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投稿者:想井兼人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は中世日本を舞台とした贈与論である。贈るという単純な行為にも時代的な決まりごとが厳然と存在する。中世日本の贈与について考える際、重要な点は現代日本の感覚で臨まないことだろう。史料に書かれたことを素直に受け入れる生真面目さ、さらには行間に潜む時代性を読み解く知識と柔軟な感性が不可欠だ。
例えば「八朔の進物」。これは8月1日に、日ごろ付き合いのある者同士で贈り物をする行事で、京都では13世紀末頃に普及したという。1日つまり「朔」に贈るという意味の名称にも関わらず、身分や立場の差により贈る時期に大きな差が生まれる場合があるようだ。1日までに贈られても、立場が違い過ぎると極端な場合には2年分をまとめてお返しという事例もあるとのこと。これなんか現代の感覚ではとても考えられない。もう返さなくてもいいのではとも思うが、それは当時の感覚では許されない行為だという。どんなに遅くともお返しをすることが大切ということだ。
また、Aからもらった贈り物をBに横流しするもあり、Aからもらったものをお返しとしてAに贈ることもあるという。いよいよ現代の感覚では理解しにくい。しかし、こんなことすら当時の感覚として許容されることだったとのこと。
中世日本では贈与という行為が経済活動と明確にリンクしながら繰り広げられていたともいう。室町時代には人びとに対する贈与が税に転化する場合もあったというのだ。
将軍私宅などの移転費用を大名たちに自主的に出費させる行為が、当初は贈与という形で行われていたが、これがやがて厳然とした税という形になったそうだ。また、「トブラヒ」という親族や同僚など親しい者の間で行われていた相互扶助的行為も税収とされるようになったとのこと。さらに「タテマツリモノ」という行為がある。これは一種の客人歓待儀礼で、中央から派遣された国司や地頭、代官などを、任地先の人々が宴会などでもてなすことである。これも歓待のはずが、負担化が義務付けられるようになり、やがては銭納化つまり納税という形になったという。
上記の事例のように贈与を税収として転化するところにも中世という時代性が見て取れる。現代の感覚ではなかなか理解しづらいところである。
現代でも歳暮や中元、それからクリスマスやバレンタイン、ホワイトデーなど様々な贈与行為がある。バレンタインやホワイトデーは完全に商業主導で、クリスマスは宗教発信が形骸化したもの。これらは現代日本の独特な贈与行為で、中世日本人からはとても理解に苦しむ行為だろう。本書の随所に紹介されている中世の贈与行為も現代の感覚では理解しづらいものが多い。この時代を超えたところにある理解の難しさをきちんと意識することが、歴史を探究する上で欠かせない。ただ、文書に書かれている文字の意味だけを追究することが歴史学ではないことを、本書は贈与を媒体として切々と教えてくれる。一読をお薦めしたい。
中世日本の儀礼と経済を読み解く
2020/08/27 16:54
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
物や金を贈り贈られる「贈与経済」が今よりずっと複雑で広汎に発達していた時代の話。室町から戦国期の人たちがどんなこと考えて生きていたかを豊かにイメージできる名著なので、興味のある方はぜひ読んで欲しい。特に15世紀の日本で世界的も珍しいほど特異な進化を遂げた贈与システムの話はとても興味深い。中世人の頭のなかでは誰が自分より格上又は格下であり、しかもどのくらい格上又は格下であるのか、逆に対等に付き合って良いのは誰と誰なのかといった計測が、交際のある全ての人々について行われていた。損得の釣り合いを重視し、一年中贈り物が飛び交う日本の中世人の精神を探ったのが本書。義理や虚礼、賄賂など、負のイメージをまとい続ける贈与の本質を描く試みでもある。本書は、第10回角川財団学芸賞を受賞。
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貨幣経済が進展していた中世。贈り物を受け取って横流しや転用、着服があり、賄賂の横行、目録のみ進呈して中々実物を渡さないなど、経済的な困窮という理由のあるが現代人には想像も出来ない一面があった。
贈り物に釣り合いを求めたり要求したり、実利的な面が強かった。
弱者の救済や高額な税の負担は有徳、すなわち金持ちがするべきである。
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日本中世における贈与がどのようなものであったかを紐解き、その意義を探る
毎年の盆暮れ、今年は何を送ろうか・どの程度の金額がよいのだろうかと、付け届けに頭を悩ます人も多いだろう。
日本は先進諸国の中でも贈答儀礼がよく保存されているのだそうで、その起源は中世に遡るらしい。
本書では、主に室町期の贈答のあり方を文書から探り、分析している。
中世の贈答は非常に格式にうるさく、量が適切でない(多すぎる・少なすぎる)場合や、手紙の結びに使う決まり文句が身分にあっていない場合、たとえ自分より身分が上の人からのものであってさえ、受け取らなかったり、クレームをつけたりといったことがあったという。
思わず「めんどくさっ」と叫んでしまう細かさである。
だがそれも、一度もらってしまうと返礼が必要であったり、社会の秩序を維持するには大切であったりしたようだ。
そうかと思えば、もらったものを別の人に贈ったり、馬をもらった返礼として別の馬に贈ったり、といったこともある。
贈与が貨幣に近い意味を持っていたり、物品の流通に一役買っていたりしたらしい。
経済や商業の発展に贈与が果たした役割も大きかったようだ。
折紙の話も興味深かった。「あなたに何々を贈りますよ」と折紙(=目録)をまず贈る。その後で実際に物品を贈るわけだが、時代が下るにつれて、一向に現物を贈らない輩が続出、ついに日野富子が堪忍袋の緒を切らし、「贈るなら折紙ではなくて現物!」と命令を下している。空手形、もしくは「やるやる詐欺」といったところか。
読みながら徐々に、中世の人々の心情にリアルに迫っていく感じがしておもしろい。儀礼的でありつつ合理的。面倒くさいけれど、ある意味、理にかなっている。そうはいうものの、現代人の視点からは推し量り切れない部分もあり、それがまた興味深い。
本書を読んだからといってお歳暮・お中元に悩まなくなるわけではないが、その起源に思いを馳せれば、煩わしさもちょっとだけ薄らぐ、かもしれない。
*「初穂」の語源は収穫時に神に捧げた贈り物から来ているのだという。海の幸の贈与は「初尾」。なるほど。
*茶の名物の話もおもしろい。様々な人の手を渡ることで由緒が付帯し、箔がつく。
*本書にも何度か取り上げられている『大乗院寺社雑事記』の大乗院は奈良・興福寺の塔頭。この『大乗院寺社雑事記』は室町期の貴重な史料とされているようだ。
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日本中世における贈答儀礼の功利的性質にスポットをあて、贈与行為から発展して政治・社会・経済に及ぼす動向と影響、その変遷を明快に解き明かした意欲作で、新書ながら歴史学の醍醐味を堪能できる作品。前提にある経済史や社会史研究の蓄積だけでなく、歴史学のみならず主に人類学や経済学といった近隣諸科学での知見も取り入れ、自分なんかがこの場合はどうなんだ?と思ったことに対しても、明解な回答が用意されているような切れ味のよい論理も魅力的だ。
マルセル・モースのいう贈与をめぐる義務である「贈り物を与える義務」「それを受ける義務」「お返しの義務」そして「神や神を代表する人間へ贈与する義務」を出発点に、「贈与」せざるを得ない状況に追い込まれる(現代でも年賀状とかお歳暮、バレンタイデー・ホワイトデー、香典・香典返し、お返しの贈り物、災害後の寄付しろ「圧力」など。余談ながら3・11直後には、石原軍団お得意の炊き出しをなぜ迅速に行わないのだというマスコミ記事が印象的でした)有り様が、いかに中世日本人を衝動させ政治や経済と結び付き発展していったかの諸相はとても興味深く面白いものだった。
贈与から税への変質を論じた第一章では、律令制下の税である租や調が神への贈り物を起源とし税化した話や、室町幕府へ提供した守護大名の守護出銭も本来の相互扶助的贈与(トブラヒ)であったものが税化されたという話が面白かった。
強制される贈与を論じた第二章では、祇園社祭などに資金を供出される役目を担わされる馬上役が、お金を貯め込んだ「有徳人」に対する「浄財」供出思想を持っていた話や、中世の「遷代の職」に付随する役得(=賄賂)も「先例」である以上、受け取らざるを得ない状況にある、そして一旦「先例」になれば納める方は恒常化するので、いかに「先例」化を回避しようかという努力の話などが面白かった。中世においては、「相当」と「礼」の関係として、相手の身分とのバランスを考慮した贈り物と返礼が必要であり、ポトラッチ(贈り物競争)とは異なる「対称的返済」「同類交換の原理」が働いていたという。具体的事例として、夏の瓜を贈り合う慣習とか、8月の八朔の贈答にまつわる悲喜こもごもの顛末(返礼しない、返礼品の相当が不足しているなど)など、かなり中世人の心を規定していた様子が興味深かった。
そして、第三章では13世紀後半より年貢の代銭納制が進展し、さらに持ち運びに便利な割符(手形)が採用されるという信用経済が普及した市場経済社会の成立に伴い、贈答品の市場売買がひろく個々の経済を支えていたとする。天皇や将軍からの下賜品は売買やオークションで換金されることが前提、贈答品も右から左へ流用(本願寺証如が細川氏綱から受けた年始の祝儀は、実は証如が三好長慶へ贈ったものであったという)は当たり前、そして換金できるということであれば贈り物の「ねだり」「たかり」もあり、日明貿易での調達品も既定の贈与品を前提にしていたという話はとても興味深いものであった。将軍が寺社などへ御成(おなり)した際に献上される贈り物が、将軍の下賜品や幕府財政の一端を担う「贈与依存型財政」の様を呈しており、「将軍家御物(ごもつ��」にもそうした売買前提の鑑識眼により蓄積されたという話も面白い。そして、こうなると贈与の品物がお金に変わってもなんら不思議ではなく、さらに贈り物に必ず付随する折紙(目録)も「信用(経済)化」し、また贈与の相殺に使用され、空手形のような折紙が乱発された揚句(贈与の見返り効果がないと現物は送らない)、債務の肩代わりにも使われる状態になったという。本来、人格的であるはずの贈与が非人格化し贈与経済が限りなく市場経済に接近した時代、贈与を過剰に煽りギフト産業を儲けさせる現代の仕組みとはベクトルの異なる、贈与の省力化・骨抜き化が逆に贈与を市場経済に近づけさせた構造がここにあるということだ。
第4章における贈答儀礼における諸考察が述べられている。かつて足利尊氏の「気前のよさ」は武家棟梁の資質のひとつと見做されていたが、贈与論から考えると贈与には必ず伴う「返礼の義務」=互酬性があり、そのノルマをこなしていただけではないかという着眼は面白い。贈答儀礼をはじめとした儀礼が、権威としての劇場性を持つという考えや、空虚なルーティン化として「儀礼の内旋」に陥る側面だけではない、中世人の非人格的な「法」「先例」遵守の精神に支えられたものであったとする見解はある意味目から鱗が落ちた。(儀礼費用がなければいくらでも裏で助けた)そう、確かに中世人なら2人だけで誰も観ていなくても所定の所作をしそうではある。また、前近代における「時間」が不定時法であったにも関わらず、中世では律令制下とは異なり労働時間単位あたりの報酬が一律であったという労働贈与の話も興味深かった。
長々と備忘的に書いてきましたが、最後に備忘ついでに。1文=100円、10文=1疋、1000文=1貫文、旅籠賃一泊二食で24文、伏見宮家の総収入1500貫文、永享九年将軍義教の伏見宮家訪問接待費760貫文。
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「贈与」というと、何か、人間の人類学的な基礎に通じるものがあって、興味があったので、タイトルで購入。
この本はそういう人類学的な分析ではなく、中世に特化した贈与の分析。
全体の印象としては、様々な階層での贈与は、最初は神に対する、あるいは上位者に対する畏敬の念が含まれていたが、どんどん形式化して、最後には、市場メカニズムにとりこまれていく(贈与物が売買されたり、贈与の折り紙自体が流通したりする)、というお話。
自分が労働力を割いて復興に無償に協力していることに、なにか歴史的なバックボーンがあるのかと期待したが、ちょっと期待はずれ。
ただし、中世のたくましい貴族や武士のお金のやりとり自体はおもしろい。
(1)贈与のもらうことを、一代限りの職にあるものが断ると、後任者がもれなくなるので、もらっておく。(p67)
こういうの、役職者の特権でよくいわれる。役員がエコで電車で通勤したくても、後輩が困るますよといっていつまでも自動車の送り迎えを続ける組織。まあ、うちだが。
(2)中世の貴族は、贈与を求められると、継続的に贈与するのを避けるため、わざと「ごぶさたしていましのたので」といって贈与の趣旨をごまかしていた。(p72)
これも現代もありそう。お中元とかお歳暮とかの時期をはずして、たまたま、いいものがあったから贈りました、とかいって、今回限りにするのと同じです。
(3)足利将軍は、当時のお金持ちの寺院から贈与をうけるため、しょっちゅうおなりを繰り返した。(p138)
貧乏になるとなんでもやってお金を集めようとする。
なんだか、昔も今もあんまり日本人は変わっていないようで、うれしいようなかなしような気持ち。
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儀礼としての贈与が重視されながらも、極端な形式主義で、贈与品の流用も平気で行われた日本の中世の独特の世界が垣間見えて知的に刺激を受けることができた一冊。
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贈与=金銭のやりとりという図式に何の価値判断もなかった時代、それは一つの徴税方法とすら言える。日本刀・唐物・和紙、それらすべてがお金のように贈与されていた室町時代。
その時代の終わりの段階で、それを「美的センス」によって美術品の世界に押し込んでしまった千利休という人の果たした役割はやはり飛びぬけてすごい。そして、贈与をストレートな金銭のやりとりから切り離すための方法が茶道みたいな儀礼の役割だったのかなと思う。趣味の善しあしは別として、豊臣秀吉はその点をよく理解していた人物だと思う。織田信長みたいに単純に室町将軍のものまねしかできない人とはそこが違う感じがする。
…とか、まだちゃんと読んでないのに言ってみる。間違ってたら書き直します(笑)
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贈与の4原則は興味深い
2012/03/03図書館から借用;3/9朝の通勤電車から読み始め;途中別の本も読みながら,3/15読了
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モース的贈与論の修正がいかにも現代の学問というところがあって実におもしろい。新書でこういう新しい学問が読めるのは本当に良い。
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確かに贈与の歴史だった。
日本の西暦1400年から1500年あたりの時代に,贈与システムがどんな風に機能していたかを丁寧に議論されていた。
そういう意味では,評価が星二つなのは厳しすぎるのは分かっている。
しかし,儀礼と経済の間,というサブタイもあって,まさか日本のそんな100年間に限った話だとは思わなかったので,もっと古代のクラ交換とかレヴィ=ストロースの話とか,そういうところから近代・現代の贈与までを議論するのかと期待して読んだのだ。
そしたら,どこまで読んでも南北朝のなんとか天皇と足利の何代目だとか,土倉とか寺院の誰とかの古文書を引いての論理展開ばかりだったという。
そういう意味で期待外れで,がっかりした。
それならサブタイトルをもうちょっと内容に即してつけてくれよ・・・・。
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学術書としては価値があるのだろうが、自分にとっては贈与に関する雑学を仕入れただけで、根拠を示す部分が冗長に感じられた。税が贈与から発展したということは新発見だった。
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内田樹さんの提唱される「贈与経済」に強く惹かれたので、贈与、贈与と唱えていたのだが、日本政治思想を研究している水野氏からこの本を貸していただいた。
ひと通り読んだだけでは、なんか私がイメージしていた贈与経済とこの本との接点がつかめなかったのだが、最度、読み返してみると朧気ながら浮かんでくるものがあるような気がしてきた。まだ、これというものはつかめないのではあるが、大事なヒントを蔵している著作のような気がする。
それにしても驚いたのは、13世紀には日本に市場経済が成立していたという事実である。そりゃぁそうではあるが、改めて説明されるとなんだかショックを受けた。私の頭の中では市場経済が貧者の不幸を生み出しているような気がしていたからだ。「市場経済」から「贈与経済」へという内田さんの構想にひかれたのも、自分が貧乏な気がして窮屈だったからだ。
しかし、問題は市場経済ではない、どうもそれを取り巻く一種の「法」とでも呼べるもの(本文78ページ参照)じゃないのか?
「儀礼と経済のあいだ」という副題も示唆深い。共同体が存続してゆくためには守らなければならない掟があるはずである。儀礼は掟の結晶化したものだし、経済は掟に沿って営まれなければならない。私に必要なのは、経済に関する掟の究明や理解なのかもしれない。
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贈与と税や経済の関係、贈与が強制力を持つ過程などを、中世日本の贈与を素材に考察。
お茶会で"決められてる"諸出費の事などが想起され、名残なんだなと思った。
折紙の話とか相殺の話とか、知らないことも多かったー。
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先日江戸東京博物館のボランティアの方から、江戸時代の諸大名による贈答儀礼のお話を伺った。当時、諸大名は江戸藩邸下屋敷を中心に将軍家や他大名の冠婚葬祭、贈答情報を収集し、それぞれの格付けに従って何をどれだけ贈るのかを判断していたという。かなりシステム的な贈答儀礼が存在したことを伺わせる。
本書によれば、既に中世の段階で贈答儀礼の形式化が進み、どのような場合にいつ何をどれだけ贈り返礼すべきか、役職や身分によって詳細に慣習化されていたという。贈答行為は社会的に厳格に規定され、どのような贈り物を受けられるか、あるいはどのような返礼を受けられるかについて高い期待可能性が存在した。その結果、このような贈答行為を前提とした(あてにした)驚くべき経済活動が派生した。
例えば、贈り物に添付された「折紙」(目録)が独立して前渡しされ、贈り物を受けるべき権利が化体した証券として流通するようになる。贈り物が現金である場合には、「折紙」の相殺さえ行われた。このような経済活動は、「折紙」に基づいて贈与が行われるという社会的信用がなければ成り立たない。また、朝廷や幕府の公式行事や公共事業の一部も、有力大名からの贈り物をあてにして予算化までされていたのである。
もちろん、こうした極端な経済活動も、「贈与の最盛期」だった15世紀の100年間に見られた現象にすぎない。しかし、キリスト教文化の贈与とは異なる現代日本の贈答文化を考える上で、示唆に富むことは言うまでもない。