紙の本
文学の豊かさ
2021/01/14 20:17
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本のとても気に入っているくだりを以下に引用する。
「(前略)・・・もし、(文学作品を)楽しめないのなら、読むのをやめなさい。義務としての読書などという考えは、馬鹿げた考えなのだから。義務としての幸福について話をする方がずっと増しだ。詩とは感じ取るものだと私は思う。だからもし君たちが詩を感じ取れないのなら、美しいと感じられないのなら、もし小説が、それからどうなったのかを知りたいという気持ちにさせてくれないのなら、作者は君たちのために書いたのではない。それを脇に置きなさい。文学というのはとても豊かなもので、君たちの興味を引くのにふさわしい作者もいれば、今はふさわしくなく、君たちが将来読むであろう作者もいるのだから。」
文学の持つ、人を感動させる力に深い信頼を寄せていたことがわかる。それを文学の豊かさと言っている。つまらない作品に出会っても、それは作品や作者が悪いわけではない。今が”そのとき”でなかっただけといことだ。美や感動を求めてうろつく狩場はとても豊かなので、獲物が絶えることはない。
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7つの夜。神曲、悪夢、千一夜物語、仏教、詩について、カバラ、盲目について。この並びを見ただけでヨダレが出そうだと、思わず買ってしまった。
中でも、「神曲」の夜は群を抜いていると思った。必ずいつか読もうと決意させるほどの、もうなんというか魔術的な魅力があって、それは例えば「仏教」の夜にはないものだ。ボルヘスという人の住処を感じる本だった。
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以下の引用だけでこの本の魅力は伝わると思います。
(ホメーロスは)『オデュッセイア』の中でこう言っています。「神々は、来るべき世代が何か歌うことを持てるように、人間たちに不幸を用意する。」もうひとつは、ずっと後になりますが、マラルメの句で、ホメーロスが言ったことを、ホメーロスほど美しくはありませんが、繰り返しています。tout aboutit en un livre.(すべては一冊の本となる)。両者の相違は次のとおりです。ギリシア人のほうは歌う世代のことを語っているのに対し、マラルメはある物、いくつもある中のひとつの物、すなわち一冊の書物について語っている。だが、考えは同じです。その考えとは、私たちは芸術のために作られている、私たちは記憶のために作られている、私たちは詩のために作られている、あるいはおそらく私たちは忘却のために作られているというものです。しかし何かが残る、そしてその何かが歴史もしくは詩なのですが、両者に本質的な違いはありません。
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1977年77歳の著者が7夜にわたって行った7つの講演—こんな煽られ方されたら、レジに直行する。
と言いつつ、『砂の本』で初めてラテンアメリカ文学に触れたとき、あまり楽しめなかったと記憶している。難解というか何かノリきれないものがあったのだ。
その後のボルヘス体験は、『幻獣事典』とアレックス・コックスが監督した映画版『デス&コンパス』を観たくらい。
レビューするにあたり、試しに『砂の本』を引っぱり出してみたら、意外と平易な文章で驚いた。
マルケスにどっぷりハマり、リョサやプイグにちょっと触れ、ボルへスがデビューさせたコルタサルに幻惑されたあとだからこそ、そう感じるのかもしれない。
本書の中では「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「カバラ」が特に面白かった。“理解する”には自分の知識が足りな過ぎるけど、それでも楽しめる。
これを機にボルへスの他作品に挑戦してみようと思う。以前から読みたかった「神曲」の方が先になりそうだけど(笑)
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原書名:SIETE NOCHES
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Borges,Jorge Luis, 1899-1986、アルゼンチン・ブエノスアイレス)
訳:野谷文昭(1948-、神奈川県)
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1977年に77歳のボルヘスが語った、7つの主題についての講演録。圧倒的な知性と芳醇な感性が、丁寧な口調から滲み出ているその語り口がまずは心地よい。神曲や千一夜物語の楽しみ方を解説し、仏教やカバラといった非キリスト教を紹介しつつ悪夢や詩、盲目について語るそれは主題が相互に絡み合い、ボルヘスという一つの書物を形成する。書痴とは即ち書知の快楽を求める者を指すのだと言わんばかりに、晩年の肯定感に満ちた姿は何より魅力的である。ちなみに、彼の仏教観は鈴木大拙氏の言う「即非の論理」をかなり正確に理解したものだと思う。
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第四夜 仏教
矢とは「私」という概念であり、我々ん突き刺しているあらゆるものの概念である。我々は無意味な問題で時を無駄にしてはならない。〜宇宙は有限か無限か。ブッダは涅槃の後、生きているのか否か。そんなことはすべて意味がない。重要なのは、我々が自分に刺さっている矢を抜くことだ。それはつまり悪魔祓いであり、救済の法なのです。
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ボルヘスの関心が深かった7つのテーマを7夜かけて語った談話集。わかりやすい言葉で深遠な世界を読み解く。東洋の話題が多かったことも意外。「仏教」「千夜一夜物語」など。そして「悪夢」で語られた彼が幼少のころから見続けている夢の話は「バベルの図書館」の下地になっていることに気が付かされた。さて自分が生涯を通じて選ぶ7つのテーマは何だろうか。
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<神曲>を題材にはじまる七夜の講演録。ひとつひとつとても面白い。その話の内容、ものごとの感じ方、捉え方が詩的でとてもいい印象を受ける。読み通した時に感じたことは孤独ではない感じだった。
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《目次》
・ 第一夜 神曲
・ 第二夜 悪夢
・ 第三夜 千一夜物語
・ 第四夜 仏教
・ 第五夜 詩について
・ 第六夜 カバラ
・ ◇第七夜 盲目について
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エピローグと訳者あとがきがぬくもりに満ちていて、本文に接する姿勢が変わる。掟破りだとしても、これらを先に読むことをオススメする。
語りかけるような講演集。きわめて個人的なようで、それでいて多くの人の心を動かすような。
第4夜 仏教、第5夜 詩、第6夜 カバラが俄然面白かった。翻訳も良いのだろうが、読んでいて心地よく深淵に至る。第7夜 盲目について、はその極致だ。打ちのめされる名文だ。
・私も自分の運命が、何よりもまず文学的であると常に感じてきました。つまり私の身には悪いことはたくさん起きるが良いことは少ししか起きないだろうという気がしたのです。でもけっきょくのところ何もかも言葉に変わってしまうだろうということが常にわかっていた。とくに悪いことはそうなる、と。なぜなら幸福は何かに変える必要がない、つまり幸福はそれ自体が目的だからです。
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ボルヘスの講演集、1977年ブエノスアイレスにて。
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「次から次へと本を引き合いに出しますが、私は考えることよりも記憶することに長けているのです」
ボルヘス自身が、あたかも無限の蔵書を有する図書館であるということ。あらゆる書物を渉猟し・その知識を整序し・記憶のうちに排列する。人類の記憶とも称されるアレクサンドリア図書館の如く。そうしたボルヘスの文学世界は、何よりそれ自体で美的なものであるということ。アーカイヴ化の美学を体現しているということ。宇宙の中にあって、宇宙のすべてをその記憶のうちに呑み込んでしまっている怪物であるということ。
「私は天国を図書館のようなものではないかと想像していました」
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淡々と語り出されるその宇宙=universe=森羅万象の中から、特に興味を惹かれた話を幾つか。
神が世界を見ることと、人間が夢を見ること。いずれも、永遠の一瞬とでも云うべき無時間性において、一切を一挙に捉える。無時間的に与えれている夢から目覚めて、それを継時的に整序して理解しようとするがために(そもそも人間の理性はそのような形式に則ることでしか物事を捉えることができない)、覚醒時の理性にとって夢は支離滅裂なものとしてしか現れない。
ボルヘスの悪夢三話。「迷宮」の悪夢では、広大無辺の暗闇のうちに自己が呑み込まれ自らの位置=意味を喪失する。「鏡」の悪夢では、無限循環(自己反射=自己省察)の中でついに自己像が決定不能のまま宙吊りにされる。「仮面」の悪夢では、仮面の下には別の仮面、そのまた下にはさらに別の仮面、どこまでの素顔にはたどり着けない・・・と無限遡行の中でついに自己は如何なる基底にも到達し得ない。いずれも自己が無限なるもののうちに消失するイメージ。
仏教という東洋思想との対比において浮かびあがる西欧的思考様式。自我への執着(世界を構成する主体)/自我からの解脱(「毒矢」の喩え)。直線的時間(キリスト教的な始源と終末、歴史意識)/円環的時間(輪廻転生)。
「ワイルドは自分の詩があまりに視覚的であると気づき、その欠点を直したいと思った。つまり彼が大いに敬愛するテニソンやヴェルレーヌの詩のごとく、聴覚的で音楽的でもある詩を作りたいと思ったのです。ワイルドは独りごちました。「ホメ―ロスは盲目だとギリシア人が言い続けたのは、詩は視覚的であってはならない、詩の本分は聴覚に訴えることだということを示すためだったのだ」と。そこからヴェルレーヌの「なによりもまず音楽を」という考え方やワイルドの時代の象徴主義が出てくるわけです」
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最後の第七夜「盲目について」は、他の講演とやや趣が異なるように感じられる。そこでは、盲目という自己の運命を通してボルヘスが自らの人生に対してどのように向き合ってきたのか、が語られている。彼にしては珍しく私的な思いが率直に吐露されている箇所もあり、他の作品にはない感慨を覚える。
「彼[ルドルフ・シュタイナー]はこう言っている。何かが終わるとき私たちは何かが始まると思わねばならない、と」
「私は決心し、自分にこう���い聞かせました。外から見えるもので成り立っている愛する世界を失ったのだから、何か別のものを作り出さなければならない。未来を、事実失った可視の世界に替わるものを作らなければならないぞ、と」
「作家あるいは人は誰でも、自分の身に起きることはすべて道具であると思わなければなりません。あらゆるものはすべて目的があって与えられているのです。・・・。それらが与えられたのは、私たちに変質させるためであり、人生の悲惨な状況から永遠のもの、もしくはそうありたいと願っているものを作らせるためなのです」
人生のあらゆる瞬間は、個人を超え出て永遠なるものへと接続されている。
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1977年77歳の著者が七夜にわたって行った七つの講演ーー「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」。「悪くない。さんざん私に付きまとってきたテーマに関して、この本は、どうやら私の遺言書になりそうだ」(ボルヘス)
以上、表紙見返しより
勢いで★5つつけたけど、ちゃんと理解したとは言えない。しかしまた読み返したい魅力を持つ本としてこの評価をつけた。
ボルヘスのいうとおり、彼がとりつかれたように繰り返し作品に持ち出してきたテーマを解く鍵がこの本の中に語られている。
彼が言うには創造することが難しいから引用を多用する、よって引用元をよく知らないと理解は難しくなるのだが、t手品のようにひょいひょいと取り出される引用はボルヘス流に改変され事実誤認もありもはやボルヘスのものなのである。
いろいろなボルヘスの著書を読んでいると寄せては返す波のように同じ引用があちこちに及んでいることに気づき、なんとなくボルヘスの夢の様な心持ちがわかってくる気がする。過去の作品と現在のある部分に同一性を見出し過去のある時点と別の時点を同じとみなしそれは今につながっており。書物については
「図書館とは魔法にかかった魂をたくさん並べた魔法の部屋である」あるいは「図書館は死者で満ちあふれた魔の洞窟である」「精霊は、聖書だけではない。あらゆる書物を書いたのだ」などボルヘスの魔術的言辞はメモを取り出すときりがない。
講演の記録だが語り口は大勢にではなく親しく話すようにやさしくわかりやすい言葉が使われていて読み心地がとても良い。まるでおじいさんの話を家で聞いているようだ。
ボルヘスは盲目だからというだけでなく元々そうなのだろう、時系列とか正確な定義や解釈などということに興味がないらしい。ボルヘス独自の世界観や考え方というものがあり、半分魔法使いのような印象を受ける。おじいさんの話は難しいところもあるのだけど、へーそんなふうに考えるんだーと素直に面白がっていいんじゃないかと思っている。
たいへん魅力的な本であった