読後は穏やかになる
2017/11/26 15:45
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投稿者:てつ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ページ数あります。文字も大きくありません。でも読めてしまいます。いや、読みたくなります。話しはある家族の3世代とその時々に飼っていた北海道犬をうまくつなぎながら展開。山場はないかもしれないが、心穏やかに読めてしまうのは不思議な感覚。人は過去も未来も意味があって繋がっているのか。あなたに光は見えますか。
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北海道の東部、サロマ湖や網走で知られる道東の小さな町、枝留(えだる)が舞台。そこに暮らす添島家三代の年代記である。その中には共に暮らす北海道犬も含まれる。ただ、犬の方は血筋は一つではない。一族が北海道に渡ったのは関東大震災に見舞われた夫婦に、よねの師匠の産科医が枝留行きを勧めたからだった。枝留は薄荷の輸出が盛んだった。夫の眞蔵は枝留薄荷という会社の役員、よねは家の一部を使って産院を開く。
よねは一枝、眞二郎、美恵子、智世の四人の子を生んだ。眞二郎は枝留薄荷に勤めていた登代子と結婚し、家を継いだ。二女の恵美子は離婚して家に戻ったが、二人の姉妹は結婚しなかった。三人姉妹は棟割長屋のように改築した実家で暮らす。所帯は別だが、小姑が三人もいることになる。おまけに夫は始終姉妹の家を訪ねてしゃべってくるくせに家では仏頂面をしている。妻の登代子は次第に夫と口を利かなくなる。
添島家には歩と始の姉弟が生まれる。活発で聡明な姉と内向的な弟は外見はよく似ていても全くちがっていた。姉には枝留教会の牧師の子で同級生の一惟という友達ができる。絵と音楽という共通する才能もあって、同じ大学に通う話もあったが、歩が札幌にある大学を選んだことで、京都の神学部のある大学に通う一惟とは距離ができた。枝留に帰ったとき以外は手紙のやり取りが続く程度の関係だった。
目まぐるしく入れ替わる視点は、添島家の人間だけでなく一惟や始の妻と思える人物にも及び、語られる場面はいくつもの時点を行き来するので、いつ誰が語っているのかをいちいち確認するのに骨が折れる。こうまで煩雑な語りにする必要があるのだろうか。それだけではない。そこから先に広がることも、誰かの挿話とからまることもないエピソードが尻切れトンボのように撒き散らされ、まるで収拾がつかない。
たしかに現実はそうしたまとまりのない事実の総和で成り立っているのだが、一篇の小説としてはその中で完結していると思いたい。そのような作家的な配慮はあらかじめ想定されていないようだ。むしろ、参考文献が付されているので分かるが、物理学を研究する歩が講義で出会うニュートンやハッブルについてのエピソードや、よねの師匠である産科医の経験から生み出された練達の産婆術など、作家には書きたいことが多すぎるほどあったようだ。
しかし、小説としては、それまでのものより厚みを増していることもまちがいない。どちらかといえばスタイリッシュで、出てくる音楽や料理などへのこだわりが主人公の身辺に垣間見るのが松家仁之の持ち味だったが、それらを幾分か抑え、どこにでもある家族間の感情的なすれちがいや軋轢に重点を置いている。ファンにとっては目新しくもあるが、それが受け入れられるかどうかは賭けのようなものだ。
添島家の三人姉妹と登代子との顕わにされることのない闘争などは、日本の家族を書く上で、映画でも小説でもなじみの深い主題であり、さほど目新しいものではない。わざわざそれを持ち込んだのは、歩や始の人間形成にそれがどういう影響を与えたかの説明であろう。それにしては、多すぎるほどスペースが割かれている。その中でよねの逸話には添島という家族の根源が露呈されているようにも見え、ここだけは必要だったと思える。すべてはそこから始まっているのだ。
医学を志すほどの力を持ちながら、家庭の事情で産婆となった祖母は、自分のすべてをそれに賭けていた。家庭の主婦であるよりも他人の子を無事にとりあげることが自己実現の手段だった。夫はそれが不満で他所に女をつくり、家をないがしろにした。よねは自分の子にも時間を割くことがなかった、今でいえばキャリア・ウーマンの先駆けだったのだ。それが子どもたちに何らかの影響を与えたのかもしれない。
小説の主要なパートを受け持つのは歩である。将来を嘱望される職に就きながら、癌に見舞われ、三十歳で死んでしまう。誰にも愛される魅力的な女性で、小説の中で唯一主人公としての魅力を発する人物が、弟に看取られ早々と死んでしまう。どうにかならなかったのかと思うが、すべてはここに終焉するように書かれていたのだ。血縁とは何か。家族とは何か。人間が持つ家族という関係性を、いつも傍にいて知らぬ裡に批評しているのが犬に他ならない。北海道犬に血筋はあるが、それぞれの犬は独立した個であり、飼い主との関係を自ら作り出す。
歩にとっては始をはじめとする家族の誰よりも心を許せるのが犬のジロだった。何故、一人の男と結婚をしなければいけないのか。その必然性を信じることのできない歩は生涯結婚をしないことを決め、その思いを誰に語ることもなく、独り山に登って泣く。その時傍にいたのがジロだ。歩は自分の気持ちはジロにしか分からないと思ったから。愛してはいても、自分の本当の気持ちを家族や友人は理解できない。むしろ言葉を持たない犬の方が分かりあえる。この気持ちは、動物と暮らす者にはよく分かる。
連綿と続く家系というものを持ちながら、身近に暮らす人と人が分かりあえることは果たしてあるのかどうか、という根源的な問いが主題になっている。キリスト教の教義や、物理学、天文学と大きなものが持ち出されるが、それらはどれも役に立っているようには思えない。冬山で雛を育てるライチョウや、歩の生まれる時を知り、歩のピアノの音に耳を澄ます北海道犬の持つ能力に、人はとてもかなわないように思うのだ。このどうしようもない孤独を受け止め、日々を生き抜くためにこそ、人は犬や猫を必要とするのかもしれない。
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北海道・道東の薄荷産業で栄えた町・枝留に暮らす添島家。大正・昭和・平成の三代にわたる一家と、そこに関わる人々の「生」を描く。
主たる軸は昭和の高度成長期に育つ姉の歩と弟の始。二人からすると祖父母・父母・伯母・叔母となる人々と、二人に関わる枝留の教会の息子。そして、添島家で飼われている北海道犬。時代や場面は、自由に三世代を、姉を、弟を行き来する。そして、そこに寄り添う北海道犬。昭和のある家族の歴史を様々な角度から描きながら、平成の現代の家族の姿を描き出している。
それぞれの人が、自分の意思をきちんと持って死をを迎えていた時代から、自らの意思とは違う形で終末に向かっていく現代の「生」を考えさせる。
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★2017年12月3日読了『光の犬』松家仁之(まついえまさし)著 評価A
それ程期待もせずに新刊の本棚から借りた作品。まだ4作目とは言いながら、今後も良い作品を期待したい作家に出会えて幸せな気分である。
北海道東部の枝留(えだる)という架空の街を出身とする添島家3代の物語。
内容的には、地味なごく普通の家族の祖父母(添島眞蔵、よね)からその子ら(1男3女 一枝、眞二郎、恵美子、智世)そして、長男眞二郎の子(長女歩、長男始)までの家族の物語。テレビドラマの北の家族を文学にして、もっとドライで地味にした感じという読後感?
サスペンスがあるわけでもなく、一家隆盛、没落というわけでもない。ただ、読むうちに、日々の出来事が、他人事ではなく、自分たちの家族にも起きている、感じていることがさりげなく丁寧に表現されているところが、この物語の優れているところだと感じる。
特に、孫世代となる添島歩と始は、私と同じ60年代生まれであることから、彼らの育った時代感は、ほぼ私の世代と同じものが表現されている。ものでいえば、コンポーネントステレオ、ビートルズ、ニューヨーク、ジャズ、そして個人的には天文台に勤めた孫の歩の話の中に出てくる米国ウィルソン山天文台のエドウィン・ハッブルの逸話。
読んでいて思わず膝を打って「そーだったよねー!」と言いたくなる場面も数多かった。
物語の最終盤、次々と子世代の4兄弟、姉妹が人生を終えていく様は、いまのそして今後の日本人が多かれ少なかれ直面する厳しい局面も比較的明るめに描かれる。
実は、物語の最初に出てくる「消失点」だけが、なかなか何を言いたいのかが分からず?ずーっと引っかかっていたが、最後に謎解きが明かされる。
また、時々出てくる松家氏独特の言い回しと表現は、感心させられた。たとえば、釣りに関しては『釣竿と糸と針のさきにあつめられた意識から流れでて時計のとまった無心の場所に吸いとられて消えていく。(省略)眞二郎は釣りに、魚を釣ることのおもしろさを超えて、自分の失われる感覚を求めていたのかもしれない。』
私自身、母から後年、貴方が高校生の時は、何を考えているのかさっぱり分からない時があった。と言われたことがありました。まさに同様の表現が、この物語にも出てきました。『息子が何を考えているのかわからなくなったのは中学生のころからだ。顔を見ても覗き込んだ湖面の底には警戒を怠らず敏捷に泳ぐ魚もいなければ、水流にそよぐ藻や水藻もない。ただぼんやりと水がある。』
そーか、母にはそういう風にしか、見えなかったのかと今頃理解できた。(苦笑)
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ポップに北海道犬の話だと書かれていたので読み出したが、サブストーリーで描かれるだけでメインではなく残念。もっとあったかくて天気の良い時期に若い人が読んでたらまた違った読了感だったんだと思われる。上手いですし、テンポよく最後までスルリといけました。北海道東、枝留の添島一家の人々を中心に関係者が死んでいく物語。リアルに凹みます。助産婦だった祖母の話をもっと読みたいモヤモヤした。メットでの短い旅行の件だけは知っている場所なので印象にのこったが、バンダービルドさんが出てくるところで、ンなわけあるかい、と現実感が霧散(あはは)、まぁ、あるかもしれんけどねぇ。結局どうなったんやろか、と思う箇所多く微妙にスッキリしないまま流れていくが、だいたいリアルライフも結局どうなったんかよくわからんままに忘れされれてよくわからんようになって死んでいくんかと。ネコイラズ中毒死、凍死、死産、心筋梗塞、誤嚥性肺炎、軟部肉腫が身体中に転移、レビー小体型認知症、アルツハイマー、老老介護に介護の末に一人残される還暦老人。どれが一番ましかなぁ、とか、考えさせられた。
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名作「火山のふもとで」の著者による。
ケレン味は全くなく、静かに物語が紡がれていく。
小説とは本来こういうものなのではないかと思わせる。
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北海道東部の架空の町枝留(えだる)。そこに根付いた添島家親子孫三代の、明治期から現在にいたるまでのそれぞれの人生の断片を描き出す物語。
章の途中でも語りの目線が変わったり、時代も行きつ戻りつで慣れるまでなかなか大変だった。大きな事件が起こるでもなく、貫くテーマがあるわけでもない。
でも、結局人生ってこんな何気ない毎日の積み重ねなんだと人生50年も過ぎた今だからこそ、実感をもってわかるのかもしれない。
急がず、じっくりこの物語の世界に身を置いて、大切に惜しむように読んでいった。ところどころに現れる、人生の真実を言い当てるような言葉に心を震わせながら、光の中で、闇の中で添島家の一員になったような気持ちで読み進んだ。
特に、始の姉の歩が愛おしくてたまらなかった。
歩の生き方、愛、無念を思うとき涙が出そうになる。
そうして全てを読み終わったとき、こみあげてくる得も言われぬ感動に言葉もなく、レビューさえ書けず、そっと表紙を眺めてため息をついた。
あ~私はこの作家が好きだ。「火山のふもとで」に続いて良作を読ませてもらった。
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冒頭の一文に惹かれて購入。北海道の一家の歴史、人と犬と家族を淡々と描いている。静かな中にも起こる人生のうねり、行きつ戻りつする時間の流れにいつの間にか引き込まれて、一気に読んでしまった。感動とはまた違う、じわっとした波紋が心に広がる一冊。言葉にするのが難しい…。
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様々な人物の恋や老いや祈りや諦めのエピソードが、時間軸にとらわれずランダムに綴られる。胸がつぶれそうになる場面の後に、その人の青春時代の煌めくひとコマが現れた時、嬉しいや悲しいが散りばめられた人生の眩しさを俯瞰できた。それは、別れも出会いも等しく遠ざかったかつての思い出がいつも美しいのとよく似ていました。
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多様なジャンルの知識がてんこ盛りで、勉強になる、かつ、しんどい。それはそのまま、登場人物達の人生を思わせる。消失点という表現が素敵。陳腐な言い方だけれど、大河ドラマを見終えた気分だ。
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松家さんの火山のふもとで、沈むフランシスにつぐ3作目
前2作ともとても好きなので、だいぶ前に購入していたのだけど
静かに、落ち着いて読む気持ちになかなかなれず
5日頃からやっと読み始めて、少しずつ読み続け、幸せな時間を過ごした
ハッピーエンドとか、推理小説とか、全然そういうことはなく
淡々と家族それぞれの視線でそれぞれの人生を書いてあるのだけど
たくさんのことを考え、感じる小説だった
変わった旅をした気持ちにもなったな
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すごくみっしりと密度の高い詰まった作品という感じがした。少し読み辛いと感じながら読んだけれど、読み終わってみると、色々なシーンや印象が心の底に溜まっていて、これからふとした時に浮かんできそうだなと思う。
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人と人の繋がりは、たとえそれが血縁関係に基づくものであったとしも、存外容易に失われてしまうもの、とそんな事をふつふつと思う。その切っ掛けは距離であるかも知れないし、交わす言葉の密度や量の低下かも知れない。断片的に切り取られた複数の登場人物の生涯を通して、関係性の危うさに真っ先に思いが向かう。そこに過疎や高齢化といった社会的課題が通底し、重苦しい空気が全体を覆い被さるようである。その空気の重さが小児喘息の発作の逸話と共に主人公の一人の背中を圧し潰そうとする。しかし大きな課題には一般的な正解は存在せず、都度選択されたものを慣性の許す限り続けることでしか対処することができない。それ以上物語は何も語ろうとはしない。ある意味では潔く、もう一方では無責任に。
並走して流れる各々の物語の内には、かつて繋がっていた糸の反対側の端を握っていた人が、本人の意識とは無関係に存在し続けるという事実が書き連ねられてゆく。その印象は、物語が断片であるが故により強く印象的に語られている。他人の人生に存在し続ける自分の人生など誰も想像しないであろうけれど、むしろその間接的なつながりこそ本質的な人と人との繋がりを表すものなのかも知れない。
そのような観念的な思索とは対象的に、この作家の描く登場人物の肌はさらさらとしていて、湿度や粘性といったものとは無縁であるかのよう。そのせいだろうか、一つひとつの断片への執着というものが生まれる前に、次の断片が始まるように感じるのは。「火山のふもとで」も同じような印象だった。人との関係性を直接的に深めるように努力する泥臭い登場人物はほとんど出てこない。どちらかと言えばひたすらに内省する人物ばかりが登場する。それもひょっとしたら現代社会の都市という空間に巣食う人々の本質なのかも知れないが、それを北海道東部の「枝留」という町を巡って描かきだされると、すうっと胸の真ん中あたりを抜き取られたような思いがするのは何故だろう。人は土を離れては生きていけない、とアニメの主人公の言った言葉が正の連鎖反応を引き起こすように感じるのとは異なり、都会に出た主人公が故郷に戻る物語は、正の感情も負の感情も引き起こさない。不思議に宙空に置き去られたような思いを抱いたまま読み終わる。
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読み始めるといつも脳裏に映像が浮かんだ。
キャストは不明だが、画面の中で静かに登場人物が動き始める。
ときに言葉でなければ表現できない「風景」にも出会うのは、文学の醍醐味。
まるで一人の一生を書いた長い文章がハサミで切られたように分断され、他の人物のそれと無作為ににつなげたように思える構成。しばらく読まないと誰のことかわからないこともあった。
章の中に描かれた人物と、次の章の人物との関係を意図的に断っているとしか思えないくらい、時間も、時代も、場所も途切れたまま語られる。しかし、家族であっても、時間や距離をおいて暮らせばそのように過ぎているのだろうと思うと、この構成を巧みと感じる。
歩は北海道犬を愛し、異性からも好かれ、自分の師と思える人ととも出会え、望んだ職業にもつく。しかし、自分は結婚しないし、両親の面倒も見られないだろうという。
それぞれが死に至るリアルさが、胸にこんなにも迫ってくる。登場人物たちはそれぞれが消失点に向かって「一生」をかたちづくる。最後の消失点を背負っているのは自分だ、と始自身思うのだが、それとて最後が自分とは限らないと思い直す。
もう一度読み返したい。難解な意図がもう少しほどけるかもしれない。
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小説を読んだ充実感が得られた。
好きな感じの小説だなととてものんびり読み進めていたが、歩の病気以降、一気に読んだ。
歩の死がとても悲しかった。一惟との関係は美しかった。あり得ないような、割とあるかもしれないような。
充実した生を、一緒に生きてるような感じで読んでたのが、こんなところで終わるのかい、えーあんまりだーととり残された感じがした。
眞二郎と三姉妹の老後の生活は身につまされた。
眞二郎の最期も辛かった。一般的な死に方などないとは思うが、現代の老人の死に至る過程は多くの場合こんな感じなんだろうなと思えた。
みんな生まれて死んでいく。
幸せな読書の時間が過ごせた。