紙の本
現象学入門の必読書
2015/10/29 01:41
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:えんぜる - この投稿者のレビュー一覧を見る
現象学における他の入門本よりは比較的に難しい表現の多い内容ではあるものの、非常に精細な検証によってフッサール現象学からハイデッガー、サルトル、メルロ=ポンティの現象学を概説している。
全体の半分をメルロ=ポンティの現象学について取り上げており、著者が重要視している思想であることが如実に感じられる。その検証では身体論への展開を論理立てて説明していて分かりやすい。思想だけでなく社会背景や生い立ちなども含めながら説明していて理解しやすい内容である
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フッサールからメルロー=ポンティまで。ハイデッガーの持ち上げ方に首傾げる部分もあるけど、世界のあり方についての思想史、特におもきし盛り上がりを見せた時期の思想史が、たった700円で俯瞰できるのは嬉しい。まさしく一般教養。
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2009/7/6大学図書館にて借りる
2009/
モースの見解を受け継ぎ、これにソシュールの言語学から学んだ構造分析の手法を適用して緻密な理論にまで仕立て上げたのがレヴィ=ストロースである。
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メルロ・ポンティについては知らないことが多かった上、それを知ったことにより自分の中での現象学観が大きく変わった気がする。
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現象学の入門書であり、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティー、レヴィ・ストロースなどの現代思想を学ぶことができる。たいへん為になる本である。また、ヘーゲルやマルクス主義との関係なども興味深くよんだ。どうも現象学運動というのは、結論がないようだが、中国の陽明学に似ている。「意識とはつまり何かに対する意志」というような言い回しは、「意の在る所はすなわち物なり」(『傳習録』)であり、「われわれの身体は世界において、ちょうど生物体における心のような位置を占めている」(152頁)などは、「復はそれ天地の心を見るか」(『易』復)と似ている。
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[ 内容 ]
現象学は今日、哲学のみならず、人文・社会科学に広く影響を及ぼし、一つの大きな潮流をかたちづくっている。
本書は、現象学をフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティといった哲学者の思想の展開のうちに生きた知的運動として位置づけ、「われわれにとって現象学はいかなる意味をもつか」を明らかにする。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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フッサールvsハイデッガー、サルトルvsメルロ・ポンティ。知の巨人たちの人間臭いドラマは思想の生成過程に直結する。哲学は人間からはなれてなどいない。読み手が勝手に先入見で離しているだけだ。などと考えるのもちょっとは現象学のおかげかもしれない。
テーブルの上のコップについてずっと話していられる。こういうのはとても性に合う。
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1970年の刊行以来、ロングセラーとなっている現象学の入門書。(今でも読まれてるかしら?)フッサール,ハイデガー,サルトル,メルロ=ポンティに至るまで、読み易い文体で現象学の変遷を解説しています。
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他の入門本より少し難しい表現の多い内容ではあるものの、非常に精細な検証によってフッサール現象学からハイデッガー、サルトル、メルロ=ポンティの現象学を概説している。
特にメルロ=ポンティにおける検証では身体論への展開を論理立てて説明していて分かりやすい。思想だけでなく社会背景や生い立ちなども含めながら説明していて理解しやすい内容である。
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フッサールからハイデガー、サルトル、メルロポンティという現象学の系譜をたどった記述がなされながらも各者の思想が散りばめられており、筆者の現象学の理解の仕方がひしひしと感じられる。メルロポンティへの盲目的なまでの肯定は何故か。
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ハイデガーの存在論を理解する近道は、まずフッサールの現象学を勉強することだと思う。読後にそういう感想を持った。木田元は現象学の勘所を本当に丁寧に説いてくれている。
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フッサールからメルロ=ポンティに至る現象学の潮流をコンパクトに解説している本です。1970年に刊行されたやや古い本ですが、現象学の形成とその後の変容のおおまかな流れを把握するのに、現在でも十分に役立つ内容だと思います。
現象学はもちろんフッサールによって創始された哲学のひとつの潮流ですが、著者は「序章」で、「わたしは「フッサールの現象学」と「現象学的運動」を区別し、後者に焦点を合わせて考えてゆきたい」と述べています。また、「極端な言い方をすれば、フッサールの思索のすべてが現象学的だということにはならないし、現象学はフッサールの哲学に尽きるものではない」ともいいます。こうして本論では、中期の『イデーン』において達成された超越論的現象学の構想が、フッサールの晩年の思索の中でしだいに「厳密な学」としての性格を脱する方向へと舵を切られることになり、こうした流れがハイデガーやメルロ=ポンティによってさらに推し進められていったことが解説されています。
そのほか、サルトルの初期の現象学的心理学の構想や、メルロ=ポンティと構造主義との関係、チャン=デュク・タオによるマルクス主義の立場からの現象学批判など、現在の入門書では扱われることの少ない話題についても簡潔ながらも明晰に解説されています。
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現象学についてフッサールからハイデガーへの流れ、メルローポンティの思想が大まかに書かれてある。
哲学の歴史や一応の哲学的知識があまりないので読むのが難しかった。
メルローポンティは全体を一つという考え方でアフォーダンスに繋がっているような気がする。
最後の6ページは作者の現象学に対する期待と希望が現れていて感銘を受けた。
一部抜粋する。
「現象学とは、世界のなか、歴史のなかでのわれわれの経験に問いかけ、その意味を解読しようとする果てしない努力である。いいかえれば、(略)全体的経験の文脈のなかで個々の経験が何を言おうとしているのか、何を意味しようとしているのかを、不断に問いつづけようということである。」
さて、現象学やその他の哲学に社会的意味は必要なのかと疑問には思ったが。
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最近、木田元の著書を連続して読んだので何となく分かったような気もするが、やはり専門用語を羅列されるとさっぱり理解できない。しかしながら、理解できないまでも生きていくのにほぼ意味がないような知的探求を味わうだけでも楽しい。質・量ともに薄っぺらい本を読むよりはよほど良い。
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現象学の概説書、1970年。
□ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章
フッサールの現象学を、彼の思想の変遷に沿って、かなりの駆け足で解説している。
①現象学は、その初期において、当時の支配的な思潮であった実証主義(心理学主義、人間学主義、生物学主義など)に対する批判として出発する。実証主義は、数学や論理学などのイデア的な対象を、経験的実在的なもの(レアールなもの)に還元する誤謬を犯しているとして、批判される。実証主義に対いて、学問一般のイデア的なものの可能性を追究する純粋論理学としての現象学が構想される。初期の『論理学研究』(その第一巻は「純粋論理学序説」)では、ブレンターノの心理学主義を批判する。なお、意識の本質的な性質としての「志向性」(対象化作用)の概念は、ブレンターノによる着想。
②自然主義や歴史主義を、方法的仮定によって学の対象を予め特定の仕方で規定してしまうことで、学として求められる無仮定性を放棄している、として批判する。こうした誤謬の根底に、認識する主体に対して真の意味では与えられていない対象を素朴に存在すると断定してしまう態度、ひいては世界の存在を無根拠に断定してしまう態度、が見出される。この「自然的態度」を「超越論的還元」(「現象学的還元」)によって判断中止する。還元によって、一切の経験的前提が排除された「純粋意識」(「超越論的意識」「超越論的主観性」)が獲得される。この「純粋意識」の場で、世界や他の経験的な対象がどのように構成されていくか(「超越論的構成」)、を反省する。この絶対的な認識批判である「超越論的現象学」によって、厳密な学の条件を追究し、諸学を基礎づける基礎学の構築を目指す。
③「超越論的還元」によって見出される「超越論的意識」が世界そのものをも能動的に構成するのだとすると、この構成的主体それ自体は無世界的で無規定的なものとなってしまう。世界は、「超越論的意識」による能動的な構成に先立って、予め受動的に与えられていなければならない(「受動的総合」)。「超越論的還元」によって判断中止されるべきなのは、「自然主義的態度」(世界が、例えば数学や物理学によって規定された自然科学的世界のように、何らかの理論によって客体化された世界=理念化された世界であるにもかかわらず、そうした恣意的な規定性に無自覚なまま、それを自然な世界であると無反省に見なす態度)であって、「自然的態度」(世界の存在を無根拠に断定するが、その世界に対して「それが存在する」ということ以外の一切の規定を付与しない、則ち如何なる理論によっても客体化しない=理念化しない、則ちそこにおいて一切の主体-客体関係を設定することのない、そのような自然な世界経験)は、世界をその生きられるがままに生きる態度として、寧ろそこに立ち戻るべきものとされる。「自然的態度」によって生きられる「生活世界」は、それ自体は無根拠であるが、それによってあらゆる対象の構成を可能にする根底的な前提条件として、則ち客観的な学を可能ならしめる根源的臆見として、要請される。その「生活世界」において、受動的なしかたで「意味の発生」が起き、能動的な意味付与はこの発生し��つある意味に対して二次的に行われる。
現象学の解説を読むたびに、中期において高らかに掲げられる厳密学の理念と、世界の存在をも宙吊りにする厳格な現象学的手続きに、この哲学のもつ先鋭的な徹底性を見せつけられるようで、実に魅了されまた厳かな心持ちになるのだが、と同時にそれが後期になると、急に趣が変わるというか、生活世界なるものが根源的臆見などと言い訳がましく導入され、他者の問題も共同主観性という概念でごまかされたような気持ちになり(初めて現象学に触れたとき、それが独我論の問題をどのように扱うのか期待していた)、ヨーロッパ的理性だとかいう如何にも西欧中心主義的な概念が云々され、何とも微温的といおうか、保守化したような印象を拭えず、残念な気持ちになる。超越論的哲学が不可避的にとらざるを得ない、それこそ根源的な矛盾としての、自己関係性の機制を、明るみに出してほしかった。
フッサールは晩年、「厳密学の夢は見果てた」という覚書を残したという。
□ Ⅳ章
フッサールの現象学とハイデガーの存在論は、二人が師弟関係であったにもかかわらず、その趣が全く異なっていることを、予てより奇妙に思っていたのだが、両者がどこまで一致していてどこからその差異が生じたのか、概略的にではあるが分かった気がする。
中期フッサールは、世界を構成する「超越論的主観」を、事実的な存在としての人間の意識に帰属させることに反対した。なぜなら、世界に属する事実的人間が、自身の前提となる世界そのものの構成に関わることは、不可能であるから。この点を批判しながら、ハイデガーは自身の哲学を展開していく。則ち、「超越論的構成」の可能性を、あくまで事実的な存在である人間(「現存在」)の在り方(「実存」)のうちに、見出そうとする。
哲学は、存在者を存在者たらしめている存在そのものの意味を問う「存在論」でなければならない。ところで、人間は、「存在とは何か」と問い得る特権的な存在者であり、存在者を通して存在がその意味を自己開示する場であるため、「現存在」と呼びうる。よって「存在論」としての哲学は、この「構成的主体」としての「現存在」の固有の在り方である「実存」を分析すること(「基礎的存在論」)から始めなければならない。この「基礎的存在論」において、「超越論的構成」が「現存在」の「実存」の可能性として捉えられる。こうした「実存」の存在構造を通して、「現存在」によって遂行される、存在一般の意味を問う試みが「現象学的存在論」である。
こうして、フッサール現象学の主題であった「超越論的主観」は、ハイデガー存在論においては「実存的な現存在」として捉え直される。則ち、フッサールにおいて学の基礎づけとしての現象学の目的とされた「超越論的構成」の解明は、ハイデガーにおいては「現存在」の「実存」の解明として捉えられることになる。ところで、ハイデガーにとって「現存在」とは、あくまで世界の内に事実的に存在するものとされる。こうした謂わば「日常性」に埋没している「現存在」が、存在の自己開示の場としての「実存」に覚醒するために、フッサール的な「現象学的還元」(「自然的態度」から「現象学的態度」へ)を、その上に ��ルケゴール的な「実存的決断」(「非本来的実存」から「本来的実存」へ)というハイデガー独自の問題意識を重ねながら、遂行していくことになる。
なお、公刊された『存在と時間』は、「現存在分析」の部分のみで、「存在一般の意味」を論じる部分は未完に終わった。
□
Ⅴ章ではサルトル、Ⅵ章ではメルロ=ポンティの思想を、それぞれ取り上げている。