ。今の不思議な現状となった理由が理解できた。
著者の母親は被爆者。著者は1955年長崎に生まれ。著者自身、原爆被害の遺構、つまり大浦天主堂の瓦礫が残されていないことを、さほど不思議には思っていなかったという。偶然、長崎放送が制作した『神と原爆』という2000年に放送されたドキュメンタリーをみたのがきっかけで、浦上天主堂の遺構が消えた理由を調べ始めたのだ。著者、アメリカの国立公文書館まで資料調査にでかけている。
先に結論を言ってしまえば、100%の証拠はないが、アメリカがしかけた日本世論工作によって、邪魔な証拠隠滅として、天主堂は、戦後13年目に撤去されたらしい。
セントポール、戦後始めて長崎と姉妹都市になったアメリカの都市。長崎は日本初の姉妹都市。姉妹都市といえば、名前、気候、産品、歴史など、どこか共通点があるだろうと普通は考える。ところが、長崎とセントポール、カトリックの大きな教会がある以外、ほとんど共通点皆無。セントポール、文化交流の窓口でも港でもなく、気候は寒い。姉妹都市の話が突然降って湧いたのもおかしな話。窓口役をつとめたアメリカ人の素性もよくわからない。
ともあれ、姉妹都市条約締結のため、ドル持ち出しも不自由な時代に、はるばる市長がでかけ、一ヶ月も歓待されている。当然費用はアメリカ持ち。山口大司教もほぼ同時期に、アメリカに天主堂再建の募金行脚に出かけていた。長崎のカトリック教徒、再三、迫害を受けた。苦労して長年かけて建立した大浦天主堂が、何とキリスト教を国教とする国によって、あっけなく破壊されてしまったのだが、その再建費用の一部を、残虐に破壊した国に求めるという論理、無宗教な読者としては、釈然としない。
ことの真偽は分からないが、訪問中、市長が「長崎は広島と違って、原爆投下を宣伝には利用しない」と語ったという驚くべき英語記事が残っている。
岩口議員(調査当時ご存命)が市議会で切々と遺構保存の大切さを訴えても、市長は全く態度を変えなかった。最終的な保存・破壊の決断は、施設の性格上、市長ではなく、大司教に権限があったようだ。その大司教が、遺構の完全撤去を強く主張したのだ。
長崎への原爆投下は当然だったという被爆者がいた。永井隆博士だ。彼もカトリックだ。代表的な著書に『長崎の鐘』がある。この本の出版にはGHQが関与していた。原爆を「神の摂理」と書いてあることで刊行の許可がおりたのだが、GHQ諜報課が作成した『マニラの悲劇』を付録として刊行するのが条件だった。フィリピンのマニラで、日本軍が住民やカトリック教徒を大量虐殺した記録だ。付録といっても分量はほぼ同じ。
本の付録で日本の悪を宣伝し、本文でアメリカの原爆投下を「神の摂理」として合理化する巧妙さ。
合同慰霊祭で、永井が述べた弔辞の一部にはこうある。
しかし原爆は決して天罰ではありません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたものです。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありましたが、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさわしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたのです。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。
永井隆をローマ教皇ピオ十二世の使者が訪問している。ピオ十二世、ナチスのユダヤ人虐殺を知りながら、抗議をしなかった人物だ。徹底した反共主義者の彼、ナチスを共産主義に対する防壁として期待していたのだ。
ちなみに永井の『長崎の鐘』と同時期に、GHQの第一回翻訳許可を得て、戦後初めて刊行された翻訳書が、オーウェルの『動物農場』スターリンの過酷さを描いた寓話だ。
田川市長の訪米は、単なる都市間の出来事ではない。国務省も承知していた。そして、アイゼンハワーが創設したUSIA、米国広報・文化交流庁も。この組織の活動目的についてアイゼンハワーはこう書いている。「米国の政策を妨害する敵対的な動きを暴露し 米国政府の政策に対する理解を促進するようなアメリカ人の生活や文化的側面を説明すること」この組織は、労働組合も対象としており、「左翼主導の組合を大きく展開させる結果となりました。」のだ。こうした政策の対象者として、田川市長は招かれたのではないか。まさに、彼の出発の日、長崎駅に見送りにきたメンバーの中に、アメリカ文化センター館長夫妻もいたのだ。
かくして広島のドーム以上に衝撃的な反原爆の象徴となりえた遺構は完全に撤去された。
こうした歴史の改変操作、長崎だけではおわらないだろう。大規模な計画的洗脳工作が65年間、全国民に対し徹底して実行された結果の作品として、現代日本がある。
藤永茂氏の 『アメリカ・インディアン悲史』
にあるチェロキー・ネーションを思い出さずにいられない。英語を学び、法律を遵守し、必死に白人に同化の努力したが、居住地に金が出ることがわかり、強制移住させられた部族だ。洗脳されて、喜んで同化したあげくの運命、基地・同盟の重圧に苦しむ現代日本の先例と思えてならない。
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(2009.09.05読了)
広島には、原爆投下を一目で示すことのできる「原爆ドーム」というモニュメントが残されています。ところが、長崎にはそのようなモニュメントがありません。
長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂を破壊された状態のまま残すという動きがあったにもかかわらず、破壊された天主堂が完全に撤去され、同じ場所に再建されています。
(破壊された残った天主堂の壁の一部は、原爆落下中心地公園に移築され残されています。)
破壊された浦上天主堂の写真を見て、衝撃を受けた著者は、見る者にこれほどのインパクトを与えることのできる天主堂がなぜ残されなかったのかという疑問を持ち取材を始めたのだそうです。
著者の努力により、幾つかの事実が明らかになりましたが、最も知りたいところがいまだ明らかになっていません。今後とも、残されたなぞを明らかにするまで、取材活動を粘り強く続け、増補改訂版、または、続編を出してほしいものと思います。
浦上天主堂のある地域は、キリスト教徒の多い地区で、江戸時代から明治の初めまで、何度も弾圧にあっています。浦上天主堂は、1895年に着工され、1925年に完成しています。浦上天主堂が建てられたところは、踏み絵が行われた庄屋の跡地で、庄屋が破産したので信者たちが買い取ったのだそうです。
信者たちにとっての歴史的意味合いの深い土地ということになります。
したがって、代替地での天主堂の再建ということには抵抗があったのではないでしょうか。
(これが一つの考え方です。)
また、「長崎の鐘」の著者永井隆の考えの中に高瀬毅さんの言い換えを引用すると、
「膨大な犠牲者を生んだ原爆投下は、罪多き人類にとってはいたしかたなく、生贄として浦上が選ばれた。そしてそこで亡くなった信者は神に対して捧げものである」
というようなところがあるということです。
(このような考えも、破壊された天主堂を残す必要はないということにつながるのかもしれません。残しておけば、破壊した者への恨みにつながる。)
1955年、長崎市に対し、アメリカのセントポール市から姉妹都市提携の申し入れがありました。セントポール市は10月24日の国連デーに長崎市との姉妹都市提携を諸外国に向けて宣言し、田川市長の歓迎会を計画しているので、出席してほしいということでした。
外貨持ち出し制限のため、田川市長は、渡米できませんでした。
1956年8月18日、田川市長は、アメリカへ向かうために長崎を出発しました。22日に羽田空港からアメリカへとび立ち、9月下旬に長崎に戻ってきました。
このときの費用がどこから出たのかがまだ分かっていません。(少なくともアメリカ滞在費用は、アメリカ側から提供されたであろうことは、他の事例からの推測で、わかるようです。)
渡米前は、市の方針は、天主堂廃墟を保存する方向でしたが、帰国後の田川市長は、遺跡を撤去するという方向に変わっています。(アメリカで何があったのか分かっていません。)
市議会での質問に対し、田川市長は以下のように述べています。
「浦上天主堂の残骸が、原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと��率直に申し上げます。平和を守るために存置する必要はないと、これが私の考えでございます。」
一方、教会側の責任者山口司教は、再建資金を集めるために1955年5月から1956年2月まで約10ヵ月間、全米とカナダを回っています。再建の総工費は、6千万円と見積もられ、信徒から集められるのは3千万円、残りをアメリカ・カナダで集めるためでした。
長崎市と姉妹都市提携を結ぶ予定のセントポール市も訪問しています。
その時の新聞記事によると、山口司教は、天主堂の爆破の傷跡を消し去ることを望んでいると述べています。
著者 高瀬 毅
1955年、長崎市生まれ
明治大学政治経済学部卒業
ニッポン放送入社
1982年、ラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞奨励賞
1989年よりフリー
(2009年9月6日・記)
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図書館の新着棚で気になっていた本『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』。昨夏の原爆忌を前に出された本である。
暗くてわかりにくいが、カバー写真に使われているのは、「原爆で破壊された浦上天主堂廃墟」(撮影=石田寿)。被爆から13年、浦上の丘にあったこの廃墟は、そのごく一部を原爆落下中心地公園(平和公園)に移築したほかは、取り壊され、撤去された。
消えたもう一つの「原爆ドーム」とは、この浦上天主堂の廃墟を指している。
著者は、1955年、被爆から10年たった長崎市に生まれた。長崎の原爆は、当初の目標投下地点ではなく、雲の切れ間のあった浦上の上空で投下された。もしも、当初の目標どおり、原爆が長崎市の繁華街に落とされていたら、著者の母はこの地上から跡形もなく消えただろうという。
浦上天主堂の廃墟が撤去されたことを著者が初めて聞いたのは、30年ほど前、社会人となってからだという。ずいぶんと昔の話だという気持ちが先に立ち、深く考えることもなかった浦上天主堂について、著者が取材を重ねてこの本をまとめるきっかけになったのは、天主堂の廃墟の写真を見たことだ。
表紙カバーのほかに、この本には数枚の廃墟写真が収録されている。
広島には原爆ドームがあるのに、なぜ長崎には浦上天主堂の廃墟が残っていないのか。しかも、市議会でも議論があり、市長の諮問機関であった原爆資料保存院会も「保存」という結論を出していた。市長も同意していたという。それが、あるときを境に、市長の「保存」の考えが「撤去」へと180度転換する。なぜだったのか。
市長が「撤去」の姿勢を鮮明にしたあと、市議会で、廃墟の保存を強く訴えた岩口議員の言葉が引かれている。
▼「…これを単に長崎の観光地というけちな考えで残そうとするのではなく、全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルであるならば、私はこの廃墟の瓦壁は二十世紀の戦争の愚かさを表彰する犠牲の瓦壁である、十字架であるとそういう意味において、唯物的な考えから申せば、市長がさきほども申されましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料だと信じております」(144ページ)
この本は、大切なものを失ってしまったのではないかという著者の衝撃と、「保存」方針が「撤去」へと転換した経緯への疑問を原動力に、長崎の浦上という地のこと、そして長崎に投下されることになった原爆のことを書いている。
12月に読んだ『ヒロシマの歩んだ道』に似て、この本は、私が知らなかった「ナガサキの歩んだ道」を教えてくれるものだった。
長崎は、中学校のときの修学旅行先だった。あの筋骨隆々とした像のことも、原爆資料館を見学したことも、ぼんやりとおぼえてはいるが、中学の修学旅行、長崎、といって私が一番おぼえているのは皿うどんである。修学旅行前のベンキョウの一環として、たぶん歴史調べのようなこともやったはずだが、私がおぼえているのは、長崎の味として皿うどんの調理実習をしたことと、帰ってからも、何度も晩ご飯にこしらえたことである。修学旅行で浦上天主堂へ行ったかどうかは記憶が定かではない。
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私のルーツに関る本。
ただ、ルポルタージュとしてはエッジが甘い気がする。
不足しているのが文筆力なのか情報なのかは分からないけど。
浦上天主堂の遺構は、私も長崎に行く度に爆心地に移設されたものを見ていた。
でも、その場所にそのままあることの意味こそ大切だと、今更ながら知った。
市の中心部と浦上は別物、と言う事は前から知っていたけど
それがその、被害を受けた建物の保存に微妙に影響していたと言う一節に納得した。
私が子どもの頃は、帰省の度に母に原爆資料館に連れて行かれた。子供心に痛かった。辛くて悲しかった。私自身子どもを持ってから三度ほど訪れたけど、資料館には行っていない。
どうやって伝えればいいのだろう。
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広島には三度行ったが、長崎には行ったことがない。そしてヒロシマの本は何冊か読んでいるのに、ナガサキの本をそう言えばきちんとは読んだことがないことにあらためて思い至った。
"No more Hiroshima, no more Nagasaki"とは言われても、ナガサキだけが独立して語られることの少なさ。それは第二の被爆地であるからだけではないのではないか、というのが、この本の着眼点である。
ヒロシマにあるシンボリックな「原爆ドーム」。原爆への思いを結集させる象徴が、一方のナガサキにはない。それはアメリカ側の圧力によって消されたのではないかという主張だ。
前半、ぐいぐいと引き込まれた。著者自身の母が被爆者であること、その母と浦上を訪れた思い出から、浦上の歴史、米軍の記録からたどる原爆投下位置が長崎市街地でなく浦上となった理由まで、視点が変わるたびに新たな発見があり、「そうか、そういう見方があるのか」とめまいに近い感覚を味わった。しかし、後半、おそらく著者がもっとも述べたかったのであろう、「なぜ浦上天主堂の廃墟(=ナガサキにとっての原爆ドーム)が残されなかったのか」をさぐる部分は、個人的には、「始めに結論ありき」の印象を受けた。
長崎市とアメリカの一都市が姉妹都市となることが決定し、市長がアメリカを訪れる。帰国した市長は、それまでの「天主堂を残すべき」という立場から一転、「廃墟を取り壊す」派に豹変していた。そこにアメリカの懐柔があったのではないかというものである。
著者は丹念に資料にあたっている。しかし、出てくるのは状況証拠と行っていい類のものに私には感じられた。まるで白紙の状態で資料にあたって、この結論は導き出せまい。
いや、懐柔があったのだとしても。
このとき、豹変した市長の言を跳ね返すほどの世論の高まりはなかった。
保存しようと努力する人々はいても、取り壊し決定から保存へと方針を覆させるほどの「空気」はなかった。そういうことだったのではないのだろうか?
この本に限らず、謀略説を目にするたび、謀略を企てるサイドは、世論を含めた先まで読み通せるものなのか、いつも疑問に思う。変数が多くなればなるほど、予測は困難だ。
そして世論とは、とてつもなく大きな変数が動く、得体の知れない怪物だ。1つの力がおそらく働き、たまたまその力に有利なようにことが動いた。
起きてしまったことをふまえて、この先どうするかが重要なのだろう。
天主堂の廃墟が消えても、原爆が落ちた事実は変わらない。
著者あとがきの最後に掲げられた詩が胸を打つ。
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麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟
(浦上を詠む) 水原秋桜子
そういえば、高校の修学旅行で行った広島の原爆ドームは、自らの痛々しい姿を生涯目に焼き付けさせようとするように激しく迫って私たちを迎えてくれましたけれど、長崎では、再建された浦上天主堂がまるで何もなかったかのように美しい佇まいを見せていました。
確かに中で出会った、目のないポッカリ眼窩の空いた被曝したマリア像は、その時はゾクッとするほど衝撃的でしたが、時間とともに記憶の彼方へ消し飛んでしまっているかのようでした。
でも、10年ぶりかで浦上天主堂のフィルムを目にしたとき、実像が出てくる前に、あっ、という感じで思い出しはしましたが。
残骸になった浦上天主堂が保存されていたら、何の問題もなく、原爆ドームとまったく同じ歴史の証人となって、今も私たちに多くのことを語りかけてくれたことでしょう。
そうです、長崎が、どうしても原爆ドームのある広島に比べて印象が薄いのには理由があったことを、あなたはご存知でしたか?
すべては、教会への誤爆、という真実を歴史から葬り去る目的で、アメリカ政府が動いて浦上天主堂を取り壊させたのです。
最初の計画の北九州・小倉上空が悪天候のために視界が効かず、第2目標の長崎へ向かい三菱兵器製作所めがけて原爆投下。それが誤ってキリスト教の教会である浦上天主堂を破壊し、信者8,500人をも虐殺したという事実を、キリスト教の国であるアメリカにとっては歴史に残る負のイメージを何としても拭い去らなければならないということで、強力な政治的圧力もしくはお金で頬を叩くみたいな懐柔策が働いたのだと思います。
田川務という当時の長崎市長が、保存をすすめていたにもかかわらず、アメリカから呼ばれて帰国後は一変して方向転換し取り壊すことに強力に動いたといいます。
この時、田川務長崎市長がアメリカで会った日本国連協会のウイリアム・ヒューズなる人物も、昨年の調査によると実在しないことが判明したり、1960年代初めのタイム誌に載った文面を見てみても、アメリカがいかに原爆の被害の小ささや投下の正当性を声高に叫んでいたか、盗人猛々しいとはこのことかと思うほどです。
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トランクの中の日本http://www.amazon.co.jp/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%BE%93%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E8%A8%98%E9%8C%B2-Joe-O%E2%80%99Donnell/dp/4095630132本は見ていませんがNHKの番組で写真を拝見してしびれるなぁ と思いました同じような写真が 日本にもあったそして 不審な理由で焼かれたのにかかわらずいくつか残っているということに 何かを感じました私は当事者ではないので あやまってほしいというのではないのですがひどいことをした と思っていないらしい 現状になにか 機会があったらまた 使うのでは? と思ってしまうのです不安です
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長崎には、広島の原爆ドームと同じく、原子爆弾の被害を浴びて、廃墟となった建物があった。それは、「浦上天主堂」という教会である。この廃墟は、保存する、という案があったにもかかわらず、アメリカとの関係を優先したために、取り壊されてしまったという。しかし、浦上天主堂は本当に取り壊されるべきものだったのだろうか。もしも今、存在していたら、原子爆弾の凄まじい破壊力を伝える建築物となっていただろう。また、非戦争体験者たちの心に平和を訴え、考えさせることに貢献していただろう。保存について、一時的ではなく長期的な視野をもって、話し合われる必要があった。アメリカとの関係を重視した結果、浦上天主堂という遺産が犠牲になってしまったことが、惜しいなと思う。
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原爆と聞いてすぐに思い浮かぶ映像は、広島ならば原爆ドーム、長崎ならば筋骨隆々とした平和祈念像でしょう。でも、原爆ドームが被爆した建物そのものであるのに対し、平和祈念像が作られたのは1955年、原爆が落とされて10年後のことです。
実は長崎にも、浦上天主堂という、原爆ドームに匹敵する、実際に被爆した遺構が存在しました。無残に破壊された浦上天主堂は、広島の原爆ドーム同様、保存されて、原爆の悲惨さを後世に伝えるはずであり、長崎市もその方向で動いていたのですが、一転、取り壊されることになってしまいました。この本はそのような決定がなされた背景、事情を、当時の文書、議事録、長崎の歴史等から明らかにしていきます。
一見、平和の象徴であるような「永井隆」「姉妹都市」「フルブライト」などについてあらためて考察しながら、事実を拾い上げていく描写は、ミステリーを読んでいるようでした。自分の仮説の決定的証拠が発見できなかったことは著者自身が認めていて、その仮説を単なる憶測ととるか、貴重な調査ととるかは、読者次第でしょうが、戦争、平和、世界を多少なりとも考えるうえで、大変有益な本であることは間違いありません。
本書を読んだあと、英語の異常な隆盛やディズニーランドの異様な人気、こうした現象の背後に何があるのか、あらためて考えてみることをおすすめします。
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広島と長崎。世界広しといえども、原子爆弾という人間が作り出した
悪魔の兵器の犠牲になった稀有な都市。
同じ被爆地だけれど、広島と長崎では何かが違うと感じていた。
それが本書のタイトルで腑に落ちた。
そう、広島には原爆の悲惨さを今に伝える原爆ドームがあるが、
長崎には平和祈念像はあるものの当時の姿のまま保存されて
いる建物がない。
否、長崎にもあったのだ。爆心地にほど近い場所にあった浦上
天主堂の廃墟だ。原爆の記憶を留める天主堂の廃墟は、当初は
保存の方向で検討され、長崎市長自らが保存方法について
研究するよう指示を出している。
だが、ある時から市長は廃墟解体へ舵を切る。アメリカから唐突
に持ち込まれた長崎市とアメリカ・セントポールとの姉妹都市提携
の話。そして、それに基づく市長の渡米。
一体、何が市長の心を変えたのか。原爆投下を正当化して来た
アメリカの圧力があったのではないか。著者はアメリカに渡り、
公文書館で資料を掘り起こし、天主堂廃墟解体の謎を追う。
廃墟保存から一転、解体派となった長崎市長の発言の変遷や、
姉妹都市提携と市長の訪米の経緯を追った部分はまるで
ミステリーを読んでいるようである。
原爆の記憶を消したいアメリカの大きな力が働いたのではないか
と、陰謀論紙一重に考えに取りつかれそうだが著者が断定して
いないところがいい。
衝撃的な話もいくつかあった。アメリカの聖職者が来日の折り、
原爆投下について謝罪したところ、アメリカへ帰国後に司祭の
地位を剥奪されたそうだ。そこまでするか、アメリカ。
そして、アメリカでの長崎市長のインタビュー記事には目を疑った。
何度も読み返した。「広島は原爆を政治的に利用している」との
批判だ。同じ被爆地の市長が何故?一体、彼に何があったと
いうのか。
浦上の聖者と言われた永井隆の主張への疑問、キリシタンの
村としての浦上の歴史、天主堂建立までの苦難等も盛り込まれ、
日本の都市のなかでも特殊な歴史を歩んで来た長崎が背負って
来たものが分かりやすく書かれている。
「もう教会が結論を下したからしょうがない、むこうが建てるという
のだからしょうがない、そういう消極的な態度ではなくしてこれを
単に長崎の観光地というけちな考えで残そうというのではなく、
全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲
性のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルで
あるならば、私はこの廃墟の瓦礫は二十世紀の戦争の愚かさ
を表象sる犠牲の瓦礫である、十字架であるとそういう意味に
おいて、唯物的な考えから申せば、市長がさきほどももうされ
ましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。
しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を
正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料
だと信じております」
廃墟解体を主張する市長に対し、保存を強硬に主張する市会
議員の訴えだ。
二十世紀の十字架。原爆で破壊された廃墟は解体され、
浦上天主堂は再建された。広島の原爆ドームのように
天主堂の廃墟が残されていたら、長崎の取り上げられ方は
少々違っていたのかもしれない。
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広島には、原爆遺構としての“原爆ドーム”がある。しかし、長崎には、原爆遺構がない。あるのは平和祈念像である。
原爆の傷を語る貴重な遺産となるはずだった長崎の浦上天主堂。なぜ浦上天主堂は取り壊されたのかに迫るノンフィクション。
消えたもう一つの「原爆ドーム」、それは、浦上天主堂の廃墟を指している。
無残に破壊された浦上天主堂は、当初は、原爆の悲惨さを後世に伝えるはずの遺構として存続の方向で動いていた。しかし、一転、取り壊されることになる。
日本(あるいは長崎市)の思惑、アメリカ政府の思惑。
複雑に絡み合った事情と、“浦上”という“場所”が撤去につながった。
当初の目的地でなかった「浦上」。いろいろな偶然が重なり、原爆は「浦上」上空に落とされた。日本のカトリックの聖地的な場所「浦上」である。
原爆遺構として残されなかった「浦上天主堂」。
原爆が落とされたのも、廃墟となり取り壊されることになったのも、数奇な運命としか言いようがない。
出撃する前にアメリカ空軍内でミサが行われ、その後…、というのを考えても、人間の罪は深く、愚かであると痛感。