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亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズの最新刊。
地球上の大半の文化圏でタブーであるカニバリズムが、当たり前のこととして存在している文化というのは確かにショッキングなのだが、タブーとそうでない文化の分岐点は一体、何だったのだろうか。純粋に動物性タンパク質の不足? 彼らの宗教や信仰?
しかし、飯を食いながら読む本ではないわなw
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期待の亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズI。
1961年に、ロックフェラーの後継者がパプアニューギニアで消息を絶つ。
カニバリズムという文化が少し前まであったことにも驚く。
筆者であるホフマン氏が、この失踪事件の真相を追い求める過程、現地アスマットに住み、その価値観。世界観を共有しようとする姿というか、理解しようとする姿勢、それに基づく後半の記述に圧倒された。
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そういえば文化人類学の授業好きだったわー、と思い出させてくれた。
ロックフェラーの御曹司失踪という謎の解明よりも、そういった意味合いが強い内容だったが、面白く読めた。
ノンフィクションもいいね!
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【暴虐なる神秘】ニューギニアの熱帯で美術品の収集に務めていたロックフェラー家の御曹司・マイケル。原始的な美に惹かれた彼を最終的に待ち受けていたものは、突然の死と、現地人に「喰われてしまう」という衝撃的な最期であった。1961年に起きた実際の事件を取材するとともに、その裏に横たわる文化人類学的な深淵を覗き込んだ作品です。。著者は、「ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー」の編集者でもあるカール・ホフマン。訳者は、小説作品の翻訳も手がける古屋美登里。原題は、『Savage Harvest: A Tale of Cannibals, Colonialism and Michael Rockefeller's Tragic Quest for Primitive Art』。
タイトルから「トンデモ本」を想像する方も多いかと思うのですが、実際は卓越したノンフィクション作品であると同時に、フィールドワークに基づく一級の文化人類学的な作品でもあるという類稀なる一冊。「え、この話はそっちに行くの?」という展開の連続に驚かされると同時に、その先に行き着いた光景に文字通り息を呑む読書体験を味わうことができるかと思います。
〜ウィム・ファン・デ・ワールとマイケル・ロックフェラーのような人々は、アスマット文化を探し、集め、写真に撮り、アスマットと共に旅をし、村の深部まで行くことができた。互いの世界と、実際には見えない世界の次元の違いを知らないままで。〜
ラストは全身から思わず力が抜けるほどの衝撃でした☆5つ
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1961年、世界有数の富豪、ロックフェラー一族のマイケルはニューギニアを探検中に行方不明になった。ロックフェラー家は莫大な財力、政治力をつぎ込んで大規模な捜索を行ったが、マイケルを発見することはできず、彼の消息は未だ謎のままだ。
実はマイケルがどうなったかについては、当時から結論が出ていたが、ロックフェラーのメンツや国際関係などが考慮されて、公式には認められていない。本書の最初の数ページで明らかにされる真相は、マイケルが地元のアスマット族に襲われ、食べられたというものだ。
というわけで、本書はマイケルの死因を探るドキュメンタリーではなく、なぜマイケルは食べられたのか、なぜアスマット族は人を食べていたのかという点をメインテーマとする。
マイケルの死から50年後、著者はその現場を訪れ、もはや人食習慣のなくなったアスマット族と日常生活を共にすることで、過去の彼らが他のどの文明とも異なる習慣、思想を持っていたことを明らかにする。アスマット族は儀式として仲間を殺して、その肉を食べていたのだ。そんな彼らにとって、白人だろうが、ロックフェラー一族だろうが、マイケルを食べることはありふれた日常だった。
考えてみれば、人を食べない文化があれば、人を食べる文化があるのも当然なのかもしれない。
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真実は決して明かされることはないのだけれど、どこまで著者の希望するストーリーに添わずして、調査結果が真実に肉薄していくか。がルポの面白いとこなんですが、最後の50ページくらいで、「未開の地」の人々に継承される文化の伸びやかさに、マイケルの死の真相は砂に埋もれていくようにもう重要ではなくなっていった。腐海の底の砂に半ば埋まったナウシカのマスクのシーンみたいに、なんだか感動的だった。
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マイケル・ロックフェラー失踪事件の事すら知らなかったが、未解決事件には興味がある。軽い気持ちで読んでみた。
著者がたどり着いた真相はいきなり冒頭で明かされる。それは丹念に当時の記録や関係者の証言を辿れば、「事実」としては浮かび上がる。しかし、この本の本質はそれが「なぜ」行われたかであり、そもそも我々が「プリミティブ」「未開」と呼ぶ人びとをどう捉えていたのか、分かろうとしていたのかという問いに繋がる。
殺人、ましてカニバリズムはこの現代社会、この文明に生まれた我々にとっては常識を超えた行為であり、犯罪である。しかし、その思考とは全く異なる思考、文化、文明で生きてきた人びとが確実に存在する。
そういう人びとを、西洋文明はある種「救おう」としてきた。同化させようとしてきた。「理解する」のではなく「同じ」にしようとしたのだと感じる。正しさ、誤り。今日のグローバル社会というものにおいてどのように「文化」が違う者と向き合うか、を考えさせられた。
失踪したマイケル・ロックフェラーは素晴らしい一面を持っていた。しかし、自分が求める「プリミティブ・アート」にある精神と向き合うことがなかった。
最終章に至り、アスマットと「暮らす」ことを選んだ著者の選択。おそらく「向き合う」ことの最終形である。相手と真に語らうには、相手と向き合うしかないのだ。それは別に相手が誰であれ同じ筈だ。しかしそれには困難さも伴う。理解する、の何と難しいことか...。
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初めから人喰いの描写がとてもリアルに表現されていて、気持ち悪さを覚えながらも、未知の世界観に引き込まれながら読んだ。
メトロポリタン美術館に飾られている、儀式に使われたビス柱や仮面などの展示品は実際に見たことがあり、写真も撮っていた。美術館の中でも、異質な世界観の展示だったので、興味を持ち、何枚も写真を撮っていたので、あの文化の本を読んでいたのかと思うと、狂気じみた内容も不思議と納得できた。
ロックフェラーの失踪事件については、もともと知らなかったが、どのように喰われたかについては知ることができた。住民族の生活や儀式など、文化人からしたら理解が出来ない部分もあったが、こんな民族がいるということを知ることができた。
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借りたもの。
第二章でいきなりロックフェラーの御曹司・マイケルに起こったであろう描写が入る。
そこばかりは“フィクション”だが、生々しくリアリティを伴う。
それは他の章を読み進めて行くと、他の儀式の事例や断片的な証言、噂話から可能性の高いシチュエーションから想像されているのがわかる。
謎解きの順番が反転しているような書き方だが、それ故に読んでいると事象が起こりその形跡が残っているのを順序立てて追っているイメージになり「これが事実ではないか」という思いを強くする。
それでもどうしても確信が持てないのは、結局、確たる証拠がないため。
マイケルの遺体の一部――食われた後の持ち去られた、頭蓋骨、ナイフにされた大腿骨や遺留品など――は見つかっていない。
当時、まだDNA鑑定は確立していないこと、それがマイケルのものであるという確信がある頭蓋骨や大腿骨のナイフには結局、近づけないままだ。
読了後、まだ現存していそうだという、著者と読者の思いが残る。
中世の王侯貴族が挙って作ったヴィンダーカンマー。それが現代の博物館のベースになっているのだが。そこに垣間見えるコレクションという形で“世界を支配する”野望。
1960年代、原始的なアートとしてコレクションを築こうとする動きに率先していたのであろう、マイケル。
自身の家系の知名度と財力を持って万能感に溢れた行動の結果、自分が属している価値観と違う価値観、死生観、宇宙観に安易に近づき、死をもってその中に取り込まれてしまった……
そんな解釈もできる。
残された調査資料、現地の人々、関係者との交流から導き出された真相は、植民地支配時代の人種差別などに由来する個人間の感情に留まらないようにに思う。
彼らの宇宙観で均衡を保つために是とされる“復讐”が完結しない大きな変化を垣間見る。
アスマット族オツジャネップの人々は口を閉ざしてしまう。
それは“恐れ”からではなかろうか?
アメリカなど先進国――オツジャネップの人々からは未知の強力な存在、違う宇宙観――からの“復讐”を恐れているようにも思うが、マイケルを殺したことで、彼らもまた自分たちとは全く違う宇宙観の来訪を体験した。
自分たちの宇宙観で完結しない、できないことを体験する。
直接の関係はない伝染病の流行によって死者が出たことで、自分たちが”間違った”という意識、さらにキリスト教の価値観の流入により“罪”という概念が共有されたことでの変化もあったかも知れない。
あとがきにもあったが、別の著者ミルト・マックリンによる『首狩りと精霊の島――ロックフェラー四世失踪の謎』が、当時の調査記録や書簡、現地調査による裏付けをしていないものであっても、「復讐されるべき対象とみなされ、首を狩られてその肉を食べられた」という同じ結論に辿り着いたことは興味深い。
殺人事件の推理サスペンスではなく、民俗学、フィールドワークの内容が主体であることも興味深かった。
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そんなことがあったのかと好奇心だけで読み始めた。
異文化の理解とか交流とか簡単にいうけど、そんな甘いものではないということがよくわかる。
自分たちの価値観の中の、上から目線なんて、もってのほかだ。
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いまから約60年前のロックフェラー家御曹司の失踪事件を追ったノンフィクション。
冒頭の描写のリアルさ。脂の焼けるにおいや飛び散った血の色を感じてしまう。
この部分だけで「何があったのか」はわかってしまう。けれど、本当に重要なのは「なぜ」なのだけど、その理由にせまるうちに「なぜ」なのかはそれほど重要ではなくなってくる。それを「なぜ」かと思う人たちがいて、それを「なぜ」とは思わない人たちがいる。そういうことなんだろう。
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タイトルはインパクトある。フィールドワークのレポートが長い。人喰いの場面は少なく少数民族の風俗について多くのページが割かれる。
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表紙とタイトルにひかれて、池袋のジュンク堂で買った。
ホラーとかそっち系かなと思って買ったけど、実際に起きた事件をもとに書かれた本だった。
とても面白くて、あっという間に読み終えて、久々に満足した本になった。名前がややこしくて、時々混乱したけど、描写が事細かで、まざまざと風景が浮かんで、ドキュメンタリー映画を見ているようだった。
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1961年、首狩り族と噂される部族に殺され食べられた(!)と言われるロックフェラー家の子息、マイケル失踪の真実を追ったノンフィクション。題名に比して残酷な描写は少なく、むしろ著者が得た真相には、異文化コミュニケーションについて色々と考えさせられました。
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1961年、若き民族学者マイケル・ロックフェラーは、ニューギニアで、現地人の美術品を蒐集中、消息を絶った。乗っていたボートが転覆し、「助けを呼ぶ」と岸を目指して泳いでいったものの、そのまま行方がわからなくなったのだ。
マイケルは大富豪にして政治的に力も持つロックフェラー家の御曹司だった。父のニューヨーク州知事、ネルソンまで乗り込んでの必死の捜索も虚しく、足取りは杳としてつかめなかった。
かの地は「首狩り族」の住む地だった。表向きは、彼らはもはや「首狩り」は行っていないことになっていたが、実際はそうとも言い切れないようだった。
マイケルは喰われてしまったのか?
本書はその謎を追うノンフィクションである。
著者のホフマンは、マイケル失踪事件の真相を知るには、現地のアスマット族のことを知らねばと決意し、彼らと深く関わっていく。
本書は、現代にあって、事件に迫ろうとする著者の物語と、著者の取材により明らかになっていく当時のマイケルの物語の二重構造になっている。
話が話だけに、猟奇的といえる描写はある。
最初から数ページの第2章で、著者はマイケルが「喰われる」シーンを再構成して見せる。実のところ、マイケルが「狩られた」または「喰われた」確かな物的証拠は残っていない。それなのに著者は、マイケルは「喰われた」と思っている。そしてそれがどんな風であったのか、微に入り細を穿ち、書いていく。
その描写の詳細さに「やりすぎではないか」と鼻白み、げんなりする。「本当なのか?」と疑いもする。
だが、本書の不思議なところは、読み進めるにつれ、徐々にその印象が変わってくることだ。
著者は丁寧に史料を調査し、アスマットの中で生活する。
西洋的な常識に照らせば、「首狩り」やカニバリズムは原始的で野蛮な行為だ。
だが、アスマットにはアスマットの伝承があり、彼らが拠り所にする「物語」がある。その「物語」の中で、首を狩り、人肉を喰らい、その者の「生」を自らの中に取り込むことがどんな意味を持っていたのか。
それは果たして外から持ち込んだ常識から測れることなのか?
物語はくるりと反転する。
正直なところ、アメリカ人である著者が、本当にアスマット族の内面を完全に理解しているかは疑問に思うところはある。読んでいる自分とて首狩りにも人喰いにも無縁で、彼らの心境が理解できるかといえば心許ない。
けれども、それらを差し引いても、いわゆる「現代文明」から見た事件を、現地人の側から見たときに、物語が反転することは読み取れる。
プリミティブ・アートに魅かれた無邪気なアメリカ人。
対して、原初の昔から、その地に住み、その物語社会で生きてきたアスマット族。
ボートが転覆して、助けを求めに岸を目指したとき、マイケルの目に見えていた景色と、岸で彼に出くわした現地人集団が見る景色とは、おそらく、同じ場所でありながらまったく違うものであったのだ。
その齟齬の間で悲劇が起きた。
著者が描いてみせるその情景が、説得力を持って迫ってくるのである。
事件発生当初か���、マイケルの死因が「首狩り」であるという噂はあった。
当時、ニューギニアはオランダの支配下にあった。オランダ政府はこの地が健全に統治されていることを示さねばならなかった。
その地で、すでに「ない」はずの首狩りが行われ、あろうことかアメリカ合衆国の有力者の息子が殺されたのだとしたら。しかも彼はその地の美術品を称賛していた人物であったのに。
首狩りがあったことを認め、関わった男たちを逮捕し、処分するのか。男たちは抵抗しないだろうか。いや、きっとするだろう。村全体が反対したら、すべてを弾圧するのか。そんなことは可能なのか。そして、なぜそんな大弾圧を行ったのか、そのそもそもの理由である「首狩り」を、オランダ政府は国際社会に説明することができるのか。
息子が「野蛮」に殺されたと知ったら、ロックフェラーは、ひいてはアメリカ合衆国は、オランダの政策に対する支援から手を引くのではないか。
軋轢の中で、マイケルの死因を深くは追わず、「事故死」として扱うことに、状況は流れていく。真実を明らかにしたところで、誰も幸せにはならない、というわけだ。
原著の副題は、”A Tale of Cannibals, Colonialism, and Michael Rockefeller's Tragic Quest for Primitive”である。
マイケルの悲劇の直接の原因がカニバリズムであったとしても、その後の顛末に植民地政策が深く関わっていたとの主張が、ぐいぐいと力を増していく。
「首狩り」が「正義」であるかどうか、その答えを私は持たない。
だが一方で、現代文明的な尺度で測ること、植民地主義的に判断することが、果たして「正義」であるのか。
ざわざわとしたものを残す意欲作である。