映画館と観客の文化史
著者 著:加藤幹郎
映画はいったいどこで見るべきものなのだろうか。ホームヴィデオの普及以降一般的になった、個人的な鑑賞は、はたして映画の本来的な姿から遠ざかってしまったものなのだろうか。本書...
映画館と観客の文化史
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商品説明
映画はいったいどこで見るべきものなのだろうか。ホームヴィデオの普及以降一般的になった、個人的な鑑賞は、はたして映画の本来的な姿から遠ざかってしまったものなのだろうか。本書は、黎明期から今日までの一一〇年間の上映形態を入念にたどりながら、映画の見かたが、じつは本来、きわめて多様なものだったことを明らかにする。作品論、監督論、俳優論からは到達し得ない映画の本質に迫る試みである。
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目を開いたまま夢を見る場所
2006/08/22 11:23
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は「日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論」である。著者はそう書いている。
では、なぜこのような書物が書かれなければならなかったのか。「映画はそれ自体としては存在しえない」からである。「映画館(上映装置)のなかで切り取られる上映時間という生きられた「現在」の空間的な写像ないしは存在論的な時間の問題をぬきにしては、映画は真に論証の対象にのぼることはできない」。
長いあいだ映画を見ることは「一枚のスクリーンに拡大投影された映像を不特定多数の観客がひとつの場所で視覚的に共有すること」を意味してきた。しかし過去一世紀以上にわたる多様な映画興行の歴史を振り返ると、このような考え方は根底から修正をせまられる。映画館の座席に縛られてスクリーン上の表象を現実と誤認する快楽にひたるという観客の「不動性」は、映画史初期から古典期への移行過程でたまたま獲得された歴史的産物にすぎない。
こうして、透明な窓の向こうの景色(映画作品)ではなく「窓を窓として窓そのものを論ずる」という本邦初の試みが開始された。
公共的な見世物(スペクタル)としての興行やこれとは異質なキネトスコープ(覗き箱式の映画装置)による映像体験という最初期を経て、安普請の常設映画館(ニッケルオディオン)の流行から古典的ハリウッド映画を上映する豪華で巨大な映画宮殿(ピクチュア・パレス)へ。そして「映画のテレヴィ化」の過程で生まれたドライブ・イン・シアターやシネマ・コンプレックスを経て、かつてのパノラマ館のような見世物への回帰を思わせる巨大なアイマックス・シアターへ。あるいはキネトスコープ以来の「ひとりで映画を見るという経験」を復権させたVCRやDVDの出現。
アメリカ篇、日本篇の二部構成で叙述される映画館(上映装置)とその観客(享受・受容)の歴史は実に興味深い。とりわけ、映画館と教会との親和性(「そもそもカトリック教会じたい太陽光によって栄光の物語を上映する映画館であるともいえる」)や、列車旅行と映画体験との密接な関係をめぐる考察(「列車のスピードは人生の奥行きを犠牲にして、平板ではあるが簡便な旅を可能にした。それは新しい幻惑媒体としての映画が観客にあたえることのできるものと似ていた」)は刺激的である。
ただ、本邦初の「新しい冒険」であるだけに、本書には多くの知見や仮説、論点が必ずしも存分に深められ相互に関連づけられることなく後の考察に委ねられている。
たとえば著者は、映画館とはあくまでも「目を開いたまま夢を見る場所」であり、「ひとは映画館のなかや上映装置のまえでかならずしも映画を見ているとはかぎらない」と書いている。この論点(ひとは映画館という都市装置を使ってでほんとうは何をしてきたのか)は本書の随所に見え隠れすが、それが主題的に存分に論じられることはない。
あるいは「ひとが観客になる」とはどういうことか。著者が示した仮説(「カメラの遍在性に裏打ちされた観客の視線の遍在性とパノラマ性が、ひとをして「観客」たらしめる」)を列車旅行やDVD等々がもたらす体験に即して具体的に検証していくことで、どのような議論がひらけるだろうか。
そして映画館・観客の文化史と映画受容との関係。「映画館(ないし映画装置)の差異が映画作品の解釈にどのような影響をおよぼすのか」という論点である。著者にはすでに『「ブレードランナー」論序説』がある。こうした個々の映画作品をめぐる受容=解釈の歴史の解明を積み重ねていくことで、著者いうところの「硬直状態」から映画史が救済されるのだろう。