紙の本
社会の抽象化が生む”能力”の幻想
2020/02/04 01:40
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:AKHT - この投稿者のレビュー一覧を見る
読了した感想は『本書は一次的には「”新しい能力論”を論理的に否定する書」だが、二時的に「そもそも我々の言う”能力”とはいったい何かを考える書」として読むことができる、知的好奇心をかき立てる良書』です。
本書の基本内容は「近代社会で言う”能力”とは抽象性が高いので厳密に測定できないものである。にも関わらず、なぜそういった能力を社会は地位配分原理として採用し、次々と修正・更新を繰り返すのか?」という問いに対する筆者独自の理論を説くものです。論拠にアンソニー・ギデンスの「社会的構成論」を用い、それを能力論に特化して応用しています。
論旨の焦点は「能力に限らず、近代以降の社会概念はどれも再帰性(=省みて修正・更新される性質)を帯びている」ことであり、社会における能力の「問い直し」は「社会の近代化によってはじめから内包している性質である」ため、候補となる能力領域が修正・更新されるだけで、「修正・更新する」という現象自体は必ず繰り返される。従って、問い直す行為からは解決法は得られない、と解きます。
論の切り口は「新しい能力が求められているという観念に疑義を呈する」かたちを取っていますが、内実は「既存の社会学理論を下敷きに筆者独自のローカルセオリー(「能力」に特化した理論)を構築する」内容となっており、もちろんそのまま読んでも面白いとは思います。しかし、個人的には「能力」論や「再帰性」論単体にはあまり論じる内容がなく、それよりも「社会の中で能力とは一体いかなるものなのか」という論述の部分が非常に興味深く、また能力論一般を考える上で必須だと感じました。本書はその観点を読み解ける良書です。
論の端々に出てくる「社会学の視点」が非常に興味深く、これまで自分の中で漠然としていた「能力」概念の捉え方が明確になりました。また、社会構造の変化から近代以降の人々の能力観が浮かび上がってくる様は読んでいて興奮したところです。これは私が社会学の基礎や近年の研究成果をほとんど知らなかったからかもしれませんが、とにかく、論拠となる社会学理論とその視点が大変に参考になりました。
筆者の説く能力論をただ理解するだけではなく、紹介される概念と社会学理論を読者が用いて「能力」や「近代社会」というものを考えることができる豊かな素材として本書を活用することを強く勧めます。読み方によって色々な発見がある良書です。
なお、本書の最後の最後に筆者による解決策が提示されます(私はそう解釈しました)。これがちょっと目から鱗で、言われれば確かにそうだよなと納得するもの。ただし、文部科学省は絶対に採用しないであろうことも想像に難くない内容です。
紙の本
現代社会における能力のあり方を分析した書です!
2019/01/11 10:05
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、現代社会における能力のあり方を丁寧に分析した書です。従来、大学などの学歴によってその人の能力の有無が評価されてきましたが、現代の教育大衆化時代においては、もはや学歴はあまり意味をなさないものに変わってきています。それに代わって登場してきたのが、新しい能力資質観ですが、これらは一体どういうものなのでしょうか。また、これからの社会における能力資質はどうなっていくのでしょうか。本書は、そういった点を非常に分かり易く解説してくれます。
紙の本
新しい能力?
2019/02/22 15:06
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ドラゴンズ超 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「これからの時代を生きる子どもたちには〜な力が必要だ」というようなことを耳にすることがあります。その度に「それはこれまでにおいても必要なのではないか」と思うことがよくありました。このような疑問をお持ちの方は特に、読んで得られることが多分にあるのではないかと思います。
投稿元:
レビューを見る
<目次>
まえがき
第1章 現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章 能力を測る~未完のプロジェクト
第3章 能力は社会が定義する~能力の社会学・再考
第4章 能力は問われ続ける~メリトクラシーの再帰性
第5章 能力をめぐる社会の変容
第6章 結論:現代の能力論と向き合うために
<内容>
著者は、「新しい学力観」には与していない。というか、「新しい学力観」は「新しくない」ことを証明している。また、「コミュニケーション能力」や「協調性」が公平に測れるはずがないともいう。それは基準を決めるのが、社会だからだという。
ここまではついてこれた。しかし、第4章は全く分からなかった。もう少しうまく説明してほしかった。
投稿元:
レビューを見る
本書は、能力主義について、その「再帰性」という観点から、社会全体を分析対象にして論じている。国内外における近年の大学や就職に係る能力観の議論は、やや食傷気味の感があったが、本書はアプローチの方法も結論も大きく異なる。能力主義は再帰的な性格を帯びるものであることを、明瞭に示したこの仕事はとても重要である。
第1章では、「『新しい能力』であるかのように議論しているものは、実はどんなコンテクストでも大なり小なり求められる陳腐な、ある意味最初から分かり切った能力にすぎない」(p.46)と早々に断じた。能力観が変わってきた、という固定観念に対処するために、これまでの議論から「最大公約数的な陳腐な能力」を毎回定義し直してきている、という見方は、非常にわかりやすかった。
また個人的には、この「再帰性」という言葉の説明力の大きさに気づかせてもらったことは有益だった。再帰性とは、「常に反省的に問い直され、批判される性質がはじめから組み込まれている」(p.51)状態を指すとここでは解した。再帰的に、能力に関する議論を社会が求めていることを実証するために、著者は以下の5つの命題を設定してる。
命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない 【2章】
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される 【3章】
命題3 メリトクラシーは反省的に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシーの再帰性) 【4章】
命題4 後期近代ではメリトクラシーの再帰性はこれまで以上に高まる 【5章】
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシーの再帰性の高まりを示す現象である 【5章】
この議論の立て付けは参考になった。上の「能力」や「メリトクラシー」を、同じくらい議論が重ねらている「教養」に置き換えた上で検討すると、よい仮説が導けるのではないか。またそれらは、近年の大学教育における議論に通ずることがあるのではないか。本書はこうした点に気づかせてくれた論稿だった。211頁に示された再帰的メリトクラシー理論の図表は秀逸。
投稿元:
レビューを見る
本年度一番のヒットの新書であった。再帰性によって問い直し続けられる能力について、論理的かつ非常にわかりやすく書かれている。
投稿元:
レビューを見る
新しく求められる能力が求められる社会的な背景が詳細に説明されている。頭が冷める。
特に能力をめぐる議論は英語教育関係者として読んでおいたほうが良いと思った。
投稿元:
レビューを見る
なぜ新しい能力が求められるのか?コミュニケーション能力、非認知能力がなぜこんなにも叫ばれているのか、教育改革がなぜ成功しないのかということをメリトクラシーの再帰性という現象から説明している。
メリトクラシーの再帰性とは、メリトクラシー(業績主義)が常に自己反省的な性質をもっているということである。必要な能力は定義することができないという性質上どんな能力を想定してもそれは批判可能性を秘めており、それに対する能力が提示される。
現代において教育はどんなあり方であるべきなのだろうか。
相対主義が蔓延する中で、学校が担う義務は何か。
反知性主義をどう考えればいいのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
本書は能力主義に敬語を鳴らす一冊である。主に大学教育や就職活動に焦点を当てて、能力とはついて書かれている。
資本主義だと、どうしても能力主義になりがちであると感じる。しかし、何を能力と呼ぶのかにもよる。就職に関すれば、仕事ができないのにその仕事に就く人も少なくもない。
投稿元:
レビューを見る
読了。
端的に云うと、社会で必要とされる人間の能力は、基本的に測定不能であり、社会で求められるとされる能力の変遷に伴い、教育内容を変えるべきという勘違い(?)を、「メリトクラシーの再帰性」という概念で説明した本。
受験勉強と社会で必要とされる能力に連続性など、そもそも科挙の時代から無いわけだが(笑)、自身の判断を絶対化出来ない人間のサガは、不確実と判っていながら何らかの指標を求めてしまうのだ。
投稿元:
レビューを見る
非常に読みやすい。スルスル読める。
階級、学歴の次に基準となる「新しい何か」は見つかるのだろうか。メリトクラシーを俯瞰で見たときに今、学校教育で行うべきはなんなのだろう。「自分の中の答え」みたいなものがまた遠くにいった気がした。
投稿元:
レビューを見る
いまいち言っていることも言いたいこともよく分からなかった。「メリトクラシイの再帰性」という言葉だけ、繰り返されいた。
投稿元:
レビューを見る
タイトルは著者が理論的にインスパイアされたギデンズ『暴走する世界』にちなんだもの。現在の「教育改革」を席捲する「コンピテンシー」論を理解する補助線として。
著者の議論の要諦は、21世紀に入って以降の日本で次々と提案されている「新しい能力」論は、後期近代における「メリトクラシーの再帰性」のあらわれとしての「能力不安」言説の反映に他ならず、基本的な論点は過去の反復でしかない、というもの。その点は明快だし、説得力もあるのだが、次々と簇生する「新しい能力」論をギデンズ的な「嗜癖」(=一時的な不安の置き換えとしてのaddiction)と見なしていることには違和を感じる。
というのも、日本における「新しい能力」論は、まちがいなく新自由主義的な人的資本論というイデオロギーと、そこに焦点化することで駆動する教育投資市場の拡大という問題がある。つまり、本書の枠組みで言うなら、それぞれの「新しい能力」論が、誰の・どんな欲望に応じて・どのように構成されてきたかが決定的に重要ではないか。「嗜癖」という理解は、問題を過度に一般化する(それは現代社会に通有の病理なのである)か、過度に個人化する(それはイデオロギーに目を曇らされている個人の問題である)おそれなしとしない。
投稿元:
レビューを見る
人間の能力は、基本的に測定不能であり、社会で必用とされる能力の変遷に伴い、教育内容を変えるべきということを「メリトクラシーの再帰性」という言葉で説明した。
◆Aiの発展で単なる暗記に偏った勉強だとAiに仕事奪われるよ→マークシートによるセンター試験(共通一次)の廃止、
◆記述式の共通テストへ、英語は読書きメイン→読書きだけでくヒアリング・リスニングも、
と言った現象は、まさにメリトクラシーの再帰性の高まりだろう。
しかし、早急(拙速?)な改革が行われつつあるという印象は否めない。
記述式テストは採点の難しさ、採点者による評点のバラツキを発生させ、その調整には多大なコスト時間がかかるし、藤原正彦の言っているように英語が流暢に操れる人間は全体の2-3%もいれば十分だろう。("1に国語、2に国語、3.4がなくて5に数学"と藤原氏は言っている)
現在の教育改革(メリトクラシーの再帰性の高まり)は、何を生み出すのか? 全く予測できないが、近い将来に、また再修正されることになるだろうという気がするねぇ。
(あまり批判的なことを言っていると代案だしてみろと言われるので、ここら辺でやめておこう。)、
投稿元:
レビューを見る
能力主義に対する批判を論じているが、よく見る議論で新しい視点は無かった。
本書の主張は大きく、
・求められる能力とは時代により異なるものであり、メリトクラシー(能力主義)は常に批判にさらされ続ける=再帰性から逃れられない
・昨今声高に主張されるキーコンピテンシーや非認知能力等は旧来の詰め込み主義、学歴偏重の教育環境を批判する形で注目されているが、過去の批判が主で旧来の教育体系に取って代わるような中身のあるものではない
という2点。1点目はメリトクラシーという言葉こそ個人的には新しかったものの、中身は語られ尽くされており新鮮味はなし。2点目は新しい教育観点への批判が全く具体的ではなく、これまでも聞いたことがある、これだけで問題解決ができるはずがない、程度の感想のみ。
コミュニケーション力や議論力が学問でも社会生活でも必要なのは間違い無いが日本人の特性に合わないこともあり未だに浸透していないと個人的には考えているので、そもそもそこを見ようともしない議論は読む気にならなかった。
元々この本を手に取った問題意識は、エマニュエルトッドが最近主張している、社会の分断を示す上で、リベラルと保守ではなく今の先進国の分断はこの能力主義なのではないか、と言う点について考えるため。新自由主義の競争原理主義の中で能力主義が分断を生み出しているのでは、という主張に対して、能力主義がどこまで平等に適用され、かつ信頼に足る指針なのかを考えたい。その観点からも本書はヒットしなかった。
あとは性格的な問題で、この衒学的で批判的な書き方というか、世の中の考えが浅くて学問的に新規性のある自分の考え方が良いとするような書き方が鼻について嫌だった。こういう感覚で読む癖はやめたいと思っているのだが。。