もはやマスコミは当てにならないという前提で、批判的(かつ生産的)視点と圧倒的知識・経験を自ら蓄積して事に処すべき
2022/09/10 15:48
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
大変有益な一冊でした。失われた30年を無為無策できた政府の怠慢に加えて、もはや毒が回って骨抜きにされ腑抜けと化した(大手)マスコミの惨状、こりゃ日本ももうあかんでしょう。30年のハンデは大きいですよ。それはさておき、本書で一番シャープだったのはやはり堤未果氏かなと思いました。マスコミのいわば最前線にいるだけあって、具体的でなるほどと思わせる問題意識と提言の数々でした。
「異なる意見の人たち対話できるプラットフォームを差し出すというのは、メディアが社会に対してできる最大の貢献の一つです。・・・ 大事なことは、メディア自身が中立になることよりも、様々な視点を排除せず、議論のテーブルに載せる「場」を提供することなのです。」(105~107頁(同旨167~168頁)、堤氏発言、なお「社会」の語は本文では「会社」となっているが、これは明らかな誤記だと思うので、勝手ながら訂正しました。)
「文化的な共同体としてのネーションは、しかし、それだけに満足せず、政治的な主権をももとうとする。主権国家の主権が及ぶ範囲とネーションとが合致しているとき、「ネーション・ステート(国民国家)」と呼ばれます。「民族自決」などというのも、ネーションのこうした特徴から出てくる政治目標です。だから、ナショナリズムは、文化的なアイデンティティと政治的主権が及ぶ範囲とを合致させようとする運動である、と定義することもできるくらいです。」(133頁、大澤氏解説)
「国学は儒教精神を否定した「一君万民」を掲げました。そして、天皇以外はみな平等なはずなのに、江戸幕府のような「特別」な存在があるのはおかしいという理屈で、江戸幕府の正統性(レジティマシー)を奪っていく。それが明治維新に至り、「日本」というネーションの成立へとつながっていくんですね。」(170頁)、中島氏発言)
「では、映画やテレビは、いかに大衆の心をつかんでいったのかというと、「単純化」です。大衆はみんな単純なものを好むから、何もかもが圧縮され、どんどん短くなり、ダイジェスト化する。」(187~188頁(同旨221頁)、高橋氏解説、単純化されたものを好むということは、逆に受け手そのものの情報や判断がそれだけデータ化や操作がしやすく、システムに取り込み(取り込まれ)やすいということでもあろう。そう、われわれはそれに抗するには「複雑で多面性のある」人間にならなければならない。そして、そのための手段の一つが古典への親炙ということに他ならない。)
「安倍さんはもちろん、「圧力なんてかけていない」と言っています。のちに当時の放送総局長が朝日新聞の取材に応えて明らかにしたところによれば、安倍さんが言ったのは「勘ぐれ、おまえ」という言葉だった。」(226頁、中島氏発言、これって圧力そのものでしょう。)
なお、93~94頁で、アメリカにおける結社や中間集団の淵源を「救済されるべく選ばれた者(エリート)たち」の間での「連帯」に求めているようですが、そういう綺麗事的な側面もあるとは思いつつも、メインはやはりF. J. Turnerがその論文「The Significance of the Frontier in American History」(1893年)で触れたような事情、すなわち個々に団結していかなければ生き延びることのできない移住者たちの過酷な生の状況にあったのではないかと愚考しているところです。
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投稿者:a - この投稿者のレビュー一覧を見る
大澤真幸氏の言葉で、本を読んでよかったなと思うのは、その本を読んだことで、世界の見え方が少し変わった、と感じるときです。世界について一つの情報が増えるのではなく、世界の見方そのものが揺らいでしまうということです。良いですね。
客観的に現代を見渡すためには必要な1冊
2022/03/09 22:01
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投稿者:けんけん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「世の中」という不確かで不透明なものを見渡すためのめがねのような本でした。構造的な問題があるのは、世論だけではないので、ご自分の世界にも適用できることがあるのではないかと思います。
バラエティに富んだ四人の論客
2020/09/11 16:14
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
四人の論客が「ナショナリズムとメディア」について、各一冊の参考になる書物い挙げ、それについて論じています。たた、各々の論文の後に四人の座談があります。とても勉強になりました。専門分野が違うので、バラエティに富んでいます。最後のまとめの章がもっとあってもいいのではないかと思いました。ちょっと尻切れとんぼのような。
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堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎の四人が、それぞれ好きな本を持ち寄って、解説した後、その本をめぐって対談するというものである。その選択は次の四冊。実のところどの本も読んでいない。
堤未果が ハルバースタム『メディアの権力』
中島岳志が トクヴィル『アメリカのデモクラシー』
大澤真幸が ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』
高橋源一郎がブラッドベリーの『華氏451度』
NHKの100分de名著で「メディアと私たち」というテーマで四人がやったフォーマットを本で再現したものらしい。そのときのラインアップは、堤 未果─リップマン『世論』、中島岳志─サイード『イスラム報道』、大澤真幸─山本七平『「空気」の研究』、高橋源一郎─オーウェル『一九八四年』。この四冊の中では、 『「空気」の研究』だけ読んだことがある。
しかし、こうやって再びやってみようとなるのだから、評判は高かったのだろう。集まった四人の社会課題認識と価値観が反=権力という軸でひとつ共通しているのも大きいだろう。
■ハルバースタム『メディアの権力』
『メディアの権力』は、気骨あるジャーナリストとして数々のスクープや著作で有名なハルバ―スタム。ペンタゴンズ・ペーパーのスクープは明らかに現実的な政治に影響を与えた。今の時代にこういう形でレスペクトされるジャーナリストは稀になった。同じポジションの人を挙げよと言われても難しい。それはジャーナリストおよびジャーナリズム自体が社会に占めるポジションがずいぶんと変わったからなのかもしれない。堤が言うように「アサンジやスノーデンにはそうした後ろ盾がない」。あの頃から何が変わったのかと問うが、しかし、別の
自分の乏しい知識から敢えて挙げるとすると、日本だと清水潔がジャーナリストとしての気骨とともにひとまずの成功と称賛を受けているとは思うが、もう少し個として顔の立つジャーナリストが何人もいるようにならないとジャーナリズム自体が成立しないのではないのかと思う。
四人の座談会形式の議論でも取り上げられたが、「運命の人」でテレビドラマ化された西山事件の扱いのペンタゴンズ・ペーパーとのあまりにも違いが、政府に対するメディアの姿勢にも影響を与えたことについて深く考えられるべきだろう。中島が指摘するフーコーのパノプティコンによる「まなざしの内面化」が忖度につながるという指摘も目新しさはないが、メディアと権力の議論の中では欠かすことができない視点である。反=安倍政権という単純な話ではなく、今後のメディアのポジションについては客観的な分析と行動が必要なことは明らかで、『メディアの権力』はそのためにひとつの視点を提供してくれる、ということだろう。
■トクヴィル『アメリカのデモクラシー』
『アメリカのデモクラシー』が選ばれたのは、デモクラシーがそこかしこで今問題になっているからだ。トクヴィルが予測したように「マスメディア」の存在によって多数者の専制が生まれた。その「マスメディア」は大戦後にテレビというものを得ることで新たなポジションと権力を得て、大衆���治と結託した。そのテレビももはや今のままのメディアのポジションを維持しえないことは明らかだ。今もう一度トクヴィルを読むのであれば、ほぼ二世紀前の彼の時代には考えられなかったインターネットを通じて、多数者の専制というものがどのように変質するのか、という新たな問いを考えるにあたって何かを与えてくれるからだろう。中島が言うように、「インターネットというものがはらむ危うさや限界といった現代的な問題もまた、『アメリカのデモクラシー』を読むことで逆照射」されてくるからだ。
「逆照射」とまで言うことが適切なのかどうかについては、その中身を読んでいないので自分で評価することはできない。しかし、座談会で盛り上がった言論の自由に関する次のトクヴィルの言葉が、彼がどれほど物事の本質に即して考えていたかの証左のように思える。それは現代に関する分析のようでもあり、また彼の後一世紀ほど後に起こった全体主義の出来事に関する警鐘であり予言であるようにも思える。
「この自由(※言論の自由)がある国民は、確信に基づき、かつ誇りをもって自分の意見に執着する。彼らが自分の意見を愛するのは、それが正しく思われるからであり、また自分の選んだ意見だからでもある。彼らは正しいものとしてそれにこだわるだけでなく、自分たちに固有のものとしてその意見に固執するのである」
■ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
『想像の共同体』はベネディクト・アンダーソンの代表作。ナショナリズムの歴史的な起源を中心テーマにしたこの本は、グローバルに情報と経済がつながったこの時代にまた読み返されるべき本のひとつであるだろう。そもそもナショナリズムを生み出す起点となるネーション(国民・民族)は近代の産物であると指摘し、それがどのように生まれてきたのかを理論的に説明したのが『想像の共同体』である。といいながら、読んでいないのは恥ずかしい。それはこの本がまだkindle化されていないからというのが理由のひとつでもあるのだが、出版社は早くkindle化を実現してもらいたい。たぶん、その価値がある本であるはずだ(読んでないけど)。
四人で「メディア」をテーマにした本を選ぶということだったが、大澤がこの本を選んだのはメディアがナショナリズムの形成に深くかかわったことがこの本の中で詳しく説明されているからであり、メディアとナショナリズムについて、いまいちどその関係を理論的に整理しておくことが今必要だと考えるからだろう。
新聞や小説がネーションの形成にかかわったという点は重要で、出版技術と資本主義が結びつくことで自然と国語による一体化が進められてきた、と考えるのは、高橋さんはじめこのメンバーには食いつきがよいだろうと大澤が考えたことも想像に難くない。座談会で当然のごとく高橋さんが新聞連載小説家であった漱石を持ち出して、日本近代文学の起源について語り出すのは、しかりといったところだろう。「実は、こういう話を『日本文学盛衰史』という小説で書こうと思っていたときに、『想像の共同体』を読んでみたら全部アンダーソンに先に書かれていて、読まなきゃよかったと思った」と嬉しそうに語る。しかし、「ネーションステイトの起源には近代小説がある」とい��指摘はまさに柄谷が日本の近代小説に即して語ったことだが、ここに柄谷に心酔しているであろう大澤が柄谷を持ち出さないのが不思議ではある。何か忖度しているのだろうか。
■ブラッドベリー『華氏451度』
高橋源一郎は小説家らしくブラッドベリの『華氏451度』を選んだ。「本を燃やす」のは誰か、というサブタイトルは、本を燃やすのはわれわれであり、われわれが自ら進んでそうするのであり、誰かから強制されてそうするのではないということをその読後に感じさせるための仕掛けだという。どこであっても忖度すべきと感じる空気があるだろうし、その空気を作るのもわれわれであることを忘れてはいけない。
メディアは本来そこに「なぜ」を突き付けるべき存在であるのだが、われわれの側に立ち、われわれの方向を強化することに回る。メディアの本質と本分とは何か、それを考えさせる議論。そう高橋さんが語ると、ディストピア小説として『1984』よりも『華氏451度』の方が奥が深く、現代の社会の状況をより本質的に示しているように思える。読んでないけど。どうやらこの本はkindle化もされているようなので、ひとまずAmazonで購入。
■まとめ
『支配の構造』というタイトルについては、誰が決めたのだろうか?おそらくはこの本のテーマを位置付けるのであれば、政府の横暴てあるよりも。メディアの不作為であるはずだ。それは、最後に森達也が二度も言及されることから、おおよそ確信をもってそう言うことができる。『支配の構造』というのはイデオロギーの匂いだけを濃くしてしまい、何か本質を表現していないように思えた。
議論は楽しかった。集められた本もそれぞれとても魅力的だ。集められたメンバーもそれぞれ素晴らしい。それでも、何か引っかかるものがある。まず、彼らが対峙しようとするものに対して、彼らの言葉な何らかの影響を持ちそうに思われないこと。そして、そこには彼らが決して多数にならないこと。彼らの意見が反対されているからではない。そうであればまだよい。彼らの言葉がどこにも届かないことがより深い問題である。メディアを考える場合、そのことを考えざるを得ない。どこかしら自分事化になっていない、という印象がぬぐえないのだ。そういう自分も。
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なかなか骨太の内容の本なんだが、とても読みやすい。
4名の論客が、マスコミとメディアと世論の関係について、実に刺激的に論理を進めてくれている。しかも、その論理を進める際に引用しているのが、ちょいと昔の本なのだから、おもしろい。
・ハルバースタム著『メディアの権力』
・トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』
・ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』
・ブラッドベリ『華氏451』
それぞれの方の文章の後には、その内容に関する座談会の様子も収録されていて、これもまた私たちの理解を助けてくれる。
ここにあげられている本も読みたくなったなあ。
まったく本書の内容の紹介にはなっていないな。
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推薦者による解説から4人の対談形式で本を色々な切り口で語るのは古典のブックガイドとしては新鮮で面白かった。
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4人の論客がそれぞれ一冊ずつ名著を引用しながら議論を展開する。内容はメディアと社会の関係性、その歴史、そして今後のメディアの展望。個人的には近代小説が近代国家の解説に加担したという部分が興味深い。文語から口語へ移ると同時に、文字が知識人階級から大衆へと解放されていく。魯迅の白話運動はその典型だろうか。そういう意味で近代国家は知識人階級と大衆を同等に扱うことによって成立している仕組みとも考えられる。メディアに影響されやすい性質を内在する大衆が中心を担っている社会であるからこそ、メディアによる煽動や忖度など、社会の中に存在する危険性には注視する必要がある。
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メディアの功罪がいくつか語られているが、最も罪深いのが「単純化」だ。ネットの世界も同じだが、単純化しないと新聞が売れないし視聴率も取れない。「わかりやすくお伝えします」というのは紙面リニューアルやニュースの新番組で聞かれる決まり文句だが、それが良いことだという共通理解がある。とんでもない。わかりやすく伝えるという事は、細部を意図的に切り捨てていくことだ。世の中そんなにわかりやすくはできていない。こうして大多数の国民から、どんどん複雑なことを理解する能力や耐性が失われていく。メディアが単純化しているのは彼らに事実を伝える情熱が欠けている事のほかに、それが求められていないからでもある。一方的にメディアと国民のどちらに責任があるのかは難しい問題だ。
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堤未果他、4人の論客が、各自テーマに沿って一冊の本を持ち寄り、考察を述べ、意見交換、対談するという形式。濃淡あるが、私が興味を持ったのは、堤未果による ハルバースタムの『メディアの権力』高橋源一郎の『華氏451度』。
ペンタゴンペーパーズとスノーデンを比較して、時代の暴露者による扱いの違いを指摘。インターネットや最近の浄化傾向をフーコーの監視システムパノプティコンに例える内容など、なるほどなと思った。
読んでいない本ばかりであり、興味を持ったが、この4人のお陰で先入観を持ったので、少し時期をおいてからにしようかな。
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1.なぜ相変わらず私達国民はメディアや政府に騙されてしまうのか、対策はないのか、を考えるために読みました。
2.現代メディアは「単純化」という罠仕掛けてあらゆる情報を分かりやすく伝えています。ゆえに、視聴者は飛びつきやすく、自分が考えなくても「考えた気になってしまい」、結果として手のひらで転がってる状態になってしまいます。
本書では、4人の著者が自身のオススメの本を通して、日本のメディアがどのようにして国民に情報提供をしてきたのか、そして、国民がどう変化してしまったのかを述べています。
3.「真実は伝わりにくく地味であり、嘘は単純で分かりやすく伝わる」ということを普段から心がけて情報収集にあたっています。メディアはいわば伝えるプロなので、手段を問わず、視聴者を取り込んでいきます。それが仕事であり、自分の収入に直結するからです。しかし、そのメディアの方々どんな気持ちで仕事してるのだろう?正直、私はメディア、テレビの情報は一切信用しておらず、データも改竄されてることを前提にニュースをチェックしております。ここまでやるのはやりすぎではありますが、自分の疑問フィルターが弱い分、騙されやすいことも理解した上での対策です。今の日本人はこの疑問フィルターが強い人と弱い人が二極化しました。弱い人に訪れる未来は不幸です。
人生は決断の連続である以上、相手が誰であれ、後悔のない選択をしていきたいなと思いました。